2019年06月10日(月)
追分~枚方宿
曇時々雨
大坂と伏見に壮大な城を築いた豊臣秀吉は大坂と伏見を最短距離で結ぶため、文禄3年(1594)に淀川左岸に文禄堤を築いた。この堤上の道が京街道となった。その後、徳川家康は江戸から大坂への道を確保するとともに大名が京都に入って朝廷と接触することを避けるためもあって、追分から山科盆地を通って大坂へ向かう道を秀忠に命じて整備させ、途中に伏見・淀・枚方・守口の四宿を設けたため、東海道53次と合わせて東海道57次と呼ばれるようにもなった。
下記の資料を参考資料として使用した。
「京街道」上方史蹟散策の会編(向陽出版)
「東海道57次イラストマップ」枚方市観光協会
「歴史街道ウォーキングマップ」大阪府都市整備部交通道路室交通道路整備課 計画グループ
8時8分に追分駅に着き歩き始めるが、いきなり道を間違ってしまった。当初駅からガード下を通って1号線に沿った道を右に向かって歩き始めてしまった。少し行ったところでどうも道が違うようだと気が付いて元に戻り、ご近所のおじさんがおられたのでお聞きして、駅のガード下から出たところから少し左手へ行き、右手にある細道を通って東海道に合流することができた。おじさんが映っている後ろの細道がその道です。東海道に合流して右へ進む。東海道は街道歩きを始めた最初に歩いた道で、2007年にこの場所を通っているはずなのだが、記憶は全く残っていない。
8時26分にようやく追分の道標が立っているところに来る。ここは髭茶屋追分ともいわれているところで、ここで京都へ向かう東海道は右へ直進し、大阪へ向かう京街道は左へ分岐する。ここには「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と刻まれた道標と、その横に「蓮如上人御塚」と刻まれた石碑が立っている。
右手民家の庭に「右 伏見」「左 宇治」と刻まれた道標と「左 船岡山」「右 大〇寺」と刻まれた道標、そして常夜燈が立っている。
左手に「牛尾山道」と刻まれた大正12年の道標が立っている。宝亀初年(770)に開基されたという牛尾山法厳寺へ向かう道の道標のようだ。ここのご本尊は家畜や農産物に霊験があるといわれていて、農家の方の信仰を集めているということだ。
右手に音羽病院があるところから左へ分岐し、地下道で1号線を横断して進むと、左手に同じような「牛尾山道」の道標が立っている。
山科川に架かる音羽橋を渡り、山科大塚の信号で1号線を横断すると、新幹線の高架下の手前左手に「ひだりおヽつみち みぎうじみち」と刻まれた道標が立っている。この辺り道幅は狭いのだが、通勤時間帯のためか、車が多くて歩きにくい。
右手に「皇塚」がある。もともとこの地には,直径20mほどの6世紀前半頃のものと推定される円墳があり,大塚・王塚・皇塚などと呼ばれていた。これは山科区内最古の古墳と考えられるが,原型は留めていない。その名称から,桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったと言われているようだ。
左手に「妙見宮」と刻まれた道標が立っており、その先右手に「愛宕山」常夜燈がある。
左手に「岩屋神社」の鳥居があり、その先右手に「岩屋神社御旅所」があって大木が立っている。
名神高速道路の高架下手前に「大宅一里塚跡」碑があり、右側のみ塚が残っている。9時23分にここを通る。
右手に「愛宕常夜燈」があるが、この辺りの常夜燈はみんなこのような形をしている。
奈良街道と分岐するところから街道を外れて「随心院」へ向かう。
ここは真言宗善通寺派大本山で、正暦2年(991)に小野流の開祖として知られる仁海が創建したといわれている。また小野小町邸跡といわれていて、境内には小野小町の有名な「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 」の歌碑がある。
街道に戻って山科川に架かる勧修寺橋を渡って進むと、突き当りに「愛宕常夜燈」が立っており、その横に「南 右大津 左 京道 北すくふしみ」と刻まれた文化元年(1804)の道標等が立っている。
右手に「勧修寺」があるが、ここは昌泰3年(900)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため造立したもので、藤原胤子の外祖父宮道弥益の邸宅跡に建立されたという。応仁の乱の兵火で焼失したが、江戸時代に復興されたという。山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続いていて、門跡寺院の格式を表している。
勧修寺を出て、次の角で右折するが、ここに八幡神社の鳥居が立っている。
右手に「宮道神社」がある。この地の豪族宮道氏ゆかりの神社で寛平10年(898)に創建されたという。
名神高速道路に沿って進んでいき、その先で左手にカーブして高速道路から離れていったところ左手に大岩神社の鳥居がある。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進んで行くと、35号線に合流する手前左手に「霊場 深草毘沙門天 是より北半丁」「人王五十代 桓武天皇陵 是より半町」と刻まれた道標が立っている。
一旦35号線に合流するが、すぐ先で左折して進み、更にその先で右折、左折して進む。この辺り歴史を感じさせる家が建っている。
跨線橋でJRの線路を越えて進み、左手に京阪電鉄藤森駅があるところから右折して進んで行くと、右手に「藤森神社」がある。
ここは社伝によると神功皇后摂政3年(203)に三韓征伐から凱旋した神功皇后が兵具を納め、塚を作って神を祀ったことが始まりという。鳥居には後水尾天皇宸筆の額がかかっていたので、西國大名が参勤交代で藤森神社の前を通るときは駕篭から降りて拝礼をし、槍などは倒して通らねばならなかったという。幕末になって鳥居の前を通るときにいちいち拝礼をするような悠長なことは時代に合わないと近藤勇が外したという。そのため鳥居には現在も扁額はかかっていない。
ここは菖蒲の節句の発祥の地として知られており、ちょうどアジサイ祭りが行われていた。11時21分にここを通る。
神社から左折して進み、その先で右折して京阪電鉄墨染駅を越えて、琵琶湖疎水に架かる墨染橋を渡って進むと、右手に「撞木町廊入口」と刻まれた大正7年の石柱があり、ここから街道から外れて右へ少し入ると、右手に「大石良雄遊興の地 よろつや」の碑がある。撞木町は江戸時代に栄えた遊郭があったところだが、今はその雰囲気はない。
街道に戻って進むが、この辺りは両替町というようで、住居表示板が出ている。ここは徳川家康が銀座を置いて銀貨を作らせたことに由来するという。
左手に「勝念寺」があり、門前に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」の石碑が立っている。これは勝念寺の檀家であった柴屋伊兵衛が、天明年間当時の伏見奉行の悪政によって伏見の街が衰退するのを憂えて直訴したが、囚われて天明7年(1787)に京都町奉行所東役所で牢死したことを悼んで建てられたという。11時56分にここを通る。
右手に「本成寺」がある。ここは天正10年(1582)に本能寺の変後、同寺の再興に尽力をした本能寺中興、日逕聖人によって慶長2年(1597)に創建されたという。地蔵堂には小野篁作と言われる地蔵立像が安置されているが、これは「痰切り地蔵」として信仰されているという。勝成寺も本成寺も門が閉まっていて中に入ることはできなかった。
その先で左折して進むと、左手に「玄忠寺」があり、門前に「伏見義民小林勘次之碑」が立っている。「元和年間(1615~24)に淀川船の通行料が値上げされた時に,伏見町民の困窮を見かねて薪炭商小林勘次が幕府に直訴し,値下げが命じられた。その命を記した朱印状を江戸から伏見に持ち帰る途中,元和4年(1618)年4月26日,東海道鞠子宿で勘次は急死した。勘次はその死を予期し,朱印状を魚の腹に入れて別人に伏見へ持ち帰らせた。このことにより通行料は旧に復し,伏見の町民は勘次を徳とした。」ということだが、ここも門が閉まっていて中を見ることはできなかった。
右手伏見板橋小学校の入り口のところに「南 右 京大津」「東 左り ふ〇のり」と刻まれた道標が立っている。ここから左折する。
左手に「松林院」がある。ここには寺田屋の名物女将お登勢の墓があるということだったが、門が閉まっていて入ることができなかった。
その先右手に「大黒寺」があるが、ここは薩摩藩主島津義弘が薩摩藩の祈祷所としたところで、宝暦3年(1753)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者だった家老平田靱負の墓や寺田屋殉難九烈士之墓があるそうだが、ここも門前に石碑が立っているだけで、門が閉まっていて見ることができなかった。このあたりのお寺はどこも門が閉まっている。
左手に天平勝宝2年(750)に創建されたという伏見で最も古い神社の一つと言われる「金礼宮」がある。大昔、金の札が降ってきたことからこの名前が付いたという。その入り口に弘化2年(1845)の常夜燈が立っており、樹齢千年と言われるクロガネモチが立っている。ここまで来てこれまで降っていた雨が止んだ。
右手に「西岸寺」がある。ここは天正18年(1590)僧雲海が開基したといわれているが、慶應4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで地蔵堂を残してすべて焼失したという。ここに「油掛地蔵」があるが、これは鎌倉時代のものとみられる石造り地蔵立像で油をかけて祈れば願が叶うといわれており、油のため黒光りしている。油掛地蔵は先日太子道・筋違道を歩いた際にも見かけたので調べてみたが、関西地方にいくつか存在しており、また愛知県岡崎市にもあるようだ。
右手に「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」と刻まれた石碑が立っている。「日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28年(1895)に開業し,京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側を起点として,この地伏見町油掛通までの約6kmを走った。この石標は電気鉄道事業発祥地を示すものである。」ということだ。
ここから左折して進むと、左手少し入ったところに「寺田屋」がある。ここは文久2年(1862)の薩摩藩尊王志士鎮撫事件と慶應2年(1866)に発生した伏見奉行による坂本竜馬襲撃事件が有名だ。12時29分にここを通る。
その先で京橋を渡るが、この辺りが伏見宿の中心地、本陣があったところのようだ。資料によってこの辺りの道筋が異なっているが、東海道57次イラストマップと大阪府ウオーキングマップに掲載されている道を進むことにした。橋を渡った所にコンビニがあったので、ここで昼食を食べる。
その先で右折して進むと、肥後橋手前のたもとに「祭神天武天皇」「三栖神社」と刻まれた石碑が立っている。
肥後橋を渡って左折、川沿いの道を進み、京阪本線の踏切を渡って進むと、左手に伏見港公園があり、「淀川三十石船」が再建されている。この船は桃山時代初期に伏見京橋と大阪天満八軒家の間を運行されていて、明治、大正のころまで使用されていたという。13時5分にここを通る。
宇治川沿いを歩いていくが車が通らないので、歩きやすく、気持ちのいい道だ。
京阪本線の千両松踏切で線路を横断して線路の右側を進むと、競馬場へ向かう高架橋の下、右手に「戊辰役東軍西軍激戦之址」碑が立っている。13時52分にここを通る。
右手に「淀小橋旧址」碑が立っている。淀小橋はかって宇治川に掛けられていた橋で、京都・伏見と大坂を結ぶ街道にあった重要な橋だった。慶應4年(1868)鳥羽伏見の戦いが始まった際、淀藩主で、幕府老中だった稲葉正邦は不在だったため、城は家老の田辺権太夫が守っていた。富ノ森、千両松の戦いで官軍に敗れた幕府軍は態勢を立て直すべく淀城に入ろうとしたが、権太夫は官軍の働きかけを受け、幕府軍の入場を拒否した。そのため幕府軍は淀小橋、淀大橋を焼き落としたうえで、南の橋本まで退却した。淀城は官軍に開城したため、幕府軍にとって大きな打撃となり、鳥羽伏見の戦いの趨勢を決めた要因の一つになったと言われているという説明がなされている。淀小橋はその後再建されたが、その後宇治川の流路が変わったため、撤去されたという。
この辺りも資料によって道が異なっているので、とりあえず淀城跡へ行くことにする。
右手に「與杼神社」がある。ここの拝殿は慶安2年(1649)に建立されており、国の重要文化財に指定されている。境内の左右に大きなイチョウの木が立っており、その木にしめ縄が張られていた。境内には元禄8年(1695)の手水鉢などがあった。
「淀城之故址」「淀小橋旧跡 従西南大阪至」「唐人雁木旧跡」と刻まれた三本の石碑が並んで立っている。唐人雁木とは、江戸時代の朝鮮使節使が淀川を船で上ってきたので、これを出迎える際に造った特設の桟橋のことを示している。
京阪本線の高架下に「弥陀次郎開基 十一面観世音尊像 安養寺 是南十五丁」「東南淀川渡場径・・・」と刻まれた昭和3年の道標が立っている。
淀駅から125号線に合流して進むと、左手に「伊勢向神社」があるところは三差路になっており、これを右へ行かなければいけなかったのだが、うっかり直進してしまった。文相寺があるところまできて間違いに気が付き、ここから本来の街道をさかのぼって街道の確認をした。ここの道はなぜか直進ではなくて曲折している。
ここで急に空が暗くなってきたと思っていると大粒の雨が降ってきた。民家の駐車場があったのでそこでとりあえず雨宿りをし、しばらくすると小降りになったので先へ進む。少し歩いていくと、再び激しい雨が降ってきたので、また雨宿りをした。今度は相当に激しい降り方で、道路はたちまち川のようになったので、これは参ったなと思っていると、しばらくして雨は小降りになり、やがて止んだので歩き始めた。ところがものの十数分も行くと、地面が濡れていない。ここから先は雨が降っていないのだ。本当にごく局地的な雨だったようだ。
