2019年04月15日(月)
二階堂~藤原京跡
晴れ
二階堂駅を9時25分に出発する。
すぐ先の交差点左側に「大峰山上七十五度供養」「すぐ大峰山上」「東 天理王命」「すぐなら 郡山 道」と刻まれた明治26年の道標が立っている。まだ新しいので復元されたのかな?と思う。
その交差点の右手、池の端に金網に囲まれて道標が立っている。資料によると「東 たんば市 南 かうや よしの 山上道」と刻まれているようだ。
この辺りは旧道の雰囲気が漂っていて、歴史を感じさせる家が建っている。
左手に「二階堂地蔵」がある。昔、この地に膳夫(カシワデ)姫という女性がいて、その女性を聖徳太子が見初めて妃として迎えた。膳夫姫はその養母古瀬女の菩提のため、初め天香久山に膳夫寺を造営したが、その後この地に移建された。この寺の堂が二階造りに似ていたことから二階堂と名づけられたという。その後お寺は廃れたが、その跡にお堂を立てたのがこの地蔵堂ということだ。石造の半跏地蔵菩薩が祀られているが、この像には天正9年(1581)の銘があると説明されている。
左手、池の端に文政13年(1828)と天保9年(1838)の常夜燈が立っている。
右手に地蔵堂が二つ並んで建っている。左側には大正12年の地蔵尊が祀られており、右手には15体の地蔵尊が安置されている。
大和川に架かる橋を渡った左手に「南無妙法蓮華経」と刻まれた道標が立っている。資料によると側面にそれぞれ「一石一字燈」「右 よしの かうや」「左 はせ いせ道」「慶應紀元乙丑年六月立(1865)」「すぐ 京 なら 郡山 摂州上牧日榮」「御領主御武運長久 五穀豊熟願主安全」と刻まれているようだ。10時1分にここを通る。
右手に「太神宮」と刻まれた常夜燈と、その横に「八王子社」と刻まれた石碑が立っている。
右手に地蔵堂がある。資料によると天文2年(1533)の石仏が安置されているようだ。その横に日露戦役記念碑が立っている。
右手に唐古西代共同墓地があり、ここに六地蔵が祀られている。
左手に道標がある。かなりの部分が埋もれているが、「大峯山上 七十二・・・」「すぐ京 奈 すぐよし・・・ 高野」と読むことができる。
その先右手に、資料によると「すぐよし乃 かうや道」「奉納太・・・廻・・道」「左 なら こうり山道」と刻まれた文化11年(1814)の道標があり、すぐ先に石仏を祀る小祠が道の左右にある。10時28分にここを通る。
街道から右へ少し外れたところに「杵築神社」がある。ここに「今里の蛇巻」がある。これは農作物の豊作を祈るとともに、男の子の成人を祝う節句行事で、長さ18mの蛇の形をした蛇綱を新麦わらで作って、町中を練り歩くという。その蛇綱が境内の榎の大木に巻き付けられて立っている。
その先、街道から左へ少し外れたところに「鍵の蛇巻き」がある。杵築神社と同様のものだが、こちらの場合は榎に蛇網を頭を下にして巻き付けているので、降り龍ともいわれているということだ。
安養寺橋を渡ると、左手に常夜燈が立っている。
右手に「安養寺」がある。説明板によると、「当寺は寛永10年(1633)に源連社宝蓉上人の開祖で、山門を入って正面に宝永3年(1706)の本堂、右手に享保17年(1733)の地蔵堂、左手前に鐘楼、左奥に庫裏があり、寺地北が墓地となっている。安養寺本尊は安土桃山時代の阿弥陀如来坐像で本尊とは別に鎌倉時代前期、国重文 阿弥陀如来立像客佛が秘仏として祀られてきて、当寺と寺川を挟んだ東側にあった、廃浄国寺の仏像と伝えられる」と記されている。
この門前に「右 京 なら 郡山 左 法里うじ 大坂 さかい道」「左 大峯山上 よしの かうや道」「行者講」「右 みわ はせ 常磐町 願主」「文化元甲子年(1804)二月吉日」と刻まれた道標が立っている。10時52分にここを通る。
右手に「首切り地蔵」がある。昔「ユキ」さんという美人で頭がよくて親孝行な娘さんがいたので、嫁に欲しいという申し込みが殺到したが「ユキ」さんはすべて断っていた。色よい返事をもらえなかった若者数人が「ユキ」さんを殺そうとして、ある月の夜に「ユキ」さんの首めがけて鉈を振り下ろしたところ、「ユキ」さんの首ではなく、石の地蔵さんの首が落ちていたという。翌日から「ユキ」さんの姿が消えたので、「ユキ」さんは月の精だったのではないかと村の人たちに言い伝えられているという。子供が生まれると「ユキ」さんのように良い子に育ちますようにとお参りが絶えないと説明されている。
左手に六体の石仏を祀る地蔵堂があり、すぐ横に常夜燈が立っている。
右手に葉に隠れるようにして道標が立っている。「左ハよしの かうや」「西ハたつ・・・ほう里」と刻まれている。
ここから街道から少し右へ外れたところに「鏡作神社」がある。ここは正式名称は鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)といい、延喜式内大社で天照大神が天の岩戸に隠れた際、八咫鏡をつくったと伝わる石凝姥命など三神が祀られている。古くから鏡作りの神として信仰を集めていたという。入口には天保13年(1842)の常夜燈が立っており、境内にも安永4年(1775)の常夜燈や弘化3年(1846)の手水鉢などがある。
右手に小祠と寛政7年(1795)の常夜燈が立っている。
田原本町役場に突き当たった右手に「右 大峰山 よしの かうや 左 京 なら 古」と刻まれた元治元年(1864)の道標が立っている。11時20分にここを通る。
ここから右折、すぐ次の角を左折して進むが、この角に道標らしきものが立っていたが、情報もなく、読み取ることもできなかった。
左手に「平野氏神社跡」の説明板が立っている。それによると賤ケ岳七本槍の一人として豊臣秀吉から賞された平野権兵衛長泰は文禄4年(1596)にこの地を拝領した。寺川の水運と中街道沿いという好立地から大和中央部の物流拠点として大いに繁栄したという。
左手に「田原本聖救主教会」の礼拝堂がある。
「行幸橋」を渡る。橋というほどの大きさではないものの、「行幸橋」というからには天皇と関係があるのではないかと思って、ネットで調べていると、明治天皇が明治10年に田原本を行幸された際に渡ったという記事があったので、この橋のことだろうと思った。
そのすぐ先右手に「すぐ大峯山 よし野 かう野 左たつ田 ほう里うじ 大坂」「すぐ 京 なら 郡山 文化11年(1814) 吉村氏」と刻まれた復元された道標が立っている。
右手に資料によると「龍田 法隆寺 大坂 ぐ京 奈良 郡山 ぐ大峯 吉野 高野 伊勢 初瀬 三輪 巳春建立 ぬしや 長三郎 石工當所 佐兵衛」と刻まれた道標と、その横に田原本町の道路元標が立っている。
その背後には天保12年(814)に建てられた鍵岡薬局が建っている。この辺りは田原本陣屋町・寺内町で唯一江戸時代のたたずまいを残していると説明されている。明治10年の明治天皇行幸の際、この道を進まれたという。
左手に「樂田寺」がある。ここの創建は天平29年(729)という古刹で、現在は江戸時代の阿弥陀如来坐像等があるということだが、門が閉まっていて、境内をみることはできなかった。
その先で道はT字路になっているが、その右手に「左 京 なら 古ふ里山 道」「左 大峰山 よし能 加うや」「悲心施一人功徳如大海」と刻まれている道標が立っている。
ここを左折すると、田原本町南町道標があり、「右 大峯山 吉野 高野」「左 京 奈良 郡山」「天保四葵巳年(1833)三月」「石工 王寺村 又右エ門」 「世話人 袴屋与右米門 百済屋新□□ 橘屋長右ェ門」と刻まれている。
ここを右折して進み、その先でT字路になっているので、これを左折すると、「行者堂」がある。ここは延享3年(1746)行者堂の前身として行者堂の東、寺川との間のムクの木の傍らに地蔵堂があった。その後この行者堂はすたれてしまったが、大正3年にスペイン風邪が大流行したことを契機としてこの行者堂が建立されたという。11時46分にここを通る。
ここを右折して川沿いの道を進んでいくと、右手に2体の石仏を祀る小祠がある。
右手に多神社の鳥居と安政6年(1859)の常夜燈が立っている。多神社は飛鳥の豪族多氏ゆかりの神社で、学問の神として信仰を集めており、境内には弥生時代の多遺跡があるということだが、立ち寄らずに進む。
右手に地蔵堂があり、数多くの石仏が安置されている。右手に行くと新ノ口駅があるところだ。12時27分にここを通る。
葛本町西の信号の先、左手に小祠があり、2体の石仏が安置されている。
右手に「稲荷神社」があり、その石段に「大正元年十月新調」「新地氏子中」と刻まれている。
左手に石柱に囲まれた庚申塔がある。
近鉄の踏切を越えて進むが、この辺りに来ると、旧い歴史を感じさせる家が数多く建っている。
八木町札ノ辻に来る。ここは横大路を歩いた時に通ったところだ。
左手角に岸の竹酒造があり、その前に「八木町道路元標」がある。
この辺りには標識が頻繁に立っていて、それに従って進む。下記の写真にある標識から標識に従って左折して進む。13時6分にここを通る。
その先にパン屋さんがあったので、ここに入って昼食にする。藤原京跡辺りには食事をするところがないようだったのでここで食べたのだが、これは正解だった。
左手に「おふさ観音」がある。この本堂が建つ辺り一帯はかっては鯉ケ淵と呼ばれる大きな池だった。慶安3年(1650)のある日の早朝、この地で暮らす「おふさ」という娘が鯉ケ淵の傍を歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が現れたので、おふささんは池の傍に小さなお堂を建て、そこに観音様をお祭りした。その観音様は色々な願い事を叶えてくださるとして近くの村人たちに厚く信仰され、大切に祀られたという。やがてだれからともなく「おふさ観音」と呼ばれるようになったという。ここの境内には4000種類以上のバラをはじめとした四季折々のお花が咲き誇ることで有名ということだ。
門前には「積十一面観世音菩薩」「すぐ 志やくのくわんぜおん」「是より半丁東」「明治四十参年六月」「現住権僧正・・」「発起人 田中・・」と刻まれている道標が立っている。
13時43分に藤原京跡に到着する。ここは広場になっているだけで、平城京のような建物は復元されていない。藤原京跡は藤原京の中心施設である藤原宮のあったところで、一辺約1kmの中に大極殿や朝堂院といった国を挙げての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などあったというが、存在したのはわずかに16年間だったという。ここで下ツ道を歩き終わり、大和八木駅まで歩いて帰途につく。
本日の歩行時間 4時間18分。
本日の歩数&距離 19967歩、14.4km。
本日の純距離 13.5km。(下ツ道だけを歩いた時の距離)
下ツ道総合計
総歩行時間 8時間44分。
総歩数&総距離 42625歩、30.5km。
総純距離 28.4km。
二階堂駅を9時25分に出発する。
すぐ先の交差点左側に「大峰山上七十五度供養」「すぐ大峰山上」「東 天理王命」「すぐなら 郡山 道」と刻まれた明治26年の道標が立っている。まだ新しいので復元されたのかな?と思う。
その交差点の右手、池の端に金網に囲まれて道標が立っている。資料によると「東 たんば市 南 かうや よしの 山上道」と刻まれているようだ。
この辺りは旧道の雰囲気が漂っていて、歴史を感じさせる家が建っている。
左手に「二階堂地蔵」がある。昔、この地に膳夫(カシワデ)姫という女性がいて、その女性を聖徳太子が見初めて妃として迎えた。膳夫姫はその養母古瀬女の菩提のため、初め天香久山に膳夫寺を造営したが、その後この地に移建された。この寺の堂が二階造りに似ていたことから二階堂と名づけられたという。その後お寺は廃れたが、その跡にお堂を立てたのがこの地蔵堂ということだ。石造の半跏地蔵菩薩が祀られているが、この像には天正9年(1581)の銘があると説明されている。
左手、池の端に文政13年(1828)と天保9年(1838)の常夜燈が立っている。
右手に地蔵堂が二つ並んで建っている。左側には大正12年の地蔵尊が祀られており、右手には15体の地蔵尊が安置されている。
大和川に架かる橋を渡った左手に「南無妙法蓮華経」と刻まれた道標が立っている。資料によると側面にそれぞれ「一石一字燈」「右 よしの かうや」「左 はせ いせ道」「慶應紀元乙丑年六月立(1865)」「すぐ 京 なら 郡山 摂州上牧日榮」「御領主御武運長久 五穀豊熟願主安全」と刻まれているようだ。10時1分にここを通る。
右手に「太神宮」と刻まれた常夜燈と、その横に「八王子社」と刻まれた石碑が立っている。
右手に地蔵堂がある。資料によると天文2年(1533)の石仏が安置されているようだ。その横に日露戦役記念碑が立っている。
右手に唐古西代共同墓地があり、ここに六地蔵が祀られている。
左手に道標がある。かなりの部分が埋もれているが、「大峯山上 七十二・・・」「すぐ京 奈 すぐよし・・・ 高野」と読むことができる。
その先右手に、資料によると「すぐよし乃 かうや道」「奉納太・・・廻・・道」「左 なら こうり山道」と刻まれた文化11年(1814)の道標があり、すぐ先に石仏を祀る小祠が道の左右にある。10時28分にここを通る。
街道から右へ少し外れたところに「杵築神社」がある。ここに「今里の蛇巻」がある。これは農作物の豊作を祈るとともに、男の子の成人を祝う節句行事で、長さ18mの蛇の形をした蛇綱を新麦わらで作って、町中を練り歩くという。その蛇綱が境内の榎の大木に巻き付けられて立っている。
その先、街道から左へ少し外れたところに「鍵の蛇巻き」がある。杵築神社と同様のものだが、こちらの場合は榎に蛇網を頭を下にして巻き付けているので、降り龍ともいわれているということだ。
安養寺橋を渡ると、左手に常夜燈が立っている。
右手に「安養寺」がある。説明板によると、「当寺は寛永10年(1633)に源連社宝蓉上人の開祖で、山門を入って正面に宝永3年(1706)の本堂、右手に享保17年(1733)の地蔵堂、左手前に鐘楼、左奥に庫裏があり、寺地北が墓地となっている。安養寺本尊は安土桃山時代の阿弥陀如来坐像で本尊とは別に鎌倉時代前期、国重文 阿弥陀如来立像客佛が秘仏として祀られてきて、当寺と寺川を挟んだ東側にあった、廃浄国寺の仏像と伝えられる」と記されている。
この門前に「右 京 なら 郡山 左 法里うじ 大坂 さかい道」「左 大峯山上 よしの かうや道」「行者講」「右 みわ はせ 常磐町 願主」「文化元甲子年(1804)二月吉日」と刻まれた道標が立っている。10時52分にここを通る。
右手に「首切り地蔵」がある。昔「ユキ」さんという美人で頭がよくて親孝行な娘さんがいたので、嫁に欲しいという申し込みが殺到したが「ユキ」さんはすべて断っていた。色よい返事をもらえなかった若者数人が「ユキ」さんを殺そうとして、ある月の夜に「ユキ」さんの首めがけて鉈を振り下ろしたところ、「ユキ」さんの首ではなく、石の地蔵さんの首が落ちていたという。翌日から「ユキ」さんの姿が消えたので、「ユキ」さんは月の精だったのではないかと村の人たちに言い伝えられているという。子供が生まれると「ユキ」さんのように良い子に育ちますようにとお参りが絶えないと説明されている。
左手に六体の石仏を祀る地蔵堂があり、すぐ横に常夜燈が立っている。
右手に葉に隠れるようにして道標が立っている。「左ハよしの かうや」「西ハたつ・・・ほう里」と刻まれている。
ここから街道から少し右へ外れたところに「鏡作神社」がある。ここは正式名称は鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)といい、延喜式内大社で天照大神が天の岩戸に隠れた際、八咫鏡をつくったと伝わる石凝姥命など三神が祀られている。古くから鏡作りの神として信仰を集めていたという。入口には天保13年(1842)の常夜燈が立っており、境内にも安永4年(1775)の常夜燈や弘化3年(1846)の手水鉢などがある。
右手に小祠と寛政7年(1795)の常夜燈が立っている。
田原本町役場に突き当たった右手に「右 大峰山 よしの かうや 左 京 なら 古」と刻まれた元治元年(1864)の道標が立っている。11時20分にここを通る。
ここから右折、すぐ次の角を左折して進むが、この角に道標らしきものが立っていたが、情報もなく、読み取ることもできなかった。
左手に「平野氏神社跡」の説明板が立っている。それによると賤ケ岳七本槍の一人として豊臣秀吉から賞された平野権兵衛長泰は文禄4年(1596)にこの地を拝領した。寺川の水運と中街道沿いという好立地から大和中央部の物流拠点として大いに繁栄したという。
左手に「田原本聖救主教会」の礼拝堂がある。
「行幸橋」を渡る。橋というほどの大きさではないものの、「行幸橋」というからには天皇と関係があるのではないかと思って、ネットで調べていると、明治天皇が明治10年に田原本を行幸された際に渡ったという記事があったので、この橋のことだろうと思った。
そのすぐ先右手に「すぐ大峯山 よし野 かう野 左たつ田 ほう里うじ 大坂」「すぐ 京 なら 郡山 文化11年(1814) 吉村氏」と刻まれた復元された道標が立っている。
右手に資料によると「龍田 法隆寺 大坂 ぐ京 奈良 郡山 ぐ大峯 吉野 高野 伊勢 初瀬 三輪 巳春建立 ぬしや 長三郎 石工當所 佐兵衛」と刻まれた道標と、その横に田原本町の道路元標が立っている。
その背後には天保12年(814)に建てられた鍵岡薬局が建っている。この辺りは田原本陣屋町・寺内町で唯一江戸時代のたたずまいを残していると説明されている。明治10年の明治天皇行幸の際、この道を進まれたという。
左手に「樂田寺」がある。ここの創建は天平29年(729)という古刹で、現在は江戸時代の阿弥陀如来坐像等があるということだが、門が閉まっていて、境内をみることはできなかった。
その先で道はT字路になっているが、その右手に「左 京 なら 古ふ里山 道」「左 大峰山 よし能 加うや」「悲心施一人功徳如大海」と刻まれている道標が立っている。
ここを左折すると、田原本町南町道標があり、「右 大峯山 吉野 高野」「左 京 奈良 郡山」「天保四葵巳年(1833)三月」「石工 王寺村 又右エ門」 「世話人 袴屋与右米門 百済屋新□□ 橘屋長右ェ門」と刻まれている。
ここを右折して進み、その先でT字路になっているので、これを左折すると、「行者堂」がある。ここは延享3年(1746)行者堂の前身として行者堂の東、寺川との間のムクの木の傍らに地蔵堂があった。その後この行者堂はすたれてしまったが、大正3年にスペイン風邪が大流行したことを契機としてこの行者堂が建立されたという。11時46分にここを通る。
ここを右折して川沿いの道を進んでいくと、右手に2体の石仏を祀る小祠がある。
右手に多神社の鳥居と安政6年(1859)の常夜燈が立っている。多神社は飛鳥の豪族多氏ゆかりの神社で、学問の神として信仰を集めており、境内には弥生時代の多遺跡があるということだが、立ち寄らずに進む。
右手に地蔵堂があり、数多くの石仏が安置されている。右手に行くと新ノ口駅があるところだ。12時27分にここを通る。
葛本町西の信号の先、左手に小祠があり、2体の石仏が安置されている。
右手に「稲荷神社」があり、その石段に「大正元年十月新調」「新地氏子中」と刻まれている。
左手に石柱に囲まれた庚申塔がある。
近鉄の踏切を越えて進むが、この辺りに来ると、旧い歴史を感じさせる家が数多く建っている。
八木町札ノ辻に来る。ここは横大路を歩いた時に通ったところだ。
左手角に岸の竹酒造があり、その前に「八木町道路元標」がある。
この辺りには標識が頻繁に立っていて、それに従って進む。下記の写真にある標識から標識に従って左折して進む。13時6分にここを通る。
その先にパン屋さんがあったので、ここに入って昼食にする。藤原京跡辺りには食事をするところがないようだったのでここで食べたのだが、これは正解だった。
左手に「おふさ観音」がある。この本堂が建つ辺り一帯はかっては鯉ケ淵と呼ばれる大きな池だった。慶安3年(1650)のある日の早朝、この地で暮らす「おふさ」という娘が鯉ケ淵の傍を歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が現れたので、おふささんは池の傍に小さなお堂を建て、そこに観音様をお祭りした。その観音様は色々な願い事を叶えてくださるとして近くの村人たちに厚く信仰され、大切に祀られたという。やがてだれからともなく「おふさ観音」と呼ばれるようになったという。ここの境内には4000種類以上のバラをはじめとした四季折々のお花が咲き誇ることで有名ということだ。
門前には「積十一面観世音菩薩」「すぐ 志やくのくわんぜおん」「是より半丁東」「明治四十参年六月」「現住権僧正・・」「発起人 田中・・」と刻まれている道標が立っている。
13時43分に藤原京跡に到着する。ここは広場になっているだけで、平城京のような建物は復元されていない。藤原京跡は藤原京の中心施設である藤原宮のあったところで、一辺約1kmの中に大極殿や朝堂院といった国を挙げての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などあったというが、存在したのはわずかに16年間だったという。ここで下ツ道を歩き終わり、大和八木駅まで歩いて帰途につく。
本日の歩行時間 4時間18分。
本日の歩数&距離 19967歩、14.4km。
本日の純距離 13.5km。(下ツ道だけを歩いた時の距離)
下ツ道総合計
総歩行時間 8時間44分。
総歩数&総距離 42625歩、30.5km。
総純距離 28.4km。