伏見街道を歩く

2022年04月25日(月) ~2022年11月30日(水)
総歩数:17301歩 総距離:10.6km

2022年11月30日(水)

藤森~観月橋

                            曇り
 4月に右膝の半月板を損傷してから7か月ちょっとが経過。以前から左膝の半月板を損傷して手術をしていたため、今回のケガで両ひざの半月板を損傷してしまったので、もう歩くことは厳しいかな?と思っていたが、右膝は手術をしないまま、何とか落ち着いてきたので歩きを再開することにした。基本的にこれまでよりも一日に歩く距離を短くし、且つできる限り平坦な道を選んで歩くように心がけることにしているが、さてどうなることやらと思いながら、11時15分に藤森を出発する。
今回は四国遍路を無事結願した金沢のI君が一緒だ。I君と一緒に歩くのは今回で3回目だ。
 左手に「町内安全」と刻まれた昭和8年に建立された地蔵堂がある。京都はこのような地藏堂が数多くあり、今回歩いた街道沿いにも多数の地藏堂があった。
地蔵・町内安全
右手に「西岸寺」がある。ここは平安時代末期に、関白の藤原忠通の氏寺だった法性寺の小御堂として小さな堂宇を建てたことが発祥とされ、後白河法皇も行幸を重ねたことから、後に法皇の和歌にちなんで西岸寺と号したという。承元元年(1207)法然が延暦寺や東大寺などの有力仏教より弾圧された(承元の法難)時、弟子の親鸞が、この地から越後国国府へ流されたが、親鸞聖人は藤原忠通の子九条兼実の娘玉日姫を妻として迎えており、親鸞が流された後は玉日姫が亡くなるまでこの小御堂を守り、その後玉日姫の随臣であった田村光隆(有阿弥)が玉日姫のお墓をお守りするため九条家よりこの小御堂を下賜され西岸寺の開基となったという。門前に「親鸞聖人御旧蹟・玉日姫君御廟所・九条関白兼実公遺蹟」と刻まれた石標が立っている。
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右手に誠心寺があり、そのすぐ先に七瀬川に伏水街道第四橋が架かっている。この橋は、下に流れている七瀬川が蛇行して流れていたため、流れに対し斜めに架けられる形となったことから「直違橋(すじかいばし)」とも呼ばれている。
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その先で街道から外れて左へ入ったところに「大将軍社」がある。桓武天皇が平安遷都をされたとき、都の四方に大将軍社を祀られ、そのうち南方の守護神として祀られたのがこの社で、現在の社殿は永享10年(1438)に時の将軍足利義教によって造営されたもので、重要文化財に指定されている。
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その先に「藤森神社」がある。ここは社伝によると、神功皇后摂政3年(203)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国深草の里の藤森に纛旗(とうき = いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。本殿は正徳2年(1712)に中御門天皇より下賜された宮中賢所(内侍所)であり、現存する賢所としては最も古く、東殿・中央・西殿の三座から成っていて、重要文化財に指定されている。
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街道に戻って進むと、墨染駅の手前で京街道と合流する。ここは以前歩いたところで記憶している。墨染の信号から右折、疎水を渡って進むと、左手に墨染寺がある。ここは貞観16年(874)に、第56代・清和天皇の勅願を受けた太政大臣・藤原良長が創建した貞観寺の旧蹟でその後衰退したが、安土桃山時代には豊臣秀吉が土地を寄進し、大僧都・日秀上人が日蓮宗・墨染桜寺として再興したという。現在の場所へは江戸時代に移され、お寺のある墨染という地名の由来になっている。ここには桜伝説があり、平安時代の太政大臣・藤原基経が亡くなった際に、友人の歌人・上野岑雄が「深草の野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」と詠むと、墨染色の花が咲いたという。現在は4代目となる桜の木が立っており、本堂には「桜寺」と書かれた扁額が掲げられている。
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その先で左折して進むと、右手に「撞木町廊入口」と刻まれた大正7年の石柱があり、ここから街道から外れて右へ少し入ると、右手に「大石良雄遊興の地 よろつや」の碑がある。忠臣蔵で有名なところだ。
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24号線の高架下を通って進み、左手に京阪電鉄丹波橋駅がある所で、街道を外れて左へ行って踏切を渡ったところに「桓武天皇御領 東五町」「御大典記念」と刻まれた昭和3年の道標が立っている。
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街道に戻って進むが、そのすぐ先から再び街道から外れて左へ進んで御香宮神社へ向かう。左手石垣の前に「黒田節誕生の地」という説明書きが立っている。伏見にあった戦国大名福島正則の屋敷であった酒宴に黒田家家臣母里太兵衛が招かれたとき、正則が大きな鉢を盃に見立て、これを飲み干したら、望みの物をやろうといい、結局母里太兵衛がこれを飲み干したため、正則が豊臣秀吉から賜った「日本号」という立派な槍を母里太兵衛が持ち帰ったという逸話がこの地で行われたという。
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御香宮神社の境内左手に、「伏見義民事蹟」がある。天明5年(1785)時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴した伏見町民文殊九助ら七名を伏見義民と呼んでいる。直訴の結果小堀政方は罷免されたが、七名は全員獄中で病死したことから、明治20年に勝海舟が碑文を選び、題字は三条実美が書いたという碑が立てられている。少し前にあった「伏見義民焼塩屋権兵衛旧宅址」もこの七名の中の一人だ。入口にある狛犬はちょっと変わった形をしていることをI君の指摘で気が付いた。確かにあまり見かけない形の狛犬だ。
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御香宮神社は初めは「御諸神社」と称し、創建の由緒は不詳だが、貞観4年(862)に社殿を修造した記録があるという。伝承によるとこの年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。本殿は 慶長10年(1605)に徳川家康の命令で板倉勝重が普請奉行となって再建されたといい、重要文化財に指定されている。また表門は伏見城の大手門を移築したものである。
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街道に戻って進むと、右手に「魚三楼」がある。ここの玄関の格子には鳥羽伏見の戦いの際の弾痕が残っている。ここは現在も営業されている。
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右手に「斎藤家住宅」がある。ここは鳥羽伏見の戦いで罹災後、明治初年に再建されたという。
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13時2分に観月橋に到着する。観月橋は鎌倉時代末期から、桂橋(両郡橋又は指月橋)と称し存在しており、桃山時代に 豊臣秀吉が豊後大友氏に命じて、宇治橋を伏見城下のこの地に移して豊後橋とした。江戸時代を通して18回の架け替えや修復の工事が行われ、鳥羽・伏見の戦いで豊後橋が焼け落ち、その後、渡し船が就航したという。明治6年に橋が再建されたことに伴って観月橋と命名されたという。昭和11年に 現在の観月橋が開通したという。
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橋の袂に「明治天皇御駐輦所観月橋」と刻まれた碑が立っている。
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ここで伏見街道を歩き終わることにする。

本日の歩行時間  1時間47分。
本日の歩数&距離 8766歩、5.2km
本日の純距離    4.2km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)

伏見街道総計
 総歩行時間     3時間29分。
 総歩数&総距離  17301歩、10.6km
 純距離        8.8km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)   

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