ここから先の道も資料によって異なっていたが、直進して進む。
淀川、木津川に架かる御幸橋を渡って進むが、この橋は明治18年に石清水八幡宮への皇室の使者が渡るため、明治18年に木造の橋が架けられたことに由来して御幸橋と名付けられたという。前方に石清水八幡宮の森が見える。東高野街道を歩いた時に訪れた場所だ。
橋を渡って13号線の先で右折して進んでいくと、左手に文政5年(1822)の「八幡宮」常夜燈が立っている。
すぐ先で大谷川に架かる橋本橋を渡って進むと、左手に「右 八まん宮山道 これより十六丁」と刻まれた文政2年(1819)の道標が立っている。
その先のT字路を右折するが、左手に橋本駅がある。その先で道は左折するのだが、右角に「柳谷わたし 山ざき あた古わたし場」「大坂下りのり場」と刻まれた明治2年の道標が立っている。16時17分にここを通る。
左手に「国史跡楠葉台場跡」が広がっている。ここは水堀を備えた西洋式の稜堡式砲台で、火薬庫の他大砲を3門備えていたという。幕末期に造られた台場は数多くあるが、欧米列強の外国船への備えが主目的であるため、多くは海岸に造られた。内陸に入った河岸に造られた例は、この楠葉台場と淀川対岸の高浜台場だけという。ここは長州藩等の反幕府側の人物や過激派を京に入れさせない為の関門だったという。
この先でも資料によって道は異なっているのだが、私は京阪鉄道を跨線橋で越えて線路の左側に出て、線路沿いに進んでいった。スーパーマツモトを左手に見ながら線路沿いを進んでいくと、その先で道はフェンスで閉ざされていて通行止めになっていた。
そのため迂回して「久親恩寺」に着く。ここは2015年に庫裏が全焼したため再建されている。昔、当時の山門は京街道に直結し、長州藩主通行の途次等重要な休憩所にあてられ、「久親恩寺の麦飯」と伝えられていたという。16時49分にここを通る。
ここから先で、先ほど通行止めになっていた道に合流するのだが、ここに「まむし・毒蛇 きけん ここから入ってはいけません」と書かれた看板が立っていた。これが原因で通行止めになっていたのかと納得した。
右手に光明院を見ながら進んでいくが、このあたりには「旧京街道」と書かれた標識がある。
楠葉駅の手前から線路を横断して河川敷に沿った道を進むが車が多い。
樋之上の信号から左へ分岐して進むが、川に突き当たったところ右手に地蔵堂がある。
ここから右折して船場川に架かる楠葉橋を渡って左折すると「八幡宮 橋本一里」と刻まれた道標と横に石碑と地蔵堂がある。
京阪本線に沿って進んでいくと左手に「前島街道」と刻まれた明治39年の道標が立っている。前島街道は京街道と高槻・西国街道を結ぶ街道のことだ。
穂谷川に出るところ、左手に享保元年(1716)の常夜燈が立っており、「左 京都」「右 大「阪」」と刻まれている。以前は大「坂」と書かれていたが、幕末のころ「坂」は「土に返る=死ぬ」だから縁起が悪いと言われたり、江戸幕府が政権を失った後は「士が謀反を起こす」と読めるので政治的に問題があるなどという説が出たりしていたが、明治元年「大阪府」が設置されたことから正式に大「阪」という字になったという。この常夜燈は享保元年なのに大阪と書かれているのは珍しい。
その先で京阪本線の踏切を横断して進み、更に13号線を横断して進むが、その先で13号線に合流する。磯島の信号から13号線から左へ分岐して進んでいくと、右手に「延命地蔵」がある。18時40分にここを通る。
かささぎ橋を渡って左折し、その先で右折するところに「枚方宿東目附跡」の石碑と案内板が立っている。
左手に「旧枚方宿 問屋役人 小野平方衛門」の建物がある。屋号を八幡屋といって江戸中期より村年寄りと問屋役人を兼ねていたという。
左手に「浄行寺」があり、樹齢470年と言われるイチョウの大木が立っている。お寺はえらく近代的な建物だ。
右手に安居川に架かっていた枚方橋の親柱が二つ並んである。
今日のホテルはこのすぐ前にあったので、ここで18時53分に歩き終わる。
このホテルは街道沿いだったので極めて便利だったのだが、夜部屋に蚊が入っていて、さされるし、耳元でプ~ンと鳴かれるしで眠られず、午前3時ごろになってフロントへ部屋を変えてほしいと電話をしたのだが、満室と断られてしまった。キンチョウのスプレーを持ってきてくれたので、それをまくことでようやく眠ることができた。
本日の歩行時間 10時間45分。
本日の歩数&距離 58032歩、38km.
本日の純距離 34.4km(途中道を間違ったり、寄り道をしないで街道だけを歩いた時の距離)
大坂と伏見に壮大な城を築いた豊臣秀吉は大坂と伏見を最短距離で結ぶため、文禄3年(1594)に淀川左岸に文禄堤を築いた。この堤上の道が京街道となった。その後、徳川家康は江戸から大坂への道を確保するとともに大名が京都に入って朝廷と接触することを避けるためもあって、追分から山科盆地を通って大坂へ向かう道を秀忠に命じて整備させ、途中に伏見・淀・枚方・守口の四宿を設けたため、東海道53次と合わせて東海道57次と呼ばれるようにもなった。
下記の資料を参考資料として使用した。
「京街道」上方史蹟散策の会編(向陽出版)
「東海道57次イラストマップ」枚方市観光協会
「歴史街道ウォーキングマップ」大阪府都市整備部交通道路室交通道路整備課 計画グループ
8時8分に追分駅に着き歩き始めるが、いきなり道を間違ってしまった。当初駅からガード下を通って1号線に沿った道を右に向かって歩き始めてしまった。少し行ったところでどうも道が違うようだと気が付いて元に戻り、ご近所のおじさんがおられたのでお聞きして、駅のガード下から出たところから少し左手へ行き、右手にある細道を通って東海道に合流することができた。おじさんが映っている後ろの細道がその道です。東海道に合流して右へ進む。東海道は街道歩きを始めた最初に歩いた道で、2007年にこの場所を通っているはずなのだが、記憶は全く残っていない。
8時26分にようやく追分の道標が立っているところに来る。ここは髭茶屋追分ともいわれているところで、ここで京都へ向かう東海道は右へ直進し、大阪へ向かう京街道は左へ分岐する。ここには「みきハ京ミち」「ひだりハふしミみち」と刻まれた道標と、その横に「蓮如上人御塚」と刻まれた石碑が立っている。
右手民家の庭に「右 伏見」「左 宇治」と刻まれた道標と「左 船岡山」「右 大〇寺」と刻まれた道標、そして常夜燈が立っている。
左手に「牛尾山道」と刻まれた大正12年の道標が立っている。宝亀初年(770)に開基されたという牛尾山法厳寺へ向かう道の道標のようだ。ここのご本尊は家畜や農産物に霊験があるといわれていて、農家の方の信仰を集めているということだ。
右手に音羽病院があるところから左へ分岐し、地下道で1号線を横断して進むと、左手に同じような「牛尾山道」の道標が立っている。
山科川に架かる音羽橋を渡り、山科大塚の信号で1号線を横断すると、新幹線の高架下の手前左手に「ひだりおヽつみち みぎうじみち」と刻まれた道標が立っている。この辺り道幅は狭いのだが、通勤時間帯のためか、車が多くて歩きにくい。
右手に「皇塚」がある。もともとこの地には,直径20mほどの6世紀前半頃のものと推定される円墳があり,大塚・王塚・皇塚などと呼ばれていた。これは山科区内最古の古墳と考えられるが,原型は留めていない。その名称から,桓武天皇の墓所という伝承もあり,大塚という地名の由来となったと言われているようだ。
左手に「妙見宮」と刻まれた道標が立っており、その先右手に「愛宕山」常夜燈がある。
左手に「岩屋神社」の鳥居があり、その先右手に「岩屋神社御旅所」があって大木が立っている。
名神高速道路の高架下手前に「大宅一里塚跡」碑があり、右側のみ塚が残っている。9時23分にここを通る。
右手に「愛宕常夜燈」があるが、この辺りの常夜燈はみんなこのような形をしている。
奈良街道と分岐するところから街道を外れて「随心院」へ向かう。
ここは真言宗善通寺派大本山で、正暦2年(991)に小野流の開祖として知られる仁海が創建したといわれている。また小野小町邸跡といわれていて、境内には小野小町の有名な「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 」の歌碑がある。
街道に戻って山科川に架かる勧修寺橋を渡って進むと、突き当りに「愛宕常夜燈」が立っており、その横に「南 右大津 左 京道 北すくふしみ」と刻まれた文化元年(1804)の道標等が立っている。
右手に「勧修寺」があるが、ここは昌泰3年(900)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため造立したもので、藤原胤子の外祖父宮道弥益の邸宅跡に建立されたという。応仁の乱の兵火で焼失したが、江戸時代に復興されたという。山門へ至る参道の両側には白壁の築地塀が続いていて、門跡寺院の格式を表している。
勧修寺を出て、次の角で右折するが、ここに八幡神社の鳥居が立っている。
右手に「宮道神社」がある。この地の豪族宮道氏ゆかりの神社で寛平10年(898)に創建されたという。
