2017年10月25日(水)
五箇荘~日野
晴れ
御代参街道は東海道土山宿と中山道の小幡を結ぶ脇街道で、春日局が寛永17年(1640)に伊勢神宮から多賀神社へ参詣した際に整備された道と言われている。江戸中期頃には京の公卿たちの間で年に3回(正月・五月・九月)伊勢神宮と多賀神社へ代参の名代を派遣する習慣があり、その際にこの道が利用されたことから「御代参街道」の呼称が生まれたという。また、皇族の御代参だけではなく、庶民の参宮にも利用されたという。
今回も金沢のI君と一緒に歩くことにする。I君は最近街道歩きに目覚めており、現在北陸道を高岡まで歩いているとのこと。次の目標は四国遍路を考えているそうで、同好の士が増えることは私にとっても楽しみなことでもある。
当初の予定では東海道土山宿から歩くことを考えていたが、昨日かなりの雨が降ったことから、笹尾峠を越えるには雨の後少しでも時間を空けたほうが歩きやすいだろうと思って、中山道の五箇荘から歩くことにした。
なお、資料は「滋賀県歴史の道調査報告書」を参考にした。
五箇荘駅でI君と合流して歩き始める。
中山道との分岐点に「右 京みち」「左 いせひの八日市みち」と刻まれた享保3年(1718)の道標が立っている。
この場所は中山道を歩いた際、通ったはずなのだが、全く記憶に残っていない。当時はまだ街道歩きを始めたばかりで、周囲に目を配る余裕も、感覚もなく、ただひたすら歩き続ける毎日だったので、記憶がなくても当然かもしれないが。
ここから道は二股になっており、左へ行くと五箇荘駅に行くので、右手の道を進む。
ここを10時47分に出発する。
左手に「細道地蔵尊」と刻まれた碑が建つ地蔵堂がある。細い道に立っているから細道地蔵と呼ぶのかな?
新幹線の高架下を通って進んでいくと、その先、左手に「弘法大師」の像が立っており、屋根の修理が行われていた。この時は気が付かなかったのだが、その後歩いていくほどに、特にこの後に歩いた西近江路で先週の台風21号が相当の被害をこの地にもたらしたことが分かったので、この屋根もその被害に遭ったのかなと思う。
近江鉄道の踏切を渡って進むと、左手に墓地がある。仁良田墓地と呼ばれるこの墓地は、全て木でできた墓標ばかりが立っており、倒れたままになっている墓標もかなりの数ある。花が手向けられている墓標も多いので、お参りに来られる人もそれなりに多いのだろう。このように木の墓標ばかりの墓地はあまり見かけない風景なので、何か理由があるのかなと思って市役所に問い合わせをしてみたのだが、よくわからないということだった。資料によると近隣の六集落が共同で利用していると書かれていた。
この辺りには榎の大木が数本立っている。
「奥村神社」がある。樹木に囲まれたこの神社は近郷に聞こえた古社だったといい、平清盛が近畿諸国を巡見された折、特に崇敬され、供田と社領を寄進されたという。資料では社務所前に「すぐいせ八日市道」という道標があるということだったが、わからない。地元の方がおられたのでお聞きしたが、わからないということだった。
そのすぐ先、右手に地蔵堂があり、その前に「馬頭観世音」と刻まれた碑が立っている。台座には元治元年(1864)と刻まれており、彦根の飛脚組合と地蔵世話方によって旅の途中で命を落とした馬たちの霊を弔うために建てられたものという。
11時19分にここを通る。
右手に地蔵堂があり、2体の地蔵尊が祀られており、その横に小祠がある。
ここから街道を外れて右折、その先で更に右折すると「若宮神社」がある。ここは天照大神を祀っているという。
少し離れたところに天御中主命を祀る「天一神社」がある。
街道に戻ると「弘誓寺」がある。ここは近江七弘誓寺の一つと言われる浄土宗の寺院だ。
街道を進んでいくと、右手に「建部日吉神社」がある。ここの本殿は棟札から享和元年(1801)に上棟されたことが分かっており、また擬宝珠には文化3年(1806)と刻まれているという。滋賀県指定文化財になっている。12時4分にここを通る。
この先は入り組んだ細道になっていてわかりにくく、道を間違えてしまった。丁度郵便配達の方がおられたので道をお聞きして進んでいくと、T字路に突き当たるが、ここに「日吉山王御旅所」と刻まれた常夜燈が立っており、その横に男の子が世話をするという石地蔵があるので、ここを右折して進む。
