2019年06月09日(日)
法隆寺~叡福寺
晴れ
「太子道 葬送の道」は聖徳太子の死後、その亡骸を大阪府太子町にある叡福寺の御廟まで運んだとされる道のことで、太子を偲んで法隆寺から太子御廟に参拝した多くの人々が通った道でもある。
参考資料として「聖徳太子と信仰の道」香芝市二上山博物館編集を使用した。
つい先日歩いた筋違道は法隆寺の東大門を出発したが、葬送の道は南大門から出発する。10時40分に出発する。
南大門の前の松並木を通り、25号線の法隆寺前の信号を横断して直進すると、 右手に「初代奈良丸之碑」がある。嘉永4年(1851)に生まれ、明治時代に一世を風靡した浪曲師吉田奈良丸の頌徳碑だ。
右手に天保13年(1843)の常夜燈が立っている。
右手に「右 いせ たわら本 みわ はせ いちの本 たんば市」「すぐ たつた 志ぎ山 大坂 さかい」「左 京 郡山 なら」道 と刻まれた天保15年(1844)の道標が立っている。道標に関しては今回も「奈良県の道標マップ」を参考にさせていただいている。
ここから右折して進むが、「当麻街道 やすらぎの道」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。法隆寺から当麻寺までの道を示したもので、これから先も所々で見かけた。
左手に「日切地蔵」がある。これは継子地蔵とも呼ばれているそうで、他のHPに以下のような記述があったので借用させていただいた。「昔 いつもお腹をすかせていた継子がいた。ある時、継母が「あのお地蔵様にご飯を食べさせたら、お前にも食べさせてやる」と言ったので、子供は「どうかお地蔵様、ご飯を食べてください。」とお願いをしたところ、このお地蔵様が突然口を開いてご飯を食べられた。これを聞いた母親はそれからこの子を我が子のようにかわいがったという。」
その奥に「業平姿見の井戸」がある。これは「女の不作法に愛想を尽かした在原業平を追いかけてきた女が、井戸の傍らのヨノミの樹に登った業平の姿が井戸に映る姿を見て井戸に飛び込んだ」という伝説がある井戸で、弘法大師が掘られた500番目の井戸ということから「五百井戸」とも呼ばれているという。
25号線を横断して進むが、その先の左手25号線沿いにコンビニがあったのでパンを購入する。これで今日の昼食は確保できた。街道に戻って進むと、右手に「龍田神社」がある。ここは聖徳太子が法隆寺の寺地を探し求めていた時、白髪の老人に化身した龍田大明神に会い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神になろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。入口に天保12年(1842)や文化8年(1812)の常夜燈が立っており、境内には県の天然記念物に指定されている「ソテツの巨樹」がある。
ここから左折して25号線を横断して進むと、左手に「吉田寺」があり、入り口に資料によると「本尊丈六阿弥陀如来」「栗木一刀三礼恵心僧都作、是ヨリ一?町南? 堂塔共御建立所、清水山吉田寺」「天保十五(1844)申辰年九月建之」 「境内ニ安産の霊水有、泉州堺、 発起、神南遍、大道心」と刻まれている石碑とその横に「大和二十五霊場」更に「阿弥陀如来」とだけが判読できる石碑が立っている。
吉田寺は飛鳥時代の創建と言われている古刹で、極楽往生を説いた恵心僧都と縁が深く、恵心僧都がクリの巨木から作ったと伝えられる丈六阿弥陀如来像(重要文化財)がポックリ往生の霊験があるとされて信仰を集めている。本堂横には重要文化財に指定されている承久元年(1652)に建立された多宝塔がある。11時19分にここを通る。
25号線を横断して進むと、T字路に突き当たるが、ここに「左 たつた ほう里うし ならミち 右 たまへ ミち」と刻まれた道標が立っている。
ここを右折して進むと、「花小路せせらぎの道」というまだ新しい標識が立っているので、ここを右折、更にその先に「当麻やすらぎの道」の標識が立っているので、すぐ先を左折して進むと、「右 たまへ道」「左 法隆寺 是より〇 丁」「右 達磨寺 是より〇丁」と刻まれた道標が二つ並んである。
水路に沿って行くと左手に資料によると「〇〇谷吉兵〇」「岩〇川大吉」「立田組」「右 たつた道」「文政十二年(1829)丑三月日」と刻まれた道標がある。
その先を左折、更にその先に「花小路せせらぎの道」の標識が立っているので、ここを右へ進んでいき、竜田川に架かる塩田橋を渡ると、右手に「花小路せせらぎ道」と資料によると「左 だるま たゑま道」「當村 三室山 金兵衛 角力 門弟」「ほう里うじ なら道」「寛正7乙卯年(1795) 正月」と刻まれた道標が立っている。11時38分にここを通る。
ここを左折して進むと、左手に「左 たつた ほうりうじ 道」「右 だるま たゑま 道」と刻まれた道標があるので、ここを右折する。
更にその先で左右指差し道標があり、資料によると「すぐ立田楓川 王子驛 右 イナバ 小吉田 ヲヘテ 龍田宮前 吉川富三」と刻まれている。その横に「たるま たへま道」と刻まれた道標があり、更にまだ新しい「延喜」「式内」「神岳神社」と刻まれた石標が並んで立っている。
ここから左折して進むと、大和川に突き当たるので迂回して昭和橋を渡る。川沿いにちょっとしたベンチがあったので、ここに座って昼食にする。先ほど川に突き当たった対岸の所に、土蔵があり、ここから右折して細道を進んでいく。
JRの舟戸踏切でJRの線路を横断、次に高架下を通り、更にJR西舟戸踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に3体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
葛下川に架かる達磨橋を渡って進んで「達磨寺」へ行ったのだが、入り口がわかりにくくて遠回りをしてしまった。
「達磨寺」の門を入ったすぐ右手に「左 片岡山だるま寺道」「たつ田へちかみち有」と刻まれた道標が立っている。
そのすぐ先やはり右手に「右 片岡山達磨」と刻まれた道標がある。
「達磨寺」は聖徳太子が瀕死の旅人を見つけて、衣食を与えて看病したが、翌日死亡してしまった。亡骸を葬ったところ数日で消えてしまい、あとには太子が与えた着物のみが残っていた。これは達磨の化身であったのではないかと考えた太子は、堂を建て自らが彫った達磨像を安置したといわれている。境内に残る方丈は寛文7年(1667)に建立されたもので、奈良県内でも類例の少ない本格的な方丈建築という。
境内には、聖徳太子の愛犬で、人の言葉が話せ、お経が読め、達磨寺本堂の下にある達磨大師のお墓の北東に葬ってほしいと遺言を残したと言われている「雪丸」の石像や、「松永秀久の墓」等がある。天正5年(1577)織田信長に謀反した松永久秀は信貴山城にて織田軍に包囲され自害したが、その際に筒井氏が首級をここに埋葬したと伝えられている。敗軍の将ということなのだろうか、そのお墓は小さくて質素なものだ。12時38分にここを通る。
「孝霊天皇陵 西三丁」「武烈天皇陵 南丗丁」「北 大坂皇陵参拝団」と刻まれた大正12年の道標が立っている。孝霊天皇は欠史八代の一人で、実在性に乏しく、武烈天皇も実在した人物かどうか議論があるという。
ここから右斜めに進んでいき、168号線を横断するが、右手に「すぐたるま」「左 たゑ満」と刻まれた文政3年(1820)の道標が立っている。
その先、芦田池の端に資料によると「すぐ たゑま よしの 高野山道」「すぐ だるまじ たつた ほう里うじ なら道」と刻まれた天保4年(1833)の道標が立っており、そのすぐ先に数多くの石仏を安置する地蔵堂がある。
畠田4の信号の先から右折すると、二本の道標が立っている。資料によると「右 だる満じ 多川多本う里うじ なら道」「左 たへま かうや道」と刻まれた道標と「南 春日神社 右 だうまじ た川多 ほうりうじ なら 京 すぐ 大さ可 さかい道」「北 大神宮 すぐ たえま 加うや 与し能 者せ いせ 道」「東 金峯神社 左 たえま いま井 大ミ祢さん上 与し能 かうや ミち」「西 神武天皇」「明治十二年四月三日平次建立」と刻まれているようだ。
ここから左折して進むと、「太神宮」と刻まれた嘉永2年(1850)の常夜燈が立っている。
右手に「白山姫神社」がある。ここは貞観3年(862)に創建されたとされており、五穀豊穣を祈願する神として、厚い信仰を集めていたという。本殿前の石造唐獅子一対は弘化2年(1845)に氏子が奉納したものという。
左手に「尼寺廃寺跡」があり、公園になっている。尼寺は7世紀後半に造営されたもので、現存するものとしては全国最大規模の塔心礎が発掘されている。
右手に「般若院」がある。ここには慶長14年(1609)の名号碑や宝暦14年(1764)の大峯山常夜燈などがあるとされているが、門が閉まっていて見ることはできなかった。13時25分にここを通る。
ここで道を間違ってしまったが、すぐに気がついて事なきを得た。
右手に文化4年(1808)の大峯山上と刻まれた常夜燈が立っている。
ここから右折して進むと、次の角に「太子道」と刻まれたまだ新しい標識が立っている。この標識は葬送の道では初めて見た。
右手に「武烈天皇陵」がある。第25代と言われる武烈天皇は悪行三昧で暴虐の限りを尽くしたといわれていたり、そもそも存在自体を疑われたりしている天皇の一人ということだ。そのためここは古墳ではなくて自然の丘という説もあるという。ただ、宮内庁は天皇陵として認定しているようで、「武烈天皇傍丘磐坏丘北陵」と書かれた看板が立っている。13時51分にここを通る。
右手に弘仁4年(813)に創建されたという式内社「志都美神社」があるが、立ち寄らずに先を急ぐ。
すぐ先右手に地蔵尊があり、資料によるとその下部に「道空信士 右 たつた 左 大坂さかい 道」と刻まれた安永8年(1779)の道標があるとなっている。その横に「太子道」と書かれた看板が立っている。
右手に石仏を安置する祠があり、その横に安永7年(1778)の大峯山夜燈と刻まれた常夜燈が立っている。
右手に「庚申」と刻まれた石碑がある。
しばらくは特にみる物もなく、淡々と歩いていき、竹田川に架かる穴虫橋を渡って進み、近鉄大阪線の踏切を越えて進む。
165号線の穴虫の信号の左手に地蔵道標があり、「右 大坂道」「左 さ〇い道」と刻まれているようだ。
すぐ先右手に「万葉歌碑」が立っている。15時1分にここを通る。
その先703号線を進むが、右手に川が流れており、その向こう側に摩崖仏があるようで、看板も立っていたのだが、草が繁っていてどこにあるのか、わからなかった。
右手に「どんづる峯」の説明板が立っている。それによるとどんづる峯は二上火山群の雄峯で、凝灰岩層の景観を見ることができると記されているが、見に行かなかった。
その先、大阪府に入るところ右手に少し入ったところに、馬頭観音を安置する祠と、その横に千手観音が立っている。この辺りが穴虫峠だ。
その先で竹内街道との交点に来る。ここに「竹内街道」の碑と「緑の一里塚」が立っている。15時51分にここを通る。
左手に「用明天皇磯長原陵」と書かれた大正14年の碑が立っている。
16時10分に「叡福寺」に着く。ここは寺伝に従えば、聖徳太子が生前の推古天皇28年(620)にこの地を墓所と定められたことからはじまるという。そしてその翌年に太子の生母である穴穂部間人皇后がここに埋葬された。続いて聖徳太子と妃・膳部菩岐々美郎女が推古天皇30年(622)に相次い亡くなり、ここに追葬された。 同年、推古天皇は聖徳太子の霊を慰めるために墓所の前に、坊舎十軒余りを建て香華寺とした。下って神亀元年(724)、聖武天皇の発願によって東院(転法輪寺)・西院(叡福寺)が整備されて伽藍を整えたとされている。
金堂は棟札に享保17年(1732)の日付があることから、この頃に再建されたと考えられているという。また多宝塔は、承応元年(1652)に江戸の豪商三谷三九郎によって再建されたもので、昭和52年、国の重要文化財に指定されている。ここで葬送の道を歩き終わる。
今日は好天だったので、歩いていてとにかく暑く、汗びっしょりになってしまった!!
