2020年02月05日(水)
海岸寺~辻の札場
晴れ
7時51分に海岸寺駅に着き、歩き始めるが、奥の院を見ると立派な塔が丘の上に見える。昨日は電車の時間が迫っていたこともあって急いだので、ひょっとするとどこかもっといい撮影ポイントがあるのではないかと思って再度奥の院へ向かった。しかし結局木々にさえぎられていい撮影ポイントを見つけることができなかったので、少し離れたところから撮影した。
資料によると道はここから「見立越えルート」と「奥白方越えルート」に分かれているようだが、今回は奥白方越えルートを歩くことにした。これまで歩いてきた道のJRの海岸寺第1踏切を渡ってすぐに左折して線路沿いに進む。線路の向こう側に海岸寺駅が見える。左手白方小学校があり、その先の十字路を直進すると、すぐ左手に「いやたに道」「屏風ヶ浦道」と刻まれた道標が立っている。
次の十字路を右折して細道を進む。この辺りを北原の集落というようだ。資料ではここに道標があるとなっていたが見つからなかった。その先の三差路の左手に「左 屏風浦白方海岸寺奥院 たとつ 丸かめ道」と刻まれた道標が立っている。
その先で小橋を渡り、二又に分かれている道を右へ進むと、左手に小祠がある。
左手に池が二つ並んであり、その間に地蔵堂がある。資料にある「井戸口地蔵」がこれなのだろうと思った。
その先で街道から外れて少し左へ入ったところに「林求馬邸」がある。これは慶応3年(1867)に建てられた武家屋敷で、多度津藩国家老林求馬が居住していた、多度津町家中にあった東御殿の別邸ということだ。幕末に外国の軍艦から攻撃があった時の避難所として建てられたという。ただ門が閉まっていて中を見ることはできなかった。
右手に天明元年(1781)と刻まれた地蔵堂がある。
峠を下ると一気に展望が開けて海が見える。
この辺りに資料によると常夜燈があると書かれていたので探してみたが、わからなかった。
21号線に合流、左折して進み、右手に津島神社の社殿が海の中に見える所から21号線から左へ分岐し、21号線と並行して進むと、左手に「奉 供養 光明真言 松崎村」と刻まれた文政元年(1818)の石碑が立っている。
資料ではこの先で線路を越えて21号線に合流するようになっているのだが、渡る踏切がないのでそのまま進み、水出踏切でJRの線路を横断して21号線に合流する。右手にゴルフ場が広がっている。松崎の信号で右折し、高瀬川に架かる石川橋を渡る。9時56分にここを通る。白方道はここで終わり、これから先は仁尾越道となる。
その先で道は二又に分かれているので、右へ231号線を進む。
右手に「奉 供養 納経 四国霊場 五百人講」と刻まれた文政3年(1820)の碑を挟んで右手に文久2年(1862)の地蔵、その反対側には昭和2年の地蔵が並んでおり、その横に二つの地蔵堂があり、更にその左手には嘉永3年(1850)の石碑が立っている。
更にその横には神宮寺(廃寺)の梵鐘がある。これは寛文12年(1672)に鋳造されたもので、第二次大戦中に供出されたが、戻ってきたと説明されている。
池の端に宝篋印塔や石仏が集められている。
ここから右折して池を左に見ながら進むと、左手に「波打八幡宮」がある。ここは推古天皇12年(604年)に高村親王がこの地に泊まられた時、夢に八幡神がお立ちになり、そのご託宣によって創建されたと言い伝えられており、昔から琴弾八幡・熊岡八幡とともに三八幡と称せられ、生駒家から40石の寄進を受けていたという。 入口に安政6年(1859)の常夜燈が立っており、そのほかにも宝暦5年(1755)、文化5年(1806)といった常夜燈が境内に立っている。
街道は神社の右手の細道を進んで行き、左手に神社裏参道があるところから右折して進む。
その先で十字路があるのでこれを直進、すぐ先で道は二又に分かれているので、ここは右へ進む。
左手に池があり、その右手に「三界万霊」と刻まれた寛政11年(1799)の石仏がある。
その先で道が二又に分かれているので最初間違って右へ行ったが、ここは左へ進む。
複数の池が並んでいるが、その二つ目の池の端に石仏がある。資料に書かれている明治22年の石仏がこれなのだろうか?と思った。この辺りは近くに大きな川がなく、雨も少ない気候のため、大小の溜池がかなりの数存在している。その池の縁を歩いていく。
231号線に合流し、左折して進むが、右手に4体の石仏を安置する祠がある。すぐ先で右へ分岐する道があり、これを進むが、すぐ先で231号線に合流する。
緩やかな坂を上って詫間峠を越えて仁尾町に入ると、右手に正徳4年(1714)に勧請されたという「大山祇神社」がある。
ここから231号線から左へ分岐して進むと、左手に池がある。
ここで道を間違って、池の周りを回ってその先で右へ坂を下ってしまった。かなり歩いてどうもおかしいことに気が付いて、ちょうどおられた地元の方にお聞きして道を間違っていることがわかったので、池のところまで戻って、再度歩き始める。
池のすぐ横右手に「金刀比羅大神」「出雲大社」「松兼池」と書かれた三つのまだ新しい祠があり、その横に大木が立っている。この木の横から下る道が街道だった。
急な坂を下っていくと、やがて道は土道になる。
右手に仁尾変電所がある先から左折して進んでいくと、右手に仁尾で塩業、海運などを営んでいた塩田忠左衛門の「松賀屋」がある。ここは築100年を超える古民家だ。
左手に広厳院を見ながら進んでいくが、この辺りは歴史を感じさせる旧家が建っている。境目の信号の左手に立派な旧家がある。ここは歩き終えた後に仁尾町図書館に行って何をされていた家なのかお聞きすると、後日ご連絡をいただいて、ここは「西松屋」といって、塩田伝左衛門がお茶を商っていた屋敷ということだった。先ほどの松賀屋と同じ塩田という名字なので同じ一族なのだろう。図書館の方にはお忙しい中、ご親切な対応をしていただいてありがたかった。
左手に「辻の札場」がある。これは江戸時代の丸亀藩の高札場で一部補修のあとが見られるが、原形をよく保存しており、全国的にも数少ない貴重な札場と説明されている。この横に「普門院」があるが、ここは開基の時期ははっきりしないが、元徳年間に再興されたもので、現在の本堂は宝暦8年(1758)に、また山門は天保10年(1839)に改築されている。
12時40分にここに着き、歩き終わることとする。ここからすぐ近くにあった仁尾町図書館まで行き、そこからコミュニティバスがちょうどいい時間にあったので、それに乗って観音寺駅まで行って帰宅する。
本日の歩行時間 4時間49分。
本日の歩数&距離 27500歩、17.1km。
本日の純距離 13.4km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
多度津街道総計
総歩行時間 7時間56分。
総歩数&総距離 45673歩、29km
純距離 22.6km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
7時51分に海岸寺駅に着き、歩き始めるが、奥の院を見ると立派な塔が丘の上に見える。昨日は電車の時間が迫っていたこともあって急いだので、ひょっとするとどこかもっといい撮影ポイントがあるのではないかと思って再度奥の院へ向かった。しかし結局木々にさえぎられていい撮影ポイントを見つけることができなかったので、少し離れたところから撮影した。
資料によると道はここから「見立越えルート」と「奥白方越えルート」に分かれているようだが、今回は奥白方越えルートを歩くことにした。これまで歩いてきた道のJRの海岸寺第1踏切を渡ってすぐに左折して線路沿いに進む。線路の向こう側に海岸寺駅が見える。左手白方小学校があり、その先の十字路を直進すると、すぐ左手に「いやたに道」「屏風ヶ浦道」と刻まれた道標が立っている。
次の十字路を右折して細道を進む。この辺りを北原の集落というようだ。資料ではここに道標があるとなっていたが見つからなかった。その先の三差路の左手に「左 屏風浦白方海岸寺奥院 たとつ 丸かめ道」と刻まれた道標が立っている。
その先で小橋を渡り、二又に分かれている道を右へ進むと、左手に小祠がある。
左手に池が二つ並んであり、その間に地蔵堂がある。資料にある「井戸口地蔵」がこれなのだろうと思った。
その先で街道から外れて少し左へ入ったところに「林求馬邸」がある。これは慶応3年(1867)に建てられた武家屋敷で、多度津藩国家老林求馬が居住していた、多度津町家中にあった東御殿の別邸ということだ。幕末に外国の軍艦から攻撃があった時の避難所として建てられたという。ただ門が閉まっていて中を見ることはできなかった。
右手に天明元年(1781)と刻まれた地蔵堂がある。
峠を下ると一気に展望が開けて海が見える。
この辺りに資料によると常夜燈があると書かれていたので探してみたが、わからなかった。
21号線に合流、左折して進み、右手に津島神社の社殿が海の中に見える所から21号線から左へ分岐し、21号線と並行して進むと、左手に「奉 供養 光明真言 松崎村」と刻まれた文政元年(1818)の石碑が立っている。
資料ではこの先で線路を越えて21号線に合流するようになっているのだが、渡る踏切がないのでそのまま進み、水出踏切でJRの線路を横断して21号線に合流する。右手にゴルフ場が広がっている。松崎の信号で右折し、高瀬川に架かる石川橋を渡る。9時56分にここを通る。白方道はここで終わり、これから先は仁尾越道となる。
