高野七口 黒河道を歩く

2016年12月05日(月)
総歩数:20142歩 総距離:19.8km

2016年12月05日(月)

定福寺~高野山黒河口~金剛峯寺

                               曇り

 黒河道(くろこみち)は高野参詣道、高野七口の一つで、橋本市賢堂から高野山黒河口に至る信仰の道だが、大和国からの参詣客がよく利用したことから大和口とも呼ばれたという。また文禄3年(1594)高野山参詣を行った豊臣秀吉が、当時高野山では禁止されていた歌舞音曲を催したところ、激しい雷鳴が轟き、神のたたりと恐れた秀吉が子継峠、黒河道と下って、麓の隅田にある利生護国寺に逃げ降りたと言う話が残っているそうで、このことからこの道を太閤道とも呼ぶという。
 この道はつい先日の平成28年10月に世界遺産に登録されている。もともと平成16年7月に高野山を中心とした地域が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されているが、これは三重、奈良、和歌山県にまたがる紀伊山地の「三つの霊場(吉野・大峯、熊野三山、高野山)」とこれらを結ぶ「参詣道」から構成されている。今回はこれに、「高野参詣道」として三谷坂、京大阪道不動坂、女人道、そして黒河道の4地点、更に「熊野参詣道」として中辺路9地点、大辺路9地点もそれぞれ追加登録されている。  
 今回、高野七口のことを調べようと思って検索すると、「高野七口再生保存会」という会があることが分かり、何か資料がないかと思って、12月1日にメールを差し上げると、「12月5日に黒河道を登るイベントがあります。一般参加募集はしていないが、同行は可能です」という返信をいただいたので、急遽スケジュールを調整して参加させていただくことになった。街道を歩く場合、普通は事前に調査を行ってから歩くのだが、今回はまさにぶっつけ本番、黒河道に関して何の知識もないまま参加させていただいた。しかし結果としてこの道にとても詳しい方がおられたので、色々と教えていただきながら歩くことができたので、とてもよかった。

 前日の夕方、橋本駅から定福寺まで歩いてみたが、沿道には今回の世界遺産追加登録を祝う旗や看板が立っていた。
看板
 朝、ホテルに保存会の入谷さんがわざわざ迎えに来ていただき、黒河道のスタート地点の「定福寺」まで案内をしていただいた。今日のイベントは他の場所で行われていて、イベント参加者はその場所からこの先の明神ケ田和まで進むそうだが、その道は黒河道とは異なる道なので、入谷さんは黒河道を歩きたいという私の希望を入れてくれて、イベントには参加せず、私のためにわざわざ別行動をとってくれたのだ。
 定福寺の入り口左手に弘安8年(1285)の紀年銘がある「九重石塔」が立っており、市指定文化財になっている。この石塔は何のために建立されたのかは不明とのことだが、搭の下に石棺が埋めてあり、「一村大飢饉の際に非ざれば発掘すべからず」という言い伝えが残っているそうで、まだ誰も手を触れていないとのことだ。
九重石塔
 ここの庫裏は江戸時代後期の建築で、国の登録有形文化財になっており、本尊は平安時代後期の阿弥陀如来坐像で県指定文化財になっているという。また境内には天保15年(1844)の常夜燈が立っており、右手奥には天保4年(1833)の弘法大師一千年御忌供養塔、明治16年の同千五十年の御忌供養塔、昭和9年の同千百年の御忌供養塔が並んで立っている。平成27年が千二百年の御忌だったので、今後何らかの供養塔がここに建てられるのだろうか?
庫裏供養塔

 定福寺を7時27分に出発する。
 正門を出て右手に行くが、もうここから坂道が始まっている。すぐ先で道は二股に分かれているので、これを左折、すぐ先で右へ進むと、左手に祠がある。ここには標識が立っている。この標識がこれから先もかなり立っていて、歩くに際してはとても助かる。
左手に祠
 昨日の雨で滑る山道を5分ほど進んでいくと、車道に出る。ここの左手に4体の石仏を安置する祠がある。
4体の石仏
 ここを右へ進み、坂道を登っていくと、道は二股に分かれており、「三平神社 国城神社←」と書かれた看板が立っている。ここを左へ進む。
三平神社三平神社1

 すぐ先で道は二股に分かれているので、これを右へ坂道を登っていく。
右へ坂道
 その先で道は二股に分かれており、左手の道は上り坂になっているが、ここは右手の道を直進する。ここにも標識が立っている。

 急な山道を登っていくと四国八十八か所、西国三十三か所の2体の石仏を安置する祠がある。「岩掛観音」というそうだ。
四国八十八か所
 かなりの坂道を登ってきているので、ここから眺める景色がなかなかいい。紀ノ川が蛇行しており、はるか向こうに山が連なっている。その中で右手に少し低くなっているところがあり、そこが紀見峠ということだ。近いうちに歩く予定にしている峠だ。ここで今回のイベントに参加をされる3人の方が追い付いてこられた。この方々も私と同じ気持ちで、黒河道を最初から歩きたいということで、ここまで来られたそうだ。7時45分にここを通る。
景色1景色2

