2021年12月11日(土)
栗熊~金毘羅宮
晴れ
8時52分に馬指の信号から歩き始める。
左手に常夜燈があり、資料では「天下泰平 国家安穏」「献燈」と刻まれた慶応4年(1868)となっているようだが、写真を撮ることを忘れてしまった。
32号線に合流するところ、右手に「専立寺」があり、天保12年(1842)の「六十六部供養塔」が境内東側にある。
次の信号の左手、綾歌図書館の敷地内に資料によると「延喜式内 是ヨリ 宇閇神社 鎮座 十丁南 氏子中」と刻まれている道標とその横に2本の石碑と五輪塔が立っている。
すぐ先で右折、すぐ先で左折して32号線に合流、さらにそのすぐ先で左折して線路を横断するが、この道はわかりにくかった。
線路と並行して旧道を進んでいき、その先のT字路を右折して天満踏切で線路を横断、その先のT字路を左折、さらにその先の二股を右折して進むと、右手に「駒止地蔵」がある。
昔ある武士が馬に乗って通りかかり、武者修行の旅の武士と出会い争いになった。旅の武士が馬の足を切り落としたため、馬乗の武士は落馬し、そのまま斬り殺された。土地の人は無残な死をとげた武士の為に石の地蔵を立てて供養したが、それ以来、この地蔵の前に馬が来ると、不思議な事に止まってしまい何故か馬が動かなくなり進めない。そこでお地蔵さまを逆さにしてみると、 馬は無事歩むようになったという。今でも駒止地蔵では、逆さに立てられたお地蔵さまが、町の人々を静かに見守っている。
その先道が二股に分かれているところに「右 ぜんつうじ」「左 ことひら道」と刻まれた大正4年の道標が立っているので、左へ進む。
線路を横断し、次の信号を進むと、右手に「三界萬霊」と刻まれた明治25年の地蔵尊があり、手前の手水鉢には資料によると「吉田万歳」明治28年と刻まれているようだ。
その先左手、街道から少し外れたところに「椎尾神社」があり、明治8年の常夜燈が立っていた。
左手に水路が合流するところ左手に「奉燈」と刻まれた明治11年の自然石の常夜燈が立っている。
438号線に合流、その先で438号線から右へ直角に分離して進むと、池の淵に「法界」と刻まれた、資料によると明治7年の地蔵尊を祀る祠がある。10時11分にここを通る。
池の端右手に墓地があり、宝篋印塔や「法界」と刻まれた地蔵尊を祀る祠がある。
右手に笠の部分が円柱になっている明治17年の常夜燈が立っている。
右手に前に「こんぴら道」刻まれた、まだ新しい道標と明治38年の常夜燈が立っている。
右手池の淵に3体の石仏を安置する祠がある。真ん中の石仏に何やら文字が刻まれていたが読み取ることができなかった。
右手に「延命寺」があり、前に大正7年の石碑が倒れていた。かなり荒れた感じで、誰も住んでいないのかもしれない。
右手池の堤に「交通安全」と刻まれたまだ新しい地蔵尊が立っている。
その先を直進し、32号線の高架下右手に「首空地蔵」「大日菩薩」と刻まれた地蔵尊がある。
右手に資料によると「三界萬霊」享保十八○と刻まれた地蔵尊を祀る祠とその横に「園光大師御奮跡」「巡拝大坂講」「左 西念寺道 光○造之」と刻まれた石柱が立っている。
右手に「立石」と刻まれた自然石があり、ここから左折して進む。
琴電の高架すぐ手前、右に少し入ったところに「王尾内記と権太夫」の墓がある。寛文10年(1670)内記と権太夫は金毘羅大権現の経営に関して金光院を訴えた。高松藩は金光院に対して和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかったため訴訟になり、内記と権太夫は敗訴してしまった。そのため寛文11年(1671)両名とその一族は高松藩によって綾川の刑場で処刑された。その後金光院では不幸が相次いだため、約200年後の文久3年(1863)に処刑地の権太原に慰霊碑を建立したと説明されている。
左手に寛政10年の常夜燈とその横に資料によると「法界」と刻まれた文政12年(1829)の舟形地蔵がある。
土器川に架かる祓川橋を渡るが、ここは昔、お祓いをするところだったという。
橋を渡ったところに鳥居があり、これを右に進み、次の角を左折して進むが、この角の右手すこし入ったところに資料によると天保7年(1836)の「三界萬霊」を祀る祠がある。
その先で11時24分に宇多津道と合流する。ここから先の道は宇多津道を参照ください。
11時52分に一之橋に着き、高松道を歩き終わる。
本日の歩行時間 3時間。
本日の歩数&距離 15398歩、10.3km。
高松道総計
総歩行時間 11時間2分。
総歩数&総距離 55850歩、36km。
8時52分に馬指の信号から歩き始める。
左手に常夜燈があり、資料では「天下泰平 国家安穏」「献燈」と刻まれた慶応4年(1868)となっているようだが、写真を撮ることを忘れてしまった。
32号線に合流するところ、右手に「専立寺」があり、天保12年(1842)の「六十六部供養塔」が境内東側にある。
次の信号の左手、綾歌図書館の敷地内に資料によると「延喜式内 是ヨリ 宇閇神社 鎮座 十丁南 氏子中」と刻まれている道標とその横に2本の石碑と五輪塔が立っている。
すぐ先で右折、すぐ先で左折して32号線に合流、さらにそのすぐ先で左折して線路を横断するが、この道はわかりにくかった。
線路と並行して旧道を進んでいき、その先のT字路を右折して天満踏切で線路を横断、その先のT字路を左折、さらにその先の二股を右折して進むと、右手に「駒止地蔵」がある。
昔ある武士が馬に乗って通りかかり、武者修行の旅の武士と出会い争いになった。旅の武士が馬の足を切り落としたため、馬乗の武士は落馬し、そのまま斬り殺された。土地の人は無残な死をとげた武士の為に石の地蔵を立てて供養したが、それ以来、この地蔵の前に馬が来ると、不思議な事に止まってしまい何故か馬が動かなくなり進めない。そこでお地蔵さまを逆さにしてみると、 馬は無事歩むようになったという。今でも駒止地蔵では、逆さに立てられたお地蔵さまが、町の人々を静かに見守っている。
その先道が二股に分かれているところに「右 ぜんつうじ」「左 ことひら道」と刻まれた大正4年の道標が立っているので、左へ進む。
線路を横断し、次の信号を進むと、右手に「三界萬霊」と刻まれた明治25年の地蔵尊があり、手前の手水鉢には資料によると「吉田万歳」明治28年と刻まれているようだ。
その先左手、街道から少し外れたところに「椎尾神社」があり、明治8年の常夜燈が立っていた。
左手に水路が合流するところ左手に「奉燈」と刻まれた明治11年の自然石の常夜燈が立っている。
438号線に合流、その先で438号線から右へ直角に分離して進むと、池の淵に「法界」と刻まれた、資料によると明治7年の地蔵尊を祀る祠がある。10時11分にここを通る。
池の端右手に墓地があり、宝篋印塔や「法界」と刻まれた地蔵尊を祀る祠がある。
右手に笠の部分が円柱になっている明治17年の常夜燈が立っている。
右手に前に「こんぴら道」刻まれた、まだ新しい道標と明治38年の常夜燈が立っている。
右手池の淵に3体の石仏を安置する祠がある。真ん中の石仏に何やら文字が刻まれていたが読み取ることができなかった。
右手に「延命寺」があり、前に大正7年の石碑が倒れていた。かなり荒れた感じで、誰も住んでいないのかもしれない。
右手池の堤に「交通安全」と刻まれたまだ新しい地蔵尊が立っている。
その先を直進し、32号線の高架下右手に「首空地蔵」「大日菩薩」と刻まれた地蔵尊がある。
右手に資料によると「三界萬霊」享保十八○と刻まれた地蔵尊を祀る祠とその横に「園光大師御奮跡」「巡拝大坂講」「左 西念寺道 光○造之」と刻まれた石柱が立っている。
右手に「立石」と刻まれた自然石があり、ここから左折して進む。
琴電の高架すぐ手前、右に少し入ったところに「王尾内記と権太夫」の墓がある。寛文10年(1670)内記と権太夫は金毘羅大権現の経営に関して金光院を訴えた。高松藩は金光院に対して和解することをすすめたが、金光院はこれに応じなかったため訴訟になり、内記と権太夫は敗訴してしまった。そのため寛文11年(1671)両名とその一族は高松藩によって綾川の刑場で処刑された。その後金光院では不幸が相次いだため、約200年後の文久3年(1863)に処刑地の権太原に慰霊碑を建立したと説明されている。
左手に寛政10年の常夜燈とその横に資料によると「法界」と刻まれた文政12年(1829)の舟形地蔵がある。
土器川に架かる祓川橋を渡るが、ここは昔、お祓いをするところだったという。
橋を渡ったところに鳥居があり、これを右に進み、次の角を左折して進むが、この角の右手すこし入ったところに資料によると天保7年(1836)の「三界萬霊」を祀る祠がある。
その先で11時24分に宇多津道と合流する。ここから先の道は宇多津道を参照ください。
11時52分に一之橋に着き、高松道を歩き終わる。
本日の歩行時間 3時間。
本日の歩数&距離 15398歩、10.3km。
高松道総計
総歩行時間 11時間2分。
総歩数&総距離 55850歩、36km。