本日の歩行時間 5時間30分。
本日の歩数&距離 30813歩、20.5km。
本日の純距離 18.9km(途中、道を間違ったり、より餅をしないで街道だけを歩いた時の距離)
「太子道 葬送の道」は聖徳太子の死後、その亡骸を大阪府太子町にある叡福寺の御廟まで運んだとされる道のことで、太子を偲んで法隆寺から太子御廟に参拝した多くの人々が通った道でもある。
参考資料として「聖徳太子と信仰の道」香芝市二上山博物館編集を使用した。
つい先日歩いた筋違道は法隆寺の東大門を出発したが、葬送の道は南大門から出発する。10時40分に出発する。
南大門の前の松並木を通り、25号線の法隆寺前の信号を横断して直進すると、 右手に「初代奈良丸之碑」がある。嘉永4年(1851)に生まれ、明治時代に一世を風靡した浪曲師吉田奈良丸の頌徳碑だ。
右手に天保13年(1843)の常夜燈が立っている。
右手に「右 いせ たわら本 みわ はせ いちの本 たんば市」「すぐ たつた 志ぎ山 大坂 さかい」「左 京 郡山 なら」道 と刻まれた天保15年(1844)の道標が立っている。道標に関しては今回も「奈良県の道標マップ」を参考にさせていただいている。
ここから右折して進むが、「当麻街道 やすらぎの道」と刻まれたまだ新しい道標が立っている。法隆寺から当麻寺までの道を示したもので、これから先も所々で見かけた。
左手に「日切地蔵」がある。これは継子地蔵とも呼ばれているそうで、他のHPに以下のような記述があったので借用させていただいた。「昔 いつもお腹をすかせていた継子がいた。ある時、継母が「あのお地蔵様にご飯を食べさせたら、お前にも食べさせてやる」と言ったので、子供は「どうかお地蔵様、ご飯を食べてください。」とお願いをしたところ、このお地蔵様が突然口を開いてご飯を食べられた。これを聞いた母親はそれからこの子を我が子のようにかわいがったという。」
その奥に「業平姿見の井戸」がある。これは「女の不作法に愛想を尽かした在原業平を追いかけてきた女が、井戸の傍らのヨノミの樹に登った業平の姿が井戸に映る姿を見て井戸に飛び込んだ」という伝説がある井戸で、弘法大師が掘られた500番目の井戸ということから「五百井戸」とも呼ばれているという。
25号線を横断して進むが、その先の左手25号線沿いにコンビニがあったのでパンを購入する。これで今日の昼食は確保できた。街道に戻って進むと、右手に「龍田神社」がある。ここは聖徳太子が法隆寺の寺地を探し求めていた時、白髪の老人に化身した龍田大明神に会い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神になろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。入口に天保12年(1842)や文化8年(1812)の常夜燈が立っており、境内には県の天然記念物に指定されている「ソテツの巨樹」がある。
ここから左折して25号線を横断して進むと、左手に「吉田寺」があり、入り口に資料によると「本尊丈六阿弥陀如来」「栗木一刀三礼恵心僧都作、是ヨリ一?町南? 堂塔共御建立所、清水山吉田寺」「天保十五(1844)申辰年九月建之」 「境内ニ安産の霊水有、泉州堺、 発起、神南遍、大道心」と刻まれている石碑とその横に「大和二十五霊場」更に「阿弥陀如来」とだけが判読できる石碑が立っている。
吉田寺は飛鳥時代の創建と言われている古刹で、極楽往生を説いた恵心僧都と縁が深く、恵心僧都がクリの巨木から作ったと伝えられる丈六阿弥陀如来像(重要文化財)がポックリ往生の霊験があるとされて信仰を集めている。本堂横には重要文化財に指定されている承久元年(1652)に建立された多宝塔がある。11時19分にここを通る。
25号線を横断して進むと、T字路に突き当たるが、ここに「左 たつた ほう里うし ならミち 右 たまへ ミち」と刻まれた道標が立っている。
ここを右折して進むと、「花小路せせらぎの道」というまだ新しい標識が立っているので、ここを右折、更にその先に「当麻やすらぎの道」の標識が立っているので、すぐ先を左折して進むと、「右 たまへ道」「左 法隆寺 是より〇 丁」「右 達磨寺 是より〇丁」と刻まれた道標が二つ並んである。
