2007年05月13日(日)
鴻ノ巣 ~ 熊谷 ~ 深谷
曇りのち晴
8時に出発。朝の鴻巣通りは日曜日ということもあってか閑散としている。だれも歩いていない。車もほとんど通っていない。静かだ。
昨日訪問した鴻神社前を通り、しばらく行って加美の信号で164号線と分かれ左方向に進む。平安中期に活躍した源頼義の守り本尊だった馬頭観音堂の箕田観音堂があり、更に行くと「氷川八幡社と宝持寺」が右手にある。入口に箕田源氏の由来が書かれた箕田碑があり、そこに羅生門の鬼退治で有名な源頼光四天王の一人である渡辺網を祀っていると書かれている。
どちらも源氏の流れを汲む神社だ。氷川八幡社は明治6年に近隣の八幡社を合祀して建立されたと説明されていた。鴻神社と同じような経緯を経ており明治維新の世の動きの一端を表しているようだ。
箕田追分に来ると「彩の国さいたま平成の道標」が立っている。ここから右手、北方向へ行くと行田方面に行くようだ。
しばらく直進し第四中山道踏み切りでJR線を横切り、NTTの電波塔を右に見ながら進む。左手にJR吹上駅がある。吹上はさし足袋の名産地で、これは正徳年間(1711~1716年)のとき、領主阿部豊後守が家臣の内職として奨励したのが始まりで、現在にいたっているそうだ。ここは鴻巣と熊谷間が長かったので間の宿として発達した。
本町の信号を左折して進み、横断歩道橋で再びJR線を越えて進むと「権八延命地蔵」がある。歌舞伎の鈴が森に登場する白井権八を祭っているそうで、この先にも同様な地蔵があった。
ここから堤の上に出てみると一気に視界が開ける。ここは熊谷堤といわれており、天正2年(1574年)に荒川の氾濫に備えて作られたという。
当時は物騒なところだったらしく、白井権八あたりが出没することになったのかもしれない。旧中山道は現在の堤の少し下に平行している道のようなのでそちらを歩く。
しばらく行くと右手土手下に「久下一里塚」が見える。オバサンがそこを掃除していたので確認するとそうだという返事が返ってきた。
やがて右手に「権八地蔵」がある。元禄11年(1698年)に建立されたもので「権八物言い地蔵」といわれている。白井権八が鳥取から江戸に出る途中に路銀に困り、この地蔵の前で上州の商人を殺害し三百両を奪った。権八が地蔵に「他言するな」というと、地蔵は「わしは言わぬが、ぬしも言うな」と答えたといわれている。
ここから一旦堤に上る。左手に荒川が流れている。上った後すぐに堤を下る道があり、それを下ると「みかりや跡」という標識が立っている。この地方の城主である忍氏が鷹狩りをする際の休憩所だったと書かれているが今は個人の家のようだ。
しばらく行くと水草が繁った小川があり、その横に「ムサシトミヨ」生息地と書かれた看板が立っていた。この魚はトビウオ科の淡水魚で、今では世界でこの熊谷にしか生息しない貴重な魚だと書かれている。この魚はきれいな小川にしか生息できないそうで、環境の変化により貴重な種が絶滅の危機に瀕している事態を目の当たりにした気がした。自然の生態系を大切にしなければとつくづく思う。
曙公園の中に八丁の一里塚の看板が立っていたが、痕跡は何も残っていなかった。
12時32分熊谷本陣跡を通る。
鴻ノ巣宿から4時間32分、25269歩。
ここは国道に面したところに碑が立っている。
当時日本一の規模を誇っていたという武井本陣は昭和20年8月14日というから終戦前日の大空襲で焼けてしまい、今では別邸の星渓園が残っているのみである。
八木橋デパートの前、一の谷合戦で平敦盛を討ち取った熊谷直実の生家だったという熊谷寺を右に見ながら進むと、一番街というちょっとした商店街に入る。
ここを進み石原南の信号で再び国道17号線に合流する。
右手に熊谷警察署を見ながら進むと道が分かれており、その左側を進むと「新島一里塚」がある。樹齢300年という大きな欅が立っている。
ここから進むと左手に「忍領石碑」がある。安永9年(1780年)忍城主が領分の境界を示すために建てたと記されている。
この碑を見ているとご近所の方と思しきオジイさんが来られ「歩いているのか」と聞いてこられた。話を聞くと最近は中山道を歩いている人が多いそうだ。この近くに忍城主が切腹したお寺があるそうだが、そこは地元の人しか知られていないので、こうして中山道を歩いている人はそこには行かないと言われていた。私も行くことはしなかった。
このあたりは昔の中山道の風情が残っている道筋だ。
深谷宿近くになって「見返りの松」というものがあった。国道17号線との合流点にあるこの松は、深谷に宿泊した旅人が江戸に向かうとき、振り返って前夜の女との別れを惜しんだことからそう呼ばれたそうだが、、この松まだ小さくて貧弱だ。それも当然でこの松は平成18年2月に枯死してしまったため、同年(すなわち昨年)11月に植え替えたという説明が書かれていた。この松が大きく成長するまでにどのくらい時間がかかるのだろうかと思った。
深谷宿に入り今日の宿の前を通ったが、とりあえず本陣跡まで行ってカウントしその後宿に入る。
15時50分深谷宿飯島本陣跡を通る。
熊谷宿から3時間18分、16854歩。
現在は飯島印刷という会社があり、その前に表示板が立っている。今日は午前中薄曇で歩き易かったが午後から晴れてきて暑かった。
本日の歩行時間 8時間
本日の歩数&距離 44097歩(約30km)
8時に出発。朝の鴻巣通りは日曜日ということもあってか閑散としている。だれも歩いていない。車もほとんど通っていない。静かだ。
昨日訪問した鴻神社前を通り、しばらく行って加美の信号で164号線と分かれ左方向に進む。平安中期に活躍した源頼義の守り本尊だった馬頭観音堂の箕田観音堂があり、更に行くと「氷川八幡社と宝持寺」が右手にある。入口に箕田源氏の由来が書かれた箕田碑があり、そこに羅生門の鬼退治で有名な源頼光四天王の一人である渡辺網を祀っていると書かれている。
どちらも源氏の流れを汲む神社だ。氷川八幡社は明治6年に近隣の八幡社を合祀して建立されたと説明されていた。鴻神社と同じような経緯を経ており明治維新の世の動きの一端を表しているようだ。
箕田追分に来ると「彩の国さいたま平成の道標」が立っている。ここから右手、北方向へ行くと行田方面に行くようだ。
しばらく直進し第四中山道踏み切りでJR線を横切り、NTTの電波塔を右に見ながら進む。左手にJR吹上駅がある。吹上はさし足袋の名産地で、これは正徳年間(1711~1716年)のとき、領主阿部豊後守が家臣の内職として奨励したのが始まりで、現在にいたっているそうだ。ここは鴻巣と熊谷間が長かったので間の宿として発達した。
本町の信号を左折して進み、横断歩道橋で再びJR線を越えて進むと「権八延命地蔵」がある。歌舞伎の鈴が森に登場する白井権八を祭っているそうで、この先にも同様な地蔵があった。
ここから堤の上に出てみると一気に視界が開ける。ここは熊谷堤といわれており、天正2年(1574年)に荒川の氾濫に備えて作られたという。
当時は物騒なところだったらしく、白井権八あたりが出没することになったのかもしれない。旧中山道は現在の堤の少し下に平行している道のようなのでそちらを歩く。
しばらく行くと右手土手下に「久下一里塚」が見える。オバサンがそこを掃除していたので確認するとそうだという返事が返ってきた。
やがて右手に「権八地蔵」がある。元禄11年(1698年)に建立されたもので「権八物言い地蔵」といわれている。白井権八が鳥取から江戸に出る途中に路銀に困り、この地蔵の前で上州の商人を殺害し三百両を奪った。権八が地蔵に「他言するな」というと、地蔵は「わしは言わぬが、ぬしも言うな」と答えたといわれている。
ここから一旦堤に上る。左手に荒川が流れている。上った後すぐに堤を下る道があり、それを下ると「みかりや跡」という標識が立っている。この地方の城主である忍氏が鷹狩りをする際の休憩所だったと書かれているが今は個人の家のようだ。
しばらく行くと水草が繁った小川があり、その横に「ムサシトミヨ」生息地と書かれた看板が立っていた。この魚はトビウオ科の淡水魚で、今では世界でこの熊谷にしか生息しない貴重な魚だと書かれている。この魚はきれいな小川にしか生息できないそうで、環境の変化により貴重な種が絶滅の危機に瀕している事態を目の当たりにした気がした。自然の生態系を大切にしなければとつくづく思う。
曙公園の中に八丁の一里塚の看板が立っていたが、痕跡は何も残っていなかった。
12時32分熊谷本陣跡を通る。
鴻ノ巣宿から4時間32分、25269歩。
ここは国道に面したところに碑が立っている。
当時日本一の規模を誇っていたという武井本陣は昭和20年8月14日というから終戦前日の大空襲で焼けてしまい、今では別邸の星渓園が残っているのみである。
八木橋デパートの前、一の谷合戦で平敦盛を討ち取った熊谷直実の生家だったという熊谷寺を右に見ながら進むと、一番街というちょっとした商店街に入る。
ここを進み石原南の信号で再び国道17号線に合流する。
右手に熊谷警察署を見ながら進むと道が分かれており、その左側を進むと「新島一里塚」がある。樹齢300年という大きな欅が立っている。
ここから進むと左手に「忍領石碑」がある。安永9年(1780年)忍城主が領分の境界を示すために建てたと記されている。
この碑を見ているとご近所の方と思しきオジイさんが来られ「歩いているのか」と聞いてこられた。話を聞くと最近は中山道を歩いている人が多いそうだ。この近くに忍城主が切腹したお寺があるそうだが、そこは地元の人しか知られていないので、こうして中山道を歩いている人はそこには行かないと言われていた。私も行くことはしなかった。
このあたりは昔の中山道の風情が残っている道筋だ。
深谷宿近くになって「見返りの松」というものがあった。国道17号線との合流点にあるこの松は、深谷に宿泊した旅人が江戸に向かうとき、振り返って前夜の女との別れを惜しんだことからそう呼ばれたそうだが、、この松まだ小さくて貧弱だ。それも当然でこの松は平成18年2月に枯死してしまったため、同年(すなわち昨年)11月に植え替えたという説明が書かれていた。この松が大きく成長するまでにどのくらい時間がかかるのだろうかと思った。
深谷宿に入り今日の宿の前を通ったが、とりあえず本陣跡まで行ってカウントしその後宿に入る。
15時50分深谷宿飯島本陣跡を通る。
熊谷宿から3時間18分、16854歩。
現在は飯島印刷という会社があり、その前に表示板が立っている。今日は午前中薄曇で歩き易かったが午後から晴れてきて暑かった。
本日の歩行時間 8時間
本日の歩数&距離 44097歩(約30km)
旅の地図
記録
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2007年05月11日(金)
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2007年05月12日(土)
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2007年05月13日(日)
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2007年05月14日(月)
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2007年05月15日(火)
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2007年05月16日(水)
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2007年05月17日(木)
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2007年05月18日(金)
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2007年05月19日(土)
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2007年05月20日(日)
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2007年05月21日(月)
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2007年05月22日(火)
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2007年05月23日(水)
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2007年05月24日(木)
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2007年05月25日(金)
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2007年05月26日(土)
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2007年05月27日(日)
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2007年05月28日(月)
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2007年05月29日(火)
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2007年05月30日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん