伊勢別街道を歩く

2023年05月01日(月) ~2023年05月03日(水)
総歩数:32456歩 総距離:20.8km

2023年05月01日(月)

江戸橋~西山

                          晴れ

 関宿東追分で東海道から分岐して南下し、津の江戸橋で伊勢街道と合流するこの道は、江戸時代の道中記などには「いせみち」「参宮道」「山田道」などと記されていて、名称が一定していなかったが、「伊勢別街道」と称されるようになったのは明治10年以降のことだという。四日市追分から伊勢市に至る伊勢参宮道を「伊勢街道」と名づけたのに伴って、その街道の支道という意味で名づけられたという。伊勢街道が東京・名古屋方面からの参宮客の交通路だったのに対し、この道は京都方面からの参宮客の道であり、伊勢街道と並んで、とても繁栄した道だったという。今回は江戸橋から関宿へ向けて歩いた。
三重県歴史の道調査報告書「大和街道・伊勢別街道・伊賀街道」と「みえの歴史街道・ウォーキングマップ」を参考にした。

13時29分に江戸橋を出発するが、ここに安永6年(1777)の江戸橋常夜燈が立っており、その手前に「左 高山本山道東京占とおりぬけ」と刻まれた道標が立っている。この場所が伊勢街道との追分になる場所だ。参勤交代の藩主の見送りがここまでということから江戸橋と名づけられたという。伊勢街道を歩いた際ここを通ってことはよく覚えている。
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近鉄名古屋線の江戸橋2号踏切を渡って進むと、道は二又に分かれているので左へ直進、更にその先で右折して進むが、この辺りは車が少なく、静かな道で歩きやすい。
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五六川に架かる五六橋を渡り、伊勢鉄道線の高架下を通って進むと、右手に「臼井織布」という会社がある。歴史を感じさせる建物だが、江戸時代から続く伝統の布「伊勢木綿」を現在ではこの臼井織布一軒だけが作っているという。
玄関に「蘇民将来子孫家」と書かれた注連縄が飾ってある。三重県、特に南勢・志摩では、よくこの文字が書かれているそうで、「昔、スサノオノミコトが、南海への旅の途中、蘇民将来・巨旦(こたん)将来という名前の二人の兄弟のいる地に立ち寄り、そこで、ミコトは一晩泊めてくれるよう二人に頼んだところ、弟の巨旦はとても裕福だったのだが、断ってしまった。一方兄の蘇民は貧しかったのだが、親切にミコトを泊めてあげたので、スサノオノミコトは喜び、蘇民に「今後、この地に悪い病気が流行ったときには、蘇民将来の子孫であると言い、茅輪を腰に着けなさい。そうすれば病気を免がれるでしょう」と言って、その地を立ち去った」という言い伝えがあることから、現在でも札に蘇民将来子孫と書いた注連縄を飾り、家の中に邪霊が入るのを防ぐ呪符の意味を持たせているという。これらの注連飾りは一年中飾っておかれ、毎年大晦日に新しいものと取り替えられるが、注連飾りを一年中飾っておくのも、南勢・志摩地域独特の風習という。
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右手に一身田小学校を見ながら進む。このあたりは一身田と珍しい地名になっているが、この由来には諸説があって、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に対して特別にその身一代に与えられた田からきたとも、律令制度の「三世一身の法」で与えられた田からきたとも言われているという。
右手に「一心龍王大権現」「延命地蔵」と刻まれた石碑が立っている神社がある。
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毛無川に架かる桜橋を渡って進むが、毛無川という珍しい名前が気になって調べたところ、この川の水源地の地名、駒場村字「(南北)毛無」を冠した川ということのようだ。その先で街道から右へ外れて「高田本山専修寺」へ行ってみた。ここは全国に600余ヶ寺ある真宗高田派の本山寺院で、嘉禄元年(1225)、浄土真宗の開祖である親鸞が開山したと伝えられており、親鸞が建立した唯一の寺だとされている。道路に面して天保15年(1844)に棟上げをしたという唐門があり、その横に宝永元年(1704)頃に完成したという山門がある。どちらも重要文化財に指定されている。
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境内には寛文六年(1666)に上棟されたという御影堂と、その横に寛保3年(1743)に建立され「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像(快慶作 国指定重要文化財)を本尊とし、教義上この堂が伽藍の本堂となる「如来堂」がある。これらはどちらも国宝に指定されている。
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街道に戻って進み、一身田踏切でJRを横断、突き当りを右折した右手に「窪田常夜燈」がある。文化14年(1817)に作られたもので、市内最大の大きさという。近江から大勢の人で伊勢神宮にこの常夜燈を寄進する際、ここまで運んできたが、荷車が壊れたり、疲労などでこれ以上進めなくなって、窪田宿旅籠近江屋の協力を得てこの地に建立したという。その後地震によって三回も倒れたが、その都度再建されたという。
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その先突き当りを左折すると、すぐ先右手に「仲福寺」がある。弘仁3年(812)に、弘法大師が天照皇大神宮へご参詣の際、当寺の林の中が金色に光っていることに気付き、そこへ立ち寄ってみると、大木の元に八枚からなる蓮花の上に十一面の尊像が現れ、弘法大師は大光普照観世音として礼拝し、その大木に十一面観音を彫刻し、当寺のご本尊として日天八王子を御勧請されたという。8月10日のみに御開帳される秘仏で、鎌倉時代の特色があるという。境内には宝暦8年(1759)と読める宝篋印塔が立っている。
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右手に正福寺がある道路を挟んだ左手に国府家が本陣を勤め問屋、庄屋を兼ねていたという家があり、門前に「明治天皇窪田御小休所」碑が立っている。14時58分にここを通る。
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左手に地蔵尊3体を安置する「青木地蔵」がある。豊里公民館前から移設されたと資料にある。
中の川に架かる向沖橋を渡って進むと、右手に野崎地藏堂があり、常夜燈が2基立っている。
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15時33分に一旦10号線に合流するが途端に車が多くなる。
その先で再び10号線から右へ分岐して進むと、左手に初代銭掛松の枯れ木を祀ったお堂があり、その横に「ぜに可け松」と刻まれた文政2年(1819)の石碑が立っている。「昔、病気になった参宮道者が、旅半ばで引き返す際、この地の松に銭を結びつけ、松を拝んで立ち去った。別の人がその銭を取ろうとすると、銭が蛇に化けて襲いかかったといわれ、この松に銭を掛けると参宮と同じくらいのご利益がある」という民話が残っているという。
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またお堂の左手には文政5年(1822)の常夜燈と資料によると「可布多かと 松に一声 郭公 香興」と刻まれた香興の句碑が立っている。
またすぐ先右手に石を積み上げた上に題目石がある。
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この辺り左右に歴史を感じさせる旧家が並んでいる。
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右手に地蔵尊を祀る小祠があり、その先で10号線に合流するところに石仏が立っている。
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ここに西山というバス停があるので、16時17分、今日の歩きはここで終わることにする。

本日の歩行時間   2時間48分。
本日の歩数&距離 15574歩、10.2km。
本日の純距離     9.4km。((途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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