2019年12月20日(金)
粥見~野中
晴れ
和歌山別街道は江戸時代、和歌山街道が紀州藩の本城と東の領地である松阪城を結ぶ道であったのに対し、本城と田丸城を結ぶ道であった。粥見から分岐した街道は野中で熊野街道(熊野古道伊勢路}と、また田丸で伊勢本街道と合流し、伊勢参宮の道として多くの旅人が利用した道である。今回は熊野街道(熊野古道伊勢路)をすでに歩いているので、野中までを歩いた。
参考資料は「三重県歴史の道調査報告書 初瀬街道 伊勢本街道 和歌山街道」と「みえ街道ウォーキングマップ「を参考にした。
粥見神社を8時1分に出発する。
その先で365号線に合流、櫛田川に架かる桜橋を渡って進む。前回も感じたことなのだが、櫛田川は本当に清流だ。桜橋は大正3年に架けられたものだが、それ以前は舟戸の渡しとして渡し舟があったという。
小川が流れており、不動橋がかかっているが、その左手少し入ったところに「不動堂」がある。
道は山の中に入っていくが、きれいに舗装されており、車の通行量もそれほど多くなくて歩きやすい道だ。
緩やかな上り道を進んでいくと桜峠になる。桜という名前がついているのだが、見る限り桜の木はなかった。
その先で365号線から左へ分岐するが、すぐに365号線に合流、その先で今度は右へ分岐し、すぐ先で365号線を横断して朝柄集落に入っていく。
この辺り太陽光発電のパネルを数多く見かける。日当たりがいいのだろう。
その先で再び365号線を横断して進むと、左手川を渡ったところに大木に囲まれた「五箇谷神社・八柱神社」があるが、由緒はわからなかった。
右手に「和歌山別街道」と書かれた標識が立っている。ここで初めて見たのだが、これから先、何か所か立っていた。
右手に「弘法水」がある。岩の割れ目に水が見えた。
右手に五ケ谷郵便局があり、すぐ先の十字路左手に「右 柳原観音」と刻まれた道標が立っている。ここが丹生方面と色太方面の追分になるという。9時59分にここを通る。
すぐ先で道は二又に分かれているので、左へ進む。ここに「丹生大師 3.5㎞」と書かれた近畿自然歩道の標識が立っている。
古江の信号で368号線を横断するが、ここに先ほどあった「和歌山別街道」の標識が立っている。
櫛田川沿いの静かな道を進んでいく。鮎釣りが行われているようで、「6月第3日曜より8月1日正午まで 友釣だけです」と書かれた看板が立っている。
、「立梅用水」がある。これは庄屋西村家と長谷川家が主唱して文政6年(1823)に完成させたものという。
櫛田川が左手に見えるが、10mあるという岩崖が直立しており、雄大な景観である。おかね淵、行者淵、地蔵淵といった名前が残っているという。
その先で道は二又に分かれており、その左手に資料によると文政4年(1821)の「南無阿弥陀仏碑」と文政11年(1828)の「線刻地蔵菩薩碑」が立っている。「立梅用水」を造ることに尽力した当時庄屋だった西村家と長谷川家の息子二人が水死したという言い伝えがあり、水利をめぐる各村の思惑や工事進行上の争いに巻き込まれての変死だったと想像され、無念の死を遂げた二人のための供養碑という。
街道は右へ421号線を進み、その先の二又を左へ直進する。ここにも和歌山別街道の標識が立っている。
左手に「神宮寺三世の墓地」の看板が立っている。弘法大師の弟子である真紹律師の墓地で、「真紹僧都御廟」の碑、常夜燈、寛永年中にこの地に移転されたという宝篋印塔があり、資料によるとこの塔の下に数体の南花首無石仏群と同類の大師像が安置されているという。
その先で道は左折するのだが、この角に和歌山別街道の標識が立っている。ただ、この標識の矢印は右へ進むように見えるので要注意だ。ここは左折して細道を進む。
すぐ左手にあるのが集会所で、その前に指差印の「すぐさんぐう道」と刻まれた道標がある。
左手に「香念寺」があり、その裏手に「持佛堂」があって、石仏が安置されているが、その中に首がない大師像がある。10時49分にここを通る。
ここから右折して先ほどまで歩いてきた道に合流すると、左手に「旧丹生村庄屋 長谷川家」の標識がある。長谷川家は貞享年間に医者で丹生神社の社殿造営に力を注いだという。
右手に旧庄屋で、立梅用水の発起人だった「西村家」があり、西村彦左衛門のまだ新しい銅像が立っている。立梅用水は江戸時代、水不足に苦しむ丹生村を窮状を救うために西村彦左衛門が発案、最初の請願から15年後、3年の難工事の末に完成した全長28㎞に及ぶ灌漑用水で、当時の用水開削の技術を知るうえで貴重なものといい、国の登録記念物に指定されている。
その先のT字路に「右 いせさんくう」「左 よしのかうや」以下埋もれている道標があるので、ここを右折する。
この辺りは「桶や」「松助うどんや」などと昔の屋号を出している家が多い。
五差路があり、右から2番目の道を進むと右手に「大師の湯」があり、その横に「弘法大師の加持の井戸」がある。
正面に享保元年(1716)に創建された神宮寺の「仁王門」が見え、3m近い仁王像が安置されている。近くに「令和元年 仁王門落慶」の旗が立っていたので、改修が行われたのだろう。
仁王門に向かって左手に「左 よしのかうや(以下埋)」「右 いせさんぐうみ(以下埋)」と刻まれた道標が立っている。
神宮寺は宝亀5年(774)に開創されたお寺で、伝説によると弘仁元年(810)唐から帰国した空海は、諸国を巡拝し真言密教を広める聖地を丹生に決めた。ところが唐から空海が投げた三鈷が力強く投げすぎたため、最初丹生に飛来したが、跳ね返って高野山まで届いてしまった。そのため高野山が真言宗の拠点になったと伝えられているという。
本堂は延宝年間(1673~1681)に建立されている。また護摩堂は宝暦13年(1763)に建立されている。
また天正18年(1590)に建立され、貞享年間(1684~1688)に再建された大師堂や寛永年間(1624~1644)に建立された客殿等歴史を刻んだ建物が多い。
その奥に継体天皇16年(523)に創建されたという式内社「丹生神社」がある。聖武天皇が東大寺大仏殿の建立の際、水銀の産出をこの地の神に祈ると、たちまち水銀が湧出したので丹生明神と名づけたという。また嵯峨天皇が降雨を祈ったら霧雨があり、晴れを祈ったら、晴れたという故事から丹生大明神は祈雨、祈晴の神ともいわれているという。
参道に「丹生津比売・弘法大師対面石」なるものがある。11時27分にここを通る。
右手に文明年間(1469~1486)に造られたという「六地蔵石幢」と貞享年間(1684~1689)に造られたという常夜燈が並んで立っている。
旧道はここから右折するようだが、その先で道は失われているようなので、そのまま直進し、次の十字路を右折するが、この右角に「すぐまつさかみち」「右 いせミち」「左 よしのかうや道」と刻まれた道標が立っている。
左手に地蔵尊とその周りに一石五輪が10基ほど集められている。資料によると地蔵尊の台座に「左 はせかんおんちか道 是九丁こんござ寺 てんけいへかけぬけ」と刻まれているようで、土地の人は縁切り地蔵として信仰しているという。
その先で左折して坂道を上って行き、T字路を右折して進み、その先で二又に分かれているところ左手に「山ノ神」がある。
ここを左折して進むと、左手に資料によると「長谷観音道是より五丁 丹生へかけぬけ」「すぐさんぐう道」「伊勢巡礼第十一番 山となる初瀬の寺も是も又おなじ御法の道にこそ入れ」と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。ご近所の方の話では、ここから左折して急な坂道を20分ほど登った所に近長谷寺があるそうだが、一目見て急な坂道であり、膝が悪いので参拝することをあきらめて先へ進むことにする。12時7分にここを通る。
その先で舗装された道を横断して山道に入る。ここは一応舗装されてはいるが、あまり人が歩かない感じの道で、木漏れ日の中を気持ちよく歩いていく。
T字路に来ると、ここに「右 いせ 」「左 あふか みち」と刻まれた道標地蔵がある。この地蔵尊は元から首がなく、首欠け地蔵とも呼ばれていた。かって盗賊に襲われた旅人の身代わりになって、このお地蔵さんが首を落とし、おかげで旅人は助かったといわれているという。その後地元の人が首のかわりに手ごろな石を据えたので、現在は首が付いている。
ここを右折して進むと、左手に「弘法大師像」があり、台座に三界万霊と刻まれている。ここは昭和初期まで傍らから清水が湧き出ており、村人の喉を潤していたと資料に書かれているが、確かに水が流れ出ていて道路が濡れていた。
右手、水路を挟んで向こう側に「右 かうや道 左 くまの道」と刻まれた道標が立っている。昭和63年に川底から発見され、再建されたという。
次の十字路を左折して進むが、ここには「和歌山別街道」の標識が立っている。
その先、前村の看板があり、「平谷 ↑」「長谷 ←」「神坂 ←」の表示板がある。
ここから少し左手に入ったところに、資料によると「金剛座寺観世音より十一丁」「昔より菩提の樹それながら出し仏の影ぞ残れる伊勢巡礼十番札所」と刻まれた嘉永3年(1850)の道標と「金剛座寺道」と刻まれた自然石の道標が立っている。後者の道標が古くからあったのだが、一旦放置されていて、昭和57年に再び建てられたという。
左手に「馬頭観音」がある。この辺りには明治半ばまで、旅人送迎用の馬や駕篭の屯所があったと書かれた説明板が立っている。このあたりはこうした説明板が頻繁に立っていてわかりやすい。
右手に佐奈駅を見ながら進み、仁田踏切でJRの線路を横断すると、右手に佐奈神社がある。ここの境内には祭祀や力試しに使われていたという「力石」や江戸時代からあるという「夫婦杉」がある。13時20分にここを通る。
その先の信号を渡った左手に「右 相可口駅田丸ヲ経テ山田ニ至ル」「左 相可町ヲ経テ松阪ニ至ル」と刻まれた道標が立っている。これは明治20年に開設された新熊野道との分岐点を示す道標で、当時皇太子だった昭和天皇の結婚を記念して大正13年に建てられたという。
ここを左折、次の角を右折して進むと、左手に大師坐像と地蔵尊を安置する祠と弘法井戸がある。井戸は二つあったことから「ふたついど」と呼ばれているという。水がきれいで金魚が泳いでいる。
入り組んだ住宅街の細道を進んでいくと、右手に「道標地蔵」があり、「よしの道」と刻まれ、台座には「三界萬霊」と刻まれている。
一旦13号線に合流、その先で右へ分岐して灌漑用水池の堤の上を進むと、左手に石仏が二体ある。
その先で13号線に合流、更にその先で左へ分岐、再び13号線に合流、その先で13号線から左へ分岐して墓地の周囲を回り込むようにして進み、13号線を横断したところで、熊野街道(熊野古道伊勢路)に合流する。ここに「右 よしのかうや道」「すくさんくう道」「左 さいこく道」と刻まれた天保4年(1833)の道標が立っている。14時13分にここに着く。ここから先は熊野街道(熊野古道伊勢路)を歩いているので、ここで歩き終わることにする。
そのすぐ先に慶長10年(1605)に建立されたという「永昌寺」がある。ここの境内には、紀州の殿様行列の折り、行列の進行があまりに遅かったため、旅人が土下座したまま居眠りをしてしまい、それを見つけた警護の侍に打ち首になってしまった。このことをあわれに思った村人が祀ったといわれる「眠り地蔵」がある。またお寺の横には昭和初期に再建されたという大日堂があるが、その前に江戸時代中期の作と言われる石燈籠と辻地蔵がある。
本日の歩行時間 6時間12分。
本日の歩数&距離 35168歩、22.9km。
本日の純距離 21.7km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
和歌山別街道は江戸時代、和歌山街道が紀州藩の本城と東の領地である松阪城を結ぶ道であったのに対し、本城と田丸城を結ぶ道であった。粥見から分岐した街道は野中で熊野街道(熊野古道伊勢路}と、また田丸で伊勢本街道と合流し、伊勢参宮の道として多くの旅人が利用した道である。今回は熊野街道(熊野古道伊勢路)をすでに歩いているので、野中までを歩いた。
参考資料は「三重県歴史の道調査報告書 初瀬街道 伊勢本街道 和歌山街道」と「みえ街道ウォーキングマップ「を参考にした。
粥見神社を8時1分に出発する。
その先で365号線に合流、櫛田川に架かる桜橋を渡って進む。前回も感じたことなのだが、櫛田川は本当に清流だ。桜橋は大正3年に架けられたものだが、それ以前は舟戸の渡しとして渡し舟があったという。
小川が流れており、不動橋がかかっているが、その左手少し入ったところに「不動堂」がある。
道は山の中に入っていくが、きれいに舗装されており、車の通行量もそれほど多くなくて歩きやすい道だ。
緩やかな上り道を進んでいくと桜峠になる。桜という名前がついているのだが、見る限り桜の木はなかった。
その先で365号線から左へ分岐するが、すぐに365号線に合流、その先で今度は右へ分岐し、すぐ先で365号線を横断して朝柄集落に入っていく。
この辺り太陽光発電のパネルを数多く見かける。日当たりがいいのだろう。
その先で再び365号線を横断して進むと、左手川を渡ったところに大木に囲まれた「五箇谷神社・八柱神社」があるが、由緒はわからなかった。
右手に「和歌山別街道」と書かれた標識が立っている。ここで初めて見たのだが、これから先、何か所か立っていた。
右手に「弘法水」がある。岩の割れ目に水が見えた。
右手に五ケ谷郵便局があり、すぐ先の十字路左手に「右 柳原観音」と刻まれた道標が立っている。ここが丹生方面と色太方面の追分になるという。9時59分にここを通る。
すぐ先で道は二又に分かれているので、左へ進む。ここに「丹生大師 3.5㎞」と書かれた近畿自然歩道の標識が立っている。
古江の信号で368号線を横断するが、ここに先ほどあった「和歌山別街道」の標識が立っている。
櫛田川沿いの静かな道を進んでいく。鮎釣りが行われているようで、「6月第3日曜より8月1日正午まで 友釣だけです」と書かれた看板が立っている。
、「立梅用水」がある。これは庄屋西村家と長谷川家が主唱して文政6年(1823)に完成させたものという。
櫛田川が左手に見えるが、10mあるという岩崖が直立しており、雄大な景観である。おかね淵、行者淵、地蔵淵といった名前が残っているという。
その先で道は二又に分かれており、その左手に資料によると文政4年(1821)の「南無阿弥陀仏碑」と文政11年(1828)の「線刻地蔵菩薩碑」が立っている。「立梅用水」を造ることに尽力した当時庄屋だった西村家と長谷川家の息子二人が水死したという言い伝えがあり、水利をめぐる各村の思惑や工事進行上の争いに巻き込まれての変死だったと想像され、無念の死を遂げた二人のための供養碑という。
街道は右へ421号線を進み、その先の二又を左へ直進する。ここにも和歌山別街道の標識が立っている。
左手に「神宮寺三世の墓地」の看板が立っている。弘法大師の弟子である真紹律師の墓地で、「真紹僧都御廟」の碑、常夜燈、寛永年中にこの地に移転されたという宝篋印塔があり、資料によるとこの塔の下に数体の南花首無石仏群と同類の大師像が安置されているという。
その先で道は左折するのだが、この角に和歌山別街道の標識が立っている。ただ、この標識の矢印は右へ進むように見えるので要注意だ。ここは左折して細道を進む。
すぐ左手にあるのが集会所で、その前に指差印の「すぐさんぐう道」と刻まれた道標がある。
左手に「香念寺」があり、その裏手に「持佛堂」があって、石仏が安置されているが、その中に首がない大師像がある。10時49分にここを通る。
