唐津街道赤間道を歩く

2023年05月19日(金)
総歩数:28766歩 総距離:18.4km

2023年05月19日(金)

木屋瀬~赤間

                     曇りのち晴れ
 唐津街道は古代の九州北部の玄界灘沿岸の要路で、古代には大陸と行き来する人々が利用し、この道を通じてさまざまな大陸文化が日本各地へもたらされ、中世には日本へ攻め入る元(蒙古)の大軍を防衛するための重要な拠点でもあった。また朝鮮出兵のため、豊臣秀吉もこの道を通ったとされている。北九州を起点に博多を経由して佐賀県唐津市に至る街道として、江戸時代には福岡藩や唐津藩の参勤交代にも利用された。起点については、大里、小倉、若松、木屋瀬などがあり、私は若松から唐津までを唐津街道として歩き、小倉から大里を通って門司港までは門司往還として、更に小倉から木屋瀬を経由して長崎に至る道は長崎街道として歩いたので、今回は木屋瀬から赤間までの道を唐津街道赤間道として歩いた。
資料は九州文化図書選書の「唐津街道 豊前 筑前 福岡路」と河島悦子著「唐津街道」を参考にした。
 今回は百街道踏破の達成がかかる歩きなので、会社の仲間に声をかけると、気持ち良く応じてくれ、有志と一緒に歩いた。街道を歩いて日本縦断、更に日本一周そして今回の百街道踏破という節目節目にこうして会社の仲間が祝ってくれ、とてもありがたいことだと思う。感謝あるのみだ。
 今回は木屋瀬宿西搆口を出発点とする。構口は宿口とも書き、宿駅の出入口に設けられたもので、道路と直角に石垣を組み、その上に白壁の練塀を築いたものであった。構口は方位にかかわらず、上り方面を東、下り方面を西とした。木屋瀬宿の場合、岡森用水路際にあった北側の黒崎口が東構口だったが、現在遺構は残っていない。石垣が残っている南側の飯塚口が西構口で、諸大名の参勤交代が制度化された寛永12年(1635)以降、宿駅が整備されていく過程で築かれたと考えられている。ここに「従是 右 赤間道 左 飯塚道」と刻まれた元文3年(1738)に建立され、復元された唐津・長崎道追分石が立っている。実物は郷土資料館に保管されているという。ここで記念撮影を行って9時42分に出発する。
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左手少し行ったところに鳥居の額に「興玉社」と掲げられた「興玉神社」があり、その先は遠賀川になっている。赤間道はここから川を渡って進んでいたのだが、現在は橋がないので、一旦西搆口の所まで引き返して、道を北上する。
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この道は長崎街道で、当時の様子を偲ばせる建物が立っている。
左手に「村庄屋跡」の松尾家がある。木屋瀬には村庄屋、宿庄屋、船庄屋の三庄屋が置かれ、村庄屋は村全体を統括した。松尾家は屋号を灰屋と称し、問屋役、人馬支配役、村庄屋などを務めた。この建物は江戸時代末期の建築で、木屋瀬を代表する町家の一つと説明されている。
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その先左手に「旧高崎家住宅」がある。高崎家は屋号を柏屋□(カネタマ)といい、建物は天保6年(1835)の建築と考えられているという。放送作家として活躍した伊馬春部の生家でもあると説明されている。
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左手に「愛宕山護国院」がある。ここは明応2年(1493)に僧の源水が、当時流行していた火災や病気をおさめるために八幡西区香月の聖福寺の末寺として創建され、源水の祈願で火災疫病が収まったため、火災病難に効果があると参詣者が多かったという。お堂には不動明王が安置されており、境内には、建立年不明の庚申天尊、文久2年(1862)建立の常夜燈、「子の観世音菩薩」と刻まれているように見える石仏ともう二体の石仏等が祀られている。
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左手に「船庄屋跡」の梅本家がある。木屋瀬には年貢米の集積場である本場が置かれ、その輸送は権利を持った24艘の川ひらた(川舟)に限られていた。この24艘の管理が舟庄屋の仕事で、梅本家は屋号を油屋(ヤマシモ)と称し、江戸時代は酒造業、明治に入り醤油醸造業を営んでいたという。江戸末期の建物で、木屋瀬を代表する町屋の一つだったと説明されている。
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その先で左手に遠賀川に架かる中島橋があり、ここを渡るのだが、そのまま道路を横断して進むと「木屋瀬宿記念館」がある。ここが長崎街道筑前六宿の一つだった木屋瀬宿の本陣があった場所だ。「福岡十三里三十四町二十五間」と書かれた木製の道標が立っている。
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右手に「問屋場跡」の野口家がある。問屋場は飛脚、荷物の受付や発送、駕籠・馬、人足等の調達・斡旋をしていて、現在の郵便局・旅行社・運送会社を兼ねた機能を持つ半官半民の組織だった。明治5年2月、政府より野口甚平が江戸期より引き続き木屋瀬宿人馬問屋役を拝命。この場所は当宿場内で一番高台の位置にあり、水害などの災害に備えていたという。問屋前は荷解きのためか道路幅が広くなっている。
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木屋瀬宿を一通り見て回ったので、ここから後戻って中島橋を渡るが、ここで見送りに来てくれていた女性陣は祝賀会の準備のために引き返す。
 中島橋西の信号から左折して進み、その先で右へ分岐する。ここからしばらく進み、途中からさらに右へ分岐して進むのだが、うっかり通り過ぎてしまった。その先で気が付いて引き返して街道を進んだが、ちょっと失敗だ。
左手に「恵美須社」がある。
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ここから「石柱梵字曼荼羅」を見ようと思って左折して住宅街の中を歩いたが、これが間違っていた。ここは事前の調査では場所が特定できていなかったのだ。それらしき建物の屋根が見えたので、民家の庭の中のような場所を歩いて行ったが、どうもおかしいということで、皆は一旦引き返したが、私はその先の柵に簡単に開けることができるような鍵が付いているのを見つけたので、そのまま柵を開けて進むと、曼荼羅の前に出ることができた。その後引き返した皆がやってきたので、道を聞くと先ほどの「恵美須社」の前をそのまま進むと曼陀羅の参道の入口に来たということだった。曼荼羅は街道沿い左手に参道があるということだ。入口で説明板等を読んでいると、すぐ横のお宅から女性が出てこられて、親切にお堂を開けてくださり、ユックリ見て行ってくださいと言っていただいたので、堂内に入って見学した。板碑は正面に阿弥陀三尊を表す梵字を三角形に刻み、説明板によると裏面には上部に胎蔵界曼陀羅、下部には金剛界曼荼羅を描き、いずれも中央に大日如来を配置している。建久2年(1070)の板碑は福岡県内最古の石柱で、福岡県指定有形文化財に指定されている。
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その先で左折、右折をしてJR筑豊本線の陸橋を渡ってすぐに右折、すぐ先で左折して進む。旧道が線路で遮断されているのだ。
右手に「日吉神社」の鳥居を見ながら進む。日吉神社は桓武天皇御代に創建された古い神社だが、明治41年に現在地に移転されたという。
その先で29号線に合流して進むと、左手に墓地があり、「三界萬霊」と刻まれた石仏等が並んで立っている。
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各自自分のペースで会話を交わしながら歩いていくが、大きく遅れる人はいなかった。
中山口の信号の所に「国寶 不動明王 是ヨリ西北八町」と刻まれた道標が立っている。
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右手に八剣神社の鳥居を見ながら進み、新幹線と九州自動車道の高架下を通って29号線から右へ分岐して進む。11時20分にここを通る。
左手に池を見ながら進むと、突き当りに「右 永谷ヲ経テ赤間町二至ル」「左 室木ヲ経テ宮田町二至ル」「○○(?)記念 植木町ヲ経テ直方町二至ル」と刻まれた昭和3年の道標とその横に「興玉神」と刻まれた文化15年(1818)の石碑が並んで立っており、その前になぜかうさぎの置物が置かれていた。
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55号線に合流したところにコンビニがあったので、ここで小休止した。
55号線に沿って進み、その先で左へ分岐して進むと、右手に地藏堂があり、その横に13仏が安置されている。
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未舗装の細道を歩いていくと左手に「大塚古墳」がある。何も説明板がなかったが、ご近所の方がおられたのでお聞きすると、大塚古墳だと教えて頂いたので確認できた。ここは6世紀後半の古墳で直径約30m、遠賀川流域では最大規模となる横穴式石室を持つ円墳という。出土遣物は鉄製の馬具、須恵器など、相当の権力を持った豪族の墓であったことが想像できるとされている。
