2020年02月04日(火)
八十場~丸亀城
晴れ
八十島駅に着き、8時8分に歩き始める。
正面に「白峯宮」があり、その横に「天皇寺」がある。ここは四国遍路七十九番札所で、ここも二回目に四国を歩いた際の記述を参考にしていただければと思い、アドレスを張り付けておきます。
四国遍路七十九番高照院天皇寺
「白峯宮」は讃岐に配流された崇徳天皇が長寛2年(1164)に崩御されたので、同年に造営されたという。江戸時代には四国遍路七十九番札所だったが、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻って、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。 また、その時に摩尼珠院は廃寺とされたが、明治20年に筆頭末寺の高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだので、現在では天皇寺が七十九番札所になっている。
白峯宮の境内には安政2年(1855)や寛政3年(1791)の常夜燈が立っており、樹齢500年という御神木の楠の大木が立っている。

境内を抜けると左手に「八十八蘇場の清水」がある。ここには景行天皇の時代に南海で暴れていた悪魚を退治に向かった讃留霊皇子とその部下80人(88人ともいわれる)が悪魚の毒に苦しんだが、この泉の水を汲んだ童子が勇者達に水を飲ませると、たちまち蘇ったので、八十八蘇場の清水と呼ばれるようになったという。また、長寛2年(1164)に崩御した崇徳天皇のご遺体を使者が到着するまでの20数日間、この泉に遺体を浸していたところ全く腐敗しなかったとの言い伝えもあるという。

その先水路に沿って進むと、右へ分岐する道があるところ、右手に「崇徳天皇道 札所へ四丁」と刻まれた道標が立っている。ここは直進する。

金山国道踏切でJRの線路を横断して進むと、右手水路の向こう側に「遍んろ道」と刻まれた道標が立っている。

更にその先で道は二又に分かれている。ここで田尾坂まで南北二つのルートと更に南を通って丸亀城の南に行く三つのルートに分かれるようだが、北側ルートを進むことにする。
右へ進み車道に合流する所、右手に「遍んろ道」と刻まれた道標と「遍んろ道 七十八番 七十九番」と刻まれた道標が並んで立っている。

元町、本町のアーケードを抜けて少し行くと、左手に「すぐ遍路道」「左 こんひら道」と刻まれた道標が立っている。

左手に「金比羅社」がある。

右手に寛政6年(1794)の常夜燈が立っている。

左手に「八幡神社」があり、境内には文政11年(1828)や慶応2年(1866)の常夜燈が立っている。

瀬戸中央自動車道の高架下は公園になっているので、公園の周囲を回るようにして、左から右へ進むが、右手に醤油製造に使われていたという井戸がある。

33号線を横断して進むが、ここの右手に「不動明王」とその横に「加持土砂為三界万霊」と刻まれた明和4年(1767)の碑を安置する祠がある。 9時42分にここを通る。
そのすぐ先右手に「へんろ道 東坂出町へ 西宇多津町へ」と刻まれた道標が立っている。

その先で道は二又に分かれているので、右へ進むと、右手に「聖通寺井戸(阿伽井戸)」がある。宇多津の北部は中世以降干拓をしてできた土地の為、平地では飲料水が得にくかったが、この井戸だけは貴重な飲料水として珍重されたという。資料によると、江戸時代に付け替えられた井戸枠の内面の側壁には鳥居などが彫られているという。
T字路の右手に8世紀半ばの太平年間に行基によって釈迦院として創立され、貞観10年(868)に聖宝によって再興されたという「聖通寺」がある。ここの本尊は寺伝によれば聖宝が当寺を再興した際、漁師の網にかかって海中から引き揚げられたものとされ、像にはフジツボが付着しているということだ。参道入口には「金 永代 常夜燈」と刻まれた文政13年(1830)の常夜燈が立っている。街道はT字路を左折して進む。10時ちょうどにここを通る。
その先33号線に突き当たるところ左手に「七十九番」と刻まれた道標が立っている。

右折してすぐ先を左折、JR予讃線線路の高架下を通って進むと新町に入っていく。ここには古風な街並みが残っている。

突き当りに文政4年(1821)の常夜燈が立っている。街道はここから左へ進むのだが、右手に「伊勢之宮神社」がある。

伊勢之宮神社の境内社として右手に「横潮神社」があり、その前に「横潮大明神」と刻まれた文化14年(1817)の常夜燈が立っている。
街道に戻って大束川に架かる新町橋を渡って進むと、左に「西光寺」がある。ここの本堂は天保4年(1833)に建立されたものという。

西光寺のすぐ先、右手中央児童公園内に「東 高枩 西 丸亀道」「すく川口」「すくこんひら道」と刻まれた天保9年(1838)の道標が立っている。

左手に「浄泉寺」がある右手に寛政9年(1797)の常夜燈が立っている。

左手に「閻魔堂」があって、「四国一のえんま太王像」という看板が立っており、その横に寛延3年(1750)の「大乗妙典一字一石塚」と刻まれた石碑が立っている。
その右手に「是より天の社迄一里半」と刻まれた道標が立っている。

すぐ右手に法界平等と刻まれた石仏を安置する祠がある。
左手に本妙寺があり、その横に溝があって「音水橋」と刻まれた明治21年の石碑が立っている。

その先突き当りに「宇夫階神社」がある。伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座して宇夫志奈大神として祀られていた。景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇したため、王は宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなって王を導いたという。王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着して難を逃れた為、これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったという。

本殿の裏には御膳岩あるいは初白岩と呼ばれる古代祭祀の遺跡である巨岩が祀られており、町指定天然記念物に指定されている。また境内には天保12年(1829)の百度石や万延2年(1861)の常夜燈などがある。
神社を出ると道は二又に分かれているので、左へ進む。

194号線の高架下を通って直進すると、道は土道になり、その先でなくなってしまっていたので、高架下まで戻って33号線に合流する。合流する所左手に墓地があり、ここに祠があって天保5年(1834)や文化14年(1817)等の石仏が祀られている。11時4分にここを通る。

左手に「岸落地蔵院」がある。ここは二回目の遍路を歩いた時に、朝ホテルから宇多津駅まできて、ここから郷照寺へ向かったのでよく覚えている。

その先で道を間違えて少しウロウロしてしまった。この先で道は二又に分かれており、そこを左折、すぐ先で再び二又に分かれているので、これを右折して進む。

更にその先で道は二又に分かれているので、右へ直進する。

右手に「史跡 駒ケ林 讃岐守細川頼之出陣之地跡」碑が立っている。細川頼之は足利義満の幼少時を補佐した管領で、南北朝の時代、南朝方となったいとこの細川清氏が讃岐に逃れたのでこれを追い、この地で清氏と従者36人討伐したという。 このことからこの地を「三十六古戦場」あるいは「細川将軍戦跡」と呼ばれているという。またその横には旧陸軍墓地があって、西南戦争から満州事変の戦死者が弔われている。
その先で道は二又に分かれているので、右折して進み、土師川に架かる土師川橋を渡る。更にその先で道は二又に分かれているので、右へ進むが、ここの左手に「へんろ道」と刻まれた弘化2年(1845)の道標が立っている。
右手に「真光寺」がある。ここは平安時代に弘法大師が開基したお寺で、崇徳上皇が讃岐に流された時、雲井御所が出来るまで、一時当寺に住まわれたという。ご本尊の千手観音は、その時、沖合に光を放って出現したのを、上皇が安置したものという。慶長6年(1601)領主生駒親正公が丸亀城を築いた際、その城の守護寺として、現在地に移されて今日に至っているという。

JRの高架下を抜けて通町アーケードの中を進み、アーケードが終わる一つ手前の道を左折して進むと、右手に「丸亀本陣跡」がある。

その次の角を右折して進むと、丸亀城大手門に到着する。丸亀城は生駒親正がその子、一正とともに慶長2年(1597)から5年がかりで築いた城で、高さ日本一の石垣を有する「石垣の名城」として有名という。

12時15分に到着する。これで丸亀街道は歩き終わることにする。
本日の歩行時間 4時間17分。
本日の歩数&距離 21180歩、13.7km。
丸亀街道総計
総歩行時間 9時間57分。
総歩数&総距離 53071歩、34.1km
純距離 30.6km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
八十島駅に着き、8時8分に歩き始める。
正面に「白峯宮」があり、その横に「天皇寺」がある。ここは四国遍路七十九番札所で、ここも二回目に四国を歩いた際の記述を参考にしていただければと思い、アドレスを張り付けておきます。
四国遍路七十九番高照院天皇寺
「白峯宮」は讃岐に配流された崇徳天皇が長寛2年(1164)に崩御されたので、同年に造営されたという。江戸時代には四国遍路七十九番札所だったが、明治の神仏分離の折、崇徳院御霊は京都白峯神宮へと戻って、崇徳天皇社は白峰宮となり、天照大神と金山御神体カナヤマビメとカナヤマビコを祀る神社となっている。 また、その時に摩尼珠院は廃寺とされたが、明治20年に筆頭末寺の高照院がその跡に移転し、天皇寺を再興して札所を引き継いだので、現在では天皇寺が七十九番札所になっている。
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白峯宮の境内には安政2年(1855)や寛政3年(1791)の常夜燈が立っており、樹齢500年という御神木の楠の大木が立っている。

境内を抜けると左手に「八十八蘇場の清水」がある。ここには景行天皇の時代に南海で暴れていた悪魚を退治に向かった讃留霊皇子とその部下80人(88人ともいわれる)が悪魚の毒に苦しんだが、この泉の水を汲んだ童子が勇者達に水を飲ませると、たちまち蘇ったので、八十八蘇場の清水と呼ばれるようになったという。また、長寛2年(1164)に崩御した崇徳天皇のご遺体を使者が到着するまでの20数日間、この泉に遺体を浸していたところ全く腐敗しなかったとの言い伝えもあるという。

その先水路に沿って進むと、右へ分岐する道があるところ、右手に「崇徳天皇道 札所へ四丁」と刻まれた道標が立っている。ここは直進する。

金山国道踏切でJRの線路を横断して進むと、右手水路の向こう側に「遍んろ道」と刻まれた道標が立っている。

更にその先で道は二又に分かれている。ここで田尾坂まで南北二つのルートと更に南を通って丸亀城の南に行く三つのルートに分かれるようだが、北側ルートを進むことにする。
右へ進み車道に合流する所、右手に「遍んろ道」と刻まれた道標と「遍んろ道 七十八番 七十九番」と刻まれた道標が並んで立っている。

元町、本町のアーケードを抜けて少し行くと、左手に「すぐ遍路道」「左 こんひら道」と刻まれた道標が立っている。

左手に「金比羅社」がある。

右手に寛政6年(1794)の常夜燈が立っている。

左手に「八幡神社」があり、境内には文政11年(1828)や慶応2年(1866)の常夜燈が立っている。

瀬戸中央自動車道の高架下は公園になっているので、公園の周囲を回るようにして、左から右へ進むが、右手に醤油製造に使われていたという井戸がある。

33号線を横断して進むが、ここの右手に「不動明王」とその横に「加持土砂為三界万霊」と刻まれた明和4年(1767)の碑を安置する祠がある。 9時42分にここを通る。
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そのすぐ先右手に「へんろ道 東坂出町へ 西宇多津町へ」と刻まれた道標が立っている。

その先で道は二又に分かれているので、右へ進むと、右手に「聖通寺井戸(阿伽井戸)」がある。宇多津の北部は中世以降干拓をしてできた土地の為、平地では飲料水が得にくかったが、この井戸だけは貴重な飲料水として珍重されたという。資料によると、江戸時代に付け替えられた井戸枠の内面の側壁には鳥居などが彫られているという。
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T字路の右手に8世紀半ばの太平年間に行基によって釈迦院として創立され、貞観10年(868)に聖宝によって再興されたという「聖通寺」がある。ここの本尊は寺伝によれば聖宝が当寺を再興した際、漁師の網にかかって海中から引き揚げられたものとされ、像にはフジツボが付着しているということだ。参道入口には「金 永代 常夜燈」と刻まれた文政13年(1830)の常夜燈が立っている。街道はT字路を左折して進む。10時ちょうどにここを通る。
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その先33号線に突き当たるところ左手に「七十九番」と刻まれた道標が立っている。

