横大路を歩く

2018年11月27日(火)
総歩数:34889歩 総距離:24km

2018年11月27日(火)

長尾神社~慈恩寺北

   晴れ


 横大路は長尾神社から桜井市の寺川に架かる小西橋あたりまでの大和盆地を東西に走る古道のことで、日本書紀の推古天皇21年(613)に「難波より京にいたる大道を置く」と記された大道のルートと重なることから、竹内街道と並んで日本最古の官道と呼ばれている。近世に入ると長谷寺や伊勢神宮への参詣にも大いに利用された生活、宗教の道となり、別名、初瀬街道、伊勢街道とも呼ばれていた。ただ所詮地方街道にすぎなかったため、江戸幕府の道中奉行が管轄する街道ではなく、そのため一里塚や宿駅が完備されることはなかった。


 まず長尾神社に参拝する。ここはかって竹内街道を歩いた時に訪れたところで、延喜式神名帳に記された式内社として由緒ある神社だ。横大路西方の道祖神の性格をもっているという。
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 昔、大和の国には三輪山を七周り半するほどの大きな蛇が住んでいて、その頭が三輪明神で、尻尾にあたるところが長尾神社だったという。ナガモノ(蛇)の尾ということから長尾という名前が付いたとも言われている。

正面にある二の鳥居の神額には「正一位 長尾大明神」と書かれているが、これは享保9年(1724)に作られたものという。
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 また入口にある橋の橋石には「安政7年(1778)戊戌年九月四日」 「寄進長尾村西口若連中」と刻まれている。
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 ここを10時20分に出発し、166号線を進んでいく。
 右手入ったところに中世の尺度寺とも考えられているという「極楽寺」があり、境内右手に文亀2年(1502)の五輪塔が立っている。ここは細道を入ったところでわかりにくかった。
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 左手に大正7年に建立された「明治天皇遥拝所」碑が立っている。
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 左手に「横大路と大和高田市」と記された案内版が立っており、横大路に関する説明がなされている。その横に「緑の一里塚」碑がある。
これは2013年、難波から奈良の飛鳥までつなぐ日本最古の官道である竹内街道が、開設1400年を迎えたため、これを契機に、竹内街道、横大路全体を大阪府・奈良県・沿線市町村が一体となり盛り上げる「竹内街道・横大路(大道)1400年活性化プロジェクト」が展開された。そのプロジェクトの一つとして、街道をつなぎ、地域の賑わいを創出するとともに、府民にみどりを実感してもらうため、街道沿いに、みどりを感じるスポット「緑の一里塚」を整備したという。

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 左手に大中公園があり、大中橋の信号から街道を分岐して左折、大中池の端に「静御前記念碑」が立っている。静御前は大和高田の生まれで、義経と結ばれたが吉野山で捕らえられた。その後許されて大和へ戻り、静御前の母磯野禅尼の故郷と言われる磯野の里で亡くなったと記されている。
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 街道に戻って大中橋を渡ると急に道幅が狭くなり、連子格子の家が目につくようになる。
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左手に「長谷本寺」があり、その門前に「すぐ大坂さかい道」「長谷本寺十一面観世音菩薩」「すぐはせいせ道」、台座には「名張屋甚助」と刻まれた明治元年の道標が立っている。

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 ここは養老年間(717~723)に南都の高僧だった大満上人によって開基されたもので、本尊の木造十一面観世音菩薩像は平安時代の作といわれており、長谷寺の本尊と同木によるものという。 本堂の前にはその十一面観音の修理により返還されたという「仏足石」が置かれている。
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 また境内には春日神社や国狭立神社があり、文政12年(1829)の石燈籠が立っている。
 11時25分、ここから街道を外れて左折して進むと、「専立寺」がある。ここは慶長5年(1600)に創建された寺で、表門は寛政6年(1794)に建立され、また天明6年(1786)に建立された太鼓楼があり、両者は寛政6年に建立された築地塀で繋がれている。これらは大和高田市指定文化財になっている。
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 その先、戦陣往来に際し、馬を洗って冷やしたという馬冷池があり、その横に石の地蔵と小さな木の地蔵を祀る祠が並んで建っている。昔、この池にはいたずらな河童が住んでいて、皆が困っていたので、お地蔵さんがやってきて、この河童を追い払ったという。このことからこの地蔵を「お助け地蔵」と呼んでお祭りをしていると説明されている。
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 その横に「不動院(大日堂)」がある。ここは文明15年(1483)に高田城主当麻為長が建立したもので、本堂は国指定重要文化財になっている。
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 「明治天皇御小休所跡」碑がある。これは明治10年に明治天皇がこの地を訪れたことを記念して、昭和12年に徳富蘇峰の揮毫により建てられたという。三条実美、木戸孝允、山県有朋、伊藤博文らが随行したという。
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 常光寺公園一帯が「高田城址」である。ここは永享4年(1432)に高田為長が室町幕府6代将軍足利義教の命により築城。天正8年(1580)織田信長の指出検地の命に従わず、天正11年(1583)に滅んだという。
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 その横に「常光寺」があり、境内に文明3年(1471)に常光寺を創建したという天文24年(1555)の「中世高田城主當麻三河守為長」の墓や延宝9年(1681)の「八百屋お志ち」の墓がある。
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 12時12分に長谷本寺のところに戻って街道を歩き始める。
 踏切を渡った先、左手に太神宮と刻まれた明治5年の「高燈籠」がある。この辺りにはこのような「太神宮」と刻まれた燈籠が所々に立っている。
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 左手に「延命地蔵尊」を安置する祠とその横に庚申塔と石燈籠が立っている。資料によると地蔵尊は室町末期の作品で、石製花立には「弘化壬巳9月中旬」と刻まれていると書かれていたが、弘化に壬巳はなく、よくわからなかった。庚申塔は「庚申」と刻まれており、その前にある石燈籠には「弘化三丙午年十月廿四日」と刻まれているとなっており、これは弘化3年(1846)とわかった
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 曲川簡易郵便局が右手にあるところから街道を外れて左折して進むと、貞永元年(1232)に創建され、宝暦7年(1757)に再建されたという「徳應寺」がある。
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 この辺りも歴史を感じさせる旧家が建っている。
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 更にその先で左折して少し行ったところ左手に安閑天皇を祀る「金橋神社」があり、境内に大正4年に建てられた「安閑天皇勾金橋宮跡」の石柱が立っている。安閑天皇は古事記において系譜のみが記され、その事績が記されていない欠史十代の中に入る天皇で、66歳でこの地に即位され、わずか4年で崩御されたと伝えられている。
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 街道に戻って進み、曽我川に架かる豊津橋の西詰左手に「「是ヨリ四丁南 太王社」と刻まれた道標があり、その横に庚申と刻まれた庚申塔、更に石仏が並んで置かれている。
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 橋を渡った右手には「右たつ田 法里  左〇〇〇  」「嘉永元戌申天 曽我里〇 奉供養道中安全〇 十一月吉良日豊津〇 」と刻まれた道標が立ってる。13時24分にここを通る。
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 左手に「光岩院」があり、境内に長曾我部元親のために、その末子が建てたといわれる明和元年(1764)の五輪塔がある。
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 左手に「太神宮」「寛政十年(1798)戊午仲秋建」と刻まれた石燈籠が立っており、その基壇部分には「村中安全」「弘化四未年(1847)六月 桜井 石工 真助」と刻まれている。その横に8体の石仏を安置する祠がある。13時31分にここを通る。
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その先にコンビニがあったので、昼食にする。ここはイートインのスペースがあったので助かった。
 右手に資料によると「聖徳太子御自作 大日如来 佛起山普賢寺」「蘇我入鹿公御旧跡」「文化三丙寅(1806)季九月建立 施主大坂塩町壱丁目細井戸屋伊兵衛」と刻まれた石碑が立っている。この一つ先の角から街道を外れて左折して進んで入鹿神社へ向かったのだが、この石碑があるところから左折して進んでもよかった。
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 「入鹿神社」は祭神は素戔嗚尊と全国で唯一蘇我入鹿を祀っている神社とのことで、もと廃普賢寺の鎮守社。棟は江戸時代初期の建造物で橿原市の指定文化財になっている。
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 その横に正蓮寺の「大日堂(旧普賢寺本堂)」がある。これは文明10年(1478)に建立されたもので、本尊は鎌倉時代の作である大日如来坐像で、大日堂とともに重要文化財に指定されている。
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 更にその奥に進むと「人麿神社」がある。案内版によると祭神は柿本人麿で、本殿の棟木には康永4年(1345)と墨書されており、重要文化財に指定されている。
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 街道に戻って進むと、橋を渡ったすぐ先、左手に「春日神社」があり、安永10年(1781)の石灯籠が立っている。
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 近鉄の踏切を渡った先、右手に明和8年(1771)の「太神宮燈籠」が立っている。
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 更にその先右手に法務局があり、その植え込みの中に「藤原京横大路南側溝跡」の碑がある。それによると法務局舎改築に伴う発掘調査によって、地下2.5mのところに横大路南側溝があったことが分かったという。また東方1.3㎞のところに北側溝跡が発掘されていることから、横大路は30~40mの幅があったという。
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 14時45分に八木の札ノ辻に到着する。ここは横大路と中街道(下ツ道)の交点であり、昔は大いに賑わったところという。道を挟んで手前に西の平田家、道の先が東の平田家でともに旧旅籠だったという。東の平田家は現在「八木札ノ辻交流館」になっている。角に懐かしい形をしたポストが立っている。この形のポストは他の場所でも見かけたので、この地では意識的にこの形のものを残しているように感じた。
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 このすぐ近くに今日の宿があるため、とりあえず荷物を置き、先に進むことにするが、少し戻ったところに今井町があり、翌朝早くにこの地を見学して回ったので、その情報をここに掲載させていただきます。
***** 以下は11月28日朝見学した主な家屋です *****

多くの古民家が現存している今井町の街並みは平成5年に「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されており、東西約600m、南北約310mの地域に約1500棟の建物が建っているが、そのうち約500棟が伝統的建造物という。国の重要文化財が9件、県指定文化財が3件、市指定文化財が5件と多数の文化財が存在している。
 蘓武橋を渡ったところにエノキの大木がある。これは橿原市景観重要樹木第一号に指定されている樹齢420年というエノキだ。ここから見える街並みは江戸時代にタイムスリップしたような感じである。
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「山尾家住宅」の母屋は18世紀後半の建設とみられており、幕府の巡見使一行の宿舎になっており、明治10年の明治天皇郷行幸の際は木戸孝允や三条実美らが宿泊したという。県指定文化財になっている。
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「吉村家住宅」の主屋は文化2年(1802)に低い二階建てに再建されたもので、今井町の一般商家の屋敷構えを知るうえで貴重な存在という。
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 トイレの汲み取り車が稼働している。昔ながらの家並みを残すためには近代的な改築はできないことの影響かな?と勝手に想像する。
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 「音村家住宅」は金物問屋を営んでいて、17世紀後半に主屋、その後主屋の西北部に角屋敷を増築、19世紀中ごろ西側に座敷が追加されたといい、時代の情勢に合わせて逐次増築されているのが特徴という。重要文化財に指定されている。
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 「中橋家住宅」は江戸時代は米屋を営んでいた。主屋は18世紀後半ごろに建てられた平屋建ての町屋だったが、19世紀初頭に平面通りに「厨子(つし)」二階が増築されたという。重要文化財に指定されている。
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 「称念寺」があるが、江戸時代初期に再建されたという本堂は丁度改築工事中で見ることができなかった。門前に「明治天皇今井行在所」碑が立っている。今井町はこの称念寺の境内地として発達をした寺内町ということだ。
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 「豊田家住宅」は寛文2年(1662)に建設されたもので、幕末は大名貸しを行い、藩の蔵元等を務めていた豪商だったという。重要文化財に指定されている。
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 「今西家住宅」は慶安3年(1650)に再建された民家だが、城郭のような構造で、別名「八つ棟造り」と呼ばれている豪壮な建物で、今井町の惣年寄の筆頭を務めていたという。重要文化財に指定されている。
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 上記以外にも数多くの歴史を感じさせる街並みが続いていた。
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 ホテルに荷物を置いて14時55分に出発し、一本道を進んでいく。この辺りも旧い格子の家が建ち並んでいる。
 その先で街道から外れて左折し、耳成山口神社へ向かう。奈良盆地の南部に位置する耳成山(139.7m)は香具山、畝傍山とともに大和三山と呼ばれ、藤原宮造営にあたっては、この三山が位置する立地が重要な条件だったといい、それぞれの山中や麓に神社が祀られている。耳成山口神社もその一つだ。登山道の入り口に「大元帥陛下駐輦處」碑が立っている。
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 参道に沿って石灯籠がならんでおり、八合目に「耳成山口神社」があった。祭神は大山祇神。拝殿に嘉永7年(1854)の算額がかかっている。
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 街道に戻って進むと、四つ角左手に地蔵が立っている。資料によるとこの前方にある小型水舟には「大正元年十月廿四日」「醍醐元掛屋 森村庄左衛門」と刻まれている。この場所は横大路と八釣街道の交点になっている。
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 右手にはこれも資料によると「元祖法然大師霊場第十番 すぐかぐ山法禰ん寺道是より十三丁」「おか寺たちばな寺よしの」「法然寺廿四世進誉代」「天保十四卯年(1844)十二月建之」「大坂 西口 上 石勘」と刻まれた法然寺道標が立っている。
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 そのすぐ先で道は二股に分かれており、その分岐点に弘法大師を安置する祠がある。
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 ここを左へ進んで行くと、左手に「三輪神社」があるが、その角に地蔵堂があり、その横に「愛宕社」「安永七亥年(1778)」と刻まれた石燈籠が立っている。
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 また堂の裏の溝の中に「礎石」がある。これは藤原京内の寺院の物を持ち出したか、面堂の遺構なのかわかっていないと説明されている。
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 左手に「三輪神社」があるが、ここは横大路と中ツ道の交点にあたるところで、祭神は大物主櫛甕玉命、境内には貞享3年(1686)や安政5年(1858)の石灯籠が立っており、また欅の巨木が立っている。15時47分にここを通る。
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 右手に大正11年と刻まれた太神宮の常夜燈が立っている。
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 左手に「医王寺」があり、境内に石造十三重石塔が立っている。ここは集会所になっているようだ。
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 左手に「医王堂八幡神社」があり、境内には寛政と読むことができる庚申塔が立っていた。
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 寺川に架かる小西橋を渡った右手に地蔵尊を祀る祠がある。奈良県歴史の道調査報告書によると、古代はこの小西橋までを横大路としていたようだが、今回は慈恩寺の交差点までを横大路として歩くことにする。16時26分にここを通る。
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 右手に「来迎寺」がある。永正10年(1513)に草創されたお寺で、天誅組事件の際、津藩の詰め所(本陣)になったところという。境内の池の中に「春の夜は桜にあけてしまひけり」という芭蕉の句碑が立っている。
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 右手に少し入ったところに「正覚寺」がある。四脚門の山門は天保9年(1838)に建立されたという。門に張り紙がしてあり、「今年の3月彼岸会中に墓地内の柿の木、枝を無断で切った人がいます。自ら警察へ名のり出て下さい。8月20日までに名のり出なかったときは8月21日より山門を閉門します」(原文のまま)と書かれている。門は閉じられており、その前に切られた枝が置かれていた。
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 右手に「山本五平薬局」があり、武田薬品工業特約店と書かれた古い看板が掛けられている。
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 右手に少し上ったところに題目石と石仏、その横に小さな石仏が2体立っている。
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 周囲は暗くなってきており、先を急ぐが、慈恩寺の場所がよくわかない。最初少し行き過ぎてしまい、気が付いて少し戻って、右手橋を渡って進むと報恩寺北の道標が立っていた。かなり暗くなってきており、字がよく読めない。資料によると「すぐ光尼御廟」「左 はせ いせ」「右 たふねみね よしの 大みね かうや」「すぐ大坂 さくらい」と刻まれているようだ。
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 このすぐ上に「報恩寺」がある。ここの本尊は木造阿弥陀如来坐像で県指定文化財になっている。
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 初瀬街道と宇陀郡へ通じる女寄峠への分岐点である宇陀ケ辻には大きな碑と道標が立っている。すでに暗くなっていて文字を読むことができないが、資料によると碑は栗原山割譲碑で明治36年に栗原山の割譲が円満解決したことを記念したものという。道標は「舒明天皇御陵道 従是南へ八丁」「明治廿七年五月 材童手代新井半二書 西横堀石商石田幸助」「片岡我童 仝東吉建立」と刻まれている。
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 17時15分に慈恩寺北に到着する。これで横大路を歩き終わる。周囲はもう真っ暗だ。横大路は平坦な道だったので、術後の膝への負担が少なく、無事歩き終えることができてホッとした。



本日の歩行時間   6時間55分。
本日の歩数&距離 34889歩&24km。
本日の純距離    15.8km(この距離は途中道を間違えず、また寄り道をしない、街道のみの距離)


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記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん