2019年06月11日(火)
枚方宿~高麗橋
曇
7時15分に出発する。
すぐ先に「宗左の辻」がある。「宗左の辻」「東見附」「かささぎ橋」と刻まれたまだ新しい道標と「右 大坂ミち」「右 くらじたき 四十三丁」「左 京 六り 也王多 二り」「願主 大阪」(ここも大坂ではなくて大阪となっている)と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。この辻に製油業を営んでいた角野宗左の屋敷があったことから「宗左の辻」と呼ばれてきたという。宿場町につきものの飯盛り女と呼ばれる私娼がこの辻までお客を見送ったことから「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」という俗謡が残っているという。
「京街道と枚方宿」の説明板が立っている。またすぐ先に京街道枚方宿の案内図が立っている。
右手に「妙見宮」「天下泰平」「驛内安全」と刻まれた嘉永7年(1854)の「妙見宮常夜燈」が立っている。
左手に「枚方宿高札場跡 札の辻」の石柱が立っている。
その先の十字路が本陣跡で現在はちょっとした公園になっている。
三矢公園に「明治天皇御昼餐所」の碑が立っている。
このあたり、いかにも歴史を感じさせる旧家が建っている。
右手「浄念寺」の前に「浄土真宗と枚方寺内町」の案内板が立っている。それによると浄土真宗と枚方はゆかりが深く、戦国時代に本願寺の寺院として順興寺が建立されたことに始まるという。やがて本願寺の衰退とともに順興寺は廃され、寺内町は衰退した。その後本願寺は東西に分裂したが、天和2年(1682)に東本願寺は枚方に再興した寺院に願生坊の名を与え、また西本願寺も浄念寺を本寺兼帯所(本山直轄の寺院)として特別の扱いをしたという。地域の人々は願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊と呼んだと説明されている。浄念寺のところは桝形になっていて、右折しすぐ先で左折して進む。
右手に「枚方宿鍵屋資料館」があるが、朝が早いということもあるし、そもそも火曜日は休館日ということで閉まっていた。7時42分にここを通る。
右手に「西目附」の案内板が立っており、ここで枚方宿は終わる。枚方宿は街道がカラー舗装されていてわかりやすいのだが、ここからカラー舗装は右へ進んでいる。しかし調べた道は左折するはずなので、ここから左折、次のY字路を右へ進んでいったが、これが正解だった。
ちょうど子供たちの登校途中の時間だったようで、一列に並んで子供たちが登校している。最近このような列に高齢者の乗った車が突っ込む事故が頻発していることを思い出す。もうあのような悲劇は起こらないようにしたいものだとつくづく思う。
伊加賀西町の信号で13号線に出、すぐ先で左折して進んでいき、その先で右折すると正面に「光善寺」がある。ここは文明7年(1475)蓮如上人が越前吉崎から京に戻って来た時、途中滞留したこの地に創建したという。門前に「蓮如上人御腰掛石跡 是より二丁」と刻まれた石柱が立っている。8時10分にここを通る。
光善寺の少し手前から左折して進むと、左手に「蓮如上人御腰掛石」がある。
その先Y字路があるところ左手に「磋だ天満宮お旅所」がある。磋だ神社は菅原道真が大宰府に流されるとき、この地で休憩したが、後を追う娘の苅屋媛はあと少しのところで間に合わず足摺り(磋?)して嘆いたという。このことを聞いた道真は自身の木像を作って送ったので、蹉だでその木像を祀ったのが、磋だ神社の始まりという。
その先で淀川の堤防に上がる手前左手に地蔵堂がある。8時27分にここを通る。
ここからi茨田堤を歩いていくのだが、ちょうど堤の工事中で堤を歩くことができなかったので、すぐ下の河川敷を歩いていく。この堤は仁徳天皇が淀川沿いに築かせた堤防で、日本最初の大規模な土木工事だったを言われている。
