2019年05月16日(木)
風の森~御所・六地蔵
晴れ
5世紀末頃、奈良盆地西部では鴨氏が勢力をふるっていたが、その後葛城氏が金剛・葛城両山麓の扇状地に葛城王朝を築いてこの地方を治めていた。この金剛・葛城両山麓に沿って南北に伸びる古道が葛城古道と呼ばれる道で、東の「山の辺の道」と相対している。沿道には天照大神が治めたという「高天原」があり、天孫降臨の地とされている。ただ高天原は他にも宮崎県や茨城県等という説もあって、はっきりはしていないようだ。
参考資料は「歩くなら推奨ルートマップ」と「近鉄てくてくまっぷ」を使用した。
御所駅に着いたが、風の森へ行くバスまで時間があったので、とりあえず近所を散策することにする。
24号線を風の森方向へ向かって歩いていくと、左手に「鴨都波神社(かもつばじんじゃ)」がある。ここはこの先にある高鴨神社を上鴨社、葛城御歳神社を中鴨社と呼ぶのに対して、下鴨社と呼ばれている。社伝によれば崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したもので、一帯は「鴨都波遺跡」という遺跡となっていて、弥生時代の土器や農具が多数出土しており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかるという。 延喜式神名帳では「鴨都波八重事代主命神社 二座」と記載され、名神大社に列しており、全国にある鴨社、加茂社の総本社でもあると説明されている。境内には樹齢350年のご神木、いちい樫が立っている。
その先でコンビニがあったので、とりあえず昼食に弁当を買った。ただここには食べる場所がなかったので、やむを得ず駐車場の横にちょっとした台があったので、そこに弁当を置いて立ったまま食べた。
その先右手、少し入ったところに「孝昭天皇掖上博多山上陵」がある。孝昭天皇は第五代天皇なのだが、欠史八代の一人で、113歳で崩御したことになっているという。
この横に御所橋のバス停があり、ちょうど時間になったので、ここからバスに乗って風の森まで移動する。
風の森バス停に11時37分に到着し、歩き始める。今日の距離、歩数ともにここからカウントした。
バス停の右手に古道はあり、入り口に「葛城の道案内図」があるのだが、地図が薄くなっていてよくわからない。その横に「至 風の森」「至 葛城の道 歴史文化会館」「高鴨神社」と刻まれた石標が立っており、緩やかな坂を上っていく。
すぐ先で右折する道があるので、街道から外れて、右へ進んでいくと、右手にちょっとした階段があり、お墓が見える。家屋があるがシャッターが閉まっている。最初は気が付かなくてそのまま先へ進んだのだが、その先には何もないので、後もどって、階段を上ると、お墓があり、その横にこれもちょっとした階段があって、これを上ると「風の森神社」がある。ここは志那都比古神(しなつひこのかみじんじゃ)という風の神様を祀っていて、志那都比古神神社とも呼ばれている。 志那都比古神は、別名 級長津彦命 又、級長戸辺命(しなとべのみこと)で、『日本書紀』にある国生み伝説の中で、イザナギが国土にかかっている朝霧を息吹によって吹き払ったときに化生した神とされているという。
街道に戻って緩やかな坂道を上っていくと、広い道路に出るが、ここに道標が並んで立っているので、それに従って右折する。このような道標がかなりの数立っていて歩くうえで助かった。
ちょうど12時に「高鴨神社」に着く。ここも延喜式神名帳に記載されている式内社で、「高鴨阿治須岐託彦根命神社 四座」と記載されている。京都にある上賀茂神社、下鴨神社をはじめとする全国のカモ神社(鴨、加茂、賀茂)神社の総本山と称していると説明されているが、先ほど見た鴨都波神社も同様の説明がなされていた。当初見た鴨都波神社を下鴨社と呼ぶのに対して、この高鴨神社のことを上鴨社と呼ばれているので、これらを総称して全国のカモ神社の総本山といっているのかな?と思う。いずれにしてもこの地は鴨氏発祥の地であり、その氏神として祀られたものという。本殿は天文12年(1543)に建立されたそうだが、撮影禁止になっていた。
ここの拝殿の右側の石垣には灯籠が組み込まれていると説明があったので、どれがそうなのか、見てみたがわからない。いくら見てもわからないし、ちょうど参拝に来られていた女性の方も一緒になって探したのだが、わからなかった。この女性の方はもう何度も来ているのだが、灯籠が組み込まれているということを初めて聞いたといわれていた。一旦あきらめて先へ進もうとすると、横にそば屋があり、ここに「歴史文化館」があるとなっていたので、入っておそば屋さんのご主人に灯籠のことをお聞きすると、「間違いなくありますよ」といわれたので、再度境内に戻って又何度も見直してみたが、結局よくわからなかった。一応石垣の写真を掲載しておきます。ここで随分時間をとってしまったので、先を急ぐことにする。
周囲は山で鶯が盛んに鳴いていて、気持ちがいい。
高天原神社まで2kmの標識が立っており、ここから右手は眺望が開けて奈良盆地の景色が広がっている。このように随所に標識が立っていて、非常に助かる。
左手に「高天彦神社」への標識が立っているので、これに従って左へ分岐して進む。
鳥居があり、ここから山の中の道を進んでいく。途中から階段になっていて、道はしっかり整備されている。
猪除けの柵があり、これを開けて進むと、左手に「鶯宿梅」の説明板が立っている。それによると「昔 若死にした小僧の悲運をその師が嘆いていると、梅の木に鶯が来て、「初春のあした毎には来れどもあわでぞかえるもとのすみか」と鳴いたことからこの名前が付けられた」と書かれている。肝心の梅はこの説明板の後ろに幹だけが残っている木があったので、これがその梅かな?と思ったが、よくわからなかった。
杉の巨木の間の参道を進んでいき、高天原神社に13時13分に着く。
ここの創建は不詳だが、金剛山東麓に位置し、葛城氏の祖神「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」を祀っており、ご神体は社殿の背後にそびえる円錐形の白雲峯という。延喜式神名帳には「高天彦神社 名神大 月次相嘗新嘗」として名神大社に列せられている。
参拝を済ませた後、神社から右手へ進んでいくと、道は二股に分かれており、そこに「高天寺 橋本院参道」と刻まれた石標が立っているので、それに従って右へ進む。
その先でやはりこの道を歩かれておられる方とお会いする。この方は反対側から登ってこられた方で、同好の士なので少しの間、立ち話をする。その方はここまで来る坂道がきつかったといわれていたが、確かにこの先の道はかなり急坂だった。私は下ったのでそれほどではなかったが、これを登ってくる場合は風の森から登るよりも急坂で、しかも坂の距離も長いように思った。
「高天寺橋本院」がある。ここは養老2年(718)に行基菩薩によって創建されたという。もとは奈良興福寺に所属していたが、その後高野山金剛峰寺に属し、弘法大師を祀っている。鑑真が日本へやってきたときに聖武天皇が高天寺の住職に鑑真を任命したほどの格式の高い寺院で、奈良朝から平安朝にかけては高天彦神社とともに広大な荘園と山林を有したお寺だったという。13時39分にここを通る。
マムシに注意の看板が下がっている。絶対に会いたくないものだと思いながら山を下っていく。
猪除けの柵が作られている。相当に被害が出ているようだ。猪はマムシが大好物なので、できれば食べ尽くしてほしいものだと思いながら歩いていく。
道は急坂だが、きれいに掘割になっている。ただこの道は雨が降ると歩くのは大変だろうと思った。
車道に出るとすぐ左手に「極楽寺」がある。ここは天暦5年(951)に興福寺の一和僧都が創建したと伝えられている。寺の縁起によると金剛山の付近に光が放たれているところを見つけた一和僧都が地中を掘ったところ、生身の仏様のような仏頭(弥陀佛の頭)が発掘されたので、これを本尊として草庵を結び、法眼院と名づけたという。上人は更に念仏の功を積んで極楽を会得、正暦5年(993年)に大往生されたので、仏頭山法眼院極楽寺となったという。南北朝時代には楠正成公の祈願の寺と云われ、河内、金剛、吉野の連絡の要所として南朝側の合言葉に「極楽寺」が用いられたという。境内には寛政10年(1798)の常夜燈が立っていた。13時58分にここに着く。
街道は山門に向かって右へ進むが、左手に墓地が広がっている。
右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑がある。このような碑はこの辺りではよく見かける。
車道に出て左折、すぐ先を右折するが、右手に石仏を2体安置するブロックでできた祠がある。
T字路を左折して進むと、「住吉神社」がある。ここは白鳳年間(7世紀)に大坂の住吉大社の分霊を勧請して創建された古社という。境内には文政4年(1821)と読むことができる常夜燈等が立っている。14時15分にここを通る。
「長江神社へ1.8KM」という標識が立っているので、それに従って左折して進む。
右手に「高木神社」があり、椋の木の巨木が立っている。
左手に「春日神社」があり、ここには寛延元年(1748)の棟札が残っていると説明されている。14時31分にここを通る。
その先から左折して進むと、左手に葛上中学校があり、その反対側、道の右手に石仏が祀られている。
左手に「中村家住宅」がある。ここは代官を務めた家柄で、慶長年間(1596~1615)に建てられたと推定されていて、御所市内で最も古い建物で、国の重要文化財に指定されている。
左手に大正2年に建築されたという「旧名柄郵便局舎」がある。大正2年から昭和50年まで使われていたそうで、平成25年から国の補助金と堺屋太一氏等の寄附によって改修工事が行われたという。
この辺り、歴史を感じさせる旧家が並んでいる。
龍生寺があり、その右隣に「長柄神社」がある。ここは創建時期は不明だが、延喜式神名帳に記載されている式内社で、御祭神は「下照姫命」で一言主神社や高鴨神社の姫宮と考えられており、別名「姫の宮」と呼ばれているという。日本書紀に天武天皇9年(680年)に天皇がこの社で流鏑馬をご覧になったという記述があるという。本殿の造営・再建については、正和元年(1312)の棟札が残されているといい、奈良県指定文化財に指定されている。このひさしにはどこから見ても睨まれているように見える「八方にらみの龍」が描かれている。14時46分にここを通る。
左手に「片上醤油店」があって醤油蔵が並んで建っている。
蔵が途切れたところから左折して進むが、ここに「葛城一言主神社」の鳥居が立っていて、その前に常夜燈が一対あるが、左手の常夜燈の燭台部分が欠けている。
その先に「葛城一言主神社」がある。ここは願いを一言だけ聞いてくれる「いちごんさん」として地元の人から親しまれている。一言主神社は各地にあるがここが総本社という。境内に樹齢1200年と推測されるイチョウの巨木が立っている。この木の幹には乳房のようなものがたくさん出ていて、「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれており、この木に祈願すると子供を授かり、お乳がよく出ると伝えられているそうだ。
その先で道を間違えた。「一言主神社 0..5km 」「楢原休憩所 0.3km」と書かれた標識が立っており、そこで道は二股に分かれていて、左の草道を直進しなければいけなかったのだが、うっかり右の舗装された道を進んでしまったのだ。すぐ先で道は又二股に分かれており、ここを最初右に行ったが、行き止まりになっており、一旦戻って今度は左に行ってみたが、ここも行き止まりになっていた。これはおかしいと思ってもう一度最初からやり直そうと思って戻ってきて、初めて間違いに気が付いたのだ。
ようやく本来の道に戻ることができて、先へ進んでいくと、左手に「高丘宮跡」の石碑が立っている。ここは第二代綏靖天皇の皇后である葛城高丘宮の遺跡だと伝えられている。15時45分にここを通る。
その先にまた猪除けの柵が作られているので、これを外して通り、また閉めて先へ進む。まだ小さい蛇が一匹いた。
「九品寺」に着く。サンスクリット語で九品とは物質や人の性質を3×3で分類したもので、現在よく使われる上品、下品はここからきたという。人の往生には上品・中品・下品があり、さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、合計9ランクの往生があるという考え方で、九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のことをいうと説明されている。ここの本尊は木造阿弥陀如来像で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1769年)に再建されている。
本堂の裏山には千体石仏が祀られている。曲がりくねった坂道を登っていくが、道端に石仏が並んでおり、坂道を登りきったところに数多くの石仏が祀られている。それぞれの石仏には前掛けが掛けられていて壮観だ。16時1分にここを通る。
九品寺を前に見て右手に進むと、左手少し入ったところに「駒形大重神社」がある。大重神社は延喜式神名帳の葛木大重神社の比定社で、その後駒形神社と合祀されたという。社殿はまだ新しいが、境内には嘉永2年(1849)の狛犬や安政2年(1855)の常夜燈が立っている。
ここから階段を下って降りていると、すぐ足元に大きな蛇が飛び出してきてびっくりした。思わず「ワッ!」と声が出てしまった。
何回見ても蛇は嫌だ。
16時29分に「六地蔵」に到着する。道の真ん中に大きな岩があり、その岩に六地蔵が彫られている。この岩は室町時代に土石流が発生して、現在の場所に流れ着いたと言われており、、その大災害に対し、村人が仏教の六道をもって衆生を救い、極楽浄土を願って彫ったといわれている。葛城古道はここで終わることにして、距離、時間はここまでの計測とした。
近くに「鴨山口神社」があるので、そこまで行く。この地方は鴨と名前の付く神社が多いが、この鴨山口神社は古くから朝廷に皇居の用材を献上する山口祭りを司った由緒深い神社で、延喜式神名帳にある14社の山口神社の本社がこの鴨山口神社であるとされているそうだ。
本日の歩行時間 4時間52分。
本日の歩数&距離 23786歩、15.6km。
本日の純距離 12.5km.。(途中寄り道をせず、道を間違わなかった時の街道だけの距離また)
5世紀末頃、奈良盆地西部では鴨氏が勢力をふるっていたが、その後葛城氏が金剛・葛城両山麓の扇状地に葛城王朝を築いてこの地方を治めていた。この金剛・葛城両山麓に沿って南北に伸びる古道が葛城古道と呼ばれる道で、東の「山の辺の道」と相対している。沿道には天照大神が治めたという「高天原」があり、天孫降臨の地とされている。ただ高天原は他にも宮崎県や茨城県等という説もあって、はっきりはしていないようだ。
参考資料は「歩くなら推奨ルートマップ」と「近鉄てくてくまっぷ」を使用した。
御所駅に着いたが、風の森へ行くバスまで時間があったので、とりあえず近所を散策することにする。
24号線を風の森方向へ向かって歩いていくと、左手に「鴨都波神社(かもつばじんじゃ)」がある。ここはこの先にある高鴨神社を上鴨社、葛城御歳神社を中鴨社と呼ぶのに対して、下鴨社と呼ばれている。社伝によれば崇神天皇の時代、勅命により太田田根子の孫の大賀茂都美命が創建したもので、一帯は「鴨都波遺跡」という遺跡となっていて、弥生時代の土器や農具が多数出土しており、古くから鴨族がこの地に住みついて農耕をしていたことがわかるという。 延喜式神名帳では「鴨都波八重事代主命神社 二座」と記載され、名神大社に列しており、全国にある鴨社、加茂社の総本社でもあると説明されている。境内には樹齢350年のご神木、いちい樫が立っている。
その先でコンビニがあったので、とりあえず昼食に弁当を買った。ただここには食べる場所がなかったので、やむを得ず駐車場の横にちょっとした台があったので、そこに弁当を置いて立ったまま食べた。
その先右手、少し入ったところに「孝昭天皇掖上博多山上陵」がある。孝昭天皇は第五代天皇なのだが、欠史八代の一人で、113歳で崩御したことになっているという。
この横に御所橋のバス停があり、ちょうど時間になったので、ここからバスに乗って風の森まで移動する。
風の森バス停に11時37分に到着し、歩き始める。今日の距離、歩数ともにここからカウントした。
バス停の右手に古道はあり、入り口に「葛城の道案内図」があるのだが、地図が薄くなっていてよくわからない。その横に「至 風の森」「至 葛城の道 歴史文化会館」「高鴨神社」と刻まれた石標が立っており、緩やかな坂を上っていく。
すぐ先で右折する道があるので、街道から外れて、右へ進んでいくと、右手にちょっとした階段があり、お墓が見える。家屋があるがシャッターが閉まっている。最初は気が付かなくてそのまま先へ進んだのだが、その先には何もないので、後もどって、階段を上ると、お墓があり、その横にこれもちょっとした階段があって、これを上ると「風の森神社」がある。ここは志那都比古神(しなつひこのかみじんじゃ)という風の神様を祀っていて、志那都比古神神社とも呼ばれている。 志那都比古神は、別名 級長津彦命 又、級長戸辺命(しなとべのみこと)で、『日本書紀』にある国生み伝説の中で、イザナギが国土にかかっている朝霧を息吹によって吹き払ったときに化生した神とされているという。
街道に戻って緩やかな坂道を上っていくと、広い道路に出るが、ここに道標が並んで立っているので、それに従って右折する。このような道標がかなりの数立っていて歩くうえで助かった。
ちょうど12時に「高鴨神社」に着く。ここも延喜式神名帳に記載されている式内社で、「高鴨阿治須岐託彦根命神社 四座」と記載されている。京都にある上賀茂神社、下鴨神社をはじめとする全国のカモ神社(鴨、加茂、賀茂)神社の総本山と称していると説明されているが、先ほど見た鴨都波神社も同様の説明がなされていた。当初見た鴨都波神社を下鴨社と呼ぶのに対して、この高鴨神社のことを上鴨社と呼ばれているので、これらを総称して全国のカモ神社の総本山といっているのかな?と思う。いずれにしてもこの地は鴨氏発祥の地であり、その氏神として祀られたものという。本殿は天文12年(1543)に建立されたそうだが、撮影禁止になっていた。
ここの拝殿の右側の石垣には灯籠が組み込まれていると説明があったので、どれがそうなのか、見てみたがわからない。いくら見てもわからないし、ちょうど参拝に来られていた女性の方も一緒になって探したのだが、わからなかった。この女性の方はもう何度も来ているのだが、灯籠が組み込まれているということを初めて聞いたといわれていた。一旦あきらめて先へ進もうとすると、横にそば屋があり、ここに「歴史文化館」があるとなっていたので、入っておそば屋さんのご主人に灯籠のことをお聞きすると、「間違いなくありますよ」といわれたので、再度境内に戻って又何度も見直してみたが、結局よくわからなかった。一応石垣の写真を掲載しておきます。ここで随分時間をとってしまったので、先を急ぐことにする。
周囲は山で鶯が盛んに鳴いていて、気持ちがいい。
高天原神社まで2kmの標識が立っており、ここから右手は眺望が開けて奈良盆地の景色が広がっている。このように随所に標識が立っていて、非常に助かる。
左手に「高天彦神社」への標識が立っているので、これに従って左へ分岐して進む。
鳥居があり、ここから山の中の道を進んでいく。途中から階段になっていて、道はしっかり整備されている。
猪除けの柵があり、これを開けて進むと、左手に「鶯宿梅」の説明板が立っている。それによると「昔 若死にした小僧の悲運をその師が嘆いていると、梅の木に鶯が来て、「初春のあした毎には来れどもあわでぞかえるもとのすみか」と鳴いたことからこの名前が付けられた」と書かれている。肝心の梅はこの説明板の後ろに幹だけが残っている木があったので、これがその梅かな?と思ったが、よくわからなかった。
杉の巨木の間の参道を進んでいき、高天原神社に13時13分に着く。
ここの創建は不詳だが、金剛山東麓に位置し、葛城氏の祖神「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」を祀っており、ご神体は社殿の背後にそびえる円錐形の白雲峯という。延喜式神名帳には「高天彦神社 名神大 月次相嘗新嘗」として名神大社に列せられている。
参拝を済ませた後、神社から右手へ進んでいくと、道は二股に分かれており、そこに「高天寺 橋本院参道」と刻まれた石標が立っているので、それに従って右へ進む。
その先でやはりこの道を歩かれておられる方とお会いする。この方は反対側から登ってこられた方で、同好の士なので少しの間、立ち話をする。その方はここまで来る坂道がきつかったといわれていたが、確かにこの先の道はかなり急坂だった。私は下ったのでそれほどではなかったが、これを登ってくる場合は風の森から登るよりも急坂で、しかも坂の距離も長いように思った。
「高天寺橋本院」がある。ここは養老2年(718)に行基菩薩によって創建されたという。もとは奈良興福寺に所属していたが、その後高野山金剛峰寺に属し、弘法大師を祀っている。鑑真が日本へやってきたときに聖武天皇が高天寺の住職に鑑真を任命したほどの格式の高い寺院で、奈良朝から平安朝にかけては高天彦神社とともに広大な荘園と山林を有したお寺だったという。13時39分にここを通る。
マムシに注意の看板が下がっている。絶対に会いたくないものだと思いながら山を下っていく。
猪除けの柵が作られている。相当に被害が出ているようだ。猪はマムシが大好物なので、できれば食べ尽くしてほしいものだと思いながら歩いていく。
道は急坂だが、きれいに掘割になっている。ただこの道は雨が降ると歩くのは大変だろうと思った。
車道に出るとすぐ左手に「極楽寺」がある。ここは天暦5年(951)に興福寺の一和僧都が創建したと伝えられている。寺の縁起によると金剛山の付近に光が放たれているところを見つけた一和僧都が地中を掘ったところ、生身の仏様のような仏頭(弥陀佛の頭)が発掘されたので、これを本尊として草庵を結び、法眼院と名づけたという。上人は更に念仏の功を積んで極楽を会得、正暦5年(993年)に大往生されたので、仏頭山法眼院極楽寺となったという。南北朝時代には楠正成公の祈願の寺と云われ、河内、金剛、吉野の連絡の要所として南朝側の合言葉に「極楽寺」が用いられたという。境内には寛政10年(1798)の常夜燈が立っていた。13時58分にここに着く。
街道は山門に向かって右へ進むが、左手に墓地が広がっている。
右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑がある。このような碑はこの辺りではよく見かける。
車道に出て左折、すぐ先を右折するが、右手に石仏を2体安置するブロックでできた祠がある。
T字路を左折して進むと、「住吉神社」がある。ここは白鳳年間(7世紀)に大坂の住吉大社の分霊を勧請して創建された古社という。境内には文政4年(1821)と読むことができる常夜燈等が立っている。14時15分にここを通る。
「長江神社へ1.8KM」という標識が立っているので、それに従って左折して進む。
右手に「高木神社」があり、椋の木の巨木が立っている。
左手に「春日神社」があり、ここには寛延元年(1748)の棟札が残っていると説明されている。14時31分にここを通る。
その先から左折して進むと、左手に葛上中学校があり、その反対側、道の右手に石仏が祀られている。
左手に「中村家住宅」がある。ここは代官を務めた家柄で、慶長年間(1596~1615)に建てられたと推定されていて、御所市内で最も古い建物で、国の重要文化財に指定されている。
左手に大正2年に建築されたという「旧名柄郵便局舎」がある。大正2年から昭和50年まで使われていたそうで、平成25年から国の補助金と堺屋太一氏等の寄附によって改修工事が行われたという。
この辺り、歴史を感じさせる旧家が並んでいる。
龍生寺があり、その右隣に「長柄神社」がある。ここは創建時期は不明だが、延喜式神名帳に記載されている式内社で、御祭神は「下照姫命」で一言主神社や高鴨神社の姫宮と考えられており、別名「姫の宮」と呼ばれているという。日本書紀に天武天皇9年(680年)に天皇がこの社で流鏑馬をご覧になったという記述があるという。本殿の造営・再建については、正和元年(1312)の棟札が残されているといい、奈良県指定文化財に指定されている。このひさしにはどこから見ても睨まれているように見える「八方にらみの龍」が描かれている。14時46分にここを通る。
左手に「片上醤油店」があって醤油蔵が並んで建っている。
蔵が途切れたところから左折して進むが、ここに「葛城一言主神社」の鳥居が立っていて、その前に常夜燈が一対あるが、左手の常夜燈の燭台部分が欠けている。
その先に「葛城一言主神社」がある。ここは願いを一言だけ聞いてくれる「いちごんさん」として地元の人から親しまれている。一言主神社は各地にあるがここが総本社という。境内に樹齢1200年と推測されるイチョウの巨木が立っている。この木の幹には乳房のようなものがたくさん出ていて、「乳イチョウ」「宿り木」と呼ばれており、この木に祈願すると子供を授かり、お乳がよく出ると伝えられているそうだ。
その先で道を間違えた。「一言主神社 0..5km 」「楢原休憩所 0.3km」と書かれた標識が立っており、そこで道は二股に分かれていて、左の草道を直進しなければいけなかったのだが、うっかり右の舗装された道を進んでしまったのだ。すぐ先で道は又二股に分かれており、ここを最初右に行ったが、行き止まりになっており、一旦戻って今度は左に行ってみたが、ここも行き止まりになっていた。これはおかしいと思ってもう一度最初からやり直そうと思って戻ってきて、初めて間違いに気が付いたのだ。
ようやく本来の道に戻ることができて、先へ進んでいくと、左手に「高丘宮跡」の石碑が立っている。ここは第二代綏靖天皇の皇后である葛城高丘宮の遺跡だと伝えられている。15時45分にここを通る。
その先にまた猪除けの柵が作られているので、これを外して通り、また閉めて先へ進む。まだ小さい蛇が一匹いた。
「九品寺」に着く。サンスクリット語で九品とは物質や人の性質を3×3で分類したもので、現在よく使われる上品、下品はここからきたという。人の往生には上品・中品・下品があり、さらにそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、合計9ランクの往生があるという考え方で、九品仏はそれを表した9体の阿弥陀仏のことをいうと説明されている。ここの本尊は木造阿弥陀如来像で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1769年)に再建されている。
本堂の裏山には千体石仏が祀られている。曲がりくねった坂道を登っていくが、道端に石仏が並んでおり、坂道を登りきったところに数多くの石仏が祀られている。それぞれの石仏には前掛けが掛けられていて壮観だ。16時1分にここを通る。
九品寺を前に見て右手に進むと、左手少し入ったところに「駒形大重神社」がある。大重神社は延喜式神名帳の葛木大重神社の比定社で、その後駒形神社と合祀されたという。社殿はまだ新しいが、境内には嘉永2年(1849)の狛犬や安政2年(1855)の常夜燈が立っている。
ここから階段を下って降りていると、すぐ足元に大きな蛇が飛び出してきてびっくりした。思わず「ワッ!」と声が出てしまった。
何回見ても蛇は嫌だ。
16時29分に「六地蔵」に到着する。道の真ん中に大きな岩があり、その岩に六地蔵が彫られている。この岩は室町時代に土石流が発生して、現在の場所に流れ着いたと言われており、、その大災害に対し、村人が仏教の六道をもって衆生を救い、極楽浄土を願って彫ったといわれている。葛城古道はここで終わることにして、距離、時間はここまでの計測とした。
近くに「鴨山口神社」があるので、そこまで行く。この地方は鴨と名前の付く神社が多いが、この鴨山口神社は古くから朝廷に皇居の用材を献上する山口祭りを司った由緒深い神社で、延喜式神名帳にある14社の山口神社の本社がこの鴨山口神社であるとされているそうだ。
本日の歩行時間 4時間52分。
本日の歩数&距離 23786歩、15.6km。
本日の純距離 12.5km.。(途中寄り道をせず、道を間違わなかった時の街道だけの距離また)