2022年04月05日(火)
高松常盤橋~長尾
晴れ
香川県と徳島県を結ぶ阿波街道には先日歩いた志度道と今回歩いた長尾道がある。
寛永10年(1633)の讃岐最古の国絵図でみると、「中筋往還」という大坂峠~町田(長尾線)~長尾~平木~仏生山と続く道が大道となっていて、志度道は小道が多いという。天保5年(1834)には海岸に志度線が描かれていることから、寛永10年から200年間の間に海岸の志度線ができたことになる。したがってもともと長尾道の方が古くから主に利用されていた道ということのようだ。
今回歩いた長尾道は高松城常盤橋から現在の長尾線に沿って、三木町・長尾・寒川町・大川町そして大内町に出て志度道に合流する道で、仏生山や金毘羅参りの人々も多く利用していた道でもあったという。
参考資料は香川県歴史の道調査報告書第八集「阿波街道(志度道・長尾道)調査報告書を使用した。
高松の常盤橋は現在なくなっているので、アーケード街の中にあるドームを出発点とした。10時50分に出発する。
アーケードを抜けたところで右折して進むが、この辺りは志度道を重なっている。左手に琴電今橋駅があり、ここに「高野山出張所」「右角ヨリ左へ半丁」「左 やしま志と道」と刻まれた文化6年(1809)の道標が立っている。ここが志度道と長尾道の分岐点だ。志度道はここを左へ進むが、長尾道はここを直進する。
11時5分にここを通る。
五差路があり、ここの左手に「多賀神社」がある。ここは天正3年(1575)豊臣秀吉の重臣だった仙石権兵衛秀久が近江の国の多賀神社の御霊を勧請して建立されたのがはじまりで、高松城の鬼門を避けるために建立されたという。桜が満開できれいだ。
ここを左折、左手に高松商高を見ながら次の角を右折して進む。昔ながらの雰囲気を残しているが、石造物や道標のない道を進んで行くと、道は二股に分かれているので、右へ進む。
右手に「木太中村遺跡」の説明板が立っている。この遺跡に初めて人が住み始めたのは約1700年前の弥生時代後期と説明されている。
木太東口の信号の先から左へ分岐するが、ここに常夜燈と地神が祀られている。
その先で道は二股に別れているので、ここは右へ進む。
詰田川を渡り、さらにその先の春日川に架かる川添橋を12時49分に渡る。
更にその先で吉田川に架かる前田橋を渡って右折し、川沿いを進むと、左手に明治18年の題目石とまだ新しい石祠がある。この後ろにある四角い石が資料に載っている「権八地蔵」と」呼ばれる狸のお墓のようだ。
その先右手に慶應2年(1866)「溺死牛之」まで読むことができるお墓、その横にも「牛之墓」「牛馬之墓」と読むことができる墓石が立っている。川が氾濫したときに死んだ牛馬を弔ったものなのだろうか。
この前左手に常盤橋から二里目だったという「一里塚跡」の説明板が立っており、その横に「厄除け地蔵尊」と祀る地蔵堂とその横に常夜燈や百度石などがある。
その先左手に「金毘羅大権現」と鳥居に書かれた金比羅宮がある。右手にある常夜燈は資料によると寛政3年(1791)と刻まれている。
左手に立派な長屋門の住宅がある。
新川に架かる高田橋の袂、右手に常夜燈と高田地蔵(北向き地蔵尊)、更にその横に「丑の墓」と刻まれた資料によると文久3年(1863)の石碑、更に「右やく里道」と刻まれた道標、「やまし道」「うゑ多道」と刻まれた道標が並んである。高田地蔵は昭和42年に県道を改修した際、この地に移設したと説明されている。
その先左手に「奉納金毘羅大権現」と刻まれた資料によると寛政3年(1791)の常夜燈がある。
右手に地蔵堂とその横に石仏を祀る祠がある。
右手に西徳寺があり、境内にイチョウの巨木が立っている。
右手に「錦野天満宮」があり、天保5年(1834)の常夜燈が立っている。この辺りでは「天神さん」と呼ばれているそうだ。
左手に「旧木田郡役所」の建物がある。大正8年に建築されたもので、現在は池戸公民館として使用されており、三木町指定文化財になっている。
すぐ先左手に「みがわり地蔵」がある。
右手に墓地があり、その横に地蔵堂がある。