車が通らないので静かで、うぐいすの鳴き声が聞こえて気持ちのいい道だ。
仁和寺大橋のところで工事が終わっていたので、ここから堤に上って進む。その先で堤から左へ下って「佐田神社」へ向かう。ここは菅原道真が大宰府へ流されるときに逗留したところで、その時に自作の木像や自画像を残されたと伝えられている。道真の死後50年の天暦年間(947~957)に道真公を偲んで祠が建てられたのが当社の創建という。現在の本殿は寛永17年(1740)に、拝殿、幣殿等は慶安元年(1648)に造営されたといい、大阪府の有形文化財に指定されている。入口の鳥居の上部がなくなっていて、石柱のみが立っている。その下に「佐太天満宮 一丁半」と刻まれた万延元年(1860)の指先道標が立っている。9時37分にここを通る。
神社の横に「来迎寺」がある。ここは正平2年(1347)佐太派の本山として守口市来迎町に建立されたが、その後、同寺の独自の相続法によって、300年余の中で住職が変わる度に26回も所在地を移したが、延宝6年(1678)に現在地に移転して今日に至っているという。その都度建設をするとなると大変な出費だっただろうと思うが、当時の寺院の強大な権勢を感じさせる習わしでもある。境内には守口市の保存樹木の松の木がある。
境内奥の池の向こう側に嘉元2年(1304)の十三重塔が立っており、大阪府指定有形文化財になっている。また勅使門もある。
堤に戻って進んでいき、その先で左へ分岐して10時29分に堤を下る。ほぼ2時間堤を歩いたことになる。
守口市水道局の建物の手前から右折して進む。右手に守口市浄水場がある。左手に公園があり、その先から右折して進む。次の角に「智眼地蔵」があるところから左折して進むと、右手に「京街道」の標識がある。
左手に守口東高校がある先の信号から155号線から分岐して右斜めに進んで行くと、京街道の標識が立っている。その先の信号で155号線を再び横断して進むと、左手マンションの植え込みの中に「京街道 大名行列 一里塚」と刻まれたモニュメントがある。
その先右手に「一里塚跡碑」がある。
浜町の信号のすぐ先左手の道の両側に「かめはし」の親柱があり、それぞれ「かめはし」「瓶橋」と刻まれている。
左手に「盛泉寺」がある。ここは東本願寺の末寺で「東御坊」と呼ばれている。本堂は天保6年(1835)に再建されたというが、門が閉まっていて中を見ることはできなかった。門前に明治天皇が明治元年に大阪を行幸された際の「史蹟 内侍奉安所址」碑と「明治天皇聖蹟」碑が立っている。
角に「難宗寺」があり、太鼓楼の前に「すく守口街道」「すく京」「左 京」「右 大」と刻まれた道標が2本と「御行在所」「御仮泊所」と刻まれた石柱が2本並んで建っている。難宗寺は蓮如上人が文明9年(1477)に創建した守口御坊が始まりと伝えられており、慶長16年(1611)に本願寺掛所に昇格し、盛泉寺の東御坊に対して、「西御坊」と呼ばれるようになった。現在の本堂は文化7年(1810)に再建されたものという。境内には樹齢500年と言われるイチョウの巨木が立っている。11時7分にここを通る。
難宗寺のすぐ近くが守口宿の本陣があったところのようだが、遺構はなにも残っていない。
八島の信号で1号線に突き当たる。ここから左折して進むが、少し坂を上る感じになる。これが文禄堤の痕跡ということだ。右手に川東提灯店がある。文禄堤の説明板が立っており、それによるとこの堤は豊臣秀吉が治水と京街道の整備を目的として修築した淀川左岸の堤防で文禄5年(1596)に修築が行われたことから文禄堤と呼ばれていると書かれている。
左手に来迎坂と呼ばれる細い石段があり、その降り口に「右 なら のざきみち」と刻まれた小さな道標がある。この道は難宗寺の南側を経て旧奈良街道(後の守口街道)に通じ、宿場ができる以前からある守口では最も古い街道ということだ。
左手に高札場が再現されている。
守居橋があり、ここからだと文禄堤の高さがわかると思って写真を撮った。こうしてみると堤はかなりの高さにあるということがわかる。
右手に「義天寺」がある。仏立宗宗祖の日扇証人は淀川を船で下る途中、堤下の船着き場から当時街道筋にあった茶店丁字屋の屋敷に上がり、そこで休息して亡くなったので、この地に義天寺が建立されたという。門の横に大きな題目石が立っている。これは野江の刑場にあったもので、野江で処刑された豊臣の残党を弔って建てられたもので、明治の後半にここに移されたという。11時29分にここを通る。
ここから先も資料によって道は異なっているが、守居神社を見ようと思って直進した。土居駅前商店街のアーケードの中を通っていくと、その最後のところに食堂があったので、ここで昼食にする。昼食を終わってアーケードを抜けて進んだのだが、守居神社がない。おかしいなと思ってちょうどおられたご近所の方にお聞きすると、アーケードの中を左折したところにあると教えていただいたので後戻る。アーケードを抜けた先にあるものと思い込んでいたので、失敗だった。
義天寺からくると、アーケードの中ほどから左折したところに「守居神社」はあった。ここは醍醐天皇延喜18年(918)の大洪水で周囲が湖のようになったとき「我は天道神なり。この地に来て人民を救おう」という素戔鳴尊、三輪明神、日吉権現、新羅明神らのお告げがあって、土を高く築いて神々をお祀りしたのが起源と言われる神社で、淀川流域の守護神として祀られていた。地名を土居の庄と称していたことから昔は土居神社と称号されていたという。明治になって守口の土居にある神社ということから守居神社と呼ばれるようになったという。境内には享保7年(1722)の鳥居や常夜燈が立っている。12時18分にここを通る。
アーケードに戻って、次の角を右折して進むと、左手に「実悟上人荼毘所旧跡」がある。実悟上人は蓮如上人の息男で、布教、著作にあたっていたが、93歳で亡くなったので、この地でご遺体を荼毘に付したという。
そのすぐ右手に「景星地蔵尊」を祀る祠がある。
1号線に合流して進み、今市の信号から1号線から分岐して直進し、すぐ先から左折して今市1北の信号を横断して細道に入る。この場所も資料によって道が異なっている。
右手に「木犀の陣屋跡」の説明板が立っている。昔、浅田家という屋敷があり、その庭園に見事な木犀が三本あり、季節には蒲生や関目まで香りを漂わせていたので、それを愛でた十四代将軍徳川家茂が浅田家に宿泊、多くの大名も守口宿に泊まる際は浅田家に宿泊したという。ただ遺構は何も残っていない。
千林商店街のアーケードを抜けて進むが、この辺り「京かいどう」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。
関目5丁目の信号で左折、すぐ先で右折して細道を通るが、この辺りは七曲りと呼ばれて道が入り組んでいるが、道標が随所に立っているのでわかりやすかった。
「大宮神社の一の鳥居」の説明板が立っている。昔この場所に京街道から大宮神社への参道を示す「一の鳥居」があったという。遺構は何も残っていない。その先で都島通りに合流する。更に 野江国道筋商店街を抜けた所で都島通りから右斜めに分岐して進むと右手に「京街道」の道標が立っており、京橋口から2.3kmと書かれている。この辺りも野江の七曲りといわれて左折、右折を繰り返して進む。
城北筋と呼ばれる通りに出て左折、その先の野江4の信号で都島通に出て右折、野江3の信号の手前から左折してして進み、その先で道は二本に別れているので、これの右へ進む。
そのすぐ先右手に「榎並地蔵」がある。ここはいつごろから祀られるようになったのかは不明だが、地蔵堂内に「者し向 右 可も 今 ふく(=橋向こうを右へ 蒲生 今福という意味という)」と刻まれた江戸中期以降に造られたと思われる道しるべが発見されたという。13時33分にここを通る。