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 その先やはり左手に「援田彦太神」の石碑が立っている。建立された年を見ると、「壬寅」となっているので調べてみると、これは「みずのえとら」と言って60年に一回回ってくる年で、2022年がまさに壬寅だったということがわかった。ただ、この石碑の建立はもっとずっと前に建立されたもののようだったが、具体的にいつだったのかはわからなかった。「援田彦太神」は一般的に「猿田彦大神」と刻まれていることが多いので、なぜこの字が刻まれているのか調べてみたが、これもよくわからなかった。
その先右手に1体の地蔵尊を安置する地藏堂がある。
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左手に新塚公民館があるところから先は旧道が失われているようなので、29号線に合流して進むが、そのすぐ先右手に池がある所から道は二又に分かれている。参考にした河島悦子さんの資料では右手29号線を進むようになっているが、九州文化図書選書の方は左手を進むように書かれている。前者の29号線を歩く道は先日歩いた底井野往還が途中で合流している道で、29号線に追分があるということだ。底井野往還は九州文化図書選書の資料を参考にして歩いているので、九州文化図書選書を参考にして底井野往還と赤間道の両方を歩いた場合、底井野往還との追分がないことになる。河島悦子さんの資料には底井野往還の資料はない。さて、どちらを歩くか調査段階から迷ったが、現場に来てみると左手に進む方が車が少なくて歩きやすいという、ただそれだけの理由で左へ進んだ。我ながらいい加減だが、判断のやりようがない。色々な街道を歩いてきたが、このように人によって考え方が異なるケースはよくあることだ。ただいずれにしてもその少し先で29号線に合流する。
七ケ谷の信号で29号線から右へ分岐して進むが、民家になんとも懐かしい看板が残っていたので写真を撮る。この民家の屋根の突起した部分は、金沢では明り取りの為に作られたそうだし、京都では煙出しのために作られたと言われたり、あるいはほかの地域では養蚕のためというケースもあった。似たような造りではあっても用途は地方によって異なっているようだ。この家ではどのような目的で作られたのだろうか?と思った。
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右手に「天満神社」がある。鳥居の右手に巻貝のような形をした庚申尊天があり、本殿の右手奥には「七鬼神」と刻まれた庚申塔とその横に宝暦10年(1760)と読むことができる「双体地蔵」がある。13時丁度にここに着く。
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ここの境内で昼食にして一息入れる。当初調べた段階では、コンビニや食事処があまりないような感じだったので、各自昼食を持参してもらったが、意外にコンビニがあり、食事ができるところもあった。
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今日は午前中は曇っていて歩きやすかったが、昼過ぎから太陽が出て、日差しがきつかった。これから先は暑くなるので、その前に歩くことができてよかったと思う。
猿田峠を越えて行く。ここに「従是 東 鞍手郡」「従是 西 宗像郡」と刻まれた郡境石が立っていたそうだが、現在は鞍手町資料館に移設されているそうだ。
その先で29号線から右へ分岐して進むと、すぐ右手に「豊日神社」があり、寛政4年(1792)の鳥居が立っていて、かなり急で長い階段がある。13時33分にここに着く。ここに来るまでに、もうこの道を歩いたり、通ったりすることはないだろうという思いから、H君が「一期一会」という言葉を連発して歩いてきた。この長く急な階段を見て、皆大分疲れも出てきているようだったが、ここでも「一期一会」を合言葉にして階段を登って行った。途中階段の横に何やら石造りの屋根のような形をしたものがあったが、これが何なのかはわからなかった。途中でこのようなものがあるのであれば、階段を登ったところには何があるのだろう?と思いながら急な階段を登っていく。
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階段の幅も狭くて歩きにくかったが、とにかく「一期一会」を唱えて全員が登って行った。ところがフーフー言いながら登り着いたところには小さな、比較的新しい祠が一つポツンとあるだけだった。周囲の状況から以前はそれなりに歴史のある神社だったのかもしれないが、今はこれだけ?という感じの場所だった。でもまぁこれも「一期一会」のなせる業かと納得する。祠の後ろには途中で見たものと同じ造りの物が二つあった。何なのだろう?
