2021年12月08日(水)
宇多津~金毘羅宮
晴れ
宇多津街道は宇多津から琴平へ向かう参詣道だが、宇多津港は潮の干満の差が大きく、満潮の時には荷を運ぶ船は入ってくることができるが、干潮になると船の底がすってしまい、大勢の参詣客を運ぶ船は入ってくることはできなかったと考えられているそうで、そのため大きな船は少し離れた海岸町の亀石権現の東側に設けられた岸壁の辺りに接岸していたという。
香川県歴史の道調査報告書第五集「金毘羅参詣道Ⅰ」を参考にした。
宇多津駅から直進すると突き当り33号線に「岸落地蔵」がある。ここはこれまで遍路や丸亀街道を歩いた際通ったところだ。8時32分にここを出発する。
右手高架下に墓地があり、地蔵尊を安置する祠がある。
33号線の左手に「西 丸亀」 「右 へんろ道」と刻まれた文久3年(1863)の道標が立っている。
右手に宇多津町役場があるところから右折するが、左手に「高松藩米蔵跡」の碑が立っている。
次の角を左折して進み、その次の角が宇多津街道の起点となっているところだ。
8時49分にここを右折して出発する。
すぐ右手に「倉の館三角邸」がある。ここは肥料販売業で財をなした堺芳太郎氏が昭和初期に接客用のお座敷として建造したもので、このあたり一帯は高松藩の米の藩蔵や三綿、砂糖の会所があり、讃岐三白の集積地だったことから、現在の地名「倉の前」と三角屋根の景観に因んで「倉の館三角屋根」と名付けられたと説明されている。登録有形文化財になっている。
左手に「すくこんひら道」「東 高松 西 丸亀道」と刻まれた天保9年(1838)の道標がある。
突き当りを左折、すぐ先で右折して進むが、左手に西光寺があり、この角に「ち」という文字だけが残っている道標がある。
左手に「豊嶋邸」がある。豊嶋家は江戸時代の庄屋であり、明治8年には材木商となって宇多津を代表する大商家だったという。現在の主屋は安政5年(1858)に建てられたものという。
右手から道が合流する三叉路の右角に地蔵堂がある。この地蔵は以前は田尾坂にあって、辻切りに襲われた娘を助けたという。地蔵はさらしをまかれているが、その下には左肩から右肩にかけて傷があると資料に説明されており、その堂の前に切られ地蔵に助けられた娘を供養するために建てられたという石仏が祀られている。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進む。
飯野山がよく見える。讃岐富士と呼ばれるこの山は標高422mで、なだらかな裾野が美しい。平地が多いこの地では各所から見ることができる。
右手に「讃岐国無相流新柔術免許皆伝 宮武浪次郎・京一師範碑」と刻まれたまだ新しい碑が立っており、その奥に3体の石仏を安置する祠がある。
右手に吉岡常夜燈(宮本立本燈篭)とその横に貞婦吉村チヨ女跡と刻まれた昭和12年の記念碑が立っている。丸亀藩士だった宮本立本という人がこの常夜燈を建て、また吉村チヨさんは大正14年の「大正天皇・同皇后陛下御結婚二十五年」の際、全国から309人が表彰された「徳行者」の一人で、病弱の夫を支えて子供を育てたという。
その先道は三又に分かれているので、194号線から分岐して右へ進み、池に突き当たるので左折して池の周囲に沿って進む。その先で再び194号線を横断して進むが、その先で道を間違えた。道が二股に分かれているところがあり、最初右へ進んだのだが、これは間違いで下記写真の細道を進む。
高松自動車道のトンネルを抜けて自動車道の向こう側に出ると左手に「伊勢神社(山崎神社)」があり、天保と読むことができる常夜燈が立っていた。
自動車道に沿って坂を下っていくと、飯野山登山口の標識があり、その先右手に旧琴平急行電鉄「登山口駅」という標識が立っている。ただ遺構は何も残っていない。10時47分にここを通る。
その先右手に「母子地蔵」がある。資料によると「證心童子 本悟童女」嘉永元年(1848)刻まれているようだ。目の不自由な親子がここまで来て亡くなったという。ここから左折して進む。
右手に「板屋常夜燈」が立っている。「金 常夜燈」「金 金毘羅大権現」「文政8年(1825)」と刻まれている。11時丁度にここを通る。
左手に「高柳前庵(松永家の墓地)」と書かれた標識が立っているが、説明がないのでわからなかった。
右手に「西光寺」があり、その前に「右 こんぴら道」「左 たきのみや」と刻まれた明治6年の道標と「奉献」と刻まれた明治6年の常夜燈が立っている。
その先で195号線に合流して進んでいくと、右手に「地神社」があり、資料によると「御燈 當社大石悉皆献納 西沖 眞瀧正 地神社」と刻まれた常夜燈が立っている。
22号線と交差する信号を渡ってすぐに右折して土器川の堤防を進む。
その先道が二股に分かれているところがあり、最初右へ進んだが、これは間違いで、ここは左の道を直進しなければいけなかった。
その先も舗装された山際の道を進んでいくと、舗装が切れたところから竹藪の中の道になる。12時9分にここを通る。
ここの竹藪の道は5分ほどで抜けることができた。抜けたところに石仏がある。
ここから再び堤防の道を進んでいくと、道が二股に分かれているところに来るので、ここを直進、林の中を進んでいく。
ここも4分ほどで抜けると左手に「皇子神社」がある。12時44分にここを通る。
47号線を右折して土器川に架かる垂水橋を渡り、すぐ左折して川沿いの道を進むと右手に「奉燭」と刻まれた明治4年の常夜燈と大正12年の石標が立っている。
その先右手に「大川神社」と刻まれた石碑が立っている。
乙井大橋へ向かう道の交差点手前、右手に「うたヅ三り 丸がめ三り」と刻まれた道標が立っている
左手に鉄工所がある先で道は二股に分かれているので、右へ進む。
琴電の跨線橋を渡った先で高松からの参詣道と合流、右折して進む。
13時45分にここを通る。
右手に「最勝寺」がある。
「象頭山」「国家安穏」「万民豊穣貫石裏」と刻まれた慶応3年(1867)の鳥居が立っている。
右手に「旗岡神社」があり、その右角に「右 高松道」「丸亀道」と刻まれた明治39年の道標が立っている。
宇多津街道は宇多津から琴平へ向かう参詣道だが、宇多津港は潮の干満の差が大きく、満潮の時には荷を運ぶ船は入ってくることができるが、干潮になると船の底がすってしまい、大勢の参詣客を運ぶ船は入ってくることはできなかったと考えられているそうで、そのため大きな船は少し離れた海岸町の亀石権現の東側に設けられた岸壁の辺りに接岸していたという。
香川県歴史の道調査報告書第五集「金毘羅参詣道Ⅰ」を参考にした。
宇多津駅から直進すると突き当り33号線に「岸落地蔵」がある。ここはこれまで遍路や丸亀街道を歩いた際通ったところだ。8時32分にここを出発する。
右手高架下に墓地があり、地蔵尊を安置する祠がある。
33号線の左手に「西 丸亀」 「右 へんろ道」と刻まれた文久3年(1863)の道標が立っている。
右手に宇多津町役場があるところから右折するが、左手に「高松藩米蔵跡」の碑が立っている。
次の角を左折して進み、その次の角が宇多津街道の起点となっているところだ。
8時49分にここを右折して出発する。
すぐ右手に「倉の館三角邸」がある。ここは肥料販売業で財をなした堺芳太郎氏が昭和初期に接客用のお座敷として建造したもので、このあたり一帯は高松藩の米の藩蔵や三綿、砂糖の会所があり、讃岐三白の集積地だったことから、現在の地名「倉の前」と三角屋根の景観に因んで「倉の館三角屋根」と名付けられたと説明されている。登録有形文化財になっている。
左手に「すくこんひら道」「東 高松 西 丸亀道」と刻まれた天保9年(1838)の道標がある。
突き当りを左折、すぐ先で右折して進むが、左手に西光寺があり、この角に「ち」という文字だけが残っている道標がある。
左手に「豊嶋邸」がある。豊嶋家は江戸時代の庄屋であり、明治8年には材木商となって宇多津を代表する大商家だったという。現在の主屋は安政5年(1858)に建てられたものという。