リブストリートという商店街のアーケードの中を進むが、その中で道は二股に分かれているところに「京かいどう」の案内板が立っている。
ここを右へ進むと、右手に昇進ビルがあり、その前に「左 京みち」「右 大和な(ら)」「のさ(き)」と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。
ここを左へ進み、京阪モールの先で線路の高架下を通り、その先で右折して線路沿いに進んでいくと、左手に「のだばし址」碑が立っている。
14時15分に京橋を渡って進むのだが、ここは大阪から京都へ向かう最初の橋だったので「京橋」と呼ばれたという。秀吉が整備した京街道の起点はこの京橋だった。ここで道を間違えた。右手に日本経済新聞社の社屋があり、その裏を進むのだが、そのまま直進してしまったのだ。大阪城とそのお堀を見て、久しぶりだなぁなどとのんきな感想を持ちながら歩いて行ったのだが、右手に大阪府庁の庁舎が見えてきて間違いに気が付いた。そこから後もどって日本経済新聞社の裏を通って京橋まで出て道を確認して歩きなおした。京街道は京橋を渡ってすぐに右折しなければいけなかったのだ。
土佐堀通りを進んでいくと左手に永田屋昆布店があり、その前に「八軒屋船着場跡」碑が立っている。
そのすぐ先左手に「熊野かいどう」碑が立っている。どちらも熊野古道紀伊路を歩いた際に見たところだ。
14時57分に高麗橋に着く。ここに「里程元標跡」碑が立っている。「明治時代に高麗橋東詰に里程元標がおかれ、西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われた」と刻まれている。これで京街道を無事踏破することができた。
本日の歩行時間 7時間42分。
本日の歩数&距離 39930歩、27km。
京街道総合計総計
総歩行時間 18時間27分。
総歩数&総距離 97962歩、65km。
総純距離 57.6km。 (途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)
7時15分に出発する。
すぐ先に「宗左の辻」がある。「宗左の辻」「東見附」「かささぎ橋」と刻まれたまだ新しい道標と「右 大坂ミち」「右 くらじたき 四十三丁」「左 京 六り 也王多 二り」「願主 大阪」(ここも大坂ではなくて大阪となっている)と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。この辻に製油業を営んでいた角野宗左の屋敷があったことから「宗左の辻」と呼ばれてきたという。宿場町につきものの飯盛り女と呼ばれる私娼がこの辻までお客を見送ったことから「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」という俗謡が残っているという。
「京街道と枚方宿」の説明板が立っている。またすぐ先に京街道枚方宿の案内図が立っている。
右手に「妙見宮」「天下泰平」「驛内安全」と刻まれた嘉永7年(1854)の「妙見宮常夜燈」が立っている。
左手に「枚方宿高札場跡 札の辻」の石柱が立っている。
その先の十字路が本陣跡で現在はちょっとした公園になっている。
三矢公園に「明治天皇御昼餐所」の碑が立っている。
このあたり、いかにも歴史を感じさせる旧家が建っている。
右手「浄念寺」の前に「浄土真宗と枚方寺内町」の案内板が立っている。それによると浄土真宗と枚方はゆかりが深く、戦国時代に本願寺の寺院として順興寺が建立されたことに始まるという。やがて本願寺の衰退とともに順興寺は廃され、寺内町は衰退した。その後本願寺は東西に分裂したが、天和2年(1682)に東本願寺は枚方に再興した寺院に願生坊の名を与え、また西本願寺も浄念寺を本寺兼帯所(本山直轄の寺院)として特別の扱いをしたという。地域の人々は願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊と呼んだと説明されている。浄念寺のところは桝形になっていて、右折しすぐ先で左折して進む。