 きれいな掘割になっているところがある。黒河道は以前は倒木等で通ることができなかった場所が数多くあったそうだが、保存会の方々をはじめとして皆さんが努力をされて整備されたそうだ。
掘割
その先も標識が立っているので、それに従って進んでいく。山道を登っていき、時々車道に出るという感じの道だ。

 三又に分かれている場所があり、ここには黒河道の旗が立っているので、真ん中の道を登っていく。
黒河道の旗
 左手に「鉢伏弘法井戸」がある。この井戸は弘法大師の加持水と伝えられており、昭和36年の第二室戸台風で被害を受け、枯れ井戸となっていたそうだが、2014年に土砂を取り除くとわずかながらに湧水が復活したという。
 8時3分にここを通る。
鉢伏弘法井戸
 井戸の横に文政9年(1826)の常夜燈と更にその横に石仏を1体安置する祠がある。
文政9年文政9年横石仏

 そのすぐ先で道は二股に分かれているので、左へ登るが、ここにも標識がある。
左へ上る
 次の二股を左へ進み、少し下ると車道に出るので、これを左へ進むと「明神ケ田和」に出る。田和とは峠をいう言葉だと入谷さんに教えていただいた。ここには一軒の民家があり、まだ住人がおられるそうだが、今日はお留守だった。
8時20分にここに到着する。
明神田和
 ここでイベントに参加された方々と8時30分に合流する予定だったそうだが、まだ到着されていない。今日のイベントの詳細は後述させていただきますが、橋本市南馬場の産直広場「くにぎ広場」で行われており、その場所からこの明神ケ田和に来られるそうだ。
大分遅れているようなので、8時33分に我々だけ先に出発することにした。
 ここから歩く場合、左手に3本の道があり、これの真ん中の急坂を下っていく。ここに標識が立っているのだが、この標識は私には少しわかりにくかった。
明神分岐明神看板


 「わらん谷」と呼ばれる谷川に沿った道を進んでいくが、何か所も橋がかけられている。これが雨上がりということもあって滑るし、傷んでいる場所もある。道を維持するというのは大変なことなのだということを実感する。人ひとりが歩ける幅の道を進んでいく。
わらん谷1わらん谷2
 
 右手に「わらん谷の滝」がある。あまり大きな滝ではないが、昨日の雨の影響か、勢いよく水が流れ落ちていた。
わらん谷瀧
 「赤岩(石)」がある。大きな岩で、表面は苔で覆われているが、赤い色をした岩なので赤岩と呼ばれているそうだ。地面に岩のかけらが落ちていたが、確かに赤い色をしている。
9時1分にここを通る。
赤岩1赤岩2

 谷川に沿って道が続いているが、急な斜面になっているところがあって、ロープが張られている。それにつかまりながら歩いていて、バランスを崩し、ロープにつかまって辛うじて転落を免れたところもあった。
ようやく谷を抜けて車道に出て、右折して進むと、丹生川に架かる市平橋がある。ここに9時24分に着く。
市平橋
 ここでイベントに参加された方々と合流する為、しばらく休憩をとる。
 今日、開催されたイベントの様子を地元の橋本新聞が記事として掲載していますので、要約して以下に転載します。

「世界遺産に追加登録された和歌山県橋本市~高野町の高野参詣道「黒河道」で、12月5日、高野山真言宗総本山・金剛峯寺へ、橋本市の逸品・はたごんぼ=牛蒡(ごぼう)=と、シンガーソングライター・Chojiさん制作の「収穫祭~はたごんぼの歌~」を奉納する、山麓伝統の「雑事(ぞうじ)のぼり」が行われた。
農事組合法人「くにぎ広場・農産物直売交流施設組合」が主催したこの行事は、国城山中腹で収穫した和歌山県ブランド商品「はたごんぼ」4本入り菰包(こもづつみ)を載せた背負子(しょいこ)2つと11本を収めた木箱(計18・8キロ)を用意。
早朝、橋本市南馬場の産直市場「くにぎ広場」前で、同組合の組合員、県、市、市教委職員ら約50人が集まって出発式。うち33人が「雑事のぼり」に参加。交代で背負子を担ぐなどして、宝蔵寺~明神ケ田和~市平橋~久保小学校~子継峠~高野山・金剛峯寺(延べ16・7キロ)の坂道を登り、約7時間40分の速さで到着した。
奉納式は金剛峯寺で高野山真言宗の僧侶5人が対応。逸品・はたごんぼ入り菰包み、別にはたごんぼ入り木箱を奉納した。
この後、新別殿に移動。Chojiさんがギターを抱えて登場し、綺麗な阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅうらいごうず)の脇で、はたごんぼ仕事を体験して作詞作曲した「収穫祭~はたごんぼの歌~」を奉納披露した。」