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87号線の高架下を通った先で再び29号線に合流、その先で29号線から左へ分岐すると、右手に「牛馬供養塔」が立っている。
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左手に「水神社」があり、境内に明治29年の三角形をした手水鉢があって「愛睦社拾七名」と刻まれている。寄贈した会社の名前なのだろうか?
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右手に「御大師様 入口」と書かれた看板が立っている。最初はあまり気にしないでそのまま通り過ぎたのだが、資料をよく見ると石仏があるようになっていたので引き返す。これも「一期一会」だ。境内の真ん中に弘法大師像を安置する祠がある。
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その周囲に石仏がずらりと並んでいて、夫々の石仏に八十八か所のお寺の名前が刻まれている。資料では「中阿弥ノ尾陀堂」となっていて、宗像四国東部霊場53番となっている。
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その先で釣川沿いを歩き、29号線に合流する。赤間病院を左手に見ながら進むと、右手に「七社宮」がある。天武天皇白鳳2年(674)に里人が四社殿を造営して七柱の神をお祀りしたのが始まりで、この地は昔は古墳で、弥生時代の食料貯蔵庫だったという。石段横に安政五年(1859)と刻まれた石碑があり、本殿横には天明4年(1784)の常夜燈が立っている。
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右手に熊越池公園がある先に「唐津街道 中筋往還」の標識が立っていて、「唐津街道赤間宿は筑前二十一宿の一つで、かっては宿内に藩主、長崎奉行、諸大名が休泊するお茶屋(本陣)、家臣などのための町茶屋(脇本陣)、問屋場、郡屋、高札を掲げる制札場、番所などの公的施設があった。赤間宿から長崎街道に通じる中筋往還は交通の要所となっていた」と説明されている。ここから右折して進むと、右手に「須賀神社」がある。ここは永禄9年(1566)に赤間宿の鬼門を守護する神社としてこの地に遷座されたという。
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参道左手に「辻井戸」がある。赤間宿には七か所の井戸があったが、現在はこの場所と搆口近くの2か所に残っていると説明されている。
「節婦阿政の碑」がある。「節婦阿政は大黒屋七兵衛の後妻の娘で、父が亡くなる時に本家の息子と許嫁の約束をしたが、本家が衰退して婚礼を挙げることができなかった。この時勝浦の大庄屋から息子の嫁にと申し込まれたが、「父の遺言に背くのは親不幸であり、衰微した本家を見捨てるのは女の貞節ではない」と考え、再三の申し入れにも従わなかった。阿政は逃れることができないと悟り、婚礼の三日前、遺言を残して自害して果てた。享和元年(1801)阿政が18歳のことだった」と説明されている。その横に村役で篤農家だった「石松林平・伴六」の碑が立っている。
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このすぐ先で唐津街道に合流するが、ここに「従是 右 木屋瀬」「従是 左 芦屋」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。15時20分に「百街道踏破記念ウオーク」唐津街道赤間道を歩き終わる。
その後皆で記念撮影を行う。脱落者なく全員無事に、楽しく歩き終えることができてよかった。
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歩き終わって、我が家で祝賀会を行う。今日はお見送りをしてくれた女性陣が一足先に我が家へ帰っておいしい鍋料理を作って待っていてくれた。いつものことだが、よく飲んで、よく食べて、よく笑って、よく喋って、楽しいひと時を過ごすことができた。本当にありがたいことだ。唯々感謝あるのみ。
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2006年6月4日から歩き始めて、16年11か月16日をかけて百街道を踏破!
やった!という達成感があります。色々な方に助けて頂いてここ迄歩き続けてくることができました。本当にありがたいことです。

本日の歩行時間   5時間38分。
本日の歩数&距離 28766歩、18.4km。
本日の純距離    16.0km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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