右折してすぐ先を左折、JR予讃線線路の高架下を通って進むと新町に入っていく。ここには古風な街並みが残っている。

突き当りに文政4年(1821)の常夜燈が立っている。街道はここから左へ進むのだが、右手に「伊勢之宮神社」がある。

伊勢之宮神社の境内社として右手に「横潮神社」があり、その前に「横潮大明神」と刻まれた文化14年(1817)の常夜燈が立っている。
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街道に戻って大束川に架かる新町橋を渡って進むと、左に「西光寺」がある。ここの本堂は天保4年(1833)に建立されたものという。

西光寺のすぐ先、右手中央児童公園内に「東 高枩 西 丸亀道」「すく川口」「すくこんひら道」と刻まれた天保9年(1838)の道標が立っている。

左手に「浄泉寺」がある右手に寛政9年(1797)の常夜燈が立っている。

左手に「閻魔堂」があって、「四国一のえんま太王像」という看板が立っており、その横に寛延3年(1750)の「大乗妙典一字一石塚」と刻まれた石碑が立っている。
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その右手に「是より天の社迄一里半」と刻まれた道標が立っている。

すぐ右手に法界平等と刻まれた石仏を安置する祠がある。
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左手に本妙寺があり、その横に溝があって「音水橋」と刻まれた明治21年の石碑が立っている。

その先突き当りに「宇夫階神社」がある。伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座して宇夫志奈大神として祀られていた。景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇したため、王は宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなって王を導いたという。王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着して難を逃れた為、これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったという。

本殿の裏には御膳岩あるいは初白岩と呼ばれる古代祭祀の遺跡である巨岩が祀られており、町指定天然記念物に指定されている。また境内には天保12年(1829)の百度石や万延2年(1861)の常夜燈などがある。
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神社を出ると道は二又に分かれているので、左へ進む。

194号線の高架下を通って直進すると、道は土道になり、その先でなくなってしまっていたので、高架下まで戻って33号線に合流する。合流する所左手に墓地があり、ここに祠があって天保5年(1834)や文化14年(1817)等の石仏が祀られている。11時4分にここを通る。

左手に「岸落地蔵院」がある。ここは二回目の遍路を歩いた時に、朝ホテルから宇多津駅まできて、ここから郷照寺へ向かったのでよく覚えている。

その先で道を間違えて少しウロウロしてしまった。この先で道は二又に分かれており、そこを左折、すぐ先で再び二又に分かれているので、これを右折して進む。

更にその先で道は二又に分かれているので、右へ直進する。

右手に「史跡 駒ケ林 讃岐守細川頼之出陣之地跡」碑が立っている。細川頼之は足利義満の幼少時を補佐した管領で、南北朝の時代、南朝方となったいとこの細川清氏が讃岐に逃れたのでこれを追い、この地で清氏と従者36人討伐したという。 このことからこの地を「三十六古戦場」あるいは「細川将軍戦跡」と呼ばれているという。またその横には旧陸軍墓地があって、西南戦争から満州事変の戦死者が弔われている。
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その先で道は二又に分かれているので、右折して進み、土師川に架かる土師川橋を渡る。更にその先で道は二又に分かれているので、右へ進むが、ここの左手に「へんろ道」と刻まれた弘化2年(1845)の道標が立っている。
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右手に「真光寺」がある。ここは平安時代に弘法大師が開基したお寺で、崇徳上皇が讃岐に流された時、雲井御所が出来るまで、一時当寺に住まわれたという。ご本尊の千手観音は、その時、沖合に光を放って出現したのを、上皇が安置したものという。慶長6年(1601)領主生駒親正公が丸亀城を築いた際、その城の守護寺として、現在地に移されて今日に至っているという。

JRの高架下を抜けて通町アーケードの中を進み、アーケードが終わる一つ手前の道を左折して進むと、右手に「丸亀本陣跡」がある。

その次の角を右折して進むと、丸亀城大手門に到着する。丸亀城は生駒親正がその子、一正とともに慶長2年(1597)から5年がかりで築いた城で、高さ日本一の石垣を有する「石垣の名城」として有名という。

12時15分に到着する。これで丸亀街道は歩き終わることにする。
本日の歩行時間 4時間17分。
本日の歩数&距離 21180歩、13.7km。
丸亀街道総計
総歩行時間 9時間57分。
総歩数&総距離 53071歩、34.1km
純距離 30.6km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)