ここから右折して先ほどまで歩いてきた道に合流すると、左手に「旧丹生村庄屋 長谷川家」の標識がある。長谷川家は貞享年間に医者で丹生神社の社殿造営に力を注いだという。
右手に旧庄屋で、立梅用水の発起人だった「西村家」があり、西村彦左衛門のまだ新しい銅像が立っている。立梅用水は江戸時代、水不足に苦しむ丹生村を窮状を救うために西村彦左衛門が発案、最初の請願から15年後、3年の難工事の末に完成した全長28㎞に及ぶ灌漑用水で、当時の用水開削の技術を知るうえで貴重なものといい、国の登録記念物に指定されている。
その先のT字路に「右 いせさんくう」「左 よしのかうや」以下埋もれている道標があるので、ここを右折する。
この辺りは「桶や」「松助うどんや」などと昔の屋号を出している家が多い。
五差路があり、右から2番目の道を進むと右手に「大師の湯」があり、その横に「弘法大師の加持の井戸」がある。
正面に享保元年(1716)に創建された神宮寺の「仁王門」が見え、3m近い仁王像が安置されている。近くに「令和元年 仁王門落慶」の旗が立っていたので、改修が行われたのだろう。
仁王門に向かって左手に「左 よしのかうや(以下埋)」「右 いせさんぐうみ(以下埋)」と刻まれた道標が立っている。
神宮寺は宝亀5年(774)に開創されたお寺で、伝説によると弘仁元年(810)唐から帰国した空海は、諸国を巡拝し真言密教を広める聖地を丹生に決めた。ところが唐から空海が投げた三鈷が力強く投げすぎたため、最初丹生に飛来したが、跳ね返って高野山まで届いてしまった。そのため高野山が真言宗の拠点になったと伝えられているという。
本堂は延宝年間(1673~1681)に建立されている。また護摩堂は宝暦13年(1763)に建立されている。
また天正18年(1590)に建立され、貞享年間(1684~1688)に再建された大師堂や寛永年間(1624~1644)に建立された客殿等歴史を刻んだ建物が多い。
その奥に継体天皇16年(523)に創建されたという式内社「丹生神社」がある。聖武天皇が東大寺大仏殿の建立の際、水銀の産出をこの地の神に祈ると、たちまち水銀が湧出したので丹生明神と名づけたという。また嵯峨天皇が降雨を祈ったら霧雨があり、晴れを祈ったら、晴れたという故事から丹生大明神は祈雨、祈晴の神ともいわれているという。
参道に「丹生津比売・弘法大師対面石」なるものがある。11時27分にここを通る。
右手に文明年間(1469~1486)に造られたという「六地蔵石幢」と貞享年間(1684~1689)に造られたという常夜燈が並んで立っている。
旧道はここから右折するようだが、その先で道は失われているようなので、そのまま直進し、次の十字路を右折するが、この右角に「すぐまつさかみち」「右 いせミち」「左 よしのかうや道」と刻まれた道標が立っている。
左手に地蔵尊とその周りに一石五輪が10基ほど集められている。資料によると地蔵尊の台座に「左 はせかんおんちか道 是九丁こんござ寺 てんけいへかけぬけ」と刻まれているようで、土地の人は縁切り地蔵として信仰しているという。
その先で左折して坂道を上って行き、T字路を右折して進み、その先で二又に分かれているところ左手に「山ノ神」がある。
ここを左折して進むと、左手に資料によると「長谷観音道是より五丁 丹生へかけぬけ」「すぐさんぐう道」「伊勢巡礼第十一番 山となる初瀬の寺も是も又おなじ御法の道にこそ入れ」と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。ご近所の方の話では、ここから左折して急な坂道を20分ほど登った所に近長谷寺があるそうだが、一目見て急な坂道であり、膝が悪いので参拝することをあきらめて先へ進むことにする。12時7分にここを通る。