右手から道が合流する三叉路の右角に地蔵堂がある。この地蔵は以前は田尾坂にあって、辻切りに襲われた娘を助けたという。地蔵はさらしをまかれているが、その下には左肩から右肩にかけて傷があると資料に説明されており、その堂の前に切られ地蔵に助けられた娘を供養するために建てられたという石仏が祀られている。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進む。
飯野山がよく見える。讃岐富士と呼ばれるこの山は標高422mで、なだらかな裾野が美しい。平地が多いこの地では各所から見ることができる。
右手に「讃岐国無相流新柔術免許皆伝 宮武浪次郎・京一師範碑」と刻まれたまだ新しい碑が立っており、その奥に3体の石仏を安置する祠がある。
右手に吉岡常夜燈(宮本立本燈篭)とその横に貞婦吉村チヨ女跡と刻まれた昭和12年の記念碑が立っている。丸亀藩士だった宮本立本という人がこの常夜燈を建て、また吉村チヨさんは大正14年の「大正天皇・同皇后陛下御結婚二十五年」の際、全国から309人が表彰された「徳行者」の一人で、病弱の夫を支えて子供を育てたという。
その先道は三又に分かれているので、194号線から分岐して右へ進み、池に突き当たるので左折して池の周囲に沿って進む。その先で再び194号線を横断して進むが、その先で道を間違えた。道が二股に分かれているところがあり、最初右へ進んだのだが、これは間違いで下記写真の細道を進む。
高松自動車道のトンネルを抜けて自動車道の向こう側に出ると左手に「伊勢神社(山崎神社)」があり、天保と読むことができる常夜燈が立っていた。
自動車道に沿って坂を下っていくと、飯野山登山口の標識があり、その先右手に旧琴平急行電鉄「登山口駅」という標識が立っている。ただ遺構は何も残っていない。10時47分にここを通る。
その先右手に「母子地蔵」がある。資料によると「證心童子 本悟童女」嘉永元年(1848)刻まれているようだ。目の不自由な親子がここまで来て亡くなったという。ここから左折して進む。
右手に「板屋常夜燈」が立っている。「金 常夜燈」「金 金毘羅大権現」「文政8年(1825)」と刻まれている。11時丁度にここを通る。
左手に「高柳前庵(松永家の墓地)」と書かれた標識が立っているが、説明がないのでわからなかった。
右手に「西光寺」があり、その前に「右 こんぴら道」「左 たきのみや」と刻まれた明治6年の道標と「奉献」と刻まれた明治6年の常夜燈が立っている。
その先で195号線に合流して進んでいくと、右手に「地神社」があり、資料によると「御燈 當社大石悉皆献納 西沖 眞瀧正 地神社」と刻まれた常夜燈が立っている。
22号線と交差する信号を渡ってすぐに右折して土器川の堤防を進む。
その先道が二股に分かれているところがあり、最初右へ進んだが、これは間違いで、ここは左の道を直進しなければいけなかった。
その先も舗装された山際の道を進んでいくと、舗装が切れたところから竹藪の中の道になる。12時9分にここを通る。
ここの竹藪の道は5分ほどで抜けることができた。抜けたところに石仏がある。
ここから再び堤防の道を進んでいくと、道が二股に分かれているところに来るので、ここを直進、林の中を進んでいく。
ここも4分ほどで抜けると左手に「皇子神社」がある。12時44分にここを通る。
47号線を右折して土器川に架かる垂水橋を渡り、すぐ左折して川沿いの道を進むと右手に「奉燭」と刻まれた明治4年の常夜燈と大正12年の石標が立っている。
その先右手に「大川神社」と刻まれた石碑が立っている。
乙井大橋へ向かう道の交差点手前、右手に「うたヅ三り 丸がめ三り」と刻まれた道標が立っている
左手に鉄工所がある先で道は二股に分かれているので、右へ進む。
琴電の跨線橋を渡った先で高松からの参詣道と合流、右折して進む。
13時45分にここを通る。
右手に「最勝寺」がある。
「象頭山」「国家安穏」「万民豊穣貫石裏」と刻まれた慶応3年(1867)の鳥居が立っている。
右手に「旗岡神社」があり、その右角に「右 高松道」「丸亀道」と刻まれた明治39年の道標が立っている。