2022年04月07日(木)
平木~国分
晴れ
「讃岐国往還」という名称は近世のものだが、古くは律令時代に作られた南海道の道筋が基本となっている。
官道であった南海道は内陸部のほぼ中央を東西に貫通していたことから、讃岐国往還もその南海道の一部といえる道だったようだ。讃岐国往還の起点は大坂峠となっており、ここから阿波街道志度道・長尾道を通って
三木町に至るが、この間はすでに歩いたため、今回は三木町で阿波街道長尾道から分岐したところから出発し、国分寺町以降に関しては歴史の道報告書は伊予街道としているため、この間を資料に従って讃岐国往還として歩くことにした。
資料は香川県歴史の道調査報告書第十集「讃岐国往還調査報告書」を参考にした。
7時46分に平木橋を出発する。ここには「右こんひらみち」「左たかまつみち」と刻まれた2体の平木地蔵がある。
橋を渡った右手に平井町道路元標がある。
十字路の左手に六地蔵があり、その西端の地蔵尊には「東 長尾」「西 こんぴら 北 志度」「宝暦12年(1762)」と刻まれている。
すぐ先右手に金毘羅宮があり、「奉燈 金毘羅大権現」と刻まれた寛政6年(1794)の灯籠が立っており、その裏には地神がある。
交差点の左手に「地神社」と刻まれた石碑とその横に「左差し指 東八十七番長尾寺 一里十八丁」「右指し指 池戸大宮」と刻まれた明治6年の道標が立っている。
吉田川沿いの静かな道を進んで行くが、この土手は長土手と呼ばれ、松並木があったという。橋の手前右側に資料によると「南無阿弥陀仏」「右たかまつみち 左こんひらみち」と刻まれた道標がある。かなり風化していてよく読めない。
橋を渡った左手に高松の名木クロガネモチの木があり、その横に明治39年の地神と寛政9年(1797)と明治17年の常夜燈等がある。
左手に熊野神社と吉田神社があり、境内に天保13年(1843)の常夜燈、嘉永6年(1853)の熊野燈籠、安政6年(1860)の金毘羅燈籠などが立っている。
右手に「奉燈」と刻まれた資料によると寛政8年(1796)の常夜燈が立っている。
左手に川島小学校があり、その校庭に「推定南海道跡」と刻まれた碑が立っている。
12号線に合流したところ右手に荒神社があり、境内に資料によると「奉燈天神〇祇 安政4年(1857)」の常夜燈、神社前に「御神燈」と刻まれた文政5年(1822)の常夜燈が立っている。
9時7分に春日川に架かる川島橋を渡る。
川島本町の信号から左へ少し入ったところに「寺小橋燈籠」があり、その横に地神が祀られている。
左手に池があり、その淵に文政4年(1821)の地蔵尊がある。
右手に重蓮寺があり、地蔵堂がある。
交差点の左手に「四国のみち」の標識があり、「八十三番一宮寺 五.七km」「八十四番 屋島寺 十一.七km」と刻まれている。遍路道の標識で、この標識は各所に設置されている。
左手にグラウンドがあり、ここに地神があり、その横に文化3年(1806)の石仏がある。
その先で道は二股に分かれているので、左へ進む。
右手に資料によると「三界萬霊」「右長尾道」「左屋しま道二り半」と刻まれた寛政3年(1791)の道標が立っている。
その横に資料によると「三界萬霊」と刻まれた弘化3年(1847)の地蔵立像を安置する地蔵堂がある。
右手に龍雲中学があり、その先右手に馬頭観音がある。明治11年9月東十河の松原弥三七の愛馬が出作のこの地で落命したため、夫婦が愛馬の冥福を祈って祀ったものと説明されている。10時17分にここを通る。
歩き遍路をされている方がおられた。4回目の遍路だと言われていたが、この方のように四国はリピーターが多い。私は2回歩いたが、あの頃のことを懐かしく思い出した。もう一息頑張ってください!
左手に「力石地蔵」があるが、詳しいことはわからなかった。
左手に辻堂池があり、堤から下るところ左手に2体の地蔵尊を祀る地蔵堂がある。最初そのまま直進したのだが、なぜか道を間違っているような気がして戻り、池の周囲をぐるっと回ってしまった。結局最初に歩いたように、この地蔵堂を左に見てそのまま直進すればよかったのだ。後になって考えてみるとなぜこんな間違いをしたのだろうか?と思うのだが、なぜか間違ってしまう。
右手に田村神社がある。ここは式内社で水神信仰を基盤とした神社。讃岐国内では名神大社三社の1つとして、讃岐国の一宮として崇敬されている。境内には文久2年(1862)の石碑や天明7年(1787)の常夜燈等がある。11時25分にここを通る。
この神社の奥に一宮寺があり、神社参道の入口のすぐ横に「四国八十三番一宮寺一丁」「八十四番屋島寺 四里」「八十番国分寺二里」と刻まれた昭和8年の道標が立っている。
次の十字路の左手に「金比羅大権現奉燈」と刻まれた文化2年(1805)の常夜燈が立っている。
その先に資料によると享和元年(1801)の地蔵尊を安置する地蔵堂があり、その前の台石には「こんひら道」「白とり道」と刻まれている。
右手に高松南高校がある前に資料によると「離畜元ト霊」「へんろふ道 札所へ二丁」と刻まれた寛政12年(1800)の地蔵道標がある。
左手に墓地があり、ここに大正4年の三界萬霊がある。
その先で道は二股に分かれているが、ここに地蔵堂があり、その横に「国分寺 土佐圀足摺山」と刻まれた明治29年の道標がある。ここは左へ進む。
左手に「右 丸かめみち 左 こんひら道」と刻まれた地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
右手に「一宮寺へ十丁 国分寺へ一里半」と刻まれた昭和54年の地蔵尊がある。
香東川に架かる円座橋を渡った左手に台座に「四国二十六番札所三丁 長福寺一宮十二丁」と刻まれた台座があり、その上に資料によると天保12年(1841)の地蔵立像がある。またその後ろにこれも資料によると「釋善味信士 大灘甚太夫」と刻まれた寛政元年(1789)の遍路墓と「左多可まつ道 右一のミや道」と刻まれた地蔵立像がある。
その先の交差点は横内の四つ辻と呼ばれたところで、古代の南海道と金毘羅街道の交差点だったところという。左手に金比羅末社と金毘羅燈籠、資料によると「左差し指一宮 高松」と刻まれた天保4年(1834)の道標、更に大納言頼経の墓がある。鎌倉幕府四代摂家将軍頼経は北条氏に追われ讃岐国に落ちてきたので、因縁の深いこの地にお墓が造られたという。
右手に「横内地蔵」と書かれた祠があり、2体の地蔵尊が安置されている。
左手に高松キリスト教会がある前に「南海道一里松跡」碑が立っており、その横に「堂山高等小学校」がこの地にあったという説明板が立っている。
左手池の淵に「三界萬霊」と刻まれた明治25年の地蔵尊がある。
「八十番 国分寺 三・〇km」と刻まれた四国の道道標があり、ここで道は二股に分かれているので、右へ進む。
「右 国分寺」「左 一乃宮」と刻まれた道標がある。
すぐ先左手に「金比(田比)羅大権現」と刻まれた文化八年(1811)の常夜燈が再建されている。
39号線を横断した左手に資料によると「是ゟ国分寺二十一丁 一ノ宮 五十四丁」と刻まれた道標がある。
右手に「萬霊」と刻まれた石仏がある。
すぐ先左手に資料によると「右国分寺 瀧の宮路 左一ノ宮 北高松道 四国八十二番奥ノ院 一国三十六番霊場」などと刻まれた道標が立っている。
右手に「赤池地蔵」があり、2体の地蔵尊が安置されている。その前に資料によると「右へん路道 左瀧宮近道」と刻まれた道標がある。
すぐ先の二股を左へ直進、両側に池がある間の道を進んで行き、伊予街道と合流する場所で14時13分歩き終わる。
本日の歩行時間 6時間27分。
本日の歩数&距離 32048歩、21.3km。
本日の純距離 20.4km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
「讃岐国往還」という名称は近世のものだが、古くは律令時代に作られた南海道の道筋が基本となっている。
官道であった南海道は内陸部のほぼ中央を東西に貫通していたことから、讃岐国往還もその南海道の一部といえる道だったようだ。讃岐国往還の起点は大坂峠となっており、ここから阿波街道志度道・長尾道を通って
三木町に至るが、この間はすでに歩いたため、今回は三木町で阿波街道長尾道から分岐したところから出発し、国分寺町以降に関しては歴史の道報告書は伊予街道としているため、この間を資料に従って讃岐国往還として歩くことにした。
資料は香川県歴史の道調査報告書第十集「讃岐国往還調査報告書」を参考にした。
7時46分に平木橋を出発する。ここには「右こんひらみち」「左たかまつみち」と刻まれた2体の平木地蔵がある。
橋を渡った右手に平井町道路元標がある。
十字路の左手に六地蔵があり、その西端の地蔵尊には「東 長尾」「西 こんぴら 北 志度」「宝暦12年(1762)」と刻まれている。
すぐ先右手に金毘羅宮があり、「奉燈 金毘羅大権現」と刻まれた寛政6年(1794)の灯籠が立っており、その裏には地神がある。
交差点の左手に「地神社」と刻まれた石碑とその横に「左差し指 東八十七番長尾寺 一里十八丁」「右指し指 池戸大宮」と刻まれた明治6年の道標が立っている。
吉田川沿いの静かな道を進んで行くが、この土手は長土手と呼ばれ、松並木があったという。橋の手前右側に資料によると「南無阿弥陀仏」「右たかまつみち 左こんひらみち」と刻まれた道標がある。かなり風化していてよく読めない。
橋を渡った左手に高松の名木クロガネモチの木があり、その横に明治39年の地神と寛政9年(1797)と明治17年の常夜燈等がある。
左手に熊野神社と吉田神社があり、境内に天保13年(1843)の常夜燈、嘉永6年(1853)の熊野燈籠、安政6年(1860)の金毘羅燈籠などが立っている。
右手に「奉燈」と刻まれた資料によると寛政8年(1796)の常夜燈が立っている。
左手に川島小学校があり、その校庭に「推定南海道跡」と刻まれた碑が立っている。
12号線に合流したところ右手に荒神社があり、境内に資料によると「奉燈天神〇祇 安政4年(1857)」の常夜燈、神社前に「御神燈」と刻まれた文政5年(1822)の常夜燈が立っている。
9時7分に春日川に架かる川島橋を渡る。
川島本町の信号から左へ少し入ったところに「寺小橋燈籠」があり、その横に地神が祀られている。
左手に池があり、その淵に文政4年(1821)の地蔵尊がある。
右手に重蓮寺があり、地蔵堂がある。
交差点の左手に「四国のみち」の標識があり、「八十三番一宮寺 五.七km」「八十四番 屋島寺 十一.七km」と刻まれている。遍路道の標識で、この標識は各所に設置されている。
左手にグラウンドがあり、ここに地神があり、その横に文化3年(1806)の石仏がある。
その先で道は二股に分かれているので、左へ進む。
右手に資料によると「三界萬霊」「右長尾道」「左屋しま道二り半」と刻まれた寛政3年(1791)の道標が立っている。
その横に資料によると「三界萬霊」と刻まれた弘化3年(1847)の地蔵立像を安置する地蔵堂がある。
右手に龍雲中学があり、その先右手に馬頭観音がある。明治11年9月東十河の松原弥三七の愛馬が出作のこの地で落命したため、夫婦が愛馬の冥福を祈って祀ったものと説明されている。10時17分にここを通る。
歩き遍路をされている方がおられた。4回目の遍路だと言われていたが、この方のように四国はリピーターが多い。私は2回歩いたが、あの頃のことを懐かしく思い出した。もう一息頑張ってください!
左手に「力石地蔵」があるが、詳しいことはわからなかった。
左手に辻堂池があり、堤から下るところ左手に2体の地蔵尊を祀る地蔵堂がある。最初そのまま直進したのだが、なぜか道を間違っているような気がして戻り、池の周囲をぐるっと回ってしまった。結局最初に歩いたように、この地蔵堂を左に見てそのまま直進すればよかったのだ。後になって考えてみるとなぜこんな間違いをしたのだろうか?と思うのだが、なぜか間違ってしまう。
右手に田村神社がある。ここは式内社で水神信仰を基盤とした神社。讃岐国内では名神大社三社の1つとして、讃岐国の一宮として崇敬されている。境内には文久2年(1862)の石碑や天明7年(1787)の常夜燈等がある。11時25分にここを通る。
この神社の奥に一宮寺があり、神社参道の入口のすぐ横に「四国八十三番一宮寺一丁」「八十四番屋島寺 四里」「八十番国分寺二里」と刻まれた昭和8年の道標が立っている。
次の十字路の左手に「金比羅大権現奉燈」と刻まれた文化2年(1805)の常夜燈が立っている。
その先に資料によると享和元年(1801)の地蔵尊を安置する地蔵堂があり、その前の台石には「こんひら道」「白とり道」と刻まれている。
右手に高松南高校がある前に資料によると「離畜元ト霊」「へんろふ道 札所へ二丁」と刻まれた寛政12年(1800)の地蔵道標がある。
左手に墓地があり、ここに大正4年の三界萬霊がある。
その先で道は二股に分かれているが、ここに地蔵堂があり、その横に「国分寺 土佐圀足摺山」と刻まれた明治29年の道標がある。ここは左へ進む。
左手に「右 丸かめみち 左 こんひら道」と刻まれた地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
右手に「一宮寺へ十丁 国分寺へ一里半」と刻まれた昭和54年の地蔵尊がある。
香東川に架かる円座橋を渡った左手に台座に「四国二十六番札所三丁 長福寺一宮十二丁」と刻まれた台座があり、その上に資料によると天保12年(1841)の地蔵立像がある。またその後ろにこれも資料によると「釋善味信士 大灘甚太夫」と刻まれた寛政元年(1789)の遍路墓と「左多可まつ道 右一のミや道」と刻まれた地蔵立像がある。
その先の交差点は横内の四つ辻と呼ばれたところで、古代の南海道と金毘羅街道の交差点だったところという。左手に金比羅末社と金毘羅燈籠、資料によると「左差し指一宮 高松」と刻まれた天保4年(1834)の道標、更に大納言頼経の墓がある。鎌倉幕府四代摂家将軍頼経は北条氏に追われ讃岐国に落ちてきたので、因縁の深いこの地にお墓が造られたという。
右手に「横内地蔵」と書かれた祠があり、2体の地蔵尊が安置されている。
左手に高松キリスト教会がある前に「南海道一里松跡」碑が立っており、その横に「堂山高等小学校」がこの地にあったという説明板が立っている。
左手池の淵に「三界萬霊」と刻まれた明治25年の地蔵尊がある。
「八十番 国分寺 三・〇km」と刻まれた四国の道道標があり、ここで道は二股に分かれているので、右へ進む。
「右 国分寺」「左 一乃宮」と刻まれた道標がある。
すぐ先左手に「金比(田比)羅大権現」と刻まれた文化八年(1811)の常夜燈が再建されている。
39号線を横断した左手に資料によると「是ゟ国分寺二十一丁 一ノ宮 五十四丁」と刻まれた道標がある。
右手に「萬霊」と刻まれた石仏がある。
すぐ先左手に資料によると「右国分寺 瀧の宮路 左一ノ宮 北高松道 四国八十二番奥ノ院 一国三十六番霊場」などと刻まれた道標が立っている。
右手に「赤池地蔵」があり、2体の地蔵尊が安置されている。その前に資料によると「右へん路道 左瀧宮近道」と刻まれた道標がある。
すぐ先の二股を左へ直進、両側に池がある間の道を進んで行き、伊予街道と合流する場所で14時13分歩き終わる。
本日の歩行時間 6時間27分。
本日の歩数&距離 32048歩、21.3km。
本日の純距離 20.4km(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)