津島街道

2023年01月30日(月)
総歩数:30532歩 総距離:18.9km

2023年01月30日(月)

新川橋~津島神社

                               曇り
津島街道は、上街道と下街道の二つが存在しているが、上街道の始点は新川に架かる「新川橋」の西側で、美濃路から分岐して津島へ向かう街道で、古くは中世の鎌倉街道の萱津宿と津島を結ぶ道として発達した歴史があり、若き日の織田信長が清須城と津島を何度も往来していた道だと伝えられている。一方下街道は佐屋街道の一部であり、埋田の追分で佐屋街道から分岐、追分からほぼ直線的に西進し、津島に至る道をいう。今回はこのうち上街道を歩いた。
資料は津島市市長公室 シティプロモーション課が作成している「津島詣でマップ」を参考にした。

8時47分に新川橋から出発するが、ここに清須五条橋欄干親柱を利用した「左 つしま道」と刻まれた常夜燈を兼ねた道標が立っている。その横に「大正二年二月架橋 しんかははし 新川橋」と刻まれた石碑ともう一つ判読不明の石碑が並んで立っている。ここが美濃路との分岐点になる。
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その先に「右 津し(ま)」「左 なこ(や)」と刻まれた天明8年(1788)の道標がある。
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「是よりつしま道」刻まれた平成21年のまだ新しい道標が立っているので、ここを右折して進む。
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右手に「横町の石地蔵」がある。昔蓮根堀りが蓮根を出荷しての帰路、空き地でこの石地蔵を田の中に投げ込んだところ、たちまち全身不随になってしまった。そのため同僚が地蔵を復旧し、長谷院の院主に頼んで読経をしてもらったところ、ようやく動ける様になったので、元治元年(1864)にこの地に堂を建立して地蔵を安置したという。
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右手に「十一面観世音菩薩 是より弐町」と刻まれた弘化3年(1846)の石碑とその先、駐車場の入口にもう一つ「十一面観世音菩薩 是より名古屋通抜」「往来安全」と刻まれた嘉永7年(1854)の石碑が立っている。
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この奥に「長谷寺」がある。ここは14世紀ごろ奈良長谷寺の本尊十一面観音への熱烈な信仰からこの地に生まれ、「堀江の観音さん」として親しまれていて、奈良長谷寺本尊の十一面観音と同木同作といわれる十一面観音像を本尊としている。二度の大火や空襲、震災等を経ながら本尊と多宝塔は当初のまま残っているという。
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ここの信号を左折、その先の桃栄小学校南の信号を左折して進む。
右手に秋葉社があり、その入り口に「大乗妙典」と刻まれた享保18年(1733)と読める石仏がある。
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右手に祠があり、「往来安全」「村中安全」と刻まれた大正時代の常夜燈が立っている。
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この辺りには歴史を感じさせる旧家が散在している。
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突き当りに「甚目寺」があり、寛永11年(1634)に建立されたという東門は二本の主柱の前後に四本の控柱が付く様式でがっしりとして堂々たる風情がある。ここから境内に入る。
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甚目寺は推古天皇5年(597)伊勢の甚目龍麻呂という漁師が漁をした際に金色の聖観音像が網にかかり、入り江の傍らに草堂を構えたのがはじまりといわれ、奈良時代前期には伽藍が作られたとされている。慶長15年(1610)徳川義直によって名古屋城が築城されたが、その後清洲から名古屋へ都市機能を移転した清須越えにより、城下町が整備された折りに鬼門にあたる4つの方角からの邪気を防ぐため、この甚目寺をはじめとした四観音「甚目寺(北)・笠寺(南)・龍泉寺(東)・荒子(西)」が暦による四方に設定されたという。本堂に安置されている十一面観音像は、地方には珍しい奈良時代の木心乾漆像で、50年に一度御開帳されるという。また境内にある三重塔は国指定重要文化財に指定されている。
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南大門は源頼朝の命により梶原景時が奉行として建久7年(1196)に再建したとされ、県内最古の楼門の遺構という。両脇後方に金剛力士像を安置していて、これは一説によると、あま市出身の戦国武将福島正則が豊臣秀吉の病気平癒のために寄進したといわれているという。これも国指定重要文化財に指定されている。
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南大門の前に道標が2本立っており、一本は安政3年(1857)の「右 つしまみち」「左 さ屋まじまみち」と刻まれている。もう一本の道標には「従是 右 津し満」「従是 左 さ屋」と刻まれているようだ。
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この横に「大徳院」がある。ここの開創も推古天皇6年(598)と古く、建久7年(1196)に源頼朝により当寺に恵比寿天と大黒天のニ尊像が奉安されたという。江戸時代には宝蔵院または宝蔵坊と称していたが江戸末期に大徳院と改められたという。本尊は左甚五郎作の恵比寿大黒天で,商売繁盛の御利益があるそうだが、まぁ現在の私にはあまり関係ないかな?
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名古屋環状線2号線の高架下を通って進み、福田川に架かる橋の袂右手に地蔵堂がある。
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一直線の道を進んで行くと、左手に「木折弘法堂」があり、境内に馬頭観音と五輪塔が並んで立っている。
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その先少し行った右手に「馬頭観音」を祀る祠がある。
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このあたりの街道沿いに歴史を感じさせる旧家が建っている。
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右手に秋葉神社の常夜燈が立っている。
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西尾張中央道の高架下手前八ケ川四間橋の右手に天保8年(1838)の「五八悪水治水記念碑」が立っている。かってこのあたりの上八か村と下五か村で水争いが絶えなかったが、天保4年から測量に入ってようやく解決したことを記念して建立したという。
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右手に「皇国一軆 身替尊像 弘法大師」と刻まれた石標が立っており、その奥に文政7年(1824)の常夜燈が立っている。
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ここから街道を外れて右折して蓮華寺を見に行く。途中安永10年(1781)の地蔵尊が道の両側にある。
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「蓮華寺」は弘法大師が開いたと伝えられる真言宗の古刹で、戦国武将蜂須賀小六正勝とその子家政の菩提寺として知られている。
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奥の院へ進んで行くと蜂須賀家の寛永15年(1638)と刻まれたお墓が一基立っていた。
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日比川に架かる橋を渡ったところ左手の民家の庭に文政11年(1828)の三宅村と刻まれ、その下は生垣で読むことができない石碑が立っていた。
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右手に「地藏堂」がある。
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その先突き当り右手に「右 なごや道」「左 つしま道」と刻まれた天保6年(1835)の道標が立っている。ここは高須海道(津島上街道)と清須海道の分岐点と説明されている。ここを左折する。
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右手に福応寺や西蓮寺を見ながら進み、日光川に架かる小津橋を渡って右折する。
右手に八幡神社があり、その横に尾張六地蔵の五番目の札所である釜地蔵寺がある。ここの本尊は鋳鉄地蔵菩薩立像で鉄釜の上に木蓋を置き、その上に立たれていることから俗に釜地蔵と呼ばれている。昔、幼い子供が継子いじめにあった時、身代わりになったというこの地蔵は承応2年(1653)に建立されたと説明されている。入口に嘉永7年(1854)の常夜燈が立っている。
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交差点の右手に「津島道」「右 名古屋 左 森○一ノ宮 道」と刻まれた道標が立っている。
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その先右手に「是より西つしま」と刻まれた道標が立っている。これは兼平(現津島)と見越(現愛西市)の境界に建てられたという。
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名鉄尾西線の踏切を渡ったすぐ先、左手に兼平神社があり、その先に「兼平堤」の標識が立っていて、「佐織町から市内へ入る道として天王川の左岸の堤(旧上街道)が利用されていた。応永10年(1403)津島牛頭天王の鐘を造ったところから、この堤を「鐘平堤」と呼ぶようになった。堤の近くには古い家並も多く、江戸時代には巡見使(幕府の見まわり役人)が通ったので「巡見街道」ともいわれた」と記されている。
右手に「金刀毘羅社」があり、その先左手少し入ったところに「雲居寺」がある。永享12年(1440)服部伊賀守宗純が創建したと伝わり、織田信長の馬廻り役の一人で、桶狭間の戦いで今川義元に一番槍を付けた服部小平太ゆかりの寺ということだ。
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左手に「市神社」がある。ここは津島神社の境外末社のひとつで、古くは名古屋から津島に入る「上街道」に沿って立並び栄えた商家の守り神として崇められていた。お祭りがあるようで、何人かの方がその準備をされていた。
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このあたり旧家を思わせる家が並んでいる。
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右手に「清正公遺」と刻まれた石碑が立っている。
加藤清正(通称 虎之助)は、永禄5年(1562年)に今の名古屋市中村区で生まれ、清正が数え三つの年に、父・清忠が亡くなったため永禄9年に母・伊都と共に叔父が住んでいた津島市(上河原町)に寄寓した。上河原町にある清正公社は、戦国の武将加藤清正の叔父の家があったと伝わる地に加藤清正の徳を偲んで明治18年社と碑が建てられたという。
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左手街道から少し外れたところに「成信坊」がある。ここの創建は不明だが、明徳2年(1391)7代・慶専の時、天台宗から浄土真宗へ改宗。戦国時代、浄土真宗(別名一向宗)が織田信長と長島一向一揆で戦った際、時の住職・祐念が教如上人の身代わりになったことなどの功績を賞され、「津島御坊」の称号を授けられたという。石畳となっている参道はひき臼でできていて、ひき臼寺という愛称の由来となっている。
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右手に「堤下神社」がある。ここは江戸時代には金燈籠があったことから金燈籠神と呼ばれていた。江戸時代中期までは、この地と津島神社(江戸時代は津島牛頭天王社)の間には天王川が流れていて、金燈篭社は津島牛頭天王社の遥拝所だった。境内に井戸があるが、この井戸は遥拝する際の御手洗いの井戸として使用され、また近隣住民の生活水としても用いられていたという。
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「津島神社参宮道」と刻まれた明治29年の道標が立ってるので、ここを右折する。
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左手に天王川公園があり、この池の淵に「楓 五百本」「山櫻一千本」と刻まれた碑が並んで立っている。江戸時代末期に津島牛頭天王社の神主だった氷室豊永が天王川堤を桜の名所にしようと吉野山の桜を植樹、明治明治11年に加藤氏らが山櫻千本を植樹、更に明治40年には津島の富永氏が楓500本を植樹したことを記念して碑が立てられたという。この横に天保4年(1833)の常夜燈が立っている。
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堀田家住宅がある。ここは江戸時代中期、正徳年間(1711~1716)に建てられたといわれていて、敷地面積は約623坪。数度にわたって手が加えられてはいるが、質も保存状態も良く、屋敷の構えや間取りなどには尾張の地方色がよく現れているという。堀田家住宅は古図と合わせて、昭和53年5月31日、国の重要文化財に指定。津島市では地域文化財保全事業として、敷地を購入し建物を堀田家より寄贈を受けて平成8年3月に市の所有となったという。
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14時45分に津島神社に到着する。
この神社は除疫、授福の神である牛頭天王信仰の中心社で、かつては「津島牛頭天王社」と称されていた。欽明天皇元年(540)の鎮座と伝えられている古い歴史のある神社で、全国に3000以上点在する津島神社の総本社だ。ここは戦国の武将や大名からも崇拝され、織田・豊臣・徳川から格別の崇敬を受けている。
南門は慶長3年(1598)、豊臣秀吉の発病に際し、秀頼の発願により、清洲城主福島正則が建立したとされている。この門は、四脚門ながら鳥居から蕃塀・拝殿・本殿とつづく南北の中軸線上に建つ雄大かつ優美な門で、県指定文化財になっている。その奥には蕃塀が見える。
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本殿は徳川家康の四男で清須城主松平忠吉が慶長10年(1605)に寄進したもので、国指定重要文化財に指定されている。
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楼門は肘木の墨書から天正20年(1592)の建立と考えられており、豊臣秀吉が寄進したという。
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楼門を出たすぐの右手に樹齢600年と推定される「大イチョウ」がある。
更にその先左手御旅所跡にももう一本樹齢400年と推定される「大イチョウ」が立っている。
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ここからまっすぐに進むと津島駅につく。

本日の歩行時間   5時間58分。
本日の歩数&距離 30532歩、18.9km。
本日の純距離    15.1km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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