この行事は長い間途絶えていたそうだが、復活して今年で4回目になるそうだ。

 皆さんが合流され、一息入れた後、「はたごんぼ」を担いだお二人を先頭にして、市平橋を渡って10時8分に出発する。
はたごんぼ
 その先で市平の集落に入るが、右手に小屋があり、ここから右折して細い道を進む。皆さんに従って進んだので、ここに標識があったかどうか確認がとれていませんが、もしなければかなりわかりにくい場所だと思います。
市平集落
目印は入口左手に立っている「天然記念物 市平春日神社のカツラの木」の説明をしている看板です。
10時17分にここを通る。
カツラの木説明
 細い坂道を登っていくと道の左手、ちょっと道から外れたところに「カツラの木」がある。大きな木だが、周囲は薄暗く、おまけに手ぶれが出ていてうまく写真が撮れていませんので、ご了承ください。
10時21分にここを通る。
かつらの木
 黒河道の標識が立っているところから急坂を上っていく。10時38分にここを通る。
急坂1
 左手に地蔵尊があるが、文字は刻まれていなかった。
地蔵尊文字なし
 戦場峠という急坂を息を切らしながら登っていく。戦場とは南北朝の頃にこの場所で戦いがあったそうで、近くに南朝第3代天皇の長慶天皇陵と言われるものがあるということだ。南朝方は史料が少ないため、天皇の在位・非在位をめぐる議論が長い間行われていたが、長慶天皇は大正15年に在位の事実が公認されたという。
 春日神社の祠があり、10時50分にここを通るが、ここからようやく緩やかな道になり、落ち葉の中を進んでいく。汗をびっしょりかいているが、気持ちがいい道だ。
春日神社祠
10時58分に峠の頂上に着く。ここはちょっとした広場になっており、標識が立っている。この標識では黒河道は右へ向かうようになっているが、右へ向かう道は戦場山へ向かう観光ルートの道で、本来の道は登ってきた道から直進する道だ。この標識は間違いやすいので要注意だ。
戦場峠1戦場峠2

 山の中の道を進んでいくと、石垣がある。ここに家でもあったのかな?
石垣
 一列になって山の中を進んで行く。道は人ひとりが歩ける幅しかない。
山の中の道
 やがて道は人家に突き当たり、ここで二股に分かれているので、右へ進む。この家は黒河村の庄屋をされていた方の家だそうだが、今はだれも住んでいないということだ。黒河村はこの地より更に奥地にあって、林業を中心にした村だったそうで、黒河道はその村の名前にちなんでいるのだが、今では住む人もいなくなって廃村になっているという。
11時38分にここを通る。
庄屋跡
 11時43分に久保小学校に着くが、入口左手に弘法大師像と観世音菩薩像が安置されている祠があり、左手側面に「右 かうや」「左 まんに道」、右手側面に明治14年2月21日と刻まれている。
久保地蔵
 この辺りを久保田和といい、久保小学校は明治9年に創立され、大正6年頃には近くの山で銅鉱石の採掘がはじまったことから、一時期は生徒数が100人近くいたというが、平成18年に最後の在校生一人が卒業し、以後休校になっているという。
校舎は平成17年に火災で全焼したため、平成18年に新築されたということでまだ新しい。在校生がいないのに新築されたのだろうか?
 ここに今日のイベントの参加者のために賄いをしていただける女性たちが来られており、カップ麺やミカン、コーヒー、お茶等のお接待をしていただいた。ここで持参したパンと牛乳で昼食にする。
久保小学校1久保小学校2

 昼食を済ませて12時51分にここを出発する。入口にある地蔵尊のところから校舎を左手に見ながら進んでいき、校庭をぐるっと回るようにし進んでいくと、道はT字路になっているので、ここを右へ進む。
 左手に「茶堂跡」があり、現在は小屋が立っている。13時4分にここを通る。
茶堂跡
 「子継峠」の標識が立っている。ここから最後の峠へ向かう急な登り道になる。13時6分にここを通る。
子継峠1
 道沿いにピンクの布が下がっている。これが道しるべになっているようだ。四国を歩いた際も手ぬぐいを木の枝に結び付けていたのを思い出す。このようなちょっとしたものでもあると、特に一人歩きの際にはとても安心できるありがたい目印だ。
ピンク布
 急坂を黙々と登っていくと、右手に「大黒岩」がある。この岩の一部が少し陥没しているような場所があり、これが弘法大師の足跡と言われているそうだ。ピンクの布がここには二か所あるが、案内板がないので一人で歩いている場合はおそらく気が付かないだろうなと思った。
13時25分にここを通る。
大黒岩
 4分ほど進んだ先、右手に分岐して上る細道があり、ここを上ると「高野豆腐製造跡」がある。ここにも案内板がないので、教えていただかなければわからなかった。この辺りは雪池山の尾根筋にあたり、雪池山からの水を得やすく、天然製造による高野豆腐に適した場所だという。コンクリートで造られた水槽がある。