右手に「津島社」があり、その前に常夜燈が立っている。
その先右手に地蔵尊を祀る祠があるが、資料によるとこの石仏は川から引き揚げられたものという。
左手に「旧建部村村長の家」があり、高麗時代の石像(?)を模したものが玄関前に立っている。
左手に「延命地像」と「津島社」が並んであり、その前に常夜燈が立っている。
左手に「松尾神社」の鳥居が立っており、その前に安永2年(1773)の常夜燈や馬場子育地蔵がある。
12時45分になったので、ショッピングプラザアピアで昼食にする。この辺りは食事をする店がほとんどないようなので、あらかじめこの場所に目に着けていたのだ。
食事を終わって、ほんまち商店街の中を進んでいくと、アーケードを抜けたところ右手に「八日町道路元標」が立っている。
八風街道との交点右手に「右 京むさ道」「いせ 八まん ひ乃道 右 多賀みな口ゑち川道」と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。
ここを左折して進むと、右手に赤い大提燈をつるした「薬師寺」があり、その横に延命地蔵を祀る祠がある。
左手に「津島社」が二つあり、その横に臼の代わりに使用したというサイコロ石がある。丸い穴が開いていてちょうどサイコロのようなので、サイコロ石と呼ばれているようだ。
八日市では津島信仰と地蔵信仰が盛んということだが、確かにこれらが数多く祀られている。
421号線を横断する手前、左手に「笠屋地蔵」があり、その前に「右 いせ道」「左 たか道」と刻まれた道標が立っている。
13時14分にここを通る。
左手に「徳円寺」があり、境内に江戸時代の画家林東渓の碑が立っている。
左手に大山咋神を祀るという「中野神社」がある。ここには四基の道標が集められているそうだが、ロープが張られていて境内に入ることができなかった。ここも台風の影響かな?と思う。
左手に「津島社と高札場跡」の説明板が立っている。それによると御代参街道と畑街道の交点であるこの地に高札が建てられていたそうで、中野神社には安政6年(1859)に建てられた高札が残されていると説明されている。また中野神社に集められている四基の道標のうち二基はここに建っていたと資料に書かれている。
この辺りもいかにも旧道といった雰囲気の街並みが続いている。
右手に地蔵堂がある。資料にある「破れ地蔵堂」のようだ。織田信長の時代、矢がこの地蔵に当たって人が助かったとか、喧嘩で負けて破れ地蔵といわれるようになったとか、諸説あるそうだ。
右手に「地蔵堂」がある。摩滅した石地蔵が祀られている。
左手に中野郵便局がある前に「村中安全」と台座に刻まれた「津島社」と、その前に昭和7年に建てられた常夜燈が立っている。
左手に「今崎日吉神社」がある。境内には文化10年(1813)の常夜燈や、資料によると室町時代の物と推定されるという宝篋印塔が立っている。
すぐ横に「引接寺」がある。延暦元年(782)創立と伝えられており、境内にある赤松は樹齢120年という。
13時44分にここを通る。
蛇砂川の手前に安政5年(1858)の常夜燈があり、その横に「洞の木地蔵堂」がある。文化年間(1804~1817)に地蔵堂横の大きな欅が倒れて中が空洞になり、子供たちの遊び場になったことからこの名前で呼ばれるようになったという。
右手に「津島社」と常夜燈が並んで立っている。
右手に3体の地蔵尊を祀る地蔵堂がある。葬式の見送りは遠方の者はこの「三つ地蔵」まできたら引き返すことになっていたという。
左手に「見送り稲荷神社」がある。この辺りはかって樹木が繁茂しており、盗賊が出没していた。ある時、盗賊に襲われた旅人を白狐が助けたということから、その助けた白狐を祀る稲荷神社を明治23年に建立したという。
見送り稲荷神社の反対側に「右 たか八日市道 左 むさ八まん」「往来安全」と刻まれた弘化2年(1845)の道標がある。
左手に文殊菩薩・弘法大師像が刻まれ、その下に「右 たか社 八日市 道」「左 西京 八まん 道」と刻まれた明治27年の道標が立っている。14時12分にここを通る。
この先は京セラの大きな工場が左右に広がっている布引工業団地の中を進んでいく。