その先で舗装された道を横断して山道に入る。ここは一応舗装されてはいるが、あまり人が歩かない感じの道で、木漏れ日の中を気持ちよく歩いていく。
T字路に来ると、ここに「右 いせ 」「左 あふか みち」と刻まれた道標地蔵がある。この地蔵尊は元から首がなく、首欠け地蔵とも呼ばれていた。かって盗賊に襲われた旅人の身代わりになって、このお地蔵さんが首を落とし、おかげで旅人は助かったといわれているという。その後地元の人が首のかわりに手ごろな石を据えたので、現在は首が付いている。
ここを右折して進むと、左手に「弘法大師像」があり、台座に三界万霊と刻まれている。ここは昭和初期まで傍らから清水が湧き出ており、村人の喉を潤していたと資料に書かれているが、確かに水が流れ出ていて道路が濡れていた。
右手、水路を挟んで向こう側に「右 かうや道 左 くまの道」と刻まれた道標が立っている。昭和63年に川底から発見され、再建されたという。
次の十字路を左折して進むが、ここには「和歌山別街道」の標識が立っている。
その先、前村の看板があり、「平谷 ↑」「長谷 ←」「神坂 ←」の表示板がある。
ここから少し左手に入ったところに、資料によると「金剛座寺観世音より十一丁」「昔より菩提の樹それながら出し仏の影ぞ残れる伊勢巡礼十番札所」と刻まれた嘉永3年(1850)の道標と「金剛座寺道」と刻まれた自然石の道標が立っている。後者の道標が古くからあったのだが、一旦放置されていて、昭和57年に再び建てられたという。
左手に「馬頭観音」がある。この辺りには明治半ばまで、旅人送迎用の馬や駕篭の屯所があったと書かれた説明板が立っている。このあたりはこうした説明板が頻繁に立っていてわかりやすい。
右手に佐奈駅を見ながら進み、仁田踏切でJRの線路を横断すると、右手に佐奈神社がある。ここの境内には祭祀や力試しに使われていたという「力石」や江戸時代からあるという「夫婦杉」がある。13時20分にここを通る。
その先の信号を渡った左手に「右 相可口駅田丸ヲ経テ山田ニ至ル」「左 相可町ヲ経テ松阪ニ至ル」と刻まれた道標が立っている。これは明治20年に開設された新熊野道との分岐点を示す道標で、当時皇太子だった昭和天皇の結婚を記念して大正13年に建てられたという。
ここを左折、次の角を右折して進むと、左手に大師坐像と地蔵尊を安置する祠と弘法井戸がある。井戸は二つあったことから「ふたついど」と呼ばれているという。水がきれいで金魚が泳いでいる。
入り組んだ住宅街の細道を進んでいくと、右手に「道標地蔵」があり、「よしの道」と刻まれ、台座には「三界萬霊」と刻まれている。
一旦13号線に合流、その先で右へ分岐して灌漑用水池の堤の上を進むと、左手に石仏が二体ある。
その先で13号線に合流、更にその先で左へ分岐、再び13号線に合流、その先で13号線から左へ分岐して墓地の周囲を回り込むようにして進み、13号線を横断したところで、熊野街道(熊野古道伊勢路)に合流する。ここに「右 よしのかうや道」「すくさんくう道」「左 さいこく道」と刻まれた天保4年(1833)の道標が立っている。14時13分にここに着く。ここから先は熊野街道(熊野古道伊勢路)を歩いているので、ここで歩き終わることにする。
そのすぐ先に慶長10年(1605)に建立されたという「永昌寺」がある。ここの境内には、紀州の殿様行列の折り、行列の進行があまりに遅かったため、旅人が土下座したまま居眠りをしてしまい、それを見つけた警護の侍に打ち首になってしまった。このことをあわれに思った村人が祀ったといわれる「眠り地蔵」がある。またお寺の横には昭和初期に再建されたという大日堂があるが、その前に江戸時代中期の作と言われる石燈籠と辻地蔵がある。
本日の歩行時間 6時間12分。
本日の歩数&距離 35168歩、22.9km。
本日の純距離 21.7km。(途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)