右手に「枚方宿鍵屋資料館」があるが、朝が早いということもあるし、そもそも火曜日は休館日ということで閉まっていた。7時42分にここを通る。
右手に「西目附」の案内板が立っており、ここで枚方宿は終わる。枚方宿は街道がカラー舗装されていてわかりやすいのだが、ここからカラー舗装は右へ進んでいる。しかし調べた道は左折するはずなので、ここから左折、次のY字路を右へ進んでいったが、これが正解だった。
ちょうど子供たちの登校途中の時間だったようで、一列に並んで子供たちが登校している。最近このような列に高齢者の乗った車が突っ込む事故が頻発していることを思い出す。もうあのような悲劇は起こらないようにしたいものだとつくづく思う。
伊加賀西町の信号で13号線に出、すぐ先で左折して進んでいき、その先で右折すると正面に「光善寺」がある。ここは文明7年(1475)蓮如上人が越前吉崎から京に戻って来た時、途中滞留したこの地に創建したという。門前に「蓮如上人御腰掛石跡 是より二丁」と刻まれた石柱が立っている。8時10分にここを通る。
光善寺の少し手前から左折して進むと、左手に「蓮如上人御腰掛石」がある。
その先Y字路があるところ左手に「磋だ天満宮お旅所」がある。磋だ神社は菅原道真が大宰府に流されるとき、この地で休憩したが、後を追う娘の苅屋媛はあと少しのところで間に合わず足摺り(磋?)して嘆いたという。このことを聞いた道真は自身の木像を作って送ったので、蹉だでその木像を祀ったのが、磋だ神社の始まりという。
その先で淀川の堤防に上がる手前左手に地蔵堂がある。8時27分にここを通る。
ここからi茨田堤を歩いていくのだが、ちょうど堤の工事中で堤を歩くことができなかったので、すぐ下の河川敷を歩いていく。この堤は仁徳天皇が淀川沿いに築かせた堤防で、日本最初の大規模な土木工事だったを言われている。
車が通らないので静かで、うぐいすの鳴き声が聞こえて気持ちのいい道だ。
仁和寺大橋のところで工事が終わっていたので、ここから堤に上って進む。その先で堤から左へ下って「佐田神社」へ向かう。ここは菅原道真が大宰府へ流されるときに逗留したところで、その時に自作の木像や自画像を残されたと伝えられている。道真の死後50年の天暦年間(947~957)に道真公を偲んで祠が建てられたのが当社の創建という。現在の本殿は寛永17年(1740)に、拝殿、幣殿等は慶安元年(1648)に造営されたといい、大阪府の有形文化財に指定されている。入口の鳥居の上部がなくなっていて、石柱のみが立っている。その下に「佐太天満宮 一丁半」と刻まれた万延元年(1860)の指先道標が立っている。9時37分にここを通る。
神社の横に「来迎寺」がある。ここは正平2年(1347)佐太派の本山として守口市来迎町に建立されたが、その後、同寺の独自の相続法によって、300年余の中で住職が変わる度に26回も所在地を移したが、延宝6年(1678)に現在地に移転して今日に至っているという。その都度建設をするとなると大変な出費だっただろうと思うが、当時の寺院の強大な権勢を感じさせる習わしでもある。境内には守口市の保存樹木の松の木がある。
境内奥の池の向こう側に嘉元2年(1304)の十三重塔が立っており、大阪府指定有形文化財になっている。また勅使門もある。
堤に戻って進んでいき、その先で左へ分岐して10時29分に堤を下る。ほぼ2時間堤を歩いたことになる。
守口市水道局の建物の手前から右折して進む。右手に守口市浄水場がある。左手に公園があり、その先から右折して進む。次の角に「智眼地蔵」があるところから左折して進むと、右手に「京街道」の標識がある。
左手に守口東高校がある先の信号から155号線から分岐して右斜めに進んで行くと、京街道の標識が立っている。その先の信号で155号線を再び横断して進むと、左手マンションの植え込みの中に「京街道 大名行列 一里塚」と刻まれたモニュメントがある。
その先右手に「一里塚跡碑」がある。
浜町の信号のすぐ先左手の道の両側に「かめはし」の親柱があり、それぞれ「かめはし」「瓶橋」と刻まれている。
左手に「盛泉寺」がある。ここは東本願寺の末寺で「東御坊」と呼ばれている。本堂は天保6年(1835)に再建されたというが、門が閉まっていて中を見ることはできなかった。門前に明治天皇が明治元年に大阪を行幸された際の「史蹟 内侍奉安所址」碑と「明治天皇聖蹟」碑が立っている。
角に「難宗寺」があり、太鼓楼の前に「すく守口街道」「すく京」「左 京」「右 大」と刻まれた道標が2本と「御行在所」「御仮泊所」と刻まれた石柱が2本並んで建っている。難宗寺は蓮如上人が文明9年(1477)に創建した守口御坊が始まりと伝えられており、慶長16年(1611)に本願寺掛所に昇格し、盛泉寺の東御坊に対して、「西御坊」と呼ばれるようになった。現在の本堂は文化7年(1810)に再建されたものという。境内には樹齢500年と言われるイチョウの巨木が立っている。11時7分にここを通る。
難宗寺のすぐ近くが守口宿の本陣があったところのようだが、遺構はなにも残っていない。
八島の信号で1号線に突き当たる。ここから左折して進むが、少し坂を上る感じになる。これが文禄堤の痕跡ということだ。右手に川東提灯店がある。文禄堤の説明板が立っており、それによるとこの堤は豊臣秀吉が治水と京街道の整備を目的として修築した淀川左岸の堤防で文禄5年(1596)に修築が行われたことから文禄堤と呼ばれていると書かれている。
左手に来迎坂と呼ばれる細い石段があり、その降り口に「右 なら のざきみち」と刻まれた小さな道標がある。この道は難宗寺の南側を経て旧奈良街道(後の守口街道)に通じ、宿場ができる以前からある守口では最も古い街道ということだ。
左手に高札場が再現されている。
守居橋があり、ここからだと文禄堤の高さがわかると思って写真を撮った。こうしてみると堤はかなりの高さにあるということがわかる。
右手に「義天寺」がある。仏立宗宗祖の日扇証人は淀川を船で下る途中、堤下の船着き場から当時街道筋にあった茶店丁字屋の屋敷に上がり、そこで休息して亡くなったので、この地に義天寺が建立されたという。門の横に大きな題目石が立っている。これは野江の刑場にあったもので、野江で処刑された豊臣の残党を弔って建てられたもので、明治の後半にここに移されたという。11時29分にここを通る。
ここから先も資料によって道は異なっているが、守居神社を見ようと思って直進した。土居駅前商店街のアーケードの中を通っていくと、その最後のところに食堂があったので、ここで昼食にする。昼食を終わってアーケードを抜けて進んだのだが、守居神社がない。おかしいなと思ってちょうどおられたご近所の方にお聞きすると、アーケードの中を左折したところにあると教えていただいたので後戻る。アーケードを抜けた先にあるものと思い込んでいたので、失敗だった。
義天寺からくると、アーケードの中ほどから左折したところに「守居神社」はあった。ここは醍醐天皇延喜18年(918)の大洪水で周囲が湖のようになったとき「我は天道神なり。この地に来て人民を救おう」という素戔鳴尊、三輪明神、日吉権現、新羅明神らのお告げがあって、土を高く築いて神々をお祀りしたのが起源と言われる神社で、淀川流域の守護神として祀られていた。地名を土居の庄と称していたことから昔は土居神社と称号されていたという。明治になって守口の土居にある神社ということから守居神社と呼ばれるようになったという。境内には享保7年(1722)の鳥居や常夜燈が立っている。12時18分にここを通る。
アーケードに戻って、次の角を右折して進むと、左手に「実悟上人荼毘所旧跡」がある。実悟上人は蓮如上人の息男で、布教、著作にあたっていたが、93歳で亡くなったので、この地でご遺体を荼毘に付したという。
