2017年10月26日(木)
日野~土山
晴れ
昨日の常夜燈のところから出発するが、ここに「正覚寺」があり、境内に応安3年(1370)の「名号板碑」がある。これは西願という人物の三十三回忌の追善供養のため建立されたもので、町の指定文化財になっている。
8時丁度に出発する。田んぼの中の道を進んでいくが、この辺りにも標識が立っているので、それに従って歩く。
307号線を横断して進み、突き当りを左折、更にその先で右折して進むと、右手に八坂神社がある。ここから街道を外れて左折して進むと「既往寺」があって、その門前に「木津薬師堂」があり、町指定文化財になっている康暦元年(1379)の宝篋印塔が立っている。
街道に戻って進むと、右手に「雨引神社」の鳥居が立っている。
その先で道は二股になっており、道を間違えて右へ日野川を渡ってしまったのだが、すぐに間違いに気が付いて戻り、左手の草道を進む。
左手に「地蔵堂」があり、その前に「右 長徳寺百くわん音へ一丁 ひのかち道」「左 たが北国道」と刻まれた文化4年(1807)の道標が立っている。
8時40分にここを通る。
その先で「旧道は通行不可につきう回路を経て鎌掛宿に至る」という標識が立っているので、これに従って日野川を渡って進むことにする。
舗装された道を進んでいくと、左手に上半身がない地蔵尊を祀る地蔵堂があり、ここから左折して進む。
青木原橋を渡ってすぐに右折して進むと、左手少し離れたところに地蔵堂がある。資料によると、これが「坂の地蔵堂」と呼ばれるものなのかもしれないと思ったが、よくわからなかった。
北砂川に架かる須原橋を渡って進むと、鎌掛の集落に入っていく。T字路があり、その右手に「右 たが北国道」と刻まれた道標が立っている。
ここを左へ進むと「地蔵堂」があり、その前に「右 いせみ」まで読むことができ、その下は埋まってしまっている道標がある。
鎌掛宿にはかって複数の旅籠が存在したが、現在では継続して営業をしている家はないそうだ。
右手に「誓敬寺」がある。ここは室町時代に西願が道場を開いたのが始まりという。梵鐘に「鐘涼しとはに佛心よにがへり 荷亭」」という第十六代住職山上證宣師の俳句が刻まれている。
9時25分にここを通る。
左手に「右 土山町ニ至ル 」「左 村役場 石楠花谷 道」と刻まれた昭和12年の道標が立っている。ここはかっての高札場だったところという。
鎌掛四区会議所前に旧河原口橋石製欄干支柱があり、「加ハらくちばし」と刻まれている。
河原口橋を渡った先、右手に「赤坂地蔵」がある。この地蔵尊は笹尾峠に近い赤坂と呼ぶ山坂を登ったところに、旅人たちの往来安全を祈って明治3年に建立されたもので、平成8年にこの地に移されたという。
道は舗装されているが、少しずつ登り坂になっていく。
左手に「奉献 八坂神社 日吉神社」と刻まれた石碑と、その横に「右 前野」「左 土山」と刻まれた昭和3年に建立された石碑が並んで立っている。
その先で道は二股に分かれており、ここにも標識が立っているので、それに従って左へ進む。道は完全な山道になる。いよいよ笹尾峠を登るのだ。
9時55分にここを通る。
山道は人があまり歩いていないようで、倒木が道をふさいでいたりしてかなり荒れているが、一本道なので迷うことはない。笹尾という名前の通り、クマザサが密生している。
道はかなりの急坂になる。 その先で道が二股に分かれているところがあり、ここには標識が立っていない。これまで道が分岐するところにはほとんどといっていいように標識が立っていたので、ここは迷った。I君と相談の上、ここは左へ進むことにした。道を間違えて引き返すことは本当に嫌なことなので、間違っていないように祈りながら先へ進む。
やがて笹尾峠の頂上に着く。道は間違っていなかったのだとホッとする。10時39分に着く。
ここから道は下っているが、ここも一本道なので迷うことはない。
10時45分に山を抜けて舗装された道に出る。十字路があり、標識はその十字路を少し通り過ぎたところの右手に立っていたので、十字路を直進するのか、右折するのか迷って、とりあえず直進してみたが、違うようだったので、右折して下っていく。
この辺りは宅地として開発されたようだが、かなりの場所で住宅が建っておらず、草木が繁っていた。
下っていると目の前を猿が4匹歩いている。我々のほうを見ても逃げようとせず、悠然としている。そしていずれも丸々と肥えている。食料が豊富なのだろう。
右手に句碑が立っている。資料によるとこれは虚白の句碑で「涼しさの處得たればはや不足」と刻まれているようだ。
このすぐ先で十字路になる。街道はそのまま直進するのだが、柵があって「獣害防止柵を設置しています。出入りの後は必ず扉を閉めてください」という札が掲げられているので、それに従って柵を開け、通った後、再び閉めて先へ進む。
11時17分にここを通る。
5分ほど歩くと再び柵があるので、これを同じように開け閉めして柵を出て左折して進むが、ここに御代参街道の説明板が立っている。
その先、野洲川に架かる御代参橋の西詰に歌碑が立っている。資料によると「春寒にまた若草はもえねともおほろに見ゆる月の輪乃芝」と刻まれているようだが読み取ることはできない。
御代参橋を渡るとすぐに右へ進み、その先で道は二股に分かれているので、ここは左へ進み、再び山の中へ道は入っていく。ここにも標識が立っているので、間違うことはない。
山を抜けると正面に製薬会社がある。ここに「右 青土 平子 音羽ノ 大師道」「左 鎌掛 日野 多賀」と刻まれた道標が立っている。
トラバースロードの手前左手に4体の石仏がある。
その先、右手に「見性庵廃寺跡」と刻まれた石碑が立っている。見性庵は北土山にある永雲寺の末寺だったが、明治初年に廃寺になったという。甲賀六地蔵の一つとされた本尊の地蔵尊は永雲寺に移されたという。
そのすぐ先で東海道と合流する。ここに文化4年(1807)の「右 北国たが街道 ひの八まんみち」の道標と天明8年(1778)の「たかのよつぎかんおんみち」「瑞石山永源寺」「高野世継観音道」と刻まれた道標が立っている。
11時55分に到着する。
I君が歩いた証拠として友人に見せたいので、「勇姿」を撮ってくれということだったので、ここで写真を撮る。
ここから貴生川駅まで「あいくるバス」というコミュニティバスで移動するのだが、一時間に一本しかない。バス停の名前は「土山西口」でこの時間帯のバスは11時34分の次は12時44分までない。タクシーを呼ぼうと思ったが、ここまでくるのに30分ほどかかるといわれたため、バスを待つことにする。アクセスはあまり良くない場所だ。
本日の歩行時間 3時間55分。
本日の歩数&距離 17108歩、13.1㎞。
本日の純距離 12.5㎞(道を間違えず、寄り道をしない、街道の純距離)
御代参街道総合計
総歩行時間 10時間23分。
総歩数 47780歩。
総歩行距離 35.6km。
純距離 33.2km。
昨日の常夜燈のところから出発するが、ここに「正覚寺」があり、境内に応安3年(1370)の「名号板碑」がある。これは西願という人物の三十三回忌の追善供養のため建立されたもので、町の指定文化財になっている。
8時丁度に出発する。田んぼの中の道を進んでいくが、この辺りにも標識が立っているので、それに従って歩く。
307号線を横断して進み、突き当りを左折、更にその先で右折して進むと、右手に八坂神社がある。ここから街道を外れて左折して進むと「既往寺」があって、その門前に「木津薬師堂」があり、町指定文化財になっている康暦元年(1379)の宝篋印塔が立っている。
街道に戻って進むと、右手に「雨引神社」の鳥居が立っている。
その先で道は二股になっており、道を間違えて右へ日野川を渡ってしまったのだが、すぐに間違いに気が付いて戻り、左手の草道を進む。
左手に「地蔵堂」があり、その前に「右 長徳寺百くわん音へ一丁 ひのかち道」「左 たが北国道」と刻まれた文化4年(1807)の道標が立っている。
8時40分にここを通る。
その先で「旧道は通行不可につきう回路を経て鎌掛宿に至る」という標識が立っているので、これに従って日野川を渡って進むことにする。
舗装された道を進んでいくと、左手に上半身がない地蔵尊を祀る地蔵堂があり、ここから左折して進む。
青木原橋を渡ってすぐに右折して進むと、左手少し離れたところに地蔵堂がある。資料によると、これが「坂の地蔵堂」と呼ばれるものなのかもしれないと思ったが、よくわからなかった。
北砂川に架かる須原橋を渡って進むと、鎌掛の集落に入っていく。T字路があり、その右手に「右 たが北国道」と刻まれた道標が立っている。
ここを左へ進むと「地蔵堂」があり、その前に「右 いせみ」まで読むことができ、その下は埋まってしまっている道標がある。
鎌掛宿にはかって複数の旅籠が存在したが、現在では継続して営業をしている家はないそうだ。
右手に「誓敬寺」がある。ここは室町時代に西願が道場を開いたのが始まりという。梵鐘に「鐘涼しとはに佛心よにがへり 荷亭」」という第十六代住職山上證宣師の俳句が刻まれている。
9時25分にここを通る。
左手に「右 土山町ニ至ル 」「左 村役場 石楠花谷 道」と刻まれた昭和12年の道標が立っている。ここはかっての高札場だったところという。
鎌掛四区会議所前に旧河原口橋石製欄干支柱があり、「加ハらくちばし」と刻まれている。
河原口橋を渡った先、右手に「赤坂地蔵」がある。この地蔵尊は笹尾峠に近い赤坂と呼ぶ山坂を登ったところに、旅人たちの往来安全を祈って明治3年に建立されたもので、平成8年にこの地に移されたという。
道は舗装されているが、少しずつ登り坂になっていく。
左手に「奉献 八坂神社 日吉神社」と刻まれた石碑と、その横に「右 前野」「左 土山」と刻まれた昭和3年に建立された石碑が並んで立っている。
その先で道は二股に分かれており、ここにも標識が立っているので、それに従って左へ進む。道は完全な山道になる。いよいよ笹尾峠を登るのだ。
9時55分にここを通る。
山道は人があまり歩いていないようで、倒木が道をふさいでいたりしてかなり荒れているが、一本道なので迷うことはない。笹尾という名前の通り、クマザサが密生している。
道はかなりの急坂になる。 その先で道が二股に分かれているところがあり、ここには標識が立っていない。これまで道が分岐するところにはほとんどといっていいように標識が立っていたので、ここは迷った。I君と相談の上、ここは左へ進むことにした。道を間違えて引き返すことは本当に嫌なことなので、間違っていないように祈りながら先へ進む。
やがて笹尾峠の頂上に着く。道は間違っていなかったのだとホッとする。10時39分に着く。
ここから道は下っているが、ここも一本道なので迷うことはない。
10時45分に山を抜けて舗装された道に出る。十字路があり、標識はその十字路を少し通り過ぎたところの右手に立っていたので、十字路を直進するのか、右折するのか迷って、とりあえず直進してみたが、違うようだったので、右折して下っていく。
この辺りは宅地として開発されたようだが、かなりの場所で住宅が建っておらず、草木が繁っていた。
下っていると目の前を猿が4匹歩いている。我々のほうを見ても逃げようとせず、悠然としている。そしていずれも丸々と肥えている。食料が豊富なのだろう。
右手に句碑が立っている。資料によるとこれは虚白の句碑で「涼しさの處得たればはや不足」と刻まれているようだ。
このすぐ先で十字路になる。街道はそのまま直進するのだが、柵があって「獣害防止柵を設置しています。出入りの後は必ず扉を閉めてください」という札が掲げられているので、それに従って柵を開け、通った後、再び閉めて先へ進む。
11時17分にここを通る。
5分ほど歩くと再び柵があるので、これを同じように開け閉めして柵を出て左折して進むが、ここに御代参街道の説明板が立っている。
その先、野洲川に架かる御代参橋の西詰に歌碑が立っている。資料によると「春寒にまた若草はもえねともおほろに見ゆる月の輪乃芝」と刻まれているようだが読み取ることはできない。
御代参橋を渡るとすぐに右へ進み、その先で道は二股に分かれているので、ここは左へ進み、再び山の中へ道は入っていく。ここにも標識が立っているので、間違うことはない。
山を抜けると正面に製薬会社がある。ここに「右 青土 平子 音羽ノ 大師道」「左 鎌掛 日野 多賀」と刻まれた道標が立っている。
トラバースロードの手前左手に4体の石仏がある。
その先、右手に「見性庵廃寺跡」と刻まれた石碑が立っている。見性庵は北土山にある永雲寺の末寺だったが、明治初年に廃寺になったという。甲賀六地蔵の一つとされた本尊の地蔵尊は永雲寺に移されたという。
そのすぐ先で東海道と合流する。ここに文化4年(1807)の「右 北国たが街道 ひの八まんみち」の道標と天明8年(1778)の「たかのよつぎかんおんみち」「瑞石山永源寺」「高野世継観音道」と刻まれた道標が立っている。
11時55分に到着する。
I君が歩いた証拠として友人に見せたいので、「勇姿」を撮ってくれということだったので、ここで写真を撮る。
ここから貴生川駅まで「あいくるバス」というコミュニティバスで移動するのだが、一時間に一本しかない。バス停の名前は「土山西口」でこの時間帯のバスは11時34分の次は12時44分までない。タクシーを呼ぼうと思ったが、ここまでくるのに30分ほどかかるといわれたため、バスを待つことにする。アクセスはあまり良くない場所だ。
本日の歩行時間 3時間55分。
本日の歩数&距離 17108歩、13.1㎞。
本日の純距離 12.5㎞(道を間違えず、寄り道をしない、街道の純距離)
御代参街道総合計
総歩行時間 10時間23分。
総歩数 47780歩。
総歩行距離 35.6km。
純距離 33.2km。