その先で道は二又に分かれているので、右へ231号線を進む。
右手に「奉 供養 納経 四国霊場 五百人講」と刻まれた文政3年(1820)の碑を挟んで右手に文久2年(1862)の地蔵、その反対側には昭和2年の地蔵が並んでおり、その横に二つの地蔵堂があり、更にその左手には嘉永3年(1850)の石碑が立っている。
更にその横には神宮寺(廃寺)の梵鐘がある。これは寛文12年(1672)に鋳造されたもので、第二次大戦中に供出されたが、戻ってきたと説明されている。
池の端に宝篋印塔や石仏が集められている。
ここから右折して池を左に見ながら進むと、左手に「波打八幡宮」がある。ここは推古天皇12年(604年)に高村親王がこの地に泊まられた時、夢に八幡神がお立ちになり、そのご託宣によって創建されたと言い伝えられており、昔から琴弾八幡・熊岡八幡とともに三八幡と称せられ、生駒家から40石の寄進を受けていたという。 入口に安政6年(1859)の常夜燈が立っており、そのほかにも宝暦5年(1755)、文化5年(1806)といった常夜燈が境内に立っている。
街道は神社の右手の細道を進んで行き、左手に神社裏参道があるところから右折して進む。
その先で十字路があるのでこれを直進、すぐ先で道は二又に分かれているので、ここは右へ進む。
左手に池があり、その右手に「三界万霊」と刻まれた寛政11年(1799)の石仏がある。
その先で道が二又に分かれているので最初間違って右へ行ったが、ここは左へ進む。
複数の池が並んでいるが、その二つ目の池の端に石仏がある。資料に書かれている明治22年の石仏がこれなのだろうか?と思った。この辺りは近くに大きな川がなく、雨も少ない気候のため、大小の溜池がかなりの数存在している。その池の縁を歩いていく。
231号線に合流し、左折して進むが、右手に4体の石仏を安置する祠がある。すぐ先で右へ分岐する道があり、これを進むが、すぐ先で231号線に合流する。
緩やかな坂を上って詫間峠を越えて仁尾町に入ると、右手に正徳4年(1714)に勧請されたという「大山祇神社」がある。
ここから231号線から左へ分岐して進むと、左手に池がある。
ここで道を間違って、池の周りを回ってその先で右へ坂を下ってしまった。かなり歩いてどうもおかしいことに気が付いて、ちょうどおられた地元の方にお聞きして道を間違っていることがわかったので、池のところまで戻って、再度歩き始める。
池のすぐ横右手に「金刀比羅大神」「出雲大社」「松兼池」と書かれた三つのまだ新しい祠があり、その横に大木が立っている。この木の横から下る道が街道だった。
急な坂を下っていくと、やがて道は土道になる。
右手に仁尾変電所がある先から左折して進んでいくと、右手に仁尾で塩業、海運などを営んでいた塩田忠左衛門の「松賀屋」がある。ここは築100年を超える古民家だ。
左手に広厳院を見ながら進んでいくが、この辺りは歴史を感じさせる旧家が建っている。境目の信号の左手に立派な旧家がある。ここは歩き終えた後に仁尾町図書館に行って何をされていた家なのかお聞きすると、後日ご連絡をいただいて、ここは「西松屋」といって、塩田伝左衛門がお茶を商っていた屋敷ということだった。先ほどの松賀屋と同じ塩田という名字なので同じ一族なのだろう。図書館の方にはお忙しい中、ご親切な対応をしていただいてありがたかった。
左手に「辻の札場」がある。これは江戸時代の丸亀藩の高札場で一部補修のあとが見られるが、原形をよく保存しており、全国的にも数少ない貴重な札場と説明されている。この横に「普門院」があるが、ここは開基の時期ははっきりしないが、元徳年間に再興されたもので、現在の本堂は宝暦8年(1758)に、また山門は天保10年(1839)に改築されている。
12時40分にここに着き、歩き終わることとする。ここからすぐ近くにあった仁尾町図書館まで行き、そこからコミュニティバスがちょうどいい時間にあったので、それに乗って観音寺駅まで行って帰宅する。
本日の歩行時間 4時間49分。
本日の歩数&距離 27500歩、17.1km。
本日の純距離 13.4km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
多度津街道総計
総歩行時間 7時間56分。
総歩数&総距離 45673歩、29km
純距離 22.6km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)