そのすぐ右手に「景星地蔵尊」を祀る祠がある。
1号線に合流して進み、今市の信号から1号線から分岐して直進し、すぐ先から左折して今市1北の信号を横断して細道に入る。この場所も資料によって道が異なっている。
右手に「木犀の陣屋跡」の説明板が立っている。昔、浅田家という屋敷があり、その庭園に見事な木犀が三本あり、季節には蒲生や関目まで香りを漂わせていたので、それを愛でた十四代将軍徳川家茂が浅田家に宿泊、多くの大名も守口宿に泊まる際は浅田家に宿泊したという。ただ遺構は何も残っていない。
千林商店街のアーケードを抜けて進むが、この辺り「京かいどう」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。
関目5丁目の信号で左折、すぐ先で右折して細道を通るが、この辺りは七曲りと呼ばれて道が入り組んでいるが、道標が随所に立っているのでわかりやすかった。
「大宮神社の一の鳥居」の説明板が立っている。昔この場所に京街道から大宮神社への参道を示す「一の鳥居」があったという。遺構は何も残っていない。その先で都島通りに合流する。更に 野江国道筋商店街を抜けた所で都島通りから右斜めに分岐して進むと右手に「京街道」の道標が立っており、京橋口から2.3kmと書かれている。この辺りも野江の七曲りといわれて左折、右折を繰り返して進む。
城北筋と呼ばれる通りに出て左折、その先の野江4の信号で都島通に出て右折、野江3の信号の手前から左折してして進み、その先で道は二本に別れているので、これの右へ進む。
そのすぐ先右手に「榎並地蔵」がある。ここはいつごろから祀られるようになったのかは不明だが、地蔵堂内に「者し向 右 可も 今 ふく(=橋向こうを右へ 蒲生 今福という意味という)」と刻まれた江戸中期以降に造られたと思われる道しるべが発見されたという。13時33分にここを通る。
リブストリートという商店街のアーケードの中を進むが、その中で道は二股に分かれているところに「京かいどう」の案内板が立っている。
ここを右へ進むと、右手に昇進ビルがあり、その前に「左 京みち」「右 大和な(ら)」「のさ(き)」と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。
ここを左へ進み、京阪モールの先で線路の高架下を通り、その先で右折して線路沿いに進んでいくと、左手に「のだばし址」碑が立っている。
14時15分に京橋を渡って進むのだが、ここは大阪から京都へ向かう最初の橋だったので「京橋」と呼ばれたという。秀吉が整備した京街道の起点はこの京橋だった。ここで道を間違えた。右手に日本経済新聞社の社屋があり、その裏を進むのだが、そのまま直進してしまったのだ。大阪城とそのお堀を見て、久しぶりだなぁなどとのんきな感想を持ちながら歩いて行ったのだが、右手に大阪府庁の庁舎が見えてきて間違いに気が付いた。そこから後もどって日本経済新聞社の裏を通って京橋まで出て道を確認して歩きなおした。京街道は京橋を渡ってすぐに右折しなければいけなかったのだ。
土佐堀通りを進んでいくと左手に永田屋昆布店があり、その前に「八軒屋船着場跡」碑が立っている。
そのすぐ先左手に「熊野かいどう」碑が立っている。どちらも熊野古道紀伊路を歩いた際に見たところだ。
14時57分に高麗橋に着く。ここに「里程元標跡」碑が立っている。「明治時代に高麗橋東詰に里程元標がおかれ、西日本主要道路の距離計算はここを起点として行われた」と刻まれている。これで京街道を無事踏破することができた。
本日の歩行時間 7時間42分。
本日の歩数&距離 39930歩、27km。
京街道総合計総計
総歩行時間 18時間27分。
総歩数&総距離 97962歩、65km。
総純距離 57.6km。 (途中、道を間違えず、寄り道をしないで街道だけを歩いた距離)