名神高速道路に沿って進んでいき、その先で左手にカーブして高速道路から離れていったところ左手に大岩神社の鳥居がある。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進んで行くと、35号線に合流する手前左手に「霊場 深草毘沙門天 是より北半丁」「人王五十代 桓武天皇陵 是より半町」と刻まれた道標が立っている。
一旦35号線に合流するが、すぐ先で左折して進み、更にその先で右折、左折して進む。この辺り歴史を感じさせる家が建っている。
跨線橋でJRの線路を越えて進み、左手に京阪電鉄藤森駅があるところから右折して進んで行くと、右手に「藤森神社」がある。
ここは社伝によると神功皇后摂政3年(203)に三韓征伐から凱旋した神功皇后が兵具を納め、塚を作って神を祀ったことが始まりという。鳥居には後水尾天皇宸筆の額がかかっていたので、西國大名が参勤交代で藤森神社の前を通るときは駕篭から降りて拝礼をし、槍などは倒して通らねばならなかったという。幕末になって鳥居の前を通るときにいちいち拝礼をするような悠長なことは時代に合わないと近藤勇が外したという。そのため鳥居には現在も扁額はかかっていない。
ここは菖蒲の節句の発祥の地として知られており、ちょうどアジサイ祭りが行われていた。11時21分にここを通る。
神社から左折して進み、その先で右折して京阪電鉄墨染駅を越えて、琵琶湖疎水に架かる墨染橋を渡って進むと、右手に「撞木町廊入口」と刻まれた大正7年の石柱があり、ここから街道から外れて右へ少し入ると、右手に「大石良雄遊興の地 よろつや」の碑がある。撞木町は江戸時代に栄えた遊郭があったところだが、今はその雰囲気はない。
街道に戻って進むが、この辺りは両替町というようで、住居表示板が出ている。ここは徳川家康が銀座を置いて銀貨を作らせたことに由来するという。
左手に「勝念寺」があり、門前に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」の石碑が立っている。これは勝念寺の檀家であった柴屋伊兵衛が、天明年間当時の伏見奉行の悪政によって伏見の街が衰退するのを憂えて直訴したが、囚われて天明7年(1787)に京都町奉行所東役所で牢死したことを悼んで建てられたという。11時56分にここを通る。
右手に「本成寺」がある。ここは天正10年(1582)に本能寺の変後、同寺の再興に尽力をした本能寺中興、日逕聖人によって慶長2年(1597)に創建されたという。地蔵堂には小野篁作と言われる地蔵立像が安置されているが、これは「痰切り地蔵」として信仰されているという。勝成寺も本成寺も門が閉まっていて中に入ることはできなかった。
その先で左折して進むと、左手に「玄忠寺」があり、門前に「伏見義民小林勘次之碑」が立っている。「元和年間(1615~24)に淀川船の通行料が値上げされた時に,伏見町民の困窮を見かねて薪炭商小林勘次が幕府に直訴し,値下げが命じられた。その命を記した朱印状を江戸から伏見に持ち帰る途中,元和4年(1618)年4月26日,東海道鞠子宿で勘次は急死した。勘次はその死を予期し,朱印状を魚の腹に入れて別人に伏見へ持ち帰らせた。このことにより通行料は旧に復し,伏見の町民は勘次を徳とした。」ということだが、ここも門が閉まっていて中を見ることはできなかった。
右手伏見板橋小学校の入り口のところに「南 右 京大津」「東 左り ふ〇のり」と刻まれた道標が立っている。ここから左折する。
左手に「松林院」がある。ここには寺田屋の名物女将お登勢の墓があるということだったが、門が閉まっていて入ることができなかった。
その先右手に「大黒寺」があるが、ここは薩摩藩主島津義弘が薩摩藩の祈祷所としたところで、宝暦3年(1753)の木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者だった家老平田靱負の墓や寺田屋殉難九烈士之墓があるそうだが、ここも門前に石碑が立っているだけで、門が閉まっていて見ることができなかった。このあたりのお寺はどこも門が閉まっている。
左手に天平勝宝2年(750)に創建されたという伏見で最も古い神社の一つと言われる「金礼宮」がある。大昔、金の札が降ってきたことからこの名前が付いたという。その入り口に弘化2年(1845)の常夜燈が立っており、樹齢千年と言われるクロガネモチが立っている。ここまで来てこれまで降っていた雨が止んだ。
