2019年03月08日(金)
津~平木
晴れ
伊賀街道は伊勢へ向かう参宮道の一つだったが、慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封になり、津を本城とし、伊賀を支城として、この間を結ぶ官道として整備された街道である。この道は伊勢へ向かう参宮客だけでなく、津方面から水産物や塩が、伊賀方面からは種油や綿などが運ばれた伊勢・伊賀両国の経済・生活の大動脈としての役割も担っていたという。
資料は「三重県歴史の道調査報告書」と「みえ歴史街道ウォーキングマップ」を参考にした。
街道は津城の伊賀口門があったところが出発点で、これは城内に入る三つの門の一つとして造られたという。しかし現在では遺構も標識もない。市役所に問い合わせを行って場所を確認すると、右手に市役所の駐車場があり、左手にカトリック津教会がある四つ角がその場所のようだ。
11時ちょうどにここを出発する。
ここから左折、カトリック教会を左手に見ながら進んでいき、次の角を左折、更に次の角を右折して進む。昔はこの辺りは武家屋敷が立ち並んでおり、その先は城を火事から守るため家を建てることが許されず、田んぼで隔てられていたというが、現在ではその面影は全く残っていない。近鉄名古屋線の踏切を越えて進むと、右手に「観音寺」がある。ここは今から四百年ほど前に市内中央部に建立されていたが、藤堂高虎が慶長13年(1608)に津藩へ移封後、城郭整理拡張の際、現在地に移された。その後火災や戦災で焼失、戦後に再建されたという。境内には大正初期に立てられた信者の寄進による四国八十八カ所霊場の小堂が建ち並んでいる。
街道はほぼ直線で西に向かって伸びているのでこれを進んでいくと、左手に「谷川士清旧宅」がある。谷川士清は江戸時代の国学者で、初めて五十音順の国語辞典(和訓栞)を作った人で、その士清が生活していた建物が復元され、士清の著書なども展示されており、国指定史跡となっている。
その先で道は二股に分かれているので、左へ進むが、この右角、納所橋の袂に「延命地蔵」を祀る祠がある。これは明治の初めに川に流れ着いたものを祀ったという。中央に延命地蔵が祀られ、左に2体、右に1体の石仏が祀られている。
その先左手に街道の名残という大木が一本だけ立っている。
163号線に合流するところ、左手に小さな石塔がある。
すぐ先で道は二股に分かれているので直進するが、163号線の横に「さんし」と呼ばれる堤防が一段低くなっているところがあるので、これを進む。これは城下を洪水から守るために造られたもので、大水の時はここを切って岩田川に水を流したという。その先で163号線に合流、殿村北の信号から左へ直角に曲がって進み、163号線から右へ分岐する旧道があるのでこれを進んでいくと、右手に「新四国八十八ケ所霊場 此ヨリ三丁」「願主 田中平蔵」と刻まれた道標が立っている。資料によると明治初期に建てられたものという。
その先で左手の岩田川沿いに旧道が一部残っているようだったが、入り口がわからなかったので、163号線を進んだ。左手を見ていると確かに川沿いの土道があるようだった。しかしその先のガソリンスタンドのところで消滅していて、163号線に戻るには川を渡らなければいけないのだが、渡るところもなかったようなので、結局163号線を進んで正解だったようだ。旧道から163号線に合流するところにコンビニがあったので、12時20分、ここで昼食にする。
ガソリンスタンドの先から163号線から左へ分岐して旧道を進み、片田郵便局前の信号で163号線を横断して進むと、右手に「八乳合神社」がある。ここは旧片田村に古くから鎮座してあった9社を明治41年に井戸町の中山神社に合祀し、その他の小祠等も合わせ祀って八乳合神社と改称したものという。2015年年末に火事があって社務所と拝殿が全焼したそうで、新しい拝殿ができていた。境内には「皇大神宮」「明治神宮」遥拝所の碑が立っており、また拝殿の横には山の神が二基あった。
163号線に合流した少し先、左手に少し入ったところに大きな「常夜燈」が立っていた。
163号線に戻って進むが、この辺りは前田宿(江戸中末期から片田宿あるいは片田前田宿と呼ばれた)があったところで、宿場の問屋場や札場があったという。
小さな橋を渡ってすぐに163号線から左へ分岐するが、ここの右手に「国寶薬師堂 約七丁」「光善寺 約六丁」「観慶寺 約三丁」と刻まれた大正15年の道標が立っている。ここはうっかりしていて写真を撮り忘れたようだ。
右手に片田久保町集会所があり、ここの庭に天保14年(1843)の常夜燈が立っている。13時42分にここを通る。
ここも163号線の左手に短い距離だが旧道があるので、これを進む。
やがて道は吹上坂を通る。ここは昔は難所だったそうで、資料によると行商人は「長野峠と吹上の谷と、片田きんざ(乱暴者の名)がなけりゃいい」と歌ったというが、現在は舗装された道路になっていて、昔の難所の面影はない。鶯の鳴き声が聞こえていいのだが、歩道がなく、車の通行量もそれなりにあって歩きずらい。
この先で道を間違ってしまった。吹上のバス停のすぐ先にある細道を左折しなければいけなかったのだが、うっかりしてそのまま先へ進んでしまい、大通りから左折してしまったのだ。おかしいと思ったので、そこから後もどって旧道を確認した。
本来歩く道順で書くと、まず下記の写真が吹上のバス停のすぐ先にある左へ分岐するところです。
そのまま直進すると、「月本おひわけ」「右いがこえなら道」「右さんぐうみち」「左やまと七在所順道」と刻まれた天明6年(1786)の道標と「家内安全」「永代常夜燈」「ならはせかうや道」と刻まれた天保3年(1832)の常夜燈が並んで立っており、その横に「茶屋の道標 1基」と書かれた説明板が立っている。ここが伊賀街道と伊賀越奈良街道の追分になる場所だ。奈良街道はいずれ歩こうと思っている道だ。
ここから右折して659号線を進むと、右手に「従是南一志郡 距伊勢山田11里19町」と刻まれた石柱が立っている。
その先163号線に合流する手前で左折して進むのだが、合流する右角に「滝川貳大龍神神社」がある。ここは周囲をフェンスで囲まれているので入ることができない。そのため塀の上から写真だけ取らせていただいた。
旧道を進むと左手に「右さんぐう道」「左 津道」と刻まれた自然石の明治の道標がある。
更にその先右手に「御神燈の台石」があり、小祠が祀られている。
右手に「西方寺」がある。ネットで調べると天保3年(1832)の梵鐘があるとなっていたので、ちょうどお寺の若奥さんと思われる方がおられたのでお聞きすると、その鐘は戦時中に供出してしまったということだった。梵鐘が本堂の横にあり、とりあえず写真を撮ったので掲載させていただきます。(全く関係ないですけど。。。。)
その先で一旦163号線に合流し、東足坂のバス停の先で再び163号線から左へ分岐して進むと、左手に高宮郵便局があり、道路を挟んだ前に「御神燈」と一万度と刻まれた「万度石」がある。「百度石」はよく見かけるが、「万度石」はこれまであまり見た記憶がないので、調べてみるとそれなりに存在しているようだ。15時4分にここを通る。
そのすぐ先右手にも同様に「御神燈」と「万度石」がある。ここには一万度碑の説明板が立っていて、「昔はなかなかお伊勢参りにいけなかったので、集落の代表の者がお参りをしていただいてきたお札をこの碑の中(一万度と彫られた石の裏が空洞)に納め、集落の誰もがいつでも拝めるようにとの目的で造られました。地元では「まんどうさん」と呼ばれ、毎年七月二十四日に祭礼を行っています。」と書かれている。
その先で163号線に合流、みさとの丘入口の信号の先から163号線から左へ分岐して進むと、右手に明治10年の「御神燈」が立っている。
長野川に架かる新開橋を渡って進むと、道は山間の道となる。
この先で道がわかりにくくて道を間違えたが、幸いご近所の方がおられて親切に教えていただいたので助かった。
左手は山、道を挟んで田んぼがあり、その向こうに長野川、更にその向こうに163号線が走っている道を進んでいく。
長野川に架かる立岩橋を渡って163号線に合流する。
集落を外れた右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた自然石がある。15時57分にここを通る。
右手に「庚申」と刻まれた碑が二基ある。
右手に「長野氏城址」の説明板がある。 それによると長野城は「東の城」「中の城」「西の城」の三つの城からなる山城で、南北朝時代の城の特徴をよく表しているという。その横に長野宿まで0.4㎞とかかれた標識が立っている。16時9分にここを通る。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進むが、すぐにこれまで来た道に合流する。ここに「目無地蔵まで2.3km」の標識が立っている。
左手に美里郵便局がある道路を挟んだ反対側に「頌徳碑」「供養碑」「常夜燈」が立っている。ここは少しだけ道路より高くなっており、火除土手として防火の役割を担っていたという。この郵便局が長野宿の本陣だったという。16時21分にここを通る。
16時45分にバスの終点である平木の停留所に着く。最初バス停の看板を見落としていて、そのまま先へ進んでしまったのだが、どんどん山の中へ入っていくのでおかしいと思って引き返すとバス停があった。津駅行のバスは一時間に一本しかない。次は17時02分だった。
今日は天気晴朗なれど、風強く、花粉症の身にはつらくて、目はしょぼしょぼ、くしゃみ連発の一日だった。
本日の歩行時間 5時間45分。
本日の歩数&距離 35573歩、22.4km。
伊賀街道は伊勢へ向かう参宮道の一つだったが、慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封になり、津を本城とし、伊賀を支城として、この間を結ぶ官道として整備された街道である。この道は伊勢へ向かう参宮客だけでなく、津方面から水産物や塩が、伊賀方面からは種油や綿などが運ばれた伊勢・伊賀両国の経済・生活の大動脈としての役割も担っていたという。
資料は「三重県歴史の道調査報告書」と「みえ歴史街道ウォーキングマップ」を参考にした。
街道は津城の伊賀口門があったところが出発点で、これは城内に入る三つの門の一つとして造られたという。しかし現在では遺構も標識もない。市役所に問い合わせを行って場所を確認すると、右手に市役所の駐車場があり、左手にカトリック津教会がある四つ角がその場所のようだ。
11時ちょうどにここを出発する。
ここから左折、カトリック教会を左手に見ながら進んでいき、次の角を左折、更に次の角を右折して進む。昔はこの辺りは武家屋敷が立ち並んでおり、その先は城を火事から守るため家を建てることが許されず、田んぼで隔てられていたというが、現在ではその面影は全く残っていない。近鉄名古屋線の踏切を越えて進むと、右手に「観音寺」がある。ここは今から四百年ほど前に市内中央部に建立されていたが、藤堂高虎が慶長13年(1608)に津藩へ移封後、城郭整理拡張の際、現在地に移された。その後火災や戦災で焼失、戦後に再建されたという。境内には大正初期に立てられた信者の寄進による四国八十八カ所霊場の小堂が建ち並んでいる。
街道はほぼ直線で西に向かって伸びているのでこれを進んでいくと、左手に「谷川士清旧宅」がある。谷川士清は江戸時代の国学者で、初めて五十音順の国語辞典(和訓栞)を作った人で、その士清が生活していた建物が復元され、士清の著書なども展示されており、国指定史跡となっている。
その先で道は二股に分かれているので、左へ進むが、この右角、納所橋の袂に「延命地蔵」を祀る祠がある。これは明治の初めに川に流れ着いたものを祀ったという。中央に延命地蔵が祀られ、左に2体、右に1体の石仏が祀られている。
その先左手に街道の名残という大木が一本だけ立っている。
163号線に合流するところ、左手に小さな石塔がある。
すぐ先で道は二股に分かれているので直進するが、163号線の横に「さんし」と呼ばれる堤防が一段低くなっているところがあるので、これを進む。これは城下を洪水から守るために造られたもので、大水の時はここを切って岩田川に水を流したという。その先で163号線に合流、殿村北の信号から左へ直角に曲がって進み、163号線から右へ分岐する旧道があるのでこれを進んでいくと、右手に「新四国八十八ケ所霊場 此ヨリ三丁」「願主 田中平蔵」と刻まれた道標が立っている。資料によると明治初期に建てられたものという。
その先で左手の岩田川沿いに旧道が一部残っているようだったが、入り口がわからなかったので、163号線を進んだ。左手を見ていると確かに川沿いの土道があるようだった。しかしその先のガソリンスタンドのところで消滅していて、163号線に戻るには川を渡らなければいけないのだが、渡るところもなかったようなので、結局163号線を進んで正解だったようだ。旧道から163号線に合流するところにコンビニがあったので、12時20分、ここで昼食にする。
ガソリンスタンドの先から163号線から左へ分岐して旧道を進み、片田郵便局前の信号で163号線を横断して進むと、右手に「八乳合神社」がある。ここは旧片田村に古くから鎮座してあった9社を明治41年に井戸町の中山神社に合祀し、その他の小祠等も合わせ祀って八乳合神社と改称したものという。2015年年末に火事があって社務所と拝殿が全焼したそうで、新しい拝殿ができていた。境内には「皇大神宮」「明治神宮」遥拝所の碑が立っており、また拝殿の横には山の神が二基あった。
163号線に合流した少し先、左手に少し入ったところに大きな「常夜燈」が立っていた。
163号線に戻って進むが、この辺りは前田宿(江戸中末期から片田宿あるいは片田前田宿と呼ばれた)があったところで、宿場の問屋場や札場があったという。
小さな橋を渡ってすぐに163号線から左へ分岐するが、ここの右手に「国寶薬師堂 約七丁」「光善寺 約六丁」「観慶寺 約三丁」と刻まれた大正15年の道標が立っている。ここはうっかりしていて写真を撮り忘れたようだ。
右手に片田久保町集会所があり、ここの庭に天保14年(1843)の常夜燈が立っている。13時42分にここを通る。
ここも163号線の左手に短い距離だが旧道があるので、これを進む。
やがて道は吹上坂を通る。ここは昔は難所だったそうで、資料によると行商人は「長野峠と吹上の谷と、片田きんざ(乱暴者の名)がなけりゃいい」と歌ったというが、現在は舗装された道路になっていて、昔の難所の面影はない。鶯の鳴き声が聞こえていいのだが、歩道がなく、車の通行量もそれなりにあって歩きずらい。
この先で道を間違ってしまった。吹上のバス停のすぐ先にある細道を左折しなければいけなかったのだが、うっかりしてそのまま先へ進んでしまい、大通りから左折してしまったのだ。おかしいと思ったので、そこから後もどって旧道を確認した。
本来歩く道順で書くと、まず下記の写真が吹上のバス停のすぐ先にある左へ分岐するところです。
そのまま直進すると、「月本おひわけ」「右いがこえなら道」「右さんぐうみち」「左やまと七在所順道」と刻まれた天明6年(1786)の道標と「家内安全」「永代常夜燈」「ならはせかうや道」と刻まれた天保3年(1832)の常夜燈が並んで立っており、その横に「茶屋の道標 1基」と書かれた説明板が立っている。ここが伊賀街道と伊賀越奈良街道の追分になる場所だ。奈良街道はいずれ歩こうと思っている道だ。
ここから右折して659号線を進むと、右手に「従是南一志郡 距伊勢山田11里19町」と刻まれた石柱が立っている。
その先163号線に合流する手前で左折して進むのだが、合流する右角に「滝川貳大龍神神社」がある。ここは周囲をフェンスで囲まれているので入ることができない。そのため塀の上から写真だけ取らせていただいた。
旧道を進むと左手に「右さんぐう道」「左 津道」と刻まれた自然石の明治の道標がある。
更にその先右手に「御神燈の台石」があり、小祠が祀られている。
右手に「西方寺」がある。ネットで調べると天保3年(1832)の梵鐘があるとなっていたので、ちょうどお寺の若奥さんと思われる方がおられたのでお聞きすると、その鐘は戦時中に供出してしまったということだった。梵鐘が本堂の横にあり、とりあえず写真を撮ったので掲載させていただきます。(全く関係ないですけど。。。。)
その先で一旦163号線に合流し、東足坂のバス停の先で再び163号線から左へ分岐して進むと、左手に高宮郵便局があり、道路を挟んだ前に「御神燈」と一万度と刻まれた「万度石」がある。「百度石」はよく見かけるが、「万度石」はこれまであまり見た記憶がないので、調べてみるとそれなりに存在しているようだ。15時4分にここを通る。
そのすぐ先右手にも同様に「御神燈」と「万度石」がある。ここには一万度碑の説明板が立っていて、「昔はなかなかお伊勢参りにいけなかったので、集落の代表の者がお参りをしていただいてきたお札をこの碑の中(一万度と彫られた石の裏が空洞)に納め、集落の誰もがいつでも拝めるようにとの目的で造られました。地元では「まんどうさん」と呼ばれ、毎年七月二十四日に祭礼を行っています。」と書かれている。
その先で163号線に合流、みさとの丘入口の信号の先から163号線から左へ分岐して進むと、右手に明治10年の「御神燈」が立っている。
長野川に架かる新開橋を渡って進むと、道は山間の道となる。
この先で道がわかりにくくて道を間違えたが、幸いご近所の方がおられて親切に教えていただいたので助かった。
左手は山、道を挟んで田んぼがあり、その向こうに長野川、更にその向こうに163号線が走っている道を進んでいく。
長野川に架かる立岩橋を渡って163号線に合流する。
集落を外れた右手に「南無阿弥陀仏」と刻まれた自然石がある。15時57分にここを通る。
右手に「庚申」と刻まれた碑が二基ある。
右手に「長野氏城址」の説明板がある。 それによると長野城は「東の城」「中の城」「西の城」の三つの城からなる山城で、南北朝時代の城の特徴をよく表しているという。その横に長野宿まで0.4㎞とかかれた標識が立っている。16時9分にここを通る。
その先で道は二股に分かれているので、右へ進むが、すぐにこれまで来た道に合流する。ここに「目無地蔵まで2.3km」の標識が立っている。
左手に美里郵便局がある道路を挟んだ反対側に「頌徳碑」「供養碑」「常夜燈」が立っている。ここは少しだけ道路より高くなっており、火除土手として防火の役割を担っていたという。この郵便局が長野宿の本陣だったという。16時21分にここを通る。
16時45分にバスの終点である平木の停留所に着く。最初バス停の看板を見落としていて、そのまま先へ進んでしまったのだが、どんどん山の中へ入っていくのでおかしいと思って引き返すとバス停があった。津駅行のバスは一時間に一本しかない。次は17時02分だった。
今日は天気晴朗なれど、風強く、花粉症の身にはつらくて、目はしょぼしょぼ、くしゃみ連発の一日だった。
本日の歩行時間 5時間45分。
本日の歩数&距離 35573歩、22.4km。