その先左手に貞享4年(1687)に創立されたという「栩原神社」がある。
右手に弁天溜と堤尻溜があり、その間を進んでいくが、この辺りは土地改良事業によって旧道は消失してしまっている。
佐久良川に架かる佐久良川橋を渡って進むと大塚・掛出溜の手前を右折するが、ここの左手に「右 幸村カバタ道 左 上小房八日市道」と刻まれた道標がある。
すぐ先で近江鉄道の踏切を渡って進む。
右手に地蔵堂があり、数多くの五輪塔や石仏が集められている。
左手に「高岡山 行者堂」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。
右手に「ガリ版伝承館」がある。謄写版を発明した堀井新治郎父子の本家2階建洋館を修復して、平成10年に開館したという。
すぐ先、左手に「御代参街道」と刻まれたまだ新しい石碑が立っており、その横に「左 八まん道」「右 たがみち」と刻まれた道標がある。
このあたりは岡本宿のあったところで、「御代参街道 岡本宿 問屋場跡」や「和泉屋」「箒屋」と刻まれた石碑が立っている。
「岡本宿本陣跡」の石碑が立っているが、遺構は残っていない。15時49分にここを通る。
右手に神亀2年(724)に創建されたという「高木神社」がある。ここの本殿は隣に並ぶ境内社日吉神社本殿とともに室町時代後期に建立されたもので重要文化財に指定されている。同じく重要文化財に指定されている正和4年(1315)の常夜燈や文化12年(1829)の常夜燈が立っている。
すぐ先右手に「右 水口いがミち」「左 いせミち」と刻まれた道標が立っており、その横にまだ新しい「京街道」「起点」と刻まれた石碑が立っている。この場所が御代参街道と日野川を渡って竜王町岩井へ向かう京街道との分岐点になっている。
その先、街道から右へ入ったところに桓武天皇の創建とされ、元禄5年(1692)に再建されたという「涌泉禅寺」があり、境内に永仁3年(1295)の重要文化財に指定されている九重塔がある。16時6分にここを通る。
左手に竹田神社の鳥居が立っている。
鋳物師交差点の左手に文政6年(1823)の「六字名号石」がある。文政元年(1818)に他界した徳本上人を偲んで建立されたという。
右手に「誓善寺」があり、境内墓地に貞治6年(1367)の完全な姿を伝える宝篋印塔があるという説明板が掲げられているが、門が閉じられていて入ることができなかった。
その先で道は二股に分かれているが、旧道は右へ直進する。
すぐ先左手に「左 いせミち」と刻まれた道標が立っている。
この辺りから随所に標識が立っていて、それに従って進んでいく。とても助かる標識だ。この辺りは石原宿があったところだ。石原宿は寛永17年(1640)の通行に際して臨時の人馬継立としてでき、延宝6年(1678)遊行上人の通行を契機として常設の人馬継立宿になったという。
左手に自然石でできた「名号石」がある。嘉永5年(1852)と刻まれていると資料に書かれている。
右手に天保12年(1841)に建立されたという「徳本名号石」がある。
この辺りの地名は「三十坪」という名前ということだ。古代条理の七条二里三十坪に由来するといわれているそうだが、定かではないという。
近江鉄道小御伊勢踏切を渡り、その先で477号線を横断、出雲川に架かる出雲川橋を渡って進む。
内池郵便局があるところから左折して進むが、この角の右手に「左 いせミち」「右 たが北国道」と刻まれた道標が建っている。
左手に「八幡神社」がある。ここは蒲生雅俊が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられているという。
右手に道標を兼ねた常夜燈が建っている。竿の部分に「伊勢両宮」「常夜燈」「文化9年(1826)」と刻まれている。また台石には「右 いせミち」「願主当村中」等と刻まれている。
この常夜燈の前に「右 いせみち」「馬見岡神社二十丁 左ひの山王宮 一〇丁 いせ道へ通りぬけ」と刻まれた文化4年(1821)の道標がある。
街道はここから右折して進むのだが、今日はここで終わることにし、ここからホテルへ向かう。17時15分に歩き終わる。
今日の宿はビジネスグリーンホテル日野だ。
本日の歩行時間 6時間28分。
本日の歩数&距離 31592歩、22.5km。
本日の純距離 20.7㎞。(道を間違えず、また寄り道をしない場合の街道の距離)
御代参街道は東海道土山宿と中山道の小幡を結ぶ脇街道で、春日局が寛永17年(1640)に伊勢神宮から多賀神社へ参詣した際に整備された道と言われている。江戸中期頃には京の公卿たちの間で年に3回(正月・五月・九月)伊勢神宮と多賀神社へ代参の名代を派遣する習慣があり、その際にこの道が利用されたことから「御代参街道」の呼称が生まれたという。また、皇族の御代参だけではなく、庶民の参宮にも利用されたという。
今回も金沢のI君と一緒に歩くことにする。I君は最近街道歩きに目覚めており、現在北陸道を高岡まで歩いているとのこと。次の目標は四国遍路を考えているそうで、同好の士が増えることは私にとっても楽しみなことでもある。
当初の予定では東海道土山宿から歩くことを考えていたが、昨日かなりの雨が降ったことから、笹尾峠を越えるには雨の後少しでも時間を空けたほうが歩きやすいだろうと思って、中山道の五箇荘から歩くことにした。
なお、資料は「滋賀県歴史の道調査報告書」を参考にした。
五箇荘駅でI君と合流して歩き始める。
中山道との分岐点に「右 京みち」「左 いせひの八日市みち」と刻まれた享保3年(1718)の道標が立っている。
この場所は中山道を歩いた際、通ったはずなのだが、全く記憶に残っていない。当時はまだ街道歩きを始めたばかりで、周囲に目を配る余裕も、感覚もなく、ただひたすら歩き続ける毎日だったので、記憶がなくても当然かもしれないが。
ここから道は二股になっており、左へ行くと五箇荘駅に行くので、右手の道を進む。
ここを10時47分に出発する。
左手に「細道地蔵尊」と刻まれた碑が建つ地蔵堂がある。細い道に立っているから細道地蔵と呼ぶのかな?
新幹線の高架下を通って進んでいくと、その先、左手に「弘法大師」の像が立っており、屋根の修理が行われていた。この時は気が付かなかったのだが、その後歩いていくほどに、特にこの後に歩いた西近江路で先週の台風21号が相当の被害をこの地にもたらしたことが分かったので、この屋根もその被害に遭ったのかなと思う。
近江鉄道の踏切を渡って進むと、左手に墓地がある。仁良田墓地と呼ばれるこの墓地は、全て木でできた墓標ばかりが立っており、倒れたままになっている墓標もかなりの数ある。花が手向けられている墓標も多いので、お参りに来られる人もそれなりに多いのだろう。このように木の墓標ばかりの墓地はあまり見かけない風景なので、何か理由があるのかなと思って市役所に問い合わせをしてみたのだが、よくわからないということだった。資料によると近隣の六集落が共同で利用していると書かれていた。
この辺りには榎の大木が数本立っている。
「奥村神社」がある。樹木に囲まれたこの神社は近郷に聞こえた古社だったといい、平清盛が近畿諸国を巡見された折、特に崇敬され、供田と社領を寄進されたという。資料では社務所前に「すぐいせ八日市道」という道標があるということだったが、わからない。地元の方がおられたのでお聞きしたが、わからないということだった。
そのすぐ先、右手に地蔵堂があり、その前に「馬頭観世音」と刻まれた碑が立っている。台座には元治元年(1864)と刻まれており、彦根の飛脚組合と地蔵世話方によって旅の途中で命を落とした馬たちの霊を弔うために建てられたものという。
11時19分にここを通る。
右手に地蔵堂があり、2体の地蔵尊が祀られており、その横に小祠がある。
ここから街道を外れて右折、その先で更に右折すると「若宮神社」がある。ここは天照大神を祀っているという。
少し離れたところに天御中主命を祀る「天一神社」がある。
街道に戻ると「弘誓寺」がある。ここは近江七弘誓寺の一つと言われる浄土宗の寺院だ。
街道を進んでいくと、右手に「建部日吉神社」がある。ここの本殿は棟札から享和元年(1801)に上棟されたことが分かっており、また擬宝珠には文化3年(1806)と刻まれているという。滋賀県指定文化財になっている。12時4分にここを通る。
この先は入り組んだ細道になっていてわかりにくく、道を間違えてしまった。丁度郵便配達の方がおられたので道をお聞きして進んでいくと、T字路に突き当たるが、ここに「日吉山王御旅所」と刻まれた常夜燈が立っており、その横に男の子が世話をするという石地蔵があるので、ここを右折して進む。
右手に「津島社」があり、その前に常夜燈が立っている。
その先右手に地蔵尊を祀る祠があるが、資料によるとこの石仏は川から引き揚げられたものという。
左手に「旧建部村村長の家」があり、高麗時代の石像(?)を模したものが玄関前に立っている。
左手に「延命地像」と「津島社」が並んであり、その前に常夜燈が立っている。
左手に「松尾神社」の鳥居が立っており、その前に安永2年(1773)の常夜燈や馬場子育地蔵がある。
12時45分になったので、ショッピングプラザアピアで昼食にする。この辺りは食事をする店がほとんどないようなので、あらかじめこの場所に目に着けていたのだ。
食事を終わって、ほんまち商店街の中を進んでいくと、アーケードを抜けたところ右手に「八日町道路元標」が立っている。
八風街道との交点右手に「右 京むさ道」「いせ 八まん ひ乃道 右 多賀みな口ゑち川道」と刻まれた文政9年(1826)の道標が立っている。
ここを左折して進むと、右手に赤い大提燈をつるした「薬師寺」があり、その横に延命地蔵を祀る祠がある。
左手に「津島社」が二つあり、その横に臼の代わりに使用したというサイコロ石がある。丸い穴が開いていてちょうどサイコロのようなので、サイコロ石と呼ばれているようだ。
八日市では津島信仰と地蔵信仰が盛んということだが、確かにこれらが数多く祀られている。
421号線を横断する手前、左手に「笠屋地蔵」があり、その前に「右 いせ道」「左 たか道」と刻まれた道標が立っている。
13時14分にここを通る。
左手に「徳円寺」があり、境内に江戸時代の画家林東渓の碑が立っている。
左手に大山咋神を祀るという「中野神社」がある。ここには四基の道標が集められているそうだが、ロープが張られていて境内に入ることができなかった。ここも台風の影響かな?と思う。
左手に「津島社と高札場跡」の説明板が立っている。それによると御代参街道と畑街道の交点であるこの地に高札が建てられていたそうで、中野神社には安政6年(1859)に建てられた高札が残されていると説明されている。また中野神社に集められている四基の道標のうち二基はここに建っていたと資料に書かれている。
この辺りもいかにも旧道といった雰囲気の街並みが続いている。
右手に地蔵堂がある。資料にある「破れ地蔵堂」のようだ。織田信長の時代、矢がこの地蔵に当たって人が助かったとか、喧嘩で負けて破れ地蔵といわれるようになったとか、諸説あるそうだ。
右手に「地蔵堂」がある。摩滅した石地蔵が祀られている。
左手に中野郵便局がある前に「村中安全」と台座に刻まれた「津島社」と、その前に昭和7年に建てられた常夜燈が立っている。
左手に「今崎日吉神社」がある。境内には文化10年(1813)の常夜燈や、資料によると室町時代の物と推定されるという宝篋印塔が立っている。
すぐ横に「引接寺」がある。延暦元年(782)創立と伝えられており、境内にある赤松は樹齢120年という。
13時44分にここを通る。
蛇砂川の手前に安政5年(1858)の常夜燈があり、その横に「洞の木地蔵堂」がある。文化年間(1804~1817)に地蔵堂横の大きな欅が倒れて中が空洞になり、子供たちの遊び場になったことからこの名前で呼ばれるようになったという。
右手に「津島社」と常夜燈が並んで立っている。
右手に3体の地蔵尊を祀る地蔵堂がある。葬式の見送りは遠方の者はこの「三つ地蔵」まできたら引き返すことになっていたという。
左手に「見送り稲荷神社」がある。この辺りはかって樹木が繁茂しており、盗賊が出没していた。ある時、盗賊に襲われた旅人を白狐が助けたということから、その助けた白狐を祀る稲荷神社を明治23年に建立したという。
見送り稲荷神社の反対側に「右 たか八日市道 左 むさ八まん」「往来安全」と刻まれた弘化2年(1845)の道標がある。
左手に文殊菩薩・弘法大師像が刻まれ、その下に「右 たか社 八日市 道」「左 西京 八まん 道」と刻まれた明治27年の道標が立っている。14時12分にここを通る。
この先は京セラの大きな工場が左右に広がっている布引工業団地の中を進んでいく。
その先左手に貞享4年(1687)に創立されたという「栩原神社」がある。
右手に弁天溜と堤尻溜があり、その間を進んでいくが、この辺りは土地改良事業によって旧道は消失してしまっている。
佐久良川に架かる佐久良川橋を渡って進むと大塚・掛出溜の手前を右折するが、ここの左手に「右 幸村カバタ道 左 上小房八日市道」と刻まれた道標がある。
すぐ先で近江鉄道の踏切を渡って進む。
右手に地蔵堂があり、数多くの五輪塔や石仏が集められている。
左手に「高岡山 行者堂」と刻まれたまだ新しい石碑が立っている。
右手に「ガリ版伝承館」がある。謄写版を発明した堀井新治郎父子の本家2階建洋館を修復して、平成10年に開館したという。
すぐ先、左手に「御代参街道」と刻まれたまだ新しい石碑が立っており、その横に「左 八まん道」「右 たがみち」と刻まれた道標がある。
このあたりは岡本宿のあったところで、「御代参街道 岡本宿 問屋場跡」や「和泉屋」「箒屋」と刻まれた石碑が立っている。
「岡本宿本陣跡」の石碑が立っているが、遺構は残っていない。15時49分にここを通る。
右手に神亀2年(724)に創建されたという「高木神社」がある。ここの本殿は隣に並ぶ境内社日吉神社本殿とともに室町時代後期に建立されたもので重要文化財に指定されている。同じく重要文化財に指定されている正和4年(1315)の常夜燈や文化12年(1829)の常夜燈が立っている。
すぐ先右手に「右 水口いがミち」「左 いせミち」と刻まれた道標が立っており、その横にまだ新しい「京街道」「起点」と刻まれた石碑が立っている。この場所が御代参街道と日野川を渡って竜王町岩井へ向かう京街道との分岐点になっている。
その先、街道から右へ入ったところに桓武天皇の創建とされ、元禄5年(1692)に再建されたという「涌泉禅寺」があり、境内に永仁3年(1295)の重要文化財に指定されている九重塔がある。16時6分にここを通る。
左手に竹田神社の鳥居が立っている。
鋳物師交差点の左手に文政6年(1823)の「六字名号石」がある。文政元年(1818)に他界した徳本上人を偲んで建立されたという。
右手に「誓善寺」があり、境内墓地に貞治6年(1367)の完全な姿を伝える宝篋印塔があるという説明板が掲げられているが、門が閉じられていて入ることができなかった。
その先で道は二股に分かれているが、旧道は右へ直進する。
すぐ先左手に「左 いせミち」と刻まれた道標が立っている。
この辺りから随所に標識が立っていて、それに従って進んでいく。とても助かる標識だ。この辺りは石原宿があったところだ。石原宿は寛永17年(1640)の通行に際して臨時の人馬継立としてでき、延宝6年(1678)遊行上人の通行を契機として常設の人馬継立宿になったという。
左手に自然石でできた「名号石」がある。嘉永5年(1852)と刻まれていると資料に書かれている。
右手に天保12年(1841)に建立されたという「徳本名号石」がある。
この辺りの地名は「三十坪」という名前ということだ。古代条理の七条二里三十坪に由来するといわれているそうだが、定かではないという。
近江鉄道小御伊勢踏切を渡り、その先で477号線を横断、出雲川に架かる出雲川橋を渡って進む。
内池郵便局があるところから左折して進むが、この角の右手に「左 いせミち」「右 たが北国道」と刻まれた道標が建っている。
左手に「八幡神社」がある。ここは蒲生雅俊が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したと伝えられているという。
右手に道標を兼ねた常夜燈が建っている。竿の部分に「伊勢両宮」「常夜燈」「文化9年(1826)」と刻まれている。また台石には「右 いせミち」「願主当村中」等と刻まれている。
この常夜燈の前に「右 いせみち」「馬見岡神社二十丁 左ひの山王宮 一〇丁 いせ道へ通りぬけ」と刻まれた文化4年(1821)の道標がある。
街道はここから右折して進むのだが、今日はここで終わることにし、ここからホテルへ向かう。17時15分に歩き終わる。
今日の宿はビジネスグリーンホテル日野だ。
本日の歩行時間 6時間28分。
本日の歩数&距離 31592歩、22.5km。
本日の純距離 20.7㎞。(道を間違えず、また寄り道をしない場合の街道の距離)