甲州街道を歩く

2007年04月15日(日) ~2007年04月23日(月)
総歩数:326591歩 総距離:222km

2007年04月21日(土)

大善寺~JR酒折駅~甲府柳町~韮崎~武川村

                                    晴れ

 大善寺を出発するとき、もう一度近くにいたお坊さんに参拝は無理か聞いてみたが、「9時からです」とにべもない返事だったのでようやくあきらめた。勝沼ぶどう郷駅から7時45分のJRで酒折駅まで行く。電車の窓から左手に雪をかぶった富士山の頂きが見える。今回の旅で富士山を初めて見た。
8時06分酒折駅に到着。

 酒折駅からは甲府市の中心街を歩く。8時44分甲府宿を通るが、これといった標識はなく、資料に載っているNTT前の四つ角でカウントする。
 石和宿から1時間35分、8716歩。
 ここから左折して直進し、問屋街の信号を右折、次の角を左折、更に次の角である桜町南の信号で右折と曲がり道が多い。防衛上の問題もあったのだろう。

 甲府は仲良くさせていただいている会社があって何度か来たことがあり、昨年の10月には会長がお亡くなりになられたので葬儀にも参加している。甲府と聞くだけで懐かしい。
 9時過ぎに荒川橋を渡る頃にはもうビジネス街は終わり住宅街になる。今日は国道を歩くため車の流れが多い。10時10分、竜王新町の信号を右折すると道幅は一気に狭くなるが、車の流れは変わらず益々歩きにくくなる。
 やがて上り坂に差し掛かる。坂を登るにつれて見晴らしが良くなり、周囲の山々を見渡すことができるようになったが、富士山を見ることはできなかった。残念。坂の途中にソフトパークができている。全国に同様な施設ができているのだが、同業だったのでどのような企業が入っているのかが気になった。
 下今井の信号を通り、JR中央線を越えて少し行くと「泣石」があった。長篠の戦に大敗し再起を期した武田勝頼は、天正10年(1582年)高遠城が落城すると、完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち岩殿城に向けて落ちていった。その途中で勝頼夫人は、この地で燃える韮崎城を振り返り涙を流したという説明書きがあった。
P4130077-1

 塩川橋を渡ると韮崎市に入る。
 12時07分韮崎宿を通る。山梨中央銀行の前に一橋陣屋跡碑が立っていた。
 甲府宿から3時間23分、19419歩。
 国道から少し入った食堂で昼食を食べていると、消防車が走り、有線放送で火事を伝えていた。幸いボヤですんだらしく間もなく鎮火の放送が流れていた。
 韮崎宿を出るとすぐに右手に「七里岩」と呼ばれる絶壁が現れる。切り立った崖が延々と続いており、それが七里続いているということからこの名前がつけられたのだろう。戦国時代のことを考えると正に自然の要害だったのだろう。
P4130084-1
 13時に釜無川にかかる桐沢橋を渡るころから、あたり一面にパンパンという音が響き渡る。その音が崖にこだましてかなり大きく響いてくる。なんの音だろうと思っていると、橋を渡ったところに県立の韮崎射撃場があった。銃の発射音だったのだ。それにしても大きくそしてよく響く。
 ここから山沿いの道に入り、徳島堰という用水が流れている側を歩く。この堰は柳川堰、箱根堰と並んで日本三大堰といわれるものの一つであり、その中でも最も大きいもので、寛文5年(1665年)に作られたそうだ。ここは静かだ。射撃の音も随分小さくなってきており気持ちがいい。右手には依然七里岩が続いている。
 小武川で国道から離れ右折して小武川橋を渡る。ここから武川村に入る。山に囲まれた山村という風情のところだ。黒沢橋を渡って行くと一里塚跡がある。ここは甲府から六里のところにあるため六里塚といわれたそうだ。
 武川村農産物センターがある。旧道はここから右側に進むのだが、今日の宿は国道をまっすぐに進むとすぐ近くにあり、15時45分到着する。
 左手に甲斐駒ケ岳や鳳凰三山という2700m級の山が連なっており素晴らしい景色だ。高所にあるからなのだろう、水道の水が冷たい。部屋に入るとまだコタツが入っていた。
 今日は道筋もはっきりしていたので迷うことはなかったし、距離も短く、歩数は4万歩を切っていたので楽だった。

本日の歩行時間  7時間39分
本日の歩数&距離 39524歩(約26.9km)