左手に香川大学農学部の建物を見ながら進んで行くと、左手に「荒神社・天神社」と書かれた額が掛かっている鳥居があり、その奥に神殿がある。ここは参道の入口に樹齢60年ほどになる藤があることから、最近は大藤神社と呼ばれているということだ。横には薬師堂がある。14時40分にここを通る。
琴電平木踏切を渡った先右手に地蔵堂がある。
右手に「金比羅宮」があり、天明元年(1781)の常夜燈が立っている。
すぐ先で新川に架かる平木橋を渡るが、橋を渡ったところに平木地蔵がある。
3体の地蔵が安置されているが、そのうちの2体に「右こんひらみち」「左たかまつみち」と刻まれている。讃岐国往還はここから分岐している。
右手水路沿いに文化5年(1808)の常夜燈とその横に「もろ峠地蔵」を祀る地蔵堂がある。
そのすぐ先左手に歴史を感じさせる旧家がある。
道が二股に分岐するところ左手に寛政8年(1796)の常夜燈が立っている。ここから左の細道に進む。
左手少し入ったところに「白山神社」がある。延長4年(926)に越人旧加賀の明海という人が白山妙理権現をこの地に勧請したと説明されている。ここも桜が満開できれいだ。
左手に「金比羅神社」があり、資料によると慶應2年(1866)の常夜燈が立っており、その横に「霊威氷照四極」と刻まれた石柱が立っている。
鴨部川に架かるゐとかははしを渡ってすぐに道は二股に別れるので、左へ進む。
その先少し左へ入ったところに石碑と「鼓淵」の説明板が立っている。それによると昭和初期ここは清水の湧き出る泉があって淵となっており、鼓淵と呼ばれていた。文治4年(1188)長尾寺で得度した静御前は源義経から形見として送られた中国伝来の鼓を俗世を断ち切る証として、この淵に投げ捨てた。それから4年後に静御前は24歳の生涯を終わったという。
16時12分に歩き終わり、長尾駅へ向かう。
本日の歩行時間 5時間22分。
本日の歩数&距離 27994歩、18.2km。
本日の純距離 17km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
香川県と徳島県を結ぶ阿波街道には先日歩いた志度道と今回歩いた長尾道がある。
寛永10年(1633)の讃岐最古の国絵図でみると、「中筋往還」という大坂峠~町田(長尾線)~長尾~平木~仏生山と続く道が大道となっていて、志度道は小道が多いという。天保5年(1834)には海岸に志度線が描かれていることから、寛永10年から200年間の間に海岸の志度線ができたことになる。したがってもともと長尾道の方が古くから主に利用されていた道ということのようだ。
今回歩いた長尾道は高松城常盤橋から現在の長尾線に沿って、三木町・長尾・寒川町・大川町そして大内町に出て志度道に合流する道で、仏生山や金毘羅参りの人々も多く利用していた道でもあったという。
参考資料は香川県歴史の道調査報告書第八集「阿波街道(志度道・長尾道)調査報告書を使用した。
高松の常盤橋は現在なくなっているので、アーケード街の中にあるドームを出発点とした。10時50分に出発する。
アーケードを抜けたところで右折して進むが、この辺りは志度道を重なっている。左手に琴電今橋駅があり、ここに「高野山出張所」「右角ヨリ左へ半丁」「左 やしま志と道」と刻まれた文化6年(1809)の道標が立っている。ここが志度道と長尾道の分岐点だ。志度道はここを左へ進むが、長尾道はここを直進する。
11時5分にここを通る。
五差路があり、ここの左手に「多賀神社」がある。ここは天正3年(1575)豊臣秀吉の重臣だった仙石権兵衛秀久が近江の国の多賀神社の御霊を勧請して建立されたのがはじまりで、高松城の鬼門を避けるために建立されたという。桜が満開できれいだ。
ここを左折、左手に高松商高を見ながら次の角を右折して進む。昔ながらの雰囲気を残しているが、石造物や道標のない道を進んで行くと、道は二股に分かれているので、右へ進む。
右手に「木太中村遺跡」の説明板が立っている。この遺跡に初めて人が住み始めたのは約1700年前の弥生時代後期と説明されている。
木太東口の信号の先から左へ分岐するが、ここに常夜燈と地神が祀られている。
その先で道は二股に別れているので、ここは右へ進む。
詰田川を渡り、さらにその先の春日川に架かる川添橋を12時49分に渡る。
更にその先で吉田川に架かる前田橋を渡って右折し、川沿いを進むと、左手に明治18年の題目石とまだ新しい石祠がある。この後ろにある四角い石が資料に載っている「権八地蔵」と」呼ばれる狸のお墓のようだ。
その先右手に慶應2年(1866)「溺死牛之」まで読むことができるお墓、その横にも「牛之墓」「牛馬之墓」と読むことができる墓石が立っている。川が氾濫したときに死んだ牛馬を弔ったものなのだろうか。
この前左手に常盤橋から二里目だったという「一里塚跡」の説明板が立っており、その横に「厄除け地蔵尊」と祀る地蔵堂とその横に常夜燈や百度石などがある。
その先左手に「金毘羅大権現」と鳥居に書かれた金比羅宮がある。右手にある常夜燈は資料によると寛政3年(1791)と刻まれている。
左手に立派な長屋門の住宅がある。
新川に架かる高田橋の袂、右手に常夜燈と高田地蔵(北向き地蔵尊)、更にその横に「丑の墓」と刻まれた資料によると文久3年(1863)の石碑、更に「右やく里道」と刻まれた道標、「やまし道」「うゑ多道」と刻まれた道標が並んである。高田地蔵は昭和42年に県道を改修した際、この地に移設したと説明されている。
その先左手に「奉納金毘羅大権現」と刻まれた資料によると寛政3年(1791)の常夜燈がある。
右手に地蔵堂とその横に石仏を祀る祠がある。
右手に西徳寺があり、境内にイチョウの巨木が立っている。
右手に「錦野天満宮」があり、天保5年(1834)の常夜燈が立っている。この辺りでは「天神さん」と呼ばれているそうだ。
左手に「旧木田郡役所」の建物がある。大正8年に建築されたもので、現在は池戸公民館として使用されており、三木町指定文化財になっている。
すぐ先左手に「みがわり地蔵」がある。
右手に墓地があり、その横に地蔵堂がある。
左手に香川大学農学部の建物を見ながら進んで行くと、左手に「荒神社・天神社」と書かれた額が掛かっている鳥居があり、その奥に神殿がある。ここは参道の入口に樹齢60年ほどになる藤があることから、最近は大藤神社と呼ばれているということだ。横には薬師堂がある。14時40分にここを通る。
琴電平木踏切を渡った先右手に地蔵堂がある。
右手に「金比羅宮」があり、天明元年(1781)の常夜燈が立っている。
すぐ先で新川に架かる平木橋を渡るが、橋を渡ったところに平木地蔵がある。
3体の地蔵が安置されているが、そのうちの2体に「右こんひらみち」「左たかまつみち」と刻まれている。讃岐国往還はここから分岐している。
右手水路沿いに文化5年(1808)の常夜燈とその横に「もろ峠地蔵」を祀る地蔵堂がある。
そのすぐ先左手に歴史を感じさせる旧家がある。
道が二股に分岐するところ左手に寛政8年(1796)の常夜燈が立っている。ここから左の細道に進む。
左手少し入ったところに「白山神社」がある。延長4年(926)に越人旧加賀の明海という人が白山妙理権現をこの地に勧請したと説明されている。ここも桜が満開できれいだ。
左手に「金比羅神社」があり、資料によると慶應2年(1866)の常夜燈が立っており、その横に「霊威氷照四極」と刻まれた石柱が立っている。
鴨部川に架かるゐとかははしを渡ってすぐに道は二股に別れるので、左へ進む。
その先少し左へ入ったところに石碑と「鼓淵」の説明板が立っている。それによると昭和初期ここは清水の湧き出る泉があって淵となっており、鼓淵と呼ばれていた。文治4年(1188)長尾寺で得度した静御前は源義経から形見として送られた中国伝来の鼓を俗世を断ち切る証として、この淵に投げ捨てた。それから4年後に静御前は24歳の生涯を終わったという。
16時12分に歩き終わり、長尾駅へ向かう。
本日の歩行時間 5時間22分。
本日の歩数&距離 27994歩、18.2km。
本日の純距離 17km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)