西近江路を歩く

2017年10月26日(木) ~2017年10月28日(土)
総歩数:114404歩 総距離:74.5km

2017年10月28日(土)

小松~海津

                              雨

 7時30分に出発する。今日は二週連続の台風襲来の影響で終日雨だった。それ程強くない雨だったのでまだよかったが、やはり雨の中を歩くのはいやだ。

 右手に小松宿の本陣だった池田家がある。ご近所の方にお聞きしてみたが、集落には池田という家が二軒あるということだったし、その方はこの家が本陣だったということはご存知なかったが、資料から見ておそらくこの家だろうと推測する。
池田家
 その先で161号線に合流して進むと、左手に「岩除地蔵尊」がある。本尊は地蔵菩薩立像で、その隣に地蔵石室や阿弥陀三尊の供養碑がある。供養碑は享保2年(1717)と刻まれていると資料に記載されている。
 この場所は左手は崖、右手は琵琶湖に挟まれた難所だったので、落石防止をお願いするお地蔵さんだったのだろう。
岩除地蔵尊
 161号線は車の通行量が多く、雨が降っているので、それらが盛大に水しぶきを巻き上げて走っていく。
 ただ一部の区間だったが、落石除けの洞門になっている場所があって、ここだけは雨に濡れることもなく、また車の水しぶきも飛んでこないので助かった。
洞門
 その先で旧道は161号線から右へ分岐する。信号がない場所なのでどうしようかと思っていると、幸い車の流れが途切れたので、走って161号線を横断して旧道に入る。旧道は車もほとんど走っていなくて歩きやすい。資料によるとこの旧道の辺りに一里塚があったようだが、遺構は全く残っていない。
 再び161号線に合流した先、右手に「白髭神社御旅所」がある。
白髭神社御旅所1
 その先で左手に旧道が残っているので、これを進むと、「白髭神社」に着く。ここは垂仁天皇の時代に創建されたといわれており、現在の本殿は慶長8年(1603)に造営されており、重要文化財に指定されている。全国に分布する白髭社の総社とされている。境内には「海上安全心願成就」「永代常夜燈」と刻まれた天保4年(1833)の大きな常夜燈や、「白髭大明神」と刻まれた享保11年(1726)や安政5年(1858)寛延4年(1751)等の常夜燈が立っている。
白髭神社1白髭神社2

 琵琶湖を見ると朱色の大鳥居が立っている。
朱色の大鳥居
 神社の先から旧道が伸びているようなので、ここを進んでみようかと思っていると、神社の方が「この先は歩くことができないので、国道を歩きなさい」と言われた。今日は雨も降っていることなので、161号線を進むことにする。
 その先で旧道は161号線から左へ分岐している。この分岐点に最近のものと思われる「いにしえの街道 西近江路」と刻まれた道標が立っている。
いにしえの街道
 旧道を進んでいくと左手に「鵜川四十八体石仏」がある。これは天文22年(1553)近江国守護佐々木六角義賢が亡き母の呉服御前の菩提を弔うために弥蛇の四十八願にちなんで、定印を結んだ阿弥陀如来座像を建立したという。現在は33体の石仏がここにあるという。
 8時51分にここを通る。
鵜川四十八体石仏
 16号線に合流して進み、その先で左斜めに分岐する道が旧道なので、これを進むと、「日吉神社」がある。ここの創建は不明だが、慶長8年(1603)に豊臣秀吉の命によって修補されたという。
日吉神社
 左手に「最勝寺」がある。門前に「蓮如上人御逗留の地」と刻まれた碑が立っている。
最勝寺
 右手に「浜石垣」がある。高波や湖面水位の上昇による湖水の浸水を防止するために建設された石垣は、文化2年(1805)に石工庄次郎外二人が日吉神社御旅所浜石垣三十間余を請け負ったことがあり、それ以前に御旅所浜以外の石垣も建設されていたという。
浜石垣1浜石垣2

  右手に「山王大権現常夜燈」が立っており、道を挟んで反対側に日吉神社の御旅所があり、「郷社 日吉神社御旅所」という石柱が立っている。
山王大権現常夜燈郷社 日吉神社御旅所

 左手に乙女が池があって、琵琶湖とつながっているところを通り、その先で右折、更に左折といかにも城下町らしく桝形になっている道を進むと、右手に滋賀銀行高島支店がある。街道はここから右折して進むのだが、そのまま直進するとすぐ先左手に「総門」がある。これは元和5年(1619)に入封した分部光信が設けたもので、宝暦5年(1655)に大修理をして現在に至っていると説明されている。
 ここで総門の場所がよくわからずに立ち止まって地図を見ていると、近所のおばさんが声をかけてくれて、親切に場所を教えてくれたので助かった。
総門
 街道に戻って進むが、この辺りは旧家が立ち並んでいて、とてもいい雰囲気の通りだ。右手に萩の露という名前の酒造店があったので、ここの方とお話をさせてもらった。ここは「福井弥平家」と言って福井宗家から分家して酒造業を営んでおり、寛延年間 (1748~5119)の創業という。
福井弥平家
 ここで福井家の宗家である「福井三四郎家」がどの家かお聞きすると、ここから少し手前の歩いてきた道順で行くと左手にある「びれっじ2号館」と書かれたところが福井三四郎家で、ここは町年寄を世襲する町の有力者でもあったという。現存する高島町内の町屋としては最も古い家の一つだという。
福井三四郎家
福井弥平家の奥さんと思しき方から色々と教えていただいたのでお礼を言ったところ、もう外に聞きたいことはありませんか?と言っていただいた。先ほど総門の場所をわざわざ教えに来ていただいた方といい、この奥さんといい、とても親切に教えていただいてありがたかった。
 右手に「京大津道」「北国街道」と刻まれた明治21年の道標が立っている。
北国街道
 その先でも道は桝形になっていて、これを進み、和田打川を渡った左手に「大乗妙典六十六部日本廻国」と刻まれた文政5年(1822)の供養碑が立っている。9時51分にここを通る。
文政5年(1822)の供養碑
 鴨川に架かる鴨川橋の右手に「藤樹道」「藤樹神社参拝道 右 十町 藤樹書院 右 八町」と刻まれた昭和12年の道標が立っている。藤樹神社は中江藤樹を祀る神社として大正11年に建立されたという。
鴨川橋の右手
 558号線を進んでいき、安曇川に架かる安曇川大橋を渡って左折、すぐ先で道は二股に分かれているので、ここを左へ堤防の道を進むと、湖西線の高架下を通るのだが、その先で道は藪に覆われている。藪に覆われている距離はそれほど長くないようなので、何とか突破できないかと思って進んでみたが、藪は雨に濡れており、たちまち全身びっしょり濡れてしまった。この雨の中ではさすがに強行突破は無理だと悟って、さてどうしようかと思った。今きた道を戻って558号線を進めばいいのだが、せっかくここまで歩いてきて(といってもたいした距離ではないのだが)後もどりするのはいやだ。道の横をみると水路があり、水はあまり流れていないので、ここに飛び降りてその先で558号線に合流することにした。
 558号線を進んでいくと、左手に先ほどの旧道から伸びている道と合流した。藪が繁っている前後はしっかりとした道になっているようだ。ここから558号線から右折して進むと、左手に「河原市一里塚跡」がある。高島市内には7か所の一里塚があったそうだが、塚跡が特定できるのはここだけと説明されている。
河原市一里塚
 左手、街道から少しはずれたところに「妙敬寺」がある。ここは文亀元年(1501)に佐々木氏族の中西直宣が創建したといい、宝塔は佐々木越中守高信の塚と伝えられているという。
妙敬寺
 安井川の信号の左手角に「馬方又左衛門宅址」碑が立っている。この人は中西又左衛門と称して、寛永年間にこの地で馬子をしていた。加賀の飛脚が大金を持って京へ急ぐ途中、この宿から馬を雇って榎の宿まで行ったのだが、馬子が家に帰ってみると馬の鞍に大金が入っていたので、榎の宿まで駆けつけてこのお金を返却した。飛脚は喜んで、お礼にとお金を差し出したが、藤樹から教えを受けていた馬子は忘れ物を届けるのは当然のことといって受け取らない。結局ここまで届けた労賃だけをもらうことにしたという。たまたま同じ宿に泊まっていた熊沢蕃山がこのことを聞いて、馬子の師である中江藤樹の門をたたいたという。
馬方又左衛門宅址
 右手に「鎮祭」と刻まれた碑がある。資料ではこれは安養寺の大火の火止めの場所となっている。辞書で引いてみると「鎮祭とは神道で水神・土公神その他を鎮める葬儀という」となっている。
鎮祭
 すぐ先右手に「安養寺子安地蔵堂」がある。ここは寛正2年(1790)地蔵山に堂宇を新設したが、山中のため管理が行き届かず、そのため安政元年(1854)に現在地へ移設したという。安産のお地蔵さんとして名高いという。
11時35分にここを通る。
安養寺子安地蔵堂
 その先でコンビニがあったので、昼食にする。
 その先で558号線から右折、すぐ先で左折して進むと、小橋を渡った右手に「左 北国海道」「右 京大津道」と刻まれた道標が立っている。説明文では江戸時代に建てられたとされている。
左 北国海道
 ここから左折して558号線に合流して進むと、左手に「永正寺」がある。ここは文明3年(1471)に開基されたもので、享保10年(1725)に本堂が再建され、現在の本堂は天保2年(1831)に改築されたものという。
永正寺
左手に「大国主神社」がある。ここは勧請年代等については不詳だが、天授6年(1380)に田井から遷座されたという。入り口に天保2年(1845)の常夜燈が立っている。
大国主神社
 左手に「法泉寺」がある。慶長2年(1597)に草堂が創建されたことに始まるという。門前に「蓮如上人御旧蹟」「吉武壱岐守墓所」と刻まれた石碑が立っている。
法泉寺
 右手に「岡の玉水」がある。西近江路を通行する人の飲み水で「孝行の泉」とも言われているという。
岡の玉水
 右手に「木津一里塚跡」がある。草地になっているが、高島市内にある七か所の一里塚のうちの一つと書かれた説明板が立っている。川原市一里塚のところには高島市内で一里塚を特定できるものはここだけだと説明されていたが、ここも一里塚跡と特定されているいるようだ。
木津一里塚跡
 左手に「左 京道」「右 北国道」「左 大津長命寺」と刻まれた江戸時代のものと説明されている道標が立っている。
左 京道
 横に「波爾布神社御旅所地」と刻まれた石碑が立っている。
波爾布神社御旅所地
 ここから右折して琵琶湖湖畔へ向かい、333号線に合流、ここから左折して湖岸に沿って進む。
 右手に「西國第三十番 近江国宝厳寺 竹生島遥拝所跡」碑が立っている。
西國第三十番
 右手に鳥居が立っていて、岩が二つ置かれている。琵琶湖沖合100mの湖中に岩が二つあり、「二つ石」と呼ばれるが、渇水の時でないと現れないという。このことから沖の「二つ石」にかわって、浜辺に岩が置かれて二ツ石大明神として祀られているという。
二ツ石大明神
 その先で333号線から右へ分岐して湖岸を進んでいく。
 左手に「日枝神社」「大水別神社」がある。この二つの神社は相殿となっていて、本殿は一社のみである。
13時15分にここを通る。
日枝神社
 左手に西福寺があり、その右手境内の外に2体の地蔵尊を祀る地蔵堂と1体の地蔵尊を祀る地蔵堂が並んでいる。
西福寺
 右手に「丁子屋」がある。ここは江戸時代後期の建築で、旅籠や置屋の営業も行っていたという。
丁子屋
 左手に「泉慶寺」がある。ここは文明5年(1473)に創建されたといわれており、蓮如上人との関係が深いとされている。境内に「お初の身代わり地蔵」があるが、これは蓮如上人が今津に立ち寄った際、賞金に目がくらんだ宿主が蓮如上人を殺そうとたくらんだが、宿主の娘がこのたくらみに気づいて蓮如上人を逃がし、自らその身代わりになって殺されたという。この娘を悼んでこの地蔵が建立されたという。
泉慶寺
 左手に「住吉神社」がある。ここは弘安元年(1278)に勧請されたという今津村の氏神だ。社殿は宝永4年(1707)に再建されたという。
13時31分にここを通る。
住吉神社
 住吉神社から湖岸に出ると、石垣が浜沿いに残っている。これは宝永7年(1710)に金沢藩が巡検使の巡国に備えて築いたものと言われている。近代まで防波堤の役目をしていたという。
石垣
 西近江路は住吉神社のところから左へ折れるが、この場所が今津と小浜を結ぶ九里半街道の起点にもなっている。小浜で陸揚げされた日本海諸国の産物がこの道を使って今津に運ばれ、湖上輸送によって京・大阪へ運ばれたという。ここに看板が立っている。
看板
 右手に「法慶寺」があり、その道を挟んだところに「右 わかさ」「左 京」と刻まれた道標が立っている。丁度女性の方が立っておられて、これを教えていただいた。
法慶寺
 右手に「今津ヴォーリス資料館」がある。ここは旧百三十三銀行の今津支店だったところだ。大正11年に建築されている。
今津ヴォーリス資料館
 右手に「旧今津郵便局」がある。ここもヴォーリスが設計したもので、昭和11年に建築されている。
旧今津郵便局
 辻川通りを進んでいき、坂を登ったところで九里半街道と分岐して右へ進むと、左手に「天満宮永代常夜燈」と刻まれた明和3年(1766)の常夜燈が立っている。
天満宮永代常夜燈
 左手に「阿志都弥神社行過天満宮」がある。ここは菅原道真が越中の国守として任地に赴任する際、湖西地域に滞在していた右大臣藤原時平に会おうとして村人にその所在を尋ねたところ、すでに通り越していたことからこの名前が付いたという。
阿志都弥神社
 入り口にスタジイの巨木が立っているが、これは樹齢1000年以上と伝承されており、県内最大の巨木と説明されている。
スタジイの巨木
 左手に「明厳寺」がある。本堂、二階を有する門と鐘楼がひと続きになった建物が建っており、天長7年(830)慈覚大師開基と刻まれた石碑が立ってる。
明厳寺
 左手に「日吉神社」がある。ここの勧請年代は不詳とのことだが、境内には「金比羅大観現」と刻まれた天保2年(1831)の常夜燈や「伊勢両皇太神宮」と刻まれた天保10年(1839)の常夜燈、「御神燈」と刻まれた天保6年(1835)の常夜燈などがある。
 14時46分にここを通る。
金比羅大観現
 その先、335号線から左へ分岐して集落の中を通る旧道が残っており、ここを通って進む。
 右手に「長法寺」がある。寺伝によると承応元年(1652)に田屋氏の邸跡に長法寺本堂を建てたと伝えられていることから、戦国時代高島郡で活躍した海津衆田屋氏の居館跡がこの長法寺あたりであったという説があるという。
長法寺
 その先の二股を右へ進み、更にその先の二股も右へ進んでいき、161号線に合流する。西浜の信号の手前で161号線から左へ分岐する草道があるので、これを進むと、左手に「立浪彦右衛門碑」が立っている。
立浪彦右衛門碑1立浪彦右衛門2

 西浜の信号で161号線を横断して進み、その先で左折して進んでいくと、左手に「蓮光寺」がある。ここの境内に台風による琵琶湖からの風波の被害を解消するため、大規模な石垣の築造工事を元禄16年(1703)に行った代官西与市左衛門の顕彰碑が立っている。
蓮光寺
右手にその「海津浜の石積み」がある。
海津浜の石積み
 その先、突き当りを左折して進むと、右手に「願慶寺」がある。ここは正応3年(1290)に創建され、加賀前田藩の海津宿の定宿にされたところという。境内には木曽義仲の側室山吹御前にゆかりの老紅梅がある。梵鐘はマキノ町最古のもので寛永12年(1635)に作られたものという。
願慶寺
 17時1分に海津交差点に着き、西近江路を歩き終わる。今日の宿はグランドパークホテルなので、ここからホテルまでタクシーで戻る。

 本日の歩行時間   9時間31分。
 本日の歩数&距離  53758歩、34.2km。
 本日の純距離     33.4km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
 
 西近江路総合計
 総歩行時間    21時間17分。
 総歩数&総距離 114404歩、74.5km。
 総純距離      68.4km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん