2007年05月11日(金)
福岡空港~羽田~日本橋~板橋~蕨~浦和
晴れ
朝起きて雨戸を開けると丁度東の空に太陽が登り始めている時だった。午前5時半。快晴。幸先いいスタートだ!
7時過ぎに家を出て福岡空港を9時の便で飛び立つ。東京に着き、インソールの修理をお願いする。
一回の旅の歩く距離が長いので靴の形が変わるのだろう。歩くたびに修正をしてもらわなければならない。面倒だが靴は大切なので出発前に十分な対応をしておく。おかげで足の豆に苦しめられることはなくなった。
12時15分日本橋をスタートする。もうここも3回目だが、今回は前2回の東海道、甲州街道とは逆の方向に向けて歩き始める。今回もやはり昼休み時でこれまで同様に人通りが多い。
15分ほど歩いて神田駅のガード下を通ると、日本橋から1kmの標識が立っている。人ごみの中を歩くいつもと同じペースだ。
「神田明神」の神幸祭が行われていて山車が置かれており、露天も出ていて皆忙しそうにしていた。祭りは5月10日~15日の間行われるそうで、「未来そして世界へ神田祭をつなぐ」ということをテーマとして、祭りの様子をネットで配信しているようだ。境内には「明治天皇御臨幸記念碑」が立っている。
今回の旅の無事を祈って参拝をする。
左手に東京医科歯科大学、少し行くと右手に東大がある。赤門を見ながら進むと、高崎酒店の前に「追分の一里塚」がある。日本橋からスタートして最初の一里塚だ。ここまでで丁度一時間が経過していた。
ここから左折ししばらく行くと左手に東洋大学がある。大学が多い地域だ。
やがて「徳川慶喜巣鴨屋敷跡の碑」が立っている。明治30年(1897年)61歳からの4年間ここに居を構えたそうだ。
巣鴨地蔵通商店街の入り口に江戸六地蔵の第四番である「銅造地蔵菩薩坐像」がある。正徳4年(1714年)ごろに建てられたという2.68mの高さの像だ。江戸六地蔵は各街道第一の宿に置かれ街道の守護をしたとされている。ここでも旅の無事を祈って参拝をする。
更に行くととげぬき地蔵の「高岩寺」が右手にある。とげぬき地蔵は江戸時代、毛利家の女中が針を誤飲し、地蔵の絵を飲み込んだところ、針を吐き出すことが出来たという逸話に由来しているそうで、その由来から他の病気治癒にもご利益があるとされ参拝者が多いようだ。
巣鴨商店街はいい雰囲気の街並みで、かなりの数の店が続いている。やがて埼京線を越え、板橋宿に入ると観明寺がある。ここは左甚五郎の作と言われる龍の欄間があるそうだ。
14時35分板橋宿を通る。
日本橋から最初の宿場でここまで2時間20分、14689歩。
ここには本陣飯田家の菩提寺である文珠院があった。本陣はライフというスーパーのところということだったが、店はわかったものの本陣跡の碑等はわからなかった。
板橋という地名の元となった橋を渡る。
「日本橋から十粁六百四十二米」「日本橋二里二五町三十三間」と書かれた柱が立っている。
本蓮沼近辺を歩く。随分前のことだがわが社の寮があったところで、私も上京の折、ここに何度か来て泊まったことがあり、なんとも懐かしい。
「志村一里塚」を通る。交通量の多い所だが、その道の両側に原型を留めており、塚木は榎。
坂上交番を左に入り清水坂を下る。ここは中山道で唯一右富士が見えるそうだがわからなかった。
ここで道を間違えてしまった。歩きながらなんとなくおかしいなと思って近くにいた人に道を聞いた。
「中山道を通って浦和に行きたいのですが」
「そら、こちらとは方向がちがうわ、こっちに行かなきゃ」と今歩いてきた道を指差す。
「浦和に行くのだったら中山道を行かなきゃ」
「いや、自分では中山道を歩いているつもりでここまできたのですが」
というようなやり取りがあってもとにもどり、ようやく中山道に復帰することができた。
16時31分戸田橋を渡る。荒川は大きな橋で河川敷も広く、子供達がサッカーに興じていた。橋を渡ってすぐのところにある交番の横の階段を下る。中山道から少しそれるが、まっすぐに行くと水神社があり、その右手の土手に「中山道戸田渡船場跡碑」が建っていた。
中山道に戻り、やがて蕨宿碑の看板のところから旧道に入る。
17時20分、蕨宿本陣跡を通る。
板橋宿から2時間45分、15002歩。
蕨宿は中山道第二の宿場で降女和宮が休泊したと書かれていた。
辻の一里塚を過ぎ右手に調神社がある。ここは今から1800年ほど前に、崇神天皇の勅命によって創建され、現在の社殿は江戸時代末に立てられた権現作りで、神域は12000㎡もある大きな森の中にある。
ここから更に歩いていくと浦和宿に着く。
18時20分浦和宿を通る。
蕨宿から1時間、5730歩。ここも正確な本陣跡はわからなかった。
ここで今日の歩きを終え、浦和駅近くに予約しているホテルを探すがホテルがない。おかしいな、と思ってホテルに電話をして確かめると中浦和駅の近くだという。
ホテルを予約するときは街道沿いにあるホテルを予約するようにしているのだが、間違ってしまったらしい。浦和駅から中浦和駅までは適当な交通機関がない。仕方がないのでタクシーで移動し宿に入る。洗濯をし、夕食を食べてから大宮にある会社の開発センターへ行く。引退後初めての訪問なので丁度一年ぶりだ。
20時を過ぎていたが、まだかなりの人間が残って仕事をしていた。皆、暖かく迎えてくれ、しばし話に花が咲く。こうして引退をした後に会社に顔を出して、改めて彼らをみてみても、以前と何ら変わることのないいい連中ばかりだと思う。こういう連中と長い間一緒に仕事をすることができたことに感謝するのみである。長居をして仕事の邪魔をすると悪いので記念撮影(?)をし、21時過ぎに会社を出る。一緒に飲みにでも行きたいところだが、まだ旅はスタートしたばかりなので自重しておく。会社の一人がホテルのすぐ近くに住んでいるということで一緒に帰る。
本日の歩行時間 6時間5分
本日の歩数&距離 35421歩(約24.1km)
**なお、中山道を歩いた時はまだGPSを使用していなかったため、添付しています地図は後から書き加えたものです。従いまして、地図に道が記されていないような山の中などの道はある程度エイヤ!の感覚で作成していますのでご了承ください。**
朝起きて雨戸を開けると丁度東の空に太陽が登り始めている時だった。午前5時半。快晴。幸先いいスタートだ!
7時過ぎに家を出て福岡空港を9時の便で飛び立つ。東京に着き、インソールの修理をお願いする。
一回の旅の歩く距離が長いので靴の形が変わるのだろう。歩くたびに修正をしてもらわなければならない。面倒だが靴は大切なので出発前に十分な対応をしておく。おかげで足の豆に苦しめられることはなくなった。
12時15分日本橋をスタートする。もうここも3回目だが、今回は前2回の東海道、甲州街道とは逆の方向に向けて歩き始める。今回もやはり昼休み時でこれまで同様に人通りが多い。
15分ほど歩いて神田駅のガード下を通ると、日本橋から1kmの標識が立っている。人ごみの中を歩くいつもと同じペースだ。
「神田明神」の神幸祭が行われていて山車が置かれており、露天も出ていて皆忙しそうにしていた。祭りは5月10日~15日の間行われるそうで、「未来そして世界へ神田祭をつなぐ」ということをテーマとして、祭りの様子をネットで配信しているようだ。境内には「明治天皇御臨幸記念碑」が立っている。
今回の旅の無事を祈って参拝をする。
左手に東京医科歯科大学、少し行くと右手に東大がある。赤門を見ながら進むと、高崎酒店の前に「追分の一里塚」がある。日本橋からスタートして最初の一里塚だ。ここまでで丁度一時間が経過していた。
ここから左折ししばらく行くと左手に東洋大学がある。大学が多い地域だ。
やがて「徳川慶喜巣鴨屋敷跡の碑」が立っている。明治30年(1897年)61歳からの4年間ここに居を構えたそうだ。
巣鴨地蔵通商店街の入り口に江戸六地蔵の第四番である「銅造地蔵菩薩坐像」がある。正徳4年(1714年)ごろに建てられたという2.68mの高さの像だ。江戸六地蔵は各街道第一の宿に置かれ街道の守護をしたとされている。ここでも旅の無事を祈って参拝をする。
更に行くととげぬき地蔵の「高岩寺」が右手にある。とげぬき地蔵は江戸時代、毛利家の女中が針を誤飲し、地蔵の絵を飲み込んだところ、針を吐き出すことが出来たという逸話に由来しているそうで、その由来から他の病気治癒にもご利益があるとされ参拝者が多いようだ。
巣鴨商店街はいい雰囲気の街並みで、かなりの数の店が続いている。やがて埼京線を越え、板橋宿に入ると観明寺がある。ここは左甚五郎の作と言われる龍の欄間があるそうだ。
14時35分板橋宿を通る。
日本橋から最初の宿場でここまで2時間20分、14689歩。
ここには本陣飯田家の菩提寺である文珠院があった。本陣はライフというスーパーのところということだったが、店はわかったものの本陣跡の碑等はわからなかった。
板橋という地名の元となった橋を渡る。
「日本橋から十粁六百四十二米」「日本橋二里二五町三十三間」と書かれた柱が立っている。
本蓮沼近辺を歩く。随分前のことだがわが社の寮があったところで、私も上京の折、ここに何度か来て泊まったことがあり、なんとも懐かしい。
「志村一里塚」を通る。交通量の多い所だが、その道の両側に原型を留めており、塚木は榎。
坂上交番を左に入り清水坂を下る。ここは中山道で唯一右富士が見えるそうだがわからなかった。
ここで道を間違えてしまった。歩きながらなんとなくおかしいなと思って近くにいた人に道を聞いた。
「中山道を通って浦和に行きたいのですが」
「そら、こちらとは方向がちがうわ、こっちに行かなきゃ」と今歩いてきた道を指差す。
「浦和に行くのだったら中山道を行かなきゃ」
「いや、自分では中山道を歩いているつもりでここまできたのですが」
というようなやり取りがあってもとにもどり、ようやく中山道に復帰することができた。
16時31分戸田橋を渡る。荒川は大きな橋で河川敷も広く、子供達がサッカーに興じていた。橋を渡ってすぐのところにある交番の横の階段を下る。中山道から少しそれるが、まっすぐに行くと水神社があり、その右手の土手に「中山道戸田渡船場跡碑」が建っていた。
中山道に戻り、やがて蕨宿碑の看板のところから旧道に入る。
17時20分、蕨宿本陣跡を通る。
板橋宿から2時間45分、15002歩。
蕨宿は中山道第二の宿場で降女和宮が休泊したと書かれていた。
辻の一里塚を過ぎ右手に調神社がある。ここは今から1800年ほど前に、崇神天皇の勅命によって創建され、現在の社殿は江戸時代末に立てられた権現作りで、神域は12000㎡もある大きな森の中にある。
ここから更に歩いていくと浦和宿に着く。
18時20分浦和宿を通る。
蕨宿から1時間、5730歩。ここも正確な本陣跡はわからなかった。
ここで今日の歩きを終え、浦和駅近くに予約しているホテルを探すがホテルがない。おかしいな、と思ってホテルに電話をして確かめると中浦和駅の近くだという。
ホテルを予約するときは街道沿いにあるホテルを予約するようにしているのだが、間違ってしまったらしい。浦和駅から中浦和駅までは適当な交通機関がない。仕方がないのでタクシーで移動し宿に入る。洗濯をし、夕食を食べてから大宮にある会社の開発センターへ行く。引退後初めての訪問なので丁度一年ぶりだ。
20時を過ぎていたが、まだかなりの人間が残って仕事をしていた。皆、暖かく迎えてくれ、しばし話に花が咲く。こうして引退をした後に会社に顔を出して、改めて彼らをみてみても、以前と何ら変わることのないいい連中ばかりだと思う。こういう連中と長い間一緒に仕事をすることができたことに感謝するのみである。長居をして仕事の邪魔をすると悪いので記念撮影(?)をし、21時過ぎに会社を出る。一緒に飲みにでも行きたいところだが、まだ旅はスタートしたばかりなので自重しておく。会社の一人がホテルのすぐ近くに住んでいるということで一緒に帰る。
本日の歩行時間 6時間5分
本日の歩数&距離 35421歩(約24.1km)
**なお、中山道を歩いた時はまだGPSを使用していなかったため、添付しています地図は後から書き加えたものです。従いまして、地図に道が記されていないような山の中などの道はある程度エイヤ!の感覚で作成していますのでご了承ください。**
旅の地図
記録
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2007年05月11日(金)
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2007年05月14日(月)
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2007年05月15日(火)
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2007年05月16日(水)
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2007年05月17日(木)
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2007年05月18日(金)
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2007年05月29日(火)
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2007年05月30日(水)
プロフィール
歩人
かっちゃん