美濃路を歩く

2023年01月31日(火) ~2023年02月22日(水)
総歩数:105297歩 総距離:67.6km

2023年01月31日(火)

金山~伏見

美濃路は江戸時代、東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結んだ脇往還だが、古代より都と東国を結ぶ道筋として存在していたという。東海道には宮の宿から桑名まで海上七里の渡しがあったが、船旅を嫌う人々や参勤交代や朝鮮通信使等の大部隊の行列は平坦で距離的にも近い美濃路を利用したため、本街道以上に賑わったという。また関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が凱旋した道だったことから「吉例街道」とも呼ばれ、将軍上洛時にも使われたという。
「愛知県歴史の道調査報告書Ⅳ美濃街道・岐阜街道」と一宮市尾西歴史民俗資料館の「美濃路を歩く」を参考にした。

伝馬町から金山新橋南の交差点迄はすでに歩いた佐屋街道と重なっているので、8時10分に金山橋南の信号から出発する。ここに「左 さや海道つしま道」「右 宮海道なこや道」「右 木曽 かこや海道」と刻まれた、佐屋街道の旅籠仲間が建立したという文政4年(1821)の道標が立っている。
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伏見通を進んで行き、古渡町の信号の先から右に分岐して進み、橘町の信号から街道から外れて右へ進むと、左手に「栄国寺」がある。このあたりは千本松原処刑場と呼ばれていて、江戸時代200名のキリシタンがここで処刑されたという。切支丹塚は、別名千人塚とも呼ばれていて、慶安2年(1649)に建てられた供養塔が立っており、「南無阿弥陀仏三界萬霊等」と刻まれている。またその横に「十 昂那鈴木墓」と刻まれた墓石がある。昂那はアンナと読むそうだ。この墓石は明治11年のお墓ということで、キリシタン狩りの被害者ではなく、それ以降に亡くなった一般キリスト教徒のお墓ということのようだ。
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街道に戻って進み、大須の信号から街道から外れて左へ進むと、右手に「七寺(正式名は長福寺)」がある。ここは天平7年(735)愛知県あま市に行基が開山。延暦6年(787)、紀是広が7歳で亡くなった子を弔うために七つのお堂を建立し、「七寺」と呼ばれるようになったという。兵火により荒廃し、その後移転を繰り返したが、江戸時代に徳川家康の「清洲越し」の命で、大須に移転してきた。尾張徳川家の祈願所となり、三重塔もある大寺で栄えたが、昭和20年の名古屋空襲で、七堂伽藍を焼失。その際に、本尊の阿弥陀如来坐像や持国天・毘沙門天像は焼けてしまったという。入口に大日如来像が屋外にあるが、空襲の際この大日如来も頭以外は焼けてぼろぼろになってしまったが、現在体の部分は修復されている。
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街道に戻ってアーケードの中を進むが、その途中から街道から外れて右へ進むと、「総見寺」がある。ここは織田信長の次男織田信雄が、父の追福の為に、伊勢国大島村にあった安国寺を清洲に再興したもので、名古屋築城のおり、慶長16年(1611)現在の地に移ったという。門前に「織田信長公由緒地」と刻まれた石標が立っている。ここは信長公の命日である六月二日のみ開門されるという。
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街道に戻って進み、若宮大通本町の信号から街道を外れて右へ進むと、「若宮八幡社」がある。ここは文武天皇の時代(697~707)に那古野庄今市場に創建されたと伝えられており、延喜年間(901~923)に再興したという。慶長15年(1610)家康公が名古屋城築城に際し現在の地に遷座し、尾張名古屋の総鎮守にしたという。
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街道に戻って、伝馬町本町の信号から左折するが、ここは札ノ辻だったという。
名古屋は名古屋城築城の時から道路が碁盤の目のように南北と東西にまっすぐな道路がつくられた碁盤割になっているので歩くうえで非常にわかりやすい。

今回の旅は佐屋街道、津島街道を歩き、今日が三日目なのだが、膝が痛くなってきたので、ここで歩きをやめることにした。
予定では明日迄歩く予定だったので、ちょっと残念だが、無理をしないことにした。
9時50分に歩き終える。

本日の歩行時間  1時間40分。
本日の歩数&距離 8127歩、5,2km。
本日の純距離    4.1km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

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