水路に沿って行くと左手に資料によると「〇〇谷吉兵〇」「岩〇川大吉」「立田組」「右 たつた道」「文政十二年(1829)丑三月日」と刻まれた道標がある。
その先を左折、更にその先に「花小路せせらぎの道」の標識が立っているので、ここを右へ進んでいき、竜田川に架かる塩田橋を渡ると、右手に「花小路せせらぎ道」と資料によると「左 だるま たゑま道」「當村 三室山 金兵衛 角力 門弟」「ほう里うじ なら道」「寛正7乙卯年(1795) 正月」と刻まれた道標が立っている。11時38分にここを通る。
ここを左折して進むと、左手に「左 たつた ほうりうじ 道」「右 だるま たゑま 道」と刻まれた道標があるので、ここを右折する。
更にその先で左右指差し道標があり、資料によると「すぐ立田楓川 王子驛 右 イナバ 小吉田 ヲヘテ 龍田宮前 吉川富三」と刻まれている。その横に「たるま たへま道」と刻まれた道標があり、更にまだ新しい「延喜」「式内」「神岳神社」と刻まれた石標が並んで立っている。
ここから左折して進むと、大和川に突き当たるので迂回して昭和橋を渡る。川沿いにちょっとしたベンチがあったので、ここに座って昼食にする。先ほど川に突き当たった対岸の所に、土蔵があり、ここから右折して細道を進んでいく。
JRの舟戸踏切でJRの線路を横断、次に高架下を通り、更にJR西舟戸踏切でJRの線路を横断して進むと、左手に3体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
葛下川に架かる達磨橋を渡って進んで「達磨寺」へ行ったのだが、入り口がわかりにくくて遠回りをしてしまった。
「達磨寺」の門を入ったすぐ右手に「左 片岡山だるま寺道」「たつ田へちかみち有」と刻まれた道標が立っている。
そのすぐ先やはり右手に「右 片岡山達磨」と刻まれた道標がある。
「達磨寺」は聖徳太子が瀕死の旅人を見つけて、衣食を与えて看病したが、翌日死亡してしまった。亡骸を葬ったところ数日で消えてしまい、あとには太子が与えた着物のみが残っていた。これは達磨の化身であったのではないかと考えた太子は、堂を建て自らが彫った達磨像を安置したといわれている。境内に残る方丈は寛文7年(1667)に建立されたもので、奈良県内でも類例の少ない本格的な方丈建築という。
境内には、聖徳太子の愛犬で、人の言葉が話せ、お経が読め、達磨寺本堂の下にある達磨大師のお墓の北東に葬ってほしいと遺言を残したと言われている「雪丸」の石像や、「松永秀久の墓」等がある。天正5年(1577)織田信長に謀反した松永久秀は信貴山城にて織田軍に包囲され自害したが、その際に筒井氏が首級をここに埋葬したと伝えられている。敗軍の将ということなのだろうか、そのお墓は小さくて質素なものだ。12時38分にここを通る。
「孝霊天皇陵 西三丁」「武烈天皇陵 南丗丁」「北 大坂皇陵参拝団」と刻まれた大正12年の道標が立っている。孝霊天皇は欠史八代の一人で、実在性に乏しく、武烈天皇も実在した人物かどうか議論があるという。
ここから右斜めに進んでいき、168号線を横断するが、右手に「すぐたるま」「左 たゑ満」と刻まれた文政3年(1820)の道標が立っている。
その先、芦田池の端に資料によると「すぐ たゑま よしの 高野山道」「すぐ だるまじ たつた ほう里うじ なら道」と刻まれた天保4年(1833)の道標が立っており、そのすぐ先に数多くの石仏を安置する地蔵堂がある。
畠田4の信号の先から右折すると、二本の道標が立っている。資料によると「右 だる満じ 多川多本う里うじ なら道」「左 たへま かうや道」と刻まれた道標と「南 春日神社 右 だうまじ た川多 ほうりうじ なら 京 すぐ 大さ可 さかい道」「北 大神宮 すぐ たえま 加うや 与し能 者せ いせ 道」「東 金峯神社 左 たえま いま井 大ミ祢さん上 与し能 かうや ミち」「西 神武天皇」「明治十二年四月三日平次建立」と刻まれているようだ。
ここから左折して進むと、「太神宮」と刻まれた嘉永2年(1850)の常夜燈が立っている。
