2019年05月17日(金)
法隆寺~飛鳥駅
晴れ
飛鳥・奈良時代、奈良盆地では東西、南北の正方位に従う直線道路が整備された。東西道として横大路、南北道としては上ツ道、中ツ道、下ツ道があり、このうちよくわからない中ツ道以外はこれまですべて歩いてきた。今回歩いた道はこれとは別に、聖徳太子が法隆寺建立のために斑鳩の里から三宅の原を経て飛鳥の宮までを往来した「太子道」と呼ばれる道だ。この道路は、上記の直線道路と異なり、条里制の南北方向の地割りに斜交している道で、別名「筋違道」とも呼ばれている。また中世以降は、「法隆寺」街道とも呼ばれ、生活道路として盛んに利用されたという。
参考資料として「歩くなら推奨ルートマップ」と斑鳩町観光協会からいただいた「太子道マップ」を使用した。
JR法隆寺駅を降りて進み、法隆寺の参道に来ると、きれいな松並木になっている。
法隆寺は推古15年(607)、聖徳太子と推古天皇によって創建されたと伝えられており、「日本書紀」には、天智9年(670)に伽藍を焼失したとの記述があるため、8世紀初頭に現伽藍が完成したと考えられている。境内は西院と東院に分かれており、国宝、重要文化財だけでも55棟に及ぶという。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築群であり、平成5年に法隆寺地域の仏像建造物として世界文化遺産に登録されている。
正面に法隆寺の玄関にあたる南大門があり、国宝に指定されている。法隆寺建立時には中門前の石段上に建っていたが、寺域の拡大によって現在地に移されたという。創建時の建物は永享7年(1435)に焼失したため、永享10年(1438)に再建されたという。
その先に西院伽藍の本来の入口である中門がある。これも飛鳥時代の建物で国宝に指定されている。その向こうに西伽藍最古の建物である「金堂」があり、その横に日本最古の塔である「五重塔」がそびえている。共に飛鳥時代の建造物で国宝に指定されている。
その横に国宝で鎌倉時代に建てられた、聖徳太子をご本尊とする「聖霊院」があり、更にその横に同じく国宝に指定されている奈良時代の「東室」、その奥に平安時代に建てられ、重要文化財に指定されている「妻室」がある。
とにかく国宝のオンパレードだ。ゆっくり見物をしていたいのだが、今日歩く道はそれなりに距離があるので、ゆっくりすることができず、先を急ぐことにする。
東大門があり、その前に東院伽藍があるのだが、見物をせずに歩き始めることにする。
8時45分に「法隆寺東大門」を出発する。東大門も奈良時代の建物で、日本最古の僧門として国宝となっている。街道の距離、歩数はここからカウントした。
東院伽藍の入口の左横に二本の道標が立っており、「左 松尾道 大坂○○」「山田○○」と、「従是五町北三井法輪寺」と刻まれている。
東大門を出て右折し、その先ですぐに左折しなければいけなかったのだが、うっかり直進してしまった。歩き始め早々に道を間違えてしまったのだ。すぐ気が付いて十字路に戻り、左折して進む。25号線を横断して進むと、左手田んぼの向こうに「調子丸古墳」が見える。これは聖徳太子の愛馬・黒駒のお世話係だった調子丸(調子麻呂・調使麻呂)の墓と伝えられている。
右手に「太子ロマンの道」という新しい石標が立っており、ここを左折して進む。業平橋を渡った右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑と石仏、その横に歌碑が並んである。
その先で細道を右折、更にその先で左折し、JRの安堵第二踏切でJRの線路を渡って進むと、右手に「善照寺」があり、境内に「富生の松」がある。この松は樹齢約300年で福井県富生村から水路で運ばれてきたと伝わっており、根が地上に盛り上がるように作られたのが特徴で、「根上がり松」と呼ばれていて、県内では珍しい松と説明されている。
その横に「広峰神社」があるが、ここは江戸時代を通じて「牛頭大王」と呼ばれていたという。また社地は聖徳太子のいた飽波葦垣宮(あくなみのあしがきのみや)跡地であると伝えられている。境内に聖徳太子が掘られたという井戸があるが、これは後に在原業平がここで休憩し、姿を映されたことから業平姿見の井戸と呼ばれている。
このあたり、道が入り組んでいてわかりにくかったが、ご近所のおばさんが二人おられて親切に教えてくれたので助かった。
右手に安堵町の太子道の説明板が立っていて、「太子道は斑鳩と飛鳥を結び、行程二十数キロメートル、北北西へ約20度傾斜し貫いています。別名「筋違道」とも呼ばれ、直交道路の多い奈良盆地の中で、斜向する特異な古道です。聖徳太子が飛鳥の宮から斑鳩宮の間を行き来されたと伝えられ、周辺には多くの遺跡が散在しています。」と書かれている。
右手に「飽波神社」があるが、神社の前、左手に道標が立っており「水屋敷天ツ神社へ南二丁 大阪有志者寄贈 大正十年九月建立」と刻まれている。
「飽波神社」は聖徳太子が牛頭大王を祀る祠を建てたのが始まりとされており、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていたという。境内には聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ通った際、休憩時に腰を掛けたという伝承のある通称「腰掛石」があり、人形が座っていた。その横に天保2年(1831)の常夜燈が立っている。
西名阪自動車道の高架下、左手に「高塚(古墳)」がある。「ここにはせんだんの木がありましたが、昭和28年台風により倒れました。この木の根本の南側に大石があり、この下にむかしタカ狩りをした殿様のタカを埋めてあり、タカ塚になったとも、聖徳太子のかわいがられたタカを埋めたともいわれています」と書かれた説明板が立っている。
その先、左手の田んぼの真ん中に大きな聖徳太子の像が立っており、その周囲に田植えをしている村人の像が置かれている。遠くから見ると大きな聖徳太子の像をあたかも人間が囲んでいるように見える。
その先左手に「杵築神社」がある。創建は寿永2年(1178)と記録にある古い神社で、昭和35年に現在地に移転したという。本殿は文化年間に春日大社若宮旧本殿を拝領したものという。境内には平安時代に造立されたという説がある石塔が立っている。
この先で道を間違えてしまって、あとでGPSの軌跡を見ると30分近く時間をロスしてしまっていた。
ようやく本来の道に戻って細道を進むが、この辺り昔の雰囲気が残っている旧家が並んでいる。
左手に「常徳寺」がある右手に天保14年(1843)の三界万霊を安置する祠がある。
大和川に架かる馬場尻橋を渡って進むと、左手に堀に囲まれた「杵築神社」がある。ここも大和川の改修工事によってこの地に移転したと説明されている。堀には亀が数多く泳いでいた。
その先右手に「油掛地蔵」がある。これは大永3年(1523)に作られており、泥田の中に埋もれていたものを引き上げてこの地にお祀りをしている。クサ(できもの)ができている子供の母親がこの地蔵さんにお祈りをして油をかけていると、クサが治ったという伝説があるという。願をかける日は油をかける習わしがあり、また、当時この地域は水害が多かったため、油をかけて水をはじくようにということから油掛地蔵といわれるようになったという。地蔵堂には「火気厳禁」の張り紙がしてあり、「おねがい」として「油はお地蔵様以外にかけないでください。かけられる油は植物油に限ります。石油系の油は絶対かけないで下さい」と書かれた張り紙があった。当然のことだろう。10時53分にここを通る。
ここでまた道を間違えた。私が油掛地蔵の場所を地図に落とすときに、本来であれば右折する道の先にこの地蔵の場所を落とさなければいけなかったものを、手前に書いてしまったため、そのまま地蔵の前を進んでしまい、108号線まで出てしまったのだ。108号線を歩いて行ったが、どうにもおかしいと思って108号線から右折して進んで、ようやく道を見つけることができた。街道は油掛地蔵の手前から右折しなければいけなかったのだ。
寺川沿いに進んでいき、井戸橋から左折して進むと、左手に「糸井神社」がある。ここも延喜式神名帳に記された式内社で、本殿は江戸時代に春日大社から移設されたものという。本殿の右側に三つの境内社が並んでいて、境内には文政5年(1822)の常夜燈が立っている。この街道の沿線に延喜式に記載されている神社が多いということは、それだけ長い歴史を持った神社が多いということで、歴史を感じる。11時21分にここを通る。
宮前橋を渡った左手に「面塚」がある。これは能楽観世流の創始者である観阿弥が御前演奏の成功を糸井神社に祈願したところ、能面とネギを授かったという伝説に由来して昭和11年に建立された塚ということだ。
右手に「白山神社」があり、ここに聖徳太子が腰かけられたという「腰掛石」がある。
この左手に「屏風杵築神社」がある。村人が聖徳太子をもてなす時、屏風を立てて風を防いだことから屏風と名付けられたと伝えられている。拝殿北側には聖徳太子がこの地で休憩をとったとき、従者の持つ弓をとって地を掘ると、冷水がこんこんと湧き出たという「屏風の清水」があるが、現在は清水は沸いておらず、石が置かれているのみだった。このあたり、杵築神社という名前の神社が多い。
その先、左手に「忍性菩薩御誕生之地」碑が立っている。忍性は鎌倉時代の真言律宗の僧侶で貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られている。
右手に「木抱かれ地蔵」がある。これは文政3年(1820)に建立されたもので、平成25年5月まで「よのみの木(榎木)に包まれていて、顔と右肩だけが見えていたので、「木抱かれ地蔵」と呼ばれているという。11時44分にここを通る。
左手に「厳嶋神社」があり、そのすぐ先左手に「杵築神社」がある。この神社の入り口に「三宅村道路元標」が立っている。
境内には安永9年(1780)の常夜燈が立っており、その横に資料によると「すぐ田原本 三輪 武峯 初瀬道」「左 たつた 法里うじ なら こほり山 道」「とうひとのあらばこたへよみちしるべ」と刻まれた安政5年(1858)の道標が立っている。
右手に天保8年(1837)の常夜燈が立っており、その横に「迷路」と称して、「集落内の通路は袋小路やL型・T型・鍵型等の箇所が多く、直進するには極めて不便であるが、昔は外敵との交戦の難を逃れるのに好都合だった」と書かれた説明板が立っている。
その先左手にも文化9年(1812)の常夜燈が立っている。
右手に万葉歌碑がある。草深い三宅道を両親が息子とその妻に会いに来たというようなことが謡われているようだ。
左手に地蔵堂があり、多数の石仏が安置されている。
左手に黒田駅があり、ちょうど12時になったので、駅のベンチで昼食にする。法隆寺駅の近くで買ったパンが今日の昼食だ。
右手に「孝霊神社」がある。「明治時代初期に現在地へ遷座されたもので、岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎伝説の多くは古事記、日本書紀に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するもの」と説明されている。明和7年(1770)の石灯籠一対があると説明されているが、どれがそれなのか分からなかった。ただ文化4年(1807)の常夜燈はあった。
その先左手に「都村道路元標」がある。
右手に「地蔵堂」がある。
その先のT字路を左折して進み、街道はその先で右折するのだが、街道を外れてそのまま直進すると左手に「鏡作伊多神社」があるが、入口がわからずにぐるっと一周してしまった。ここも延喜式神名帳に記載されている式内社で、現在の本殿・拝殿は平成9年の台風で被害を受けたため、再建されたという。境内には文化2年(1805)の常夜燈や文化6年(1809)の狛犬がある。
街道に戻って進むと、保津の環濠集落がある。ここの環濠は最も単純な形式で集落全部を環濠している。
その先で飛鳥川の川沿いに出て、飛鳥川沿いを歩いていく。自転車・歩道専用道があって、歩きやすい道だ。
しばらく川沿いの道を進んでいくと、左手に「多坐弥志理比古神社(おおにいますみしりつひこ)」略して「多神社」がある。
ここも延喜式神名帳に記載された式内社で、本殿は奈良県指定文化財になっている。このあたりは多氏が支配をしており、多氏の始神である神八井耳命を祀っている。ここが学問の神として信仰を集めているのは、古事記を編纂したことで知られる太安万侶が多一族の出身であることによるという。境内には弥生時代の多遺跡と呼ばれる遺跡がある。13時27分にここを通る。
飛鳥川沿いを進んでいくと、左手に大木があり、その下に「今井町道路元標」がある。14時7分にここを通る。
右手に「北 奈良 京都 東 はせ いせ 南 つぼさか寺 よしの」と刻まれた道標が立っている。
このあたりは八木町で、横大路を歩いた時に大和八木で宿泊し、その時に見学をしたところだ。まるで江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気の街並みが並んでいる。
左手に「蘓武井」がある。この井戸からはこんこんと水が湧き出ていて、今井の里千軒の家々がこの水を毎日汲んでも涸れることがなかったという。この井戸は聖徳太子が水を飲まれたとも、愛馬の黒駒に水を与えた井戸ともいわれているという。
その横に石仏を祀る小祠があり、その左手に「庚申」、その右手に「今井ソンボの朝汲みは桶がもるやら涙やら」と刻まれた歌碑が立っている。今井の朝水汲みの厳しさを謡ったものだ。
その先の十字路を左折するが、その角に地蔵堂がある。
喉が渇いてきたので、自販機で飲料水を買おうと思って財布を出してみると、一万円札しかない。今日は暑い一日だったので、頻繁に飲料水を飲んできたので、気が付かないうちに小銭を使い尽くしてしまったようだ。自販機は千円札しか使えないので困ったな、と思って自販機の前でウロウロしていると、若い女の子の二人連れが、何をしているのですか?と声をかけてきた。事情を話して千円札で両替ができないかを聞いたのだが、できないという。近所にコンビニでもあればいいのだが、それもない。大分離れた所にはあるそうだが、道を外れてまでは行きたくない。街道を歩いていて、法隆寺からここまで歩いてきたと言うと、「ワッ スゴ~イ!」「ゲンキィ~」と言われてしまった。同じ方向に歩いていくが、どこにも両替できる店がない。そのうち彼女が私がおごりましょうか、とまで言ってくれたが、さすがにそういうわけにもいかないので、お断りする。飛鳥川沿いを歩く私は橋を渡ったところで右折して進むなければいけないので、そこで彼女らと別れることにする。別れ際に「ガンバッテェ~」と声をかけられてお別れする。
飛鳥川沿いに歩いていくと、左手に文化4年(1807)の常夜燈が立っている。
なんとなく見覚えのある道だと思っていると、先日歩いた下ツ道のすぐ近くだった。この辺りに両替ができるお店はないかと思っていると、ご夫婦がおられ、私が下ツ道を探していると思われたようで、こっちですよと教えてくれたが、事情を話して両替できるところを探していることを話すと、お二人で財布を見て千円札があるかどうか調べてくれた。九千円まであったがそれ以上のお札はないということで、困っていた私は、「九千円でいいので、一万円と両替してくれませんか」というと、「いやいやそういうわけにはいかない」と言われて、今度はお二人で小銭を出し合い、百円、五十円、十円すべて出すとちょうど千円分あったので、これで両替をしていただいた。本当に助かった。ありがとうございました。
その先も飛鳥川沿いに歩いて行き、藤原京大橋で対岸、右岸にわたって進むと、右手に常夜燈が立っている。14時42分にここを通る。
ここから右斜めに道が分岐しているし、いかにも旧家という雰囲気の家があったりしたので、川沿いの道から右へ分岐して進んでいく。ところがこの道は川から離れていく一方のようなので、途中でおかしいと気が付いて、川沿いの道に戻ることにして、直角に左折して川沿いの道に戻ったのだが、この間に待望の自販機があったので、ようやく飲料水を買うことができた。相当に喉が渇いていたので助かった。道を間違えたことが思わぬ怪我の功名になったのだ。
飛鳥川沿いを進んでいくと、また蛇がいた。これもかなり大きい蛇だったが、今回の蛇は車に引かれたらしく死んでいた。昨日の葛城古道から3匹目だ。何度見ても蛇は嫌だ。
214号線を横断した次の道で雷橋を渡って川の左岸に渡ってやはり川沿いに進むと、左手に文化10年(1813)の常夜燈と庚申塔、役行者の碑が並んでいる。15時20分にここを通る。
そのすぐ先、右手に万葉歌碑がある。「なでしこ」「わが屋外に蒔きし○麦 いつしか花に咲きなむ 比へつつ見む」と刻まれている。
川の対岸に「甘樫丘」が見える。ここは標高148mの緩やかな丘で、ここに登ると明日香村が一望できるという。かって蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子が天下に権勢を示すため、丘のふもとに居宅を築いたといわれている。
更にその先で左からの道路と合流するところ左手にやはり歌碑がある。「今日可開 明日香河乃 夕不離 川津鳴瀬之 清有良武」と刻まれているようだ。
左手にあすか夢の楽市という店があり、その右横に「水落遺跡」がある。ここは古代の漏刻(中国伝来の水時計で、水を器に蓄え、その漏洩の水量を測定して時刻を知る)跡ということだ。
その先で左折、更に右折して進むと、右手に「蘇我入鹿首塚」がある。奈良県観光公式サイトによると、「蘇我入鹿は、後世の伝説によれば、天をもおそれぬ大悪人であり、超自然的な能力をそなえた魔人であった。そういう人物だから、大化改新の時もただ殺されるだけではすまず、切られた首が飛び跳ねたり、御簾に食いついたりしたとかいう伝承はかなり古くからあったらしい。鎌倉時代の五輪塔が、その首を埋めた塚とされたのも、人々に、そのような入鹿への恐れがあったからだろう。」と説明されている。
首塚の左手に「飛鳥寺」があり、15時40分に着く。飛鳥寺は崇峻天元年(588)に百済から仏舎利が献じられたことにより、蘇我馬子が寺院建立を発願し、推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺だ。寺名は法興寺・元興寺、飛鳥寺と呼ばれ、現在は安居院と呼ばれている。創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置で、寺域は東西約200m,南北約300mもあって、日本最初の本格的な寺院だった。百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わったという。瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていったと説明されている。
本尊は釈迦如来坐像で飛鳥大仏と呼ばれており、重要文化時に指定されている。推古天皇13年(605)、天皇が聖徳太子や蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、同17年(609)に造られた日本最古の仏像だ。
本尊の左隣には「聖徳太子孝養像」が安置されている。聖徳太子十六歳の時、父用明天皇の御病気回復を祈願されている姿の像で、室町時代の作という。 本尊の右隣には「阿弥陀如来坐像」が安置されている。これは藤原時代の作という。
ここでは珍しく写真撮影が許可されていたので、撮影をすることができた。
再び飛鳥川沿いを進んでいき、155号線で右折すると、右手に「川原寺跡」がある。飛鳥の三大寺に挙げられた大寺であった川原寺は斉明天皇の川原宮跡に子の天智天皇が建てたもので、現在は、遺構として24の瑪瑙(大理石)の礎石と塔跡が残っている。
ここから左折して進むと「橘寺」がある。ここは創建年代不詳で、文献に初めて登場するのは天武9年(680)といい、聖徳太子誕生の地といわれている。現在の本堂は元治元年(1864)に再建されたものという。境内には飛鳥時代の石造物の一つで、人の心の善悪二相を表したものという「二面石」が太子殿の左横にある。
橘寺を出て直進し、その先で右折したところに「聖徳太子御誕生所」「太日本佛浴最初霊地」と刻まれた石柱が立っている。
その先の細道を左折して進むと、右手に安永3年(1774)の天王社と刻まれた灯籠が立っていて、鳥居が立っているところがあったが、塀で囲まれた中には木の切り株があるのみだったので、これが何なのかわからなかった。
右手に「亀石」がある。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることから、この名前で呼ばれている。昔、奈良盆地一帯が湖だったころ、対岸の当麻の蛇と川原のナマズが争い、前者が勝って、水を吸い取られた結果、川原の辺りは干上がってしまって、湖のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って供養をしたという伝説があるという。16時33分にここを通る。
すぐ横に石仏が立っている。
ここから209号線を地下道で横断して進むと、右手階段の上に「鬼の俎」があり、すぐ先左手下に「鬼の雪隠」がある。鬼が旅人を霧で迷わせ、捕らえて爼で料理し、満腹になったあとに雪隠で用を足したと伝えられているが、これは欽明天皇陵の石室の底石と蓋と治定されており、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものとされている。
右手に「欽明天皇陵」があるので、街道から外れていってみた。欽明天皇は第29代の天皇で、明日香村内では唯一の前方後円墳という。
また陵へ行く途中左手に「吉備姫王墓」がある。この方は孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母にあたり、墓名は檜隈墓と称されている。
墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側の字イケダの水面から掘り出された石造物が左右に2体ずつ、計4体があり、「猿石」と称されている。
街道に戻って進むと、209号線と合流するところ右手に文化元年(1804)の常夜燈が立っている。
17時8分に飛鳥駅に到着する。
東大門から飛鳥駅までで45000歩歩いているのだが、ホテルを出て法隆寺東大門まで歩いた分を入れると5万歩を越えている。久しぶりの5万歩越え、更にここから5時間移動して帰宅したので、さすがにくたびれた。
本日の歩行時間 8時間23分。
本日の歩数&距離 45001歩、31.9km。
本日の純距離 26.8km。(途中、道を間違ったり、寄り道をしないで街道だけを歩いた時の距離)
飛鳥・奈良時代、奈良盆地では東西、南北の正方位に従う直線道路が整備された。東西道として横大路、南北道としては上ツ道、中ツ道、下ツ道があり、このうちよくわからない中ツ道以外はこれまですべて歩いてきた。今回歩いた道はこれとは別に、聖徳太子が法隆寺建立のために斑鳩の里から三宅の原を経て飛鳥の宮までを往来した「太子道」と呼ばれる道だ。この道路は、上記の直線道路と異なり、条里制の南北方向の地割りに斜交している道で、別名「筋違道」とも呼ばれている。また中世以降は、「法隆寺」街道とも呼ばれ、生活道路として盛んに利用されたという。
参考資料として「歩くなら推奨ルートマップ」と斑鳩町観光協会からいただいた「太子道マップ」を使用した。
JR法隆寺駅を降りて進み、法隆寺の参道に来ると、きれいな松並木になっている。
法隆寺は推古15年(607)、聖徳太子と推古天皇によって創建されたと伝えられており、「日本書紀」には、天智9年(670)に伽藍を焼失したとの記述があるため、8世紀初頭に現伽藍が完成したと考えられている。境内は西院と東院に分かれており、国宝、重要文化財だけでも55棟に及ぶという。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築群であり、平成5年に法隆寺地域の仏像建造物として世界文化遺産に登録されている。
正面に法隆寺の玄関にあたる南大門があり、国宝に指定されている。法隆寺建立時には中門前の石段上に建っていたが、寺域の拡大によって現在地に移されたという。創建時の建物は永享7年(1435)に焼失したため、永享10年(1438)に再建されたという。
その先に西院伽藍の本来の入口である中門がある。これも飛鳥時代の建物で国宝に指定されている。その向こうに西伽藍最古の建物である「金堂」があり、その横に日本最古の塔である「五重塔」がそびえている。共に飛鳥時代の建造物で国宝に指定されている。
その横に国宝で鎌倉時代に建てられた、聖徳太子をご本尊とする「聖霊院」があり、更にその横に同じく国宝に指定されている奈良時代の「東室」、その奥に平安時代に建てられ、重要文化財に指定されている「妻室」がある。
とにかく国宝のオンパレードだ。ゆっくり見物をしていたいのだが、今日歩く道はそれなりに距離があるので、ゆっくりすることができず、先を急ぐことにする。
東大門があり、その前に東院伽藍があるのだが、見物をせずに歩き始めることにする。
8時45分に「法隆寺東大門」を出発する。東大門も奈良時代の建物で、日本最古の僧門として国宝となっている。街道の距離、歩数はここからカウントした。
東院伽藍の入口の左横に二本の道標が立っており、「左 松尾道 大坂○○」「山田○○」と、「従是五町北三井法輪寺」と刻まれている。
東大門を出て右折し、その先ですぐに左折しなければいけなかったのだが、うっかり直進してしまった。歩き始め早々に道を間違えてしまったのだ。すぐ気が付いて十字路に戻り、左折して進む。25号線を横断して進むと、左手田んぼの向こうに「調子丸古墳」が見える。これは聖徳太子の愛馬・黒駒のお世話係だった調子丸(調子麻呂・調使麻呂)の墓と伝えられている。
右手に「太子ロマンの道」という新しい石標が立っており、ここを左折して進む。業平橋を渡った右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑と石仏、その横に歌碑が並んである。
その先で細道を右折、更にその先で左折し、JRの安堵第二踏切でJRの線路を渡って進むと、右手に「善照寺」があり、境内に「富生の松」がある。この松は樹齢約300年で福井県富生村から水路で運ばれてきたと伝わっており、根が地上に盛り上がるように作られたのが特徴で、「根上がり松」と呼ばれていて、県内では珍しい松と説明されている。
その横に「広峰神社」があるが、ここは江戸時代を通じて「牛頭大王」と呼ばれていたという。また社地は聖徳太子のいた飽波葦垣宮(あくなみのあしがきのみや)跡地であると伝えられている。境内に聖徳太子が掘られたという井戸があるが、これは後に在原業平がここで休憩し、姿を映されたことから業平姿見の井戸と呼ばれている。
このあたり、道が入り組んでいてわかりにくかったが、ご近所のおばさんが二人おられて親切に教えてくれたので助かった。
右手に安堵町の太子道の説明板が立っていて、「太子道は斑鳩と飛鳥を結び、行程二十数キロメートル、北北西へ約20度傾斜し貫いています。別名「筋違道」とも呼ばれ、直交道路の多い奈良盆地の中で、斜向する特異な古道です。聖徳太子が飛鳥の宮から斑鳩宮の間を行き来されたと伝えられ、周辺には多くの遺跡が散在しています。」と書かれている。
右手に「飽波神社」があるが、神社の前、左手に道標が立っており「水屋敷天ツ神社へ南二丁 大阪有志者寄贈 大正十年九月建立」と刻まれている。
「飽波神社」は聖徳太子が牛頭大王を祀る祠を建てたのが始まりとされており、江戸時代は牛頭天王社と呼ばれていたという。境内には聖徳太子が斑鳩から飛鳥へ通った際、休憩時に腰を掛けたという伝承のある通称「腰掛石」があり、人形が座っていた。その横に天保2年(1831)の常夜燈が立っている。
西名阪自動車道の高架下、左手に「高塚(古墳)」がある。「ここにはせんだんの木がありましたが、昭和28年台風により倒れました。この木の根本の南側に大石があり、この下にむかしタカ狩りをした殿様のタカを埋めてあり、タカ塚になったとも、聖徳太子のかわいがられたタカを埋めたともいわれています」と書かれた説明板が立っている。
その先、左手の田んぼの真ん中に大きな聖徳太子の像が立っており、その周囲に田植えをしている村人の像が置かれている。遠くから見ると大きな聖徳太子の像をあたかも人間が囲んでいるように見える。
その先左手に「杵築神社」がある。創建は寿永2年(1178)と記録にある古い神社で、昭和35年に現在地に移転したという。本殿は文化年間に春日大社若宮旧本殿を拝領したものという。境内には平安時代に造立されたという説がある石塔が立っている。
この先で道を間違えてしまって、あとでGPSの軌跡を見ると30分近く時間をロスしてしまっていた。
ようやく本来の道に戻って細道を進むが、この辺り昔の雰囲気が残っている旧家が並んでいる。
左手に「常徳寺」がある右手に天保14年(1843)の三界万霊を安置する祠がある。
大和川に架かる馬場尻橋を渡って進むと、左手に堀に囲まれた「杵築神社」がある。ここも大和川の改修工事によってこの地に移転したと説明されている。堀には亀が数多く泳いでいた。
その先右手に「油掛地蔵」がある。これは大永3年(1523)に作られており、泥田の中に埋もれていたものを引き上げてこの地にお祀りをしている。クサ(できもの)ができている子供の母親がこの地蔵さんにお祈りをして油をかけていると、クサが治ったという伝説があるという。願をかける日は油をかける習わしがあり、また、当時この地域は水害が多かったため、油をかけて水をはじくようにということから油掛地蔵といわれるようになったという。地蔵堂には「火気厳禁」の張り紙がしてあり、「おねがい」として「油はお地蔵様以外にかけないでください。かけられる油は植物油に限ります。石油系の油は絶対かけないで下さい」と書かれた張り紙があった。当然のことだろう。10時53分にここを通る。
ここでまた道を間違えた。私が油掛地蔵の場所を地図に落とすときに、本来であれば右折する道の先にこの地蔵の場所を落とさなければいけなかったものを、手前に書いてしまったため、そのまま地蔵の前を進んでしまい、108号線まで出てしまったのだ。108号線を歩いて行ったが、どうにもおかしいと思って108号線から右折して進んで、ようやく道を見つけることができた。街道は油掛地蔵の手前から右折しなければいけなかったのだ。
寺川沿いに進んでいき、井戸橋から左折して進むと、左手に「糸井神社」がある。ここも延喜式神名帳に記された式内社で、本殿は江戸時代に春日大社から移設されたものという。本殿の右側に三つの境内社が並んでいて、境内には文政5年(1822)の常夜燈が立っている。この街道の沿線に延喜式に記載されている神社が多いということは、それだけ長い歴史を持った神社が多いということで、歴史を感じる。11時21分にここを通る。
宮前橋を渡った左手に「面塚」がある。これは能楽観世流の創始者である観阿弥が御前演奏の成功を糸井神社に祈願したところ、能面とネギを授かったという伝説に由来して昭和11年に建立された塚ということだ。
右手に「白山神社」があり、ここに聖徳太子が腰かけられたという「腰掛石」がある。
この左手に「屏風杵築神社」がある。村人が聖徳太子をもてなす時、屏風を立てて風を防いだことから屏風と名付けられたと伝えられている。拝殿北側には聖徳太子がこの地で休憩をとったとき、従者の持つ弓をとって地を掘ると、冷水がこんこんと湧き出たという「屏風の清水」があるが、現在は清水は沸いておらず、石が置かれているのみだった。このあたり、杵築神社という名前の神社が多い。
その先、左手に「忍性菩薩御誕生之地」碑が立っている。忍性は鎌倉時代の真言律宗の僧侶で貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済に尽力したことで知られている。
右手に「木抱かれ地蔵」がある。これは文政3年(1820)に建立されたもので、平成25年5月まで「よのみの木(榎木)に包まれていて、顔と右肩だけが見えていたので、「木抱かれ地蔵」と呼ばれているという。11時44分にここを通る。
左手に「厳嶋神社」があり、そのすぐ先左手に「杵築神社」がある。この神社の入り口に「三宅村道路元標」が立っている。
境内には安永9年(1780)の常夜燈が立っており、その横に資料によると「すぐ田原本 三輪 武峯 初瀬道」「左 たつた 法里うじ なら こほり山 道」「とうひとのあらばこたへよみちしるべ」と刻まれた安政5年(1858)の道標が立っている。
右手に天保8年(1837)の常夜燈が立っており、その横に「迷路」と称して、「集落内の通路は袋小路やL型・T型・鍵型等の箇所が多く、直進するには極めて不便であるが、昔は外敵との交戦の難を逃れるのに好都合だった」と書かれた説明板が立っている。
その先左手にも文化9年(1812)の常夜燈が立っている。
右手に万葉歌碑がある。草深い三宅道を両親が息子とその妻に会いに来たというようなことが謡われているようだ。
左手に地蔵堂があり、多数の石仏が安置されている。
左手に黒田駅があり、ちょうど12時になったので、駅のベンチで昼食にする。法隆寺駅の近くで買ったパンが今日の昼食だ。
右手に「孝霊神社」がある。「明治時代初期に現在地へ遷座されたもので、岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎伝説の多くは古事記、日本書紀に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するもの」と説明されている。明和7年(1770)の石灯籠一対があると説明されているが、どれがそれなのか分からなかった。ただ文化4年(1807)の常夜燈はあった。
その先左手に「都村道路元標」がある。
右手に「地蔵堂」がある。
その先のT字路を左折して進み、街道はその先で右折するのだが、街道を外れてそのまま直進すると左手に「鏡作伊多神社」があるが、入口がわからずにぐるっと一周してしまった。ここも延喜式神名帳に記載されている式内社で、現在の本殿・拝殿は平成9年の台風で被害を受けたため、再建されたという。境内には文化2年(1805)の常夜燈や文化6年(1809)の狛犬がある。
街道に戻って進むと、保津の環濠集落がある。ここの環濠は最も単純な形式で集落全部を環濠している。
その先で飛鳥川の川沿いに出て、飛鳥川沿いを歩いていく。自転車・歩道専用道があって、歩きやすい道だ。
しばらく川沿いの道を進んでいくと、左手に「多坐弥志理比古神社(おおにいますみしりつひこ)」略して「多神社」がある。
ここも延喜式神名帳に記載された式内社で、本殿は奈良県指定文化財になっている。このあたりは多氏が支配をしており、多氏の始神である神八井耳命を祀っている。ここが学問の神として信仰を集めているのは、古事記を編纂したことで知られる太安万侶が多一族の出身であることによるという。境内には弥生時代の多遺跡と呼ばれる遺跡がある。13時27分にここを通る。
飛鳥川沿いを進んでいくと、左手に大木があり、その下に「今井町道路元標」がある。14時7分にここを通る。
右手に「北 奈良 京都 東 はせ いせ 南 つぼさか寺 よしの」と刻まれた道標が立っている。
このあたりは八木町で、横大路を歩いた時に大和八木で宿泊し、その時に見学をしたところだ。まるで江戸時代にタイムスリップしたような雰囲気の街並みが並んでいる。
左手に「蘓武井」がある。この井戸からはこんこんと水が湧き出ていて、今井の里千軒の家々がこの水を毎日汲んでも涸れることがなかったという。この井戸は聖徳太子が水を飲まれたとも、愛馬の黒駒に水を与えた井戸ともいわれているという。
その横に石仏を祀る小祠があり、その左手に「庚申」、その右手に「今井ソンボの朝汲みは桶がもるやら涙やら」と刻まれた歌碑が立っている。今井の朝水汲みの厳しさを謡ったものだ。
その先の十字路を左折するが、その角に地蔵堂がある。
喉が渇いてきたので、自販機で飲料水を買おうと思って財布を出してみると、一万円札しかない。今日は暑い一日だったので、頻繁に飲料水を飲んできたので、気が付かないうちに小銭を使い尽くしてしまったようだ。自販機は千円札しか使えないので困ったな、と思って自販機の前でウロウロしていると、若い女の子の二人連れが、何をしているのですか?と声をかけてきた。事情を話して千円札で両替ができないかを聞いたのだが、できないという。近所にコンビニでもあればいいのだが、それもない。大分離れた所にはあるそうだが、道を外れてまでは行きたくない。街道を歩いていて、法隆寺からここまで歩いてきたと言うと、「ワッ スゴ~イ!」「ゲンキィ~」と言われてしまった。同じ方向に歩いていくが、どこにも両替できる店がない。そのうち彼女が私がおごりましょうか、とまで言ってくれたが、さすがにそういうわけにもいかないので、お断りする。飛鳥川沿いを歩く私は橋を渡ったところで右折して進むなければいけないので、そこで彼女らと別れることにする。別れ際に「ガンバッテェ~」と声をかけられてお別れする。
飛鳥川沿いに歩いていくと、左手に文化4年(1807)の常夜燈が立っている。
なんとなく見覚えのある道だと思っていると、先日歩いた下ツ道のすぐ近くだった。この辺りに両替ができるお店はないかと思っていると、ご夫婦がおられ、私が下ツ道を探していると思われたようで、こっちですよと教えてくれたが、事情を話して両替できるところを探していることを話すと、お二人で財布を見て千円札があるかどうか調べてくれた。九千円まであったがそれ以上のお札はないということで、困っていた私は、「九千円でいいので、一万円と両替してくれませんか」というと、「いやいやそういうわけにはいかない」と言われて、今度はお二人で小銭を出し合い、百円、五十円、十円すべて出すとちょうど千円分あったので、これで両替をしていただいた。本当に助かった。ありがとうございました。
その先も飛鳥川沿いに歩いて行き、藤原京大橋で対岸、右岸にわたって進むと、右手に常夜燈が立っている。14時42分にここを通る。
ここから右斜めに道が分岐しているし、いかにも旧家という雰囲気の家があったりしたので、川沿いの道から右へ分岐して進んでいく。ところがこの道は川から離れていく一方のようなので、途中でおかしいと気が付いて、川沿いの道に戻ることにして、直角に左折して川沿いの道に戻ったのだが、この間に待望の自販機があったので、ようやく飲料水を買うことができた。相当に喉が渇いていたので助かった。道を間違えたことが思わぬ怪我の功名になったのだ。
飛鳥川沿いを進んでいくと、また蛇がいた。これもかなり大きい蛇だったが、今回の蛇は車に引かれたらしく死んでいた。昨日の葛城古道から3匹目だ。何度見ても蛇は嫌だ。
214号線を横断した次の道で雷橋を渡って川の左岸に渡ってやはり川沿いに進むと、左手に文化10年(1813)の常夜燈と庚申塔、役行者の碑が並んでいる。15時20分にここを通る。
そのすぐ先、右手に万葉歌碑がある。「なでしこ」「わが屋外に蒔きし○麦 いつしか花に咲きなむ 比へつつ見む」と刻まれている。
川の対岸に「甘樫丘」が見える。ここは標高148mの緩やかな丘で、ここに登ると明日香村が一望できるという。かって蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子が天下に権勢を示すため、丘のふもとに居宅を築いたといわれている。
更にその先で左からの道路と合流するところ左手にやはり歌碑がある。「今日可開 明日香河乃 夕不離 川津鳴瀬之 清有良武」と刻まれているようだ。
左手にあすか夢の楽市という店があり、その右横に「水落遺跡」がある。ここは古代の漏刻(中国伝来の水時計で、水を器に蓄え、その漏洩の水量を測定して時刻を知る)跡ということだ。
その先で左折、更に右折して進むと、右手に「蘇我入鹿首塚」がある。奈良県観光公式サイトによると、「蘇我入鹿は、後世の伝説によれば、天をもおそれぬ大悪人であり、超自然的な能力をそなえた魔人であった。そういう人物だから、大化改新の時もただ殺されるだけではすまず、切られた首が飛び跳ねたり、御簾に食いついたりしたとかいう伝承はかなり古くからあったらしい。鎌倉時代の五輪塔が、その首を埋めた塚とされたのも、人々に、そのような入鹿への恐れがあったからだろう。」と説明されている。
首塚の左手に「飛鳥寺」があり、15時40分に着く。飛鳥寺は崇峻天元年(588)に百済から仏舎利が献じられたことにより、蘇我馬子が寺院建立を発願し、推古天皇4年(596)に創建された日本最初の寺だ。寺名は法興寺・元興寺、飛鳥寺と呼ばれ、現在は安居院と呼ばれている。創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置で、寺域は東西約200m,南北約300mもあって、日本最初の本格的な寺院だった。百済から多くの技術者がよばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わったという。瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていったと説明されている。
本尊は釈迦如来坐像で飛鳥大仏と呼ばれており、重要文化時に指定されている。推古天皇13年(605)、天皇が聖徳太子や蘇我馬子及び各皇子と誓いを立てて発願し、同17年(609)に造られた日本最古の仏像だ。
本尊の左隣には「聖徳太子孝養像」が安置されている。聖徳太子十六歳の時、父用明天皇の御病気回復を祈願されている姿の像で、室町時代の作という。 本尊の右隣には「阿弥陀如来坐像」が安置されている。これは藤原時代の作という。
ここでは珍しく写真撮影が許可されていたので、撮影をすることができた。
再び飛鳥川沿いを進んでいき、155号線で右折すると、右手に「川原寺跡」がある。飛鳥の三大寺に挙げられた大寺であった川原寺は斉明天皇の川原宮跡に子の天智天皇が建てたもので、現在は、遺構として24の瑪瑙(大理石)の礎石と塔跡が残っている。
ここから左折して進むと「橘寺」がある。ここは創建年代不詳で、文献に初めて登場するのは天武9年(680)といい、聖徳太子誕生の地といわれている。現在の本堂は元治元年(1864)に再建されたものという。境内には飛鳥時代の石造物の一つで、人の心の善悪二相を表したものという「二面石」が太子殿の左横にある。
橘寺を出て直進し、その先で右折したところに「聖徳太子御誕生所」「太日本佛浴最初霊地」と刻まれた石柱が立っている。
その先の細道を左折して進むと、右手に安永3年(1774)の天王社と刻まれた灯籠が立っていて、鳥居が立っているところがあったが、塀で囲まれた中には木の切り株があるのみだったので、これが何なのかわからなかった。
右手に「亀石」がある。長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることから、この名前で呼ばれている。昔、奈良盆地一帯が湖だったころ、対岸の当麻の蛇と川原のナマズが争い、前者が勝って、水を吸い取られた結果、川原の辺りは干上がってしまって、湖のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って供養をしたという伝説があるという。16時33分にここを通る。
すぐ横に石仏が立っている。
ここから209号線を地下道で横断して進むと、右手階段の上に「鬼の俎」があり、すぐ先左手下に「鬼の雪隠」がある。鬼が旅人を霧で迷わせ、捕らえて爼で料理し、満腹になったあとに雪隠で用を足したと伝えられているが、これは欽明天皇陵の石室の底石と蓋と治定されており、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものとされている。
右手に「欽明天皇陵」があるので、街道から外れていってみた。欽明天皇は第29代の天皇で、明日香村内では唯一の前方後円墳という。
また陵へ行く途中左手に「吉備姫王墓」がある。この方は孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母にあたり、墓名は檜隈墓と称されている。
墓域内には江戸時代に欽明天皇陵の南側の字イケダの水面から掘り出された石造物が左右に2体ずつ、計4体があり、「猿石」と称されている。
街道に戻って進むと、209号線と合流するところ右手に文化元年(1804)の常夜燈が立っている。
17時8分に飛鳥駅に到着する。
東大門から飛鳥駅までで45000歩歩いているのだが、ホテルを出て法隆寺東大門まで歩いた分を入れると5万歩を越えている。久しぶりの5万歩越え、更にここから5時間移動して帰宅したので、さすがにくたびれた。
本日の歩行時間 8時間23分。
本日の歩数&距離 45001歩、31.9km。
本日の純距離 26.8km。(途中、道を間違ったり、寄り道をしないで街道だけを歩いた時の距離)