下高野街道を歩く

2017年02月07日(火)
総歩数:32168歩 総距離:22.7km

2017年02月07日(火)

四天王寺~大阪狭山(中高野街道交点)

                          曇り一時雪

 高野詣でのために高野山へ向かう道を高野街道と呼び、四つのルートがあったが、その中で下高野街道は中高野街道と四天王寺で分かれて、真南に下って西除川沿いに進む道をいう。平安貴族達が高野山へ参詣するときは、諸大寺を巡って高野山へ行くケースが多く、特に名所や大寺のないこのコースを歩くことはまずなかったという。しかし一方でこの道は、高野詣でが起きる以前から、人の通行や物資の輸送のための重要な道と位置づけられていた。その後、庶民が高野詣でをしたり、名所旧跡を訪ねたりするようになって、多くの旅人が歩くようになったそうで、そのため一里塚等はなかったという。従って高野道としての下高野街道は他の三街道に比較して、一段低い街道とみられていたようだ。
 四天王寺南門を7時40分に出発する。四天王寺は熊野古道紀伊路を歩いた際、見学しており、また今日は耐震工事を行っている関係から建物に幕が張られていた。
四天王寺
 天王寺南門前の信号のもう一つ先の信号を渡って左折するが、右手に竹本義太夫のお墓がある「超願寺」がある。ここも前回来た時に見物したので、立ち寄らずに先へ進む。
超願寺
 次の角を右折して進むと、「おはぐろ地蔵」がある。
おはぐろ地蔵
 その先の四つ角左手に「法界」と刻まれた安政4年(1857)の石仏が立っている。法界とは仏教用語で一切の現象の本質的な姿で、真如ともいうそうだ。
法界
 この辺りは紀伊路を歩いた際にも通ったところだ。
 その先でJR関西線の天王寺駅に突き当たるので、ここの地下道を通り、更に近鉄南大阪線の大阪阿部野橋駅も地下道を通って先へ進む。 その先で住宅街に入るが、ここは道が入り組んでおり、標識もないのでわかりにくい。左折、右折、更にその先で左折と屈曲しながら進んでいくと、目印としていた郵便局の前に来たのでホッとする。その先でアーケードに突き当たるので、これを左へ進み、桃ケ池公園の横にでる。ここでも道を間違ってウロウロしてしまった。ようやく近鉄南大阪線の高架下の道を進んでいくと、左手に住吉神社に奉仕する神馬のお墓である「神馬塚」がある。神馬塚および神馬御厩は北田辺・南田辺のそれぞれ二か所にあったが、現在はこの北塚のみが現存し、歴代神馬が祀られているという。ここを左折する。
神馬塚
 その先で右折して進むと、左手に「法楽寺」がある。樹齢800年を超える楠の老古木があるこのお寺は,真言宗泉涌寺派の大本山で、近年は田辺のお不動さんという名前で親しまれているという。8時45分にここを通る。
法楽寺1法楽寺2

 右手に「山阪神社」があるとことから左折して進む。

 矢田町に入って進んでいくと、左手に「北向地蔵」がある。浮彫地蔵尊で周囲を板で囲まれている。
北向地蔵
 その先右手に「西光寺」というお寺があり、その横に「光西寺」というお寺が並んで建っている。西と光を入れ替えただけの似たような名前のお寺が並んでいるのも珍しい。

 左手に祠があり、六地蔵と十体の地蔵尊、「右 なかのひらの」「左 大坂てんのうじ」と刻まれた地蔵道標等が安置されている。その前には慶應元年(1865)の常夜燈が立っている。
慶應元年
 9時44分に下高野橋を渡る。
 橋を渡ってすぐ右へ坂道を下って進むと、右手に「式内阿麻美許曽神社」がある。ここは社伝によれば、大同年間(大同元年806年頃)の創建とされているが、おそらくそれより古いであろうとされているという。「許曽」は新羅の言葉に由来するとされ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を祀ったのが起こりではないかとされているという。現在の拝殿は文久3年(1863)の建築で、本殿は独特の阿麻美造という様式で昭和35年に再建されている。境内には、樹齢500年を超えるクスノキや、安永8年(1779)の常夜燈や元禄14年(1701)の手水鉢がある。
阿麻美許曽神社
 左手に関西出雲大社久多美神社の大きな鳥居が立っている。
 その先左手に「右 志き山八尾ひらの三宅村」 「左 大坂天王寺あま岸・・」「すぐ高野山狭山道」と刻まれた地蔵道標と延宝笠塔婆残欠がある。
延宝笠塔婆残欠
 西除川に沿って進むが、26号線は歩道がなく、車の通行量も多い。一方対岸は遊歩道になっていて、車もほとんど通らず快適に歩くことができるので、こちらを歩く。
 右手に「布忍神社」がある。伝えによると18町(約2km)北方の天見丘から祭神をこの地に白布を敷いて迎えたので、この地を布忍、村里を向井と呼ぶようになったという。江戸時代初期の狩野派絵師による唐獅子の壁画や寛文3年(1663)の奉納札等が見つかったころから、そのころに本殿が建立されたのではないかと推測されているという。 本殿は府指定有形文化財に指定されている。
布忍神社
 その先布忍橋が長尾街道との交点になる。ここの右手に新町公民館があるが、その庭に「惣井戸」があり、安政8年(1796)に建立されたという。10時34分にここを通る。
惣井戸
 右手にJA大阪の支所があり、その奥に「教通寺」があって、そこに享保13年(1728)の地蔵道標があり、「是南かうや道東なら婦じい寺」と刻まれている。
教通寺
 右手に尻池があるところの右手に「不動明王」を祀る小祠があり、その前に延享5年(1748)の石灯籠が立っている。
不動明王
 資料では古池を過ぎたところで旧道がわずかに残っているとなっていたのだが、場所がわからなかった。
 その先で左折するのだが、左折する角にキリスト教会の十字架が立っているので、これが目印だ。
キリスト教会
 左手に「八坂神社」があり、社殿の左手奥に石灯籠が立っている。資料によると延享3年(1746)と刻まれているようだが、読み取ることはできなかった。
延享3年
 その先左手に西教寺があるところから右折して進む。道は鍵形に折れている。
 そのすぐ先で竹内街道との交点になる。左手に郵便局があるのが目印になる。11時28分にここを通る。

 出ジボ池が左手にあり、その先左手に「らくだ」がいた。民家でらくだを飼っているのを初めて見た。何のために飼っているのだろう?
らくだ
 その先右手に神殿池がある左手に墓地があり、その中ほどに石造阿弥陀立像と同年の六地蔵を安置する祠がある。資料によると貞享4年(1687)の銘があるという。
貞享4年
 その先を左折して進んでいくと、左手に「菅原神社」があり、その入り口に「左 大さか 天王寺道」「すく 富田林 ふじゐ寺道」「右 かうや 大ミ祢道」と刻まれた天保9年(1838)の道標が立っている。
菅原神社1菅原神社2

 ここから右折して進むが、ここも鍵形になっている。左手に「西方寺」があり、その前の堂中に10体の地蔵尊が安置されている。資料によるとその中の一体に「西 さかい 北 大坂 みち施主宗慶」 「東 ふしいてら いまい」「南 かうや みち」と刻まれているという。また、堂前には安永元年(1772)の「大神宮常夜燈」と刻まれた常夜燈の軸の部分のみが立っている。
安永元年
 ここまで来たところで雪がちらついてきた。さすがに寒い。ただ幸い雪はこれ以上ひどくはならなかったので助かった。
 左手にふれあい広場というちょっとした広場があり、その奥に「八坂神社」がある。ここに延宝と読める石灯籠が立っている。
八坂神社
 右手に八上小学校がある信号のところに2体の地蔵尊を安置する地蔵堂があり、左手の地蔵尊には「北 大坂 東 ふしいてら みち」「西 いつミ 南 かうや みち」と刻まれている。
八上小学校
 阪和自動車道の高架下を通って進むと、左手に「地蔵堂」があり、何か文字が刻まれているが判読出来なかった。
阪和自動車道
 そのすぐ先右手に「萩原神社分祠」があり、境内には明和3年(1766)の石灯籠がある。
萩原神社分祠
 北余部の信号を渡るが、ここが富田林街道との交点ということだ。ここの左手に4体の地蔵尊を安置する地蔵堂がある。そのうち1体になにやら文字が刻まれていたが判読できなかった。12時36分にここを通る。
富田林街道
 ここから旧道に入って進むが、道幅が狭い道が続く。ただいかにも旧家を思わせるような家が多い。
 左手に「牛頭神社」がある。ここはもとは野田城址内にあったが、明治26年にこの地に移設されたという。またその横に「大悲寺」があるが、ここも南北朝時代に野田城が落城した際、戦いの犠牲になった将兵や村人の霊を慰めるために野田城内にあったものを、明治になってこの地に移設したという。文久と詠むことができる石灯籠や文化2年(1805)の手水鉢がある。13時4分にここを通る。
牛頭神社
 狭山駅の少し先、左手に墓地があり、その先踏切の横に「大乗妙典六十六部日本四国供養搭」と刻まれた天保8年(1837)の石碑が立っている。
踏切の横
踏切を渡って一旦駅前まで戻って進むが、ここで道を間違えた。二股になっている道の左手の細道へ進まなければいけなかったのだが、右へ進んでしまった。すぐ気が付いて元に戻って進む。ここも旧い歴史を感じさせる家が多い。
旧い歴史を
 右手に地蔵尊2体を安置する地蔵堂がある。1体には享保16年(1731)と刻まれており、もう1体には「右 大さか 」「左 かうや」享保14年(1729)と刻まれている。
享保16年
 その先で狭山池の堤防に登って進み、13時47分に狭山橋に到着する。ここで昨日歩いた中高野街道に合流する。  
狭山橋
 本日の歩行時間   6時間3分。
 本日の歩数&距離 32168歩、22.7km。
 下高野街道純距離 20km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)


 まだ時間が早いので、ここから大坂狭山駅まで歩き、電車で天見駅まで移動、先日歩いた高野街道を天見駅から御幸辻駅まで歩く。この部分は高野街道京・大阪道として、高野山まで踏破したところで後日掲載します。

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