右手に「西岸寺」がある。ここは天正18年(1590)僧雲海が開基したといわれているが、慶應4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで地蔵堂を残してすべて焼失したという。ここに「油掛地蔵」があるが、これは鎌倉時代のものとみられる石造り地蔵立像で油をかけて祈れば願が叶うといわれており、油のため黒光りしている。油掛地蔵は先日太子道・筋違道を歩いた際にも見かけたので調べてみたが、関西地方にいくつか存在しており、また愛知県岡崎市にもあるようだ。
右手に「我国に於ける電気鉄道事業発祥の地」と刻まれた石碑が立っている。「日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28年(1895)に開業し,京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線)南側を起点として,この地伏見町油掛通までの約6kmを走った。この石標は電気鉄道事業発祥地を示すものである。」ということだ。
ここから左折して進むと、左手少し入ったところに「寺田屋」がある。ここは文久2年(1862)の薩摩藩尊王志士鎮撫事件と慶應2年(1866)に発生した伏見奉行による坂本竜馬襲撃事件が有名だ。12時29分にここを通る。
その先で京橋を渡るが、この辺りが伏見宿の中心地、本陣があったところのようだ。資料によってこの辺りの道筋が異なっているが、東海道57次イラストマップと大阪府ウオーキングマップに掲載されている道を進むことにした。橋を渡った所にコンビニがあったので、ここで昼食を食べる。
その先で右折して進むと、肥後橋手前のたもとに「祭神天武天皇」「三栖神社」と刻まれた石碑が立っている。
肥後橋を渡って左折、川沿いの道を進み、京阪本線の踏切を渡って進むと、左手に伏見港公園があり、「淀川三十石船」が再建されている。この船は桃山時代初期に伏見京橋と大阪天満八軒家の間を運行されていて、明治、大正のころまで使用されていたという。13時5分にここを通る。
宇治川沿いを歩いていくが車が通らないので、歩きやすく、気持ちのいい道だ。
京阪本線の千両松踏切で線路を横断して線路の右側を進むと、競馬場へ向かう高架橋の下、右手に「戊辰役東軍西軍激戦之址」碑が立っている。13時52分にここを通る。
右手に「淀小橋旧址」碑が立っている。淀小橋はかって宇治川に掛けられていた橋で、京都・伏見と大坂を結ぶ街道にあった重要な橋だった。慶應4年(1868)鳥羽伏見の戦いが始まった際、淀藩主で、幕府老中だった稲葉正邦は不在だったため、城は家老の田辺権太夫が守っていた。富ノ森、千両松の戦いで官軍に敗れた幕府軍は態勢を立て直すべく淀城に入ろうとしたが、権太夫は官軍の働きかけを受け、幕府軍の入場を拒否した。そのため幕府軍は淀小橋、淀大橋を焼き落としたうえで、南の橋本まで退却した。淀城は官軍に開城したため、幕府軍にとって大きな打撃となり、鳥羽伏見の戦いの趨勢を決めた要因の一つになったと言われているという説明がなされている。淀小橋はその後再建されたが、その後宇治川の流路が変わったため、撤去されたという。
この辺りも資料によって道が異なっているので、とりあえず淀城跡へ行くことにする。
右手に「與杼神社」がある。ここの拝殿は慶安2年(1649)に建立されており、国の重要文化財に指定されている。境内の左右に大きなイチョウの木が立っており、その木にしめ縄が張られていた。境内には元禄8年(1695)の手水鉢などがあった。
「淀城之故址」「淀小橋旧跡 従西南大阪至」「唐人雁木旧跡」と刻まれた三本の石碑が並んで立っている。唐人雁木とは、江戸時代の朝鮮使節使が淀川を船で上ってきたので、これを出迎える際に造った特設の桟橋のことを示している。
京阪本線の高架下に「弥陀次郎開基 十一面観世音尊像 安養寺 是南十五丁」「東南淀川渡場径・・・」と刻まれた昭和3年の道標が立っている。
淀駅から125号線に合流して進むと、左手に「伊勢向神社」があるところは三差路になっており、これを右へ行かなければいけなかったのだが、うっかり直進してしまった。文相寺があるところまできて間違いに気が付き、ここから本来の街道をさかのぼって街道の確認をした。ここの道はなぜか直進ではなくて曲折している。
ここで急に空が暗くなってきたと思っていると大粒の雨が降ってきた。民家の駐車場があったのでそこでとりあえず雨宿りをし、しばらくすると小降りになったので先へ進む。少し歩いていくと、再び激しい雨が降ってきたので、また雨宿りをした。今度は相当に激しい降り方で、道路はたちまち川のようになったので、これは参ったなと思っていると、しばらくして雨は小降りになり、やがて止んだので歩き始めた。ところがものの十数分も行くと、地面が濡れていない。ここから先は雨が降っていないのだ。本当にごく局地的な雨だったようだ。