右手に「白山姫神社」がある。ここは貞観3年(862)に創建されたとされており、五穀豊穣を祈願する神として、厚い信仰を集めていたという。本殿前の石造唐獅子一対は弘化2年(1845)に氏子が奉納したものという。
左手に「尼寺廃寺跡」があり、公園になっている。尼寺は7世紀後半に造営されたもので、現存するものとしては全国最大規模の塔心礎が発掘されている。
右手に「般若院」がある。ここには慶長14年(1609)の名号碑や宝暦14年(1764)の大峯山常夜燈などがあるとされているが、門が閉まっていて見ることはできなかった。13時25分にここを通る。
ここで道を間違ってしまったが、すぐに気がついて事なきを得た。
右手に文化4年(1808)の大峯山上と刻まれた常夜燈が立っている。
ここから右折して進むと、次の角に「太子道」と刻まれたまだ新しい標識が立っている。この標識は葬送の道では初めて見た。
右手に「武烈天皇陵」がある。第25代と言われる武烈天皇は悪行三昧で暴虐の限りを尽くしたといわれていたり、そもそも存在自体を疑われたりしている天皇の一人ということだ。そのためここは古墳ではなくて自然の丘という説もあるという。ただ、宮内庁は天皇陵として認定しているようで、「武烈天皇傍丘磐坏丘北陵」と書かれた看板が立っている。13時51分にここを通る。
右手に弘仁4年(813)に創建されたという式内社「志都美神社」があるが、立ち寄らずに先を急ぐ。
すぐ先右手に地蔵尊があり、資料によるとその下部に「道空信士 右 たつた 左 大坂さかい 道」と刻まれた安永8年(1779)の道標があるとなっている。その横に「太子道」と書かれた看板が立っている。
右手に石仏を安置する祠があり、その横に安永7年(1778)の大峯山夜燈と刻まれた常夜燈が立っている。
右手に「庚申」と刻まれた石碑がある。
しばらくは特にみる物もなく、淡々と歩いていき、竹田川に架かる穴虫橋を渡って進み、近鉄大阪線の踏切を越えて進む。
165号線の穴虫の信号の左手に地蔵道標があり、「右 大坂道」「左 さ〇い道」と刻まれているようだ。
すぐ先右手に「万葉歌碑」が立っている。15時1分にここを通る。
その先703号線を進むが、右手に川が流れており、その向こう側に摩崖仏があるようで、看板も立っていたのだが、草が繁っていてどこにあるのか、わからなかった。
右手に「どんづる峯」の説明板が立っている。それによるとどんづる峯は二上火山群の雄峯で、凝灰岩層の景観を見ることができると記されているが、見に行かなかった。
その先、大阪府に入るところ右手に少し入ったところに、馬頭観音を安置する祠と、その横に千手観音が立っている。この辺りが穴虫峠だ。
その先で竹内街道との交点に来る。ここに「竹内街道」の碑と「緑の一里塚」が立っている。15時51分にここを通る。
左手に「用明天皇磯長原陵」と書かれた大正14年の碑が立っている。
16時10分に「叡福寺」に着く。ここは寺伝に従えば、聖徳太子が生前の推古天皇28年(620)にこの地を墓所と定められたことからはじまるという。そしてその翌年に太子の生母である穴穂部間人皇后がここに埋葬された。続いて聖徳太子と妃・膳部菩岐々美郎女が推古天皇30年(622)に相次い亡くなり、ここに追葬された。 同年、推古天皇は聖徳太子の霊を慰めるために墓所の前に、坊舎十軒余りを建て香華寺とした。下って神亀元年(724)、聖武天皇の発願によって東院(転法輪寺)・西院(叡福寺)が整備されて伽藍を整えたとされている。
金堂は棟札に享保17年(1732)の日付があることから、この頃に再建されたと考えられているという。また多宝塔は、承応元年(1652)に江戸の豪商三谷三九郎によって再建されたもので、昭和52年、国の重要文化財に指定されている。ここで葬送の道を歩き終わる。
今日は好天だったので、歩いていてとにかく暑く、汗びっしょりになってしまった!!
本日の歩行時間 5時間30分。
本日の歩数&距離 30813歩、20.5km。
本日の純距離 18.9km(途中、道を間違ったり、より餅をしないで街道だけを歩いた時の距離)