奈良・中街道(下ツ道)を歩く

2019年04月13日(土) ~2019年04月15日(月)
総歩数:42625歩 総距離:30.5km

2019年04月13日(土)

大和西大寺(朱雀門)~二階堂

                         
                              晴れ

 奈良盆地には南北に平行して縦貫する三本の道が走っており、上ツ道(上街道)、中ツ道、下ツ道(中街道)と呼ばれ、これらを総称して大和三道と呼ばれていて、ほぼ四里の等間隔で並んでいた。敷設時期は7世紀半ばとみられているが、敷設理由としては7世紀に飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われたことから、その資材の運搬用として造られたのではないか、あるいは軍事用に造られたのではないか等と推測されているという。
 今回はこのうち、藤原京と平城京を結ぶ道だった下ツ道(中街道)を歩くことにした。この道は奈良時代、飛鳥・藤原京と平城京をまっすぐに、ほぼ直線で繋ぐ大道として盛んに利用されたという。またこの道は近世になって中街道と呼ばれるようになったという。

 10時34分に大和西大寺駅に着く。ここから104号線を進んでいくと、左手道路の真ん中に「歓喜寺地蔵堂と弘法井戸館」が並んでいる。
 左手の小さな祠には古井戸が残されているが、現在は水は涌いていないという。またここには室町時代の作と言われる「五尊板碑」や「阿弥陀立像」が安置されている。右側の祠には数多くの地蔵尊が安置されていた。道路の真ん中にあるので、車の流れに注意しながら写真を撮った。
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 その先右手に入ったところに「平城宮資料館」があったので、これを見学し、その後平城宮跡へと入っていく。
 広大な敷地に奈良時代前半の第一次大極殿が復元されている。東西が44メートル、南北が19.5m、高さ(棟高)27.1mという大きなもので、ここは天皇の即位式や外国使節との面会など国の最も重要な儀式に使われていたという。平成22年に復元工事が完了したと説明されている。
大極殿
 これだけ広大な敷地は以前はどのようになっていたのだろうかと思って、ガイドをされておられる方にお聞きすると、この場所は以前から家屋等は立っておらず、農地になっていたという。後で調べてみると、ここは嘉永5年(1852)に奉行所の役人北浦定政が平城京跡地と推定、明治時代に入って保存運動が本格化、大正10年に平城京跡の中心部分が民間の寄附によって買い取られ、国に寄附されたことから、翌大正11年に国の史跡に指定されたという。
 その先に「第一次大極殿南門」の復元工事が行われている。現在建造物を雨風から守る「素屋根」が組み立てられており、巨大なカラーイラストが掲げられている。2019年度からは、素屋根に隣接する「南門復原工事見学デッキ」を設置する計画という。これが完成すると、朱雀大路から朱雀門を通って、平城宮へ、さらに南門を通ってその正面に大極殿を仰ぐという、往時の人々と同じ道筋をたどることができるという。
南門
 正門にある朱雀門も復元されている。これは東西の長さ約25m、南北の長さ約10m、高さ(棟高)約21.9mで平成10年に竣工されたという。ここは外国使節の送迎を行ったり、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもあったという。
朱雀門
今回の参考資料は「奈良県観光局ならの観光力向上課」が作成した「歩くなら推奨ルートマップ」を参考にして歩いた。この資料には朱雀大路推定位置の線とモデルルートの両方が記されているので、一部を除きモデルルートを歩いた。

 11時にここを出発、すぐ前を通っている1号線を横断し、308号線から右折して進む。ここは暗越奈良街道を歩いた時に通った道だ。朱雀大路の推定位置は右折せず、直進していたようだが、モデルルートに従って進むことにする。
三条大路5の信号のすぐ先、左手に「石造地蔵菩薩立像」を祀る地蔵堂がある。これは文永2年(1265)の作で奈良市指定文化財になっている。
石造地蔵菩薩立像
 秋篠川に架かる都橋の手前から左折して、川沿いに進んでいく。
 右手、街道から少し外れたところに「唐招提寺」があるので参拝する。ここは鑑真和上が天平宝字3年(759)に専修道場を創建されたことが始まりのお寺で、南都六宗の一つである律宗の総本山だ。1998年に古都奈良の文化財の一部として世界遺産に登録されている。奈良時代に建立され、国宝に指定されている金堂には、像高3mの廬舎那仏座像を真ん中にして薬師如来立像、十一面千手観世音菩薩立像が立っており、その周囲には増長天立像、持国天立像、奥に多聞天立像、弥勒如来座像などが安置されており、壮観だ。これらの仏像はいずれも奈良時代に造られたものという。残念ながら写真撮影は禁止されている。
唐招提寺
 その横にはやはり奈良時代に建立された講堂や鎌倉時代に建立された鼓楼があり、どちらも国宝に指定されている。
このほかにも国宝や重要文化財に指定されている建物が数多くある。またこれも国宝の鑑真和上像は毎年6月5、6、7日のみの開扉なので、御身代わり像が展示されていた。
講堂・鼓楼
 唐招提寺を出たところで昼食で持参したパンを食べ、12時19分に街道に戻って進む。ここから先も秋篠川に沿って進むが、まだ沿道に桜の花が残っており、花びらが川面に浮かんで花筏の風情が漂っている気持ちのいい道だ。
花筏
 左手に2体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。
2体地蔵堂
 途中道路が工事中のため、一旦対岸へ迂回、その先でまた左岸に戻って進んでいくが、右岸に石碑が見えたので行ってみると、「西市船着場跡」碑が立っていた。平城京には東西二か所の国営市場があり、ここは西市があったところで、秋篠川が物資運搬を担っており、月の後半の15日間開催されていたという。12時45分にここを通る。
西市船着き場
 そのすぐ先、奈良口の信号の手前左手に「明治天皇駐輦跡」碑が立っている。
明治天皇
 奈良口の信号で橋を渡った右手に「地蔵堂」がある。
奈良口1
 橋を渡った左手に文化14年(1817)の太神宮と刻まれた常夜燈が立っており、その横に「平城京 西一坊大路跡」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。
奈良口常夜燈
 また常夜燈の横に数多くの地蔵尊を祀った地蔵堂がある。12時55分にここを通る。
奈良口地蔵堂
 溜池に沿って進んでいき、右折、左折を繰り返して佐保川沿いの堤に出て、川沿いに進んでいく。この川沿いの道が朱雀大路の推定位置だ。
 その先、左手に羅城門橋があるが、ここがかって都の正面となる羅城門があったところだが、現在は遺構は残っていない。 橋の手前に「羅城門展望所」「やまと郡山環境を良くする市民の会」と書かれた木柱が立っている。
羅生門
 右手に「きこく地蔵」を安置する地蔵堂がある。この場所は下ツ道から矢田寺参りの分岐点になっており、行基菩薩が道しるべとして地蔵堂を創設されたのが始まりという。 周囲に外部からの災いを防ぐために枳殻(からたち)の木が植えられたことから、枳殻(きこく)地蔵と呼び、矢田寺地蔵尊の分身として「きこく地蔵尊」と呼ばれるようになったと説明されている。戦時中は「きこく」を「帰国」とダブらせて、戦場に行っている人の無事の「帰国」を願って、お百度参りをされている姿をよく見かけたという。13時23分にここを通る。
きこく地蔵
 右手に墓地があって、土が盛られており、木の墓標が立っている。その墓地の横に大木があり、その根元に寛延4年(1751)と読むことができる地蔵をはじめとして六地蔵がある。
墓地1墓地2

 歩いているとご近所の方と思われる人が「何をしているのか」と話しかけてこられた。「下ツ道を歩いています」とお答えをすると、この方も下ツ道を歩かれたそうで、案内をしてあげようといって一緒についてこられた。下ツ道を歩かれる方をよく見かけるといわれていた。
佐保川に架かる稗田橋のところに「すぐ大峯山上 かうや 左 ぼだいせん道 すぐ京道」と刻まれた道標とその横に「大和郡山市指定史跡 稗田環濠及び集落」と書かれた標識が立ってる。
道標1
街道はここから右折して進むのだが、資料のモデルルートはここを直進して「賣太(メタ)神社」へ向かうようになっているので、一旦右折、その先から左折して神社へ向かうことにする。案内をしていただいた方とはここでお別れする。
賣太神社は古事記を編纂した稗田阿礼を祭神としている式内社で、かっては平城京羅城門付近に存在していて、都に出入りする人々の穢れを払い、また、交通の安全を祈願する神事の場所でもあったことから、道祖神としての役割もあったとされている。江戸時代までは三社明神と呼ばれていたが、昭和17年に現在の賣太神社に改称したという。13時54分にここを通る。
賣太神社
 神社の横が稗田の環濠集落になっている。稗田環濠は、大和の環濠の代表例として有名だが、古文書などの史料があまり残されていないのでどのように形成されたのか詳しいことはわかっていないという。環濠の起こりは中世(室町時代)争乱の世に自衛を図り、水利の便も兼ねていたといい、集落の周囲を取り囲む堀の幅は10m内外、深さはおよそ2~3mあるという。
環濠1環濠2

 街道に戻って進むと、番条橋を渡った左手に供養塔と刻まれた文化6年(1809)の石碑と3体の石仏がある。
文化6年
この辺りのルートマップは右折して番条環濠集落を通るようになっているが、環濠集落はすでに見たので、直進する。
 「嫁取り橋」と書かれた標識が立っている小さな橋を渡る。この橋のいわれとして「ふるさと大和郡山 歴史事典」に次のような由来が記されているのを見つけたので、少し長くなるが引用させていただきます。
 昔、筒井のある茶店に「こまの」という18歳になる娘がいた。その茶店の前の道を通って、毎日大坂へ通う24、5歳くらいの飛脚がいた。なかなかの美男子であったので、毎日見ていた「こまの」は、いつの間にかこの飛脚に恋慕の情を抱くようになった。
ある日の夜、ここを通りかかったその飛脚に、この先の道がこわれて通りにくいから、ぜひ泊まって行きなさいといって無理矢理に泊まらせた。夜がふけたころ、娘は異様な姿で飛脚の部屋に忍び込んだので、飛脚は驚いて一目散に逃げて行った。八条町の淵(ふち)のところに1本の松があったので、男はそれによじ登った。娘はそこまで追っかけて来たが、男の姿は見えなかった。しかし、ぬぎ捨ててあった1足の下駄が目についたので、はっと驚いて淵を見たところ、月の光で男の姿が、ありありと池の中に映っていた。さてはと、娘は淵に飛びこんで、そのままとうとう大蛇になってしまった。 ある時、籠に乗った花嫁が通りかかったところ、にわかに大雨が降り出したので、籠かきは籠を木陰に置いて、雨具を借りに行った。そして、引き返してみると、籠の中にはもう花嫁の姿は見えなかった。大蛇が雨を降らせて、その間に花嫁を淵に引きずり込んだのであった。 今も淵の前の小川にかかっている橋を「嫁取り橋」といって、花嫁はその橋を通らないということである。そして「こまの」の墓も、その南側にある。

嫁取り橋
 京奈和自動車道の高架下すぐ手前、右手に菅田神社の鳥居があり、そのすぐ先に文化3年(1806)の常夜燈が立っている。
菅田神社
 二階堂駅が左手にあり、15時丁度になったので、今日はここまでとする。この後、大阪で会社の仲間と飲むことになっているのだ。

 本日の歩行時間   4時間26分。
 本日の歩数&距離 22658歩、16.1km。
 本日の純距離 (唐招提寺見学の部分を除いて二階堂駅までの距離)14.9km。

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