ここから先の道も資料によって異なっていたが、直進して進む。
淀川、木津川に架かる御幸橋を渡って進むが、この橋は明治18年に石清水八幡宮への皇室の使者が渡るため、明治18年に木造の橋が架けられたことに由来して御幸橋と名付けられたという。前方に石清水八幡宮の森が見える。東高野街道を歩いた時に訪れた場所だ。
橋を渡って13号線の先で右折して進んでいくと、左手に文政5年(1822)の「八幡宮」常夜燈が立っている。
すぐ先で大谷川に架かる橋本橋を渡って進むと、左手に「右 八まん宮山道 これより十六丁」と刻まれた文政2年(1819)の道標が立っている。
その先のT字路を右折するが、左手に橋本駅がある。その先で道は左折するのだが、右角に「柳谷わたし 山ざき あた古わたし場」「大坂下りのり場」と刻まれた明治2年の道標が立っている。16時17分にここを通る。
左手に「国史跡楠葉台場跡」が広がっている。ここは水堀を備えた西洋式の稜堡式砲台で、火薬庫の他大砲を3門備えていたという。幕末期に造られた台場は数多くあるが、欧米列強の外国船への備えが主目的であるため、多くは海岸に造られた。内陸に入った河岸に造られた例は、この楠葉台場と淀川対岸の高浜台場だけという。ここは長州藩等の反幕府側の人物や過激派を京に入れさせない為の関門だったという。
この先でも資料によって道は異なっているのだが、私は京阪鉄道を跨線橋で越えて線路の左側に出て、線路沿いに進んでいった。スーパーマツモトを左手に見ながら線路沿いを進んでいくと、その先で道はフェンスで閉ざされていて通行止めになっていた。
そのため迂回して「久親恩寺」に着く。ここは2015年に庫裏が全焼したため再建されている。昔、当時の山門は京街道に直結し、長州藩主通行の途次等重要な休憩所にあてられ、「久親恩寺の麦飯」と伝えられていたという。16時49分にここを通る。
ここから先で、先ほど通行止めになっていた道に合流するのだが、ここに「まむし・毒蛇 きけん ここから入ってはいけません」と書かれた看板が立っていた。これが原因で通行止めになっていたのかと納得した。
右手に光明院を見ながら進んでいくが、このあたりには「旧京街道」と書かれた標識がある。
楠葉駅の手前から線路を横断して河川敷に沿った道を進むが車が多い。
樋之上の信号から左へ分岐して進むが、川に突き当たったところ右手に地蔵堂がある。
ここから右折して船場川に架かる楠葉橋を渡って左折すると「八幡宮 橋本一里」と刻まれた道標と横に石碑と地蔵堂がある。
京阪本線に沿って進んでいくと左手に「前島街道」と刻まれた明治39年の道標が立っている。前島街道は京街道と高槻・西国街道を結ぶ街道のことだ。
穂谷川に出るところ、左手に享保元年(1716)の常夜燈が立っており、「左 京都」「右 大「阪」」と刻まれている。以前は大「坂」と書かれていたが、幕末のころ「坂」は「土に返る=死ぬ」だから縁起が悪いと言われたり、江戸幕府が政権を失った後は「士が謀反を起こす」と読めるので政治的に問題があるなどという説が出たりしていたが、明治元年「大阪府」が設置されたことから正式に大「阪」という字になったという。この常夜燈は享保元年なのに大阪と書かれているのは珍しい。
その先で京阪本線の踏切を横断して進み、更に13号線を横断して進むが、その先で13号線に合流する。磯島の信号から13号線から左へ分岐して進んでいくと、右手に「延命地蔵」がある。18時40分にここを通る。
かささぎ橋を渡って左折し、その先で右折するところに「枚方宿東目附跡」の石碑と案内板が立っている。
左手に「旧枚方宿 問屋役人 小野平方衛門」の建物がある。屋号を八幡屋といって江戸中期より村年寄りと問屋役人を兼ねていたという。
左手に「浄行寺」があり、樹齢470年と言われるイチョウの大木が立っている。お寺はえらく近代的な建物だ。
右手に安居川に架かっていた枚方橋の親柱が二つ並んである。
今日のホテルはこのすぐ前にあったので、ここで18時53分に歩き終わる。
このホテルは街道沿いだったので極めて便利だったのだが、夜部屋に蚊が入っていて、さされるし、耳元でプ~ンと鳴かれるしで眠られず、午前3時ごろになってフロントへ部屋を変えてほしいと電話をしたのだが、満室と断られてしまった。キンチョウのスプレーを持ってきてくれたので、それをまくことでようやく眠ることができた。
本日の歩行時間 10時間45分。
本日の歩数&距離 58032歩、38km.
本日の純距離 34.4km(途中道を間違ったり、寄り道をしないで街道だけを歩いた時の距離)