2023年04月20日(木)
小坂井~三ケ根
晴れ
平坂街道は東海道小坂井町から分岐して平坂に至る道で、古くから三河南部海岸地帯を横断して三河木綿や塩を運ぶ主要な通商路だった。
資料は「愛知県歴史の道調査報告書Ⅸ 平坂街道」と蒲郡博物館の冊子「平成街道をたどる」を参考にした。この「平成街道をたどる」はかなり詳細に書かれていて、歩くうえで非常に役に立った。
9時28分に東海道の小坂井から分岐して歩き始めるが、この道は明治40年の新道整備以後のものという。
すぐ先右手に小坂井郵便局がある。ここからほぼ一直線の道を歩いていくが、車が多い。名鉄名古屋本線の踏切を横断して進むと、左手に「傑仙塚」がある。「東漸寺中興の名僧といわれる第十五世傑仙薫英和尚の墓である。東漸寺住持の時、付近の農民が寺領の山林を犯すことや、検地により寺領の犯されることを防ぐために、平坂街道沿いに一夜にして土手を築かせて、その内側を寺領として確保したと言われている。隠居として享保11年(1726)に平井の円通寺を創建し、寛保2年(1742)に亡くなっている。死後も寺領を守るという意味で、遺言によりこの場所に葬られたと伝えられている。」と説明されている。そのすぐ先左手に石仏を祀る祠がある。
すぐ先でJRの平坂街道踏切を渡って進む。
佐奈川に架かる柳橋を渡るが、ここは柳堤と言われて、資料によると佐奈川右岸にその形状をとどめているとされている。ただどちらの岸も同じように感じたので、橋の両側の写真を掲載しておきます。
その先で橋が工事中だったため、少し迂回して進むと、右手に「佐脇刀祢太夫の墓」がある。佐脇城最後の城主の墓で、三河国二葉松によれば「佐脇刀祢太夫塚あり、藤八兵衛と号す。長篠役において討死す。奥平九八郎が与力なり、当代大番組佐脇四郎左衛門が祖なり」とある。またこの五輪石は珍重すべきものとのことである」と説明されている。10時14分にここを通る。
音羽川に架かる御所橋を渡り、突き当りを左折、すぐ先で右折、更にその先の突き当りを左折して進むと右手に御津南部保育園があり、ここに石仏群がある。この保育園は淨願寺が経営しているようだった。
文政2年(1819)の常夜燈があり、二股を左へ進む。2号線に接してすぐ右に分岐して進み、その先で道は二又に分かれているので左へ進む。新幹線の高架下を通って進むと右手に「素盞鳴神社」がある。ここは弘和2年(1382)に創建されたもので、慶応2年(1866)までは牛頭大王社と称していた。入口に文化9年(1812)の常夜燈が立っており、境内には「稲石佐平翁頌徳碑」がある。稲石佐平翁は嘉永2年(1849)にこの地で生まれ、アサリや海苔の養殖、塩田工事等郷土の発展に尽くしたという。
右手に「光明寺」がある。ここは天文年間(1532~1555)に創建されたお寺で、文化3年(1806)に現在地に移転したという。本堂前の松の大木は雄株と雌株がまじかに植えられていたため合体したようになり、「光明寺の相生のマツ」と歌にも詠まれ人々に親しまれていたが、今は雌株が枯れ、雄株のみになっている。樹齢は約160年と推定されている。また昔大塚の沖を通る舟が光明寺の真南あたりにさしかかると止まってしまったので、これが光明寺のお地蔵さんのいたずらといわれ、住職が地蔵さんを東向きに変え、通力を封じると舟止めがぴたりとなくなったという舟止めの地蔵があると説明されている。左手に地藏堂があるのでこれがその地蔵なのかな?と思ったが、説明文がなかったのでよくわからなかった。11時52分にここを通る。
右手石垣の上に明治6年の「中島常夜燈」がある。このあたりは永享12年(1440)岩瀬治部左衛門尉忠家が築城した中島城址で、桶狭間合戦後の永禄5年(1562)に松平元康(家康)に攻められて落城したという。
その先右手に同じような造りの「西島常夜燈」が立っており、その先同じく右手に文化7年(1810)の「勝川常夜燈」が立っている。
すぐ先右手に天文10年(1541)に再建されたと伝えられている「大塚神明社」がある。
十能の信号を渡った先から住宅街に入っていき、平坂街道で最大の難所だったという星越峠へ上っていく。かなりの急坂だが、きれいに舗装された道なので特に問題はない。中央バイバスに合流するが車が多い。三谷町東一丁目の信号から左折すると車が少なくなって急に静かになる。
八剣神社の裏から境内に沿って進み、細道を左折、右折しながら進むと、右手に「光昌寺」がある。ここの無縁塔の中に「東 みやみち 西 にしの郡」と刻まれた道標があると資料にあったが、無縁塔がどれなのか分からなかった。13時24分にここを通る。
八鋪の信号の所に「右 新道とよはし とよ川 是ヨリ約四里」「左 旧道 学校 役場 是ヨリ約一丁」と刻まれた大正4年の道標が立っている。
その先左手に本町公園がある右手に地藏堂がある。
右手に「十王堂」があり、入口に「大手門址」碑と文化元年(1804)の秋葉山常夜燈が立っている。
その先で右折、左折、更に左折、そして右折して進み、御幸南の信号の少し手前右手に「弘法堂」があり、ここから左折して進むと、左手に「八柱神社」がある。14時24分にここを通る。
右手に「八幡社」があり、入口に文政2年(1819)の常夜燈が立っている。
その先で「信光寺」に突き当たるので右折、すぐ先を左折して進む。
左手竹下公民館前に常夜燈が立っている。
その先で資料によると「深溝矢崎の信号やや東の地点から国道から北にそれて竹藪の中を通る未舗装の道がある。ここより先300mほどが往時の平坂街道」となっていたが、どの道なのか分からなかった。
第2平坂街道踏切でJRの線路を横断し、線路沿いに歩いていく。
15時47分に三ケ根駅に着き、今日はここで歩き終わることにする。今日はこの時期には珍しい暑い一日で名古屋では28度だったそうだが、確かに暑くてかなりくたびれてしまった。
本日の歩行時間 6時間19分。
本日の歩数&距離 34626歩、22.1km。
本日の純距離 21.4km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
平坂街道は東海道小坂井町から分岐して平坂に至る道で、古くから三河南部海岸地帯を横断して三河木綿や塩を運ぶ主要な通商路だった。
資料は「愛知県歴史の道調査報告書Ⅸ 平坂街道」と蒲郡博物館の冊子「平成街道をたどる」を参考にした。この「平成街道をたどる」はかなり詳細に書かれていて、歩くうえで非常に役に立った。
9時28分に東海道の小坂井から分岐して歩き始めるが、この道は明治40年の新道整備以後のものという。
すぐ先右手に小坂井郵便局がある。ここからほぼ一直線の道を歩いていくが、車が多い。名鉄名古屋本線の踏切を横断して進むと、左手に「傑仙塚」がある。「東漸寺中興の名僧といわれる第十五世傑仙薫英和尚の墓である。東漸寺住持の時、付近の農民が寺領の山林を犯すことや、検地により寺領の犯されることを防ぐために、平坂街道沿いに一夜にして土手を築かせて、その内側を寺領として確保したと言われている。隠居として享保11年(1726)に平井の円通寺を創建し、寛保2年(1742)に亡くなっている。死後も寺領を守るという意味で、遺言によりこの場所に葬られたと伝えられている。」と説明されている。そのすぐ先左手に石仏を祀る祠がある。
すぐ先でJRの平坂街道踏切を渡って進む。
佐奈川に架かる柳橋を渡るが、ここは柳堤と言われて、資料によると佐奈川右岸にその形状をとどめているとされている。ただどちらの岸も同じように感じたので、橋の両側の写真を掲載しておきます。
その先で橋が工事中だったため、少し迂回して進むと、右手に「佐脇刀祢太夫の墓」がある。佐脇城最後の城主の墓で、三河国二葉松によれば「佐脇刀祢太夫塚あり、藤八兵衛と号す。長篠役において討死す。奥平九八郎が与力なり、当代大番組佐脇四郎左衛門が祖なり」とある。またこの五輪石は珍重すべきものとのことである」と説明されている。10時14分にここを通る。
音羽川に架かる御所橋を渡り、突き当りを左折、すぐ先で右折、更にその先の突き当りを左折して進むと右手に御津南部保育園があり、ここに石仏群がある。この保育園は淨願寺が経営しているようだった。
文政2年(1819)の常夜燈があり、二股を左へ進む。2号線に接してすぐ右に分岐して進み、その先で道は二又に分かれているので左へ進む。新幹線の高架下を通って進むと右手に「素盞鳴神社」がある。ここは弘和2年(1382)に創建されたもので、慶応2年(1866)までは牛頭大王社と称していた。入口に文化9年(1812)の常夜燈が立っており、境内には「稲石佐平翁頌徳碑」がある。稲石佐平翁は嘉永2年(1849)にこの地で生まれ、アサリや海苔の養殖、塩田工事等郷土の発展に尽くしたという。
右手に「光明寺」がある。ここは天文年間(1532~1555)に創建されたお寺で、文化3年(1806)に現在地に移転したという。本堂前の松の大木は雄株と雌株がまじかに植えられていたため合体したようになり、「光明寺の相生のマツ」と歌にも詠まれ人々に親しまれていたが、今は雌株が枯れ、雄株のみになっている。樹齢は約160年と推定されている。また昔大塚の沖を通る舟が光明寺の真南あたりにさしかかると止まってしまったので、これが光明寺のお地蔵さんのいたずらといわれ、住職が地蔵さんを東向きに変え、通力を封じると舟止めがぴたりとなくなったという舟止めの地蔵があると説明されている。左手に地藏堂があるのでこれがその地蔵なのかな?と思ったが、説明文がなかったのでよくわからなかった。11時52分にここを通る。
右手石垣の上に明治6年の「中島常夜燈」がある。このあたりは永享12年(1440)岩瀬治部左衛門尉忠家が築城した中島城址で、桶狭間合戦後の永禄5年(1562)に松平元康(家康)に攻められて落城したという。
その先右手に同じような造りの「西島常夜燈」が立っており、その先同じく右手に文化7年(1810)の「勝川常夜燈」が立っている。
すぐ先右手に天文10年(1541)に再建されたと伝えられている「大塚神明社」がある。
十能の信号を渡った先から住宅街に入っていき、平坂街道で最大の難所だったという星越峠へ上っていく。かなりの急坂だが、きれいに舗装された道なので特に問題はない。中央バイバスに合流するが車が多い。三谷町東一丁目の信号から左折すると車が少なくなって急に静かになる。
八剣神社の裏から境内に沿って進み、細道を左折、右折しながら進むと、右手に「光昌寺」がある。ここの無縁塔の中に「東 みやみち 西 にしの郡」と刻まれた道標があると資料にあったが、無縁塔がどれなのか分からなかった。13時24分にここを通る。
八鋪の信号の所に「右 新道とよはし とよ川 是ヨリ約四里」「左 旧道 学校 役場 是ヨリ約一丁」と刻まれた大正4年の道標が立っている。
その先左手に本町公園がある右手に地藏堂がある。
右手に「十王堂」があり、入口に「大手門址」碑と文化元年(1804)の秋葉山常夜燈が立っている。
その先で右折、左折、更に左折、そして右折して進み、御幸南の信号の少し手前右手に「弘法堂」があり、ここから左折して進むと、左手に「八柱神社」がある。14時24分にここを通る。
右手に「八幡社」があり、入口に文政2年(1819)の常夜燈が立っている。
その先で「信光寺」に突き当たるので右折、すぐ先を左折して進む。
左手竹下公民館前に常夜燈が立っている。
その先で資料によると「深溝矢崎の信号やや東の地点から国道から北にそれて竹藪の中を通る未舗装の道がある。ここより先300mほどが往時の平坂街道」となっていたが、どの道なのか分からなかった。
第2平坂街道踏切でJRの線路を横断し、線路沿いに歩いていく。
15時47分に三ケ根駅に着き、今日はここで歩き終わることにする。今日はこの時期には珍しい暑い一日で名古屋では28度だったそうだが、確かに暑くてかなりくたびれてしまった。
本日の歩行時間 6時間19分。
本日の歩数&距離 34626歩、22.1km。
本日の純距離 21.4km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)