2023年05月03日(水)
西山~関
晴れ
西山のバス停を8時27分に出発する。今日は学生時代の友人で四国遍路を無事結願したI君が一緒だ。久しぶりに一緒に歩く。
10号線は車が多い。GWが影響しているのかもしれないと思いながら歩いていく。しばらく歩いていき、道が二股に分かれるところから10号線から分岐して左へ進むと、途端に車の数が少なくなってホッとする。
新屋敷のバス停の先右手に「下の仁王経碑」がある。疫病流行の治除を目的として、仁王経上下2巻、12191文字を一字ずつ書写した小石が碑の下に埋められている。文化2年(1805)椋本宿の西と東の入口に建てられたと説明されている。椋本宿は20軒ほどの旅籠があったという。
その先突き当り右手に「角屋旅館本館」がある。街道はここから枡形になっていて、その名の通り角地で営業を営んでいた旅館で、建築年代は明確ではないが、江戸時代末期と考えられているという。軒下に多く掲げられている伊勢参宮講札は最も古いもので文化3年(1806)まで遡るという。ここは国登録有形文化財になっている。9時13分にここを通る。
角屋から左折した先の突き当りに、明治43年に建立した道路里程標を復元した木製の柱が立っており、「津市元標へ三里三拾三丁八間」「関町元標弐里五丁五拾壱間」「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と刻まれている。またその横に「左 さんぐう道」右側に小さく「右 榊原道」と刻まれた江戸時代と思われる自然石の道標が立っている。ここは枡形になっていて右折して進む。
すぐ先左手に「霊樹大椋 従是南二丁」と刻まれた石標が立っているので、街道から外れて行ってみた。高さ18m、周囲8m、樹齢1500年以上と言われている椋の巨木は嵯峨天皇(809~822)の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の家来、野添大膳父子が伊勢路を流浪し、この地に逃れた時、巨大な椋の木を見つけ、その下に草庵を作って住んだ。これが椋本の発祥だと言い伝えられていると説明されており、国の天然記念物に指定されている。
街道に戻って進むと、右手に「東日寺」がある。ここは中世の創建と伝えられる真言宗のお寺で、室町時代の涅槃像があるという。朱塗りの山門は寛文8年(1668)に建立されたもので、令和3年に改築されている。 また境内の地蔵堂は、文久以前(1861前)の古建築であるといわれている。東海四十九薬師霊場、三重四国八十八箇所霊場第六十番札所という看板が立っている。
その先でも街道は枡形になっている。
右手に「西性寺」があり、その先突き当りの右手に「沃野豊穣礎」碑があり、左手、横山池堤の下に「仁王経碑」がある。疫病流行の治除を目的にして、文化2年(1805)に椋本宿の西と東の入口に建てられたものだ。東口が「下の仁王碑」と呼ばれたことに対してここ西口は「上の仁王碑」と呼ばれていたという。その横に昭和9年に建立された駒越翁顕彰碑が立っている。
その横に横山池がある。これは文久2年(1862)に椋本宿本陣を勤める駒越五良八が私財を投じて着工し、慶応2年(1866)に竣工した人工池だが、かなりの広さがあり、この辺り200町歩の田畑を潤したという。10時丁度にここを通る。
池の周囲を回って進み、10号線を横断した先、右手に「安濃鉄道終点林駅跡地→」「津新町八町ー河芸郡明村林間」「大正四年一月開通 昭和十九年廃止」と書かれた木柱が立っている。
左手に「御神燈 右さんぐう道 左り京道」と刻まれた安永5年(1776)の道標が立っている。
「旧明村役場庁ある。大正5年に建設されたこの建物は国登録有形文財に登録されている。
街道は左折して進むが、ここが蛭谷街道追分になっている。
この先で人家はなくなり、切通になっている畑坂を下って行く。
10号線に合流、右折して進み、中ノ川に架かる新玉橋を渡って左折すると、楠原宿の案内板が立っている。楠原宿は関宿と椋本宿の間の宿的な宿場だったという。ここには連子格子の旧家が数多く目についた。また道は枡形になっている。
右手に「明神社」と刻まれた大正7年の石柱が立っている。旧明村各地の無挌社をここに合祀して村社明神社と改称されたときの石碑という。
その先で10号線に合流した右手に「庚申堂」があり、青面金剛像と三猿陽刻庚申塔が安置されている。堂の前には2体の地蔵立像があり、また弘化3年(1846)楠原宿浄蓮寺僧覚順が開眼供養した馬頭観音像がある。ここは車の流れが激しくて道を横断するのに手間取ってしまった。
その先左手に「石山観音道拾二丁」と刻まれた明治34年の道標が立っている。
拾二丁となるとかなり時間がかかりそうなので、行かずに先へ進む。
津市と亀山市の境標識があり、その先で名阪国道の高架下を通る。すぐ先で道は二又に分かれているので、右へ下って行き、その先で再び10号線に合流するが、この左手に「鈴鹿駅跡」があって、ここに「御厩の松」がある。これは大化の改新(645)後、駅制が布かれた際にこの地に植えられたと伝えられ、往時高さ15m、幹回り6mの巨松だったという。昭和54年に県の天然記念物に指定されたが、昭和57年に松喰虫の被害にあって、伐採されたという。樹齢407年という。現在は松の根株が保存されている。
同じところに「式内大井神社遺蹟跡」碑が立っている。大井神社は明治43年に関宿の関神社に合祀されているということだ。
右手には地蔵尊3体を安置する祠がある。
鈴鹿川に架かる勧進橋を渡って進むが、江戸時代鈴鹿川は度々洪水を引き起こしたが、その都度勧進によって橋を架け替えたという。
JRのガード下を通って進み、1号線を横断して緩やかなカーブを上っていくと、伊勢神宮一の鳥居がある。ここが東海道関宿東の追分になる。
11時59分に歩き終わる。
ここで同じ体育会で汗を流した仲間、亀山在住のG君と合流して3人で昼食をともにした。
本日の歩行時間 3時間32分。
本日の歩数&距離 16882歩、10.6km。
本日の純距離 9.9km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
伊勢別街道総合計
歩行時間 6時間20分
歩数&距離 32456歩、20.8km。
純距離 19.3km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
西山のバス停を8時27分に出発する。今日は学生時代の友人で四国遍路を無事結願したI君が一緒だ。久しぶりに一緒に歩く。
10号線は車が多い。GWが影響しているのかもしれないと思いながら歩いていく。しばらく歩いていき、道が二股に分かれるところから10号線から分岐して左へ進むと、途端に車の数が少なくなってホッとする。
新屋敷のバス停の先右手に「下の仁王経碑」がある。疫病流行の治除を目的として、仁王経上下2巻、12191文字を一字ずつ書写した小石が碑の下に埋められている。文化2年(1805)椋本宿の西と東の入口に建てられたと説明されている。椋本宿は20軒ほどの旅籠があったという。
その先突き当り右手に「角屋旅館本館」がある。街道はここから枡形になっていて、その名の通り角地で営業を営んでいた旅館で、建築年代は明確ではないが、江戸時代末期と考えられているという。軒下に多く掲げられている伊勢参宮講札は最も古いもので文化3年(1806)まで遡るという。ここは国登録有形文化財になっている。9時13分にここを通る。
角屋から左折した先の突き当りに、明治43年に建立した道路里程標を復元した木製の柱が立っており、「津市元標へ三里三拾三丁八間」「関町元標弐里五丁五拾壱間」「大里村大字窪田へ弐里弐丁五間」と刻まれている。またその横に「左 さんぐう道」右側に小さく「右 榊原道」と刻まれた江戸時代と思われる自然石の道標が立っている。ここは枡形になっていて右折して進む。
すぐ先左手に「霊樹大椋 従是南二丁」と刻まれた石標が立っているので、街道から外れて行ってみた。高さ18m、周囲8m、樹齢1500年以上と言われている椋の巨木は嵯峨天皇(809~822)の頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の家来、野添大膳父子が伊勢路を流浪し、この地に逃れた時、巨大な椋の木を見つけ、その下に草庵を作って住んだ。これが椋本の発祥だと言い伝えられていると説明されており、国の天然記念物に指定されている。
街道に戻って進むと、右手に「東日寺」がある。ここは中世の創建と伝えられる真言宗のお寺で、室町時代の涅槃像があるという。朱塗りの山門は寛文8年(1668)に建立されたもので、令和3年に改築されている。 また境内の地蔵堂は、文久以前(1861前)の古建築であるといわれている。東海四十九薬師霊場、三重四国八十八箇所霊場第六十番札所という看板が立っている。
その先でも街道は枡形になっている。
右手に「西性寺」があり、その先突き当りの右手に「沃野豊穣礎」碑があり、左手、横山池堤の下に「仁王経碑」がある。疫病流行の治除を目的にして、文化2年(1805)に椋本宿の西と東の入口に建てられたものだ。東口が「下の仁王碑」と呼ばれたことに対してここ西口は「上の仁王碑」と呼ばれていたという。その横に昭和9年に建立された駒越翁顕彰碑が立っている。
その横に横山池がある。これは文久2年(1862)に椋本宿本陣を勤める駒越五良八が私財を投じて着工し、慶応2年(1866)に竣工した人工池だが、かなりの広さがあり、この辺り200町歩の田畑を潤したという。10時丁度にここを通る。
池の周囲を回って進み、10号線を横断した先、右手に「安濃鉄道終点林駅跡地→」「津新町八町ー河芸郡明村林間」「大正四年一月開通 昭和十九年廃止」と書かれた木柱が立っている。
左手に「御神燈 右さんぐう道 左り京道」と刻まれた安永5年(1776)の道標が立っている。
「旧明村役場庁ある。大正5年に建設されたこの建物は国登録有形文財に登録されている。
街道は左折して進むが、ここが蛭谷街道追分になっている。
この先で人家はなくなり、切通になっている畑坂を下って行く。
10号線に合流、右折して進み、中ノ川に架かる新玉橋を渡って左折すると、楠原宿の案内板が立っている。楠原宿は関宿と椋本宿の間の宿的な宿場だったという。ここには連子格子の旧家が数多く目についた。また道は枡形になっている。
右手に「明神社」と刻まれた大正7年の石柱が立っている。旧明村各地の無挌社をここに合祀して村社明神社と改称されたときの石碑という。
その先で10号線に合流した右手に「庚申堂」があり、青面金剛像と三猿陽刻庚申塔が安置されている。堂の前には2体の地蔵立像があり、また弘化3年(1846)楠原宿浄蓮寺僧覚順が開眼供養した馬頭観音像がある。ここは車の流れが激しくて道を横断するのに手間取ってしまった。
その先左手に「石山観音道拾二丁」と刻まれた明治34年の道標が立っている。
拾二丁となるとかなり時間がかかりそうなので、行かずに先へ進む。
津市と亀山市の境標識があり、その先で名阪国道の高架下を通る。すぐ先で道は二又に分かれているので、右へ下って行き、その先で再び10号線に合流するが、この左手に「鈴鹿駅跡」があって、ここに「御厩の松」がある。これは大化の改新(645)後、駅制が布かれた際にこの地に植えられたと伝えられ、往時高さ15m、幹回り6mの巨松だったという。昭和54年に県の天然記念物に指定されたが、昭和57年に松喰虫の被害にあって、伐採されたという。樹齢407年という。現在は松の根株が保存されている。
同じところに「式内大井神社遺蹟跡」碑が立っている。大井神社は明治43年に関宿の関神社に合祀されているということだ。
右手には地蔵尊3体を安置する祠がある。
鈴鹿川に架かる勧進橋を渡って進むが、江戸時代鈴鹿川は度々洪水を引き起こしたが、その都度勧進によって橋を架け替えたという。
JRのガード下を通って進み、1号線を横断して緩やかなカーブを上っていくと、伊勢神宮一の鳥居がある。ここが東海道関宿東の追分になる。
11時59分に歩き終わる。
ここで同じ体育会で汗を流した仲間、亀山在住のG君と合流して3人で昼食をともにした。
本日の歩行時間 3時間32分。
本日の歩数&距離 16882歩、10.6km。
本日の純距離 9.9km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
伊勢別街道総合計
歩行時間 6時間20分
歩数&距離 32456歩、20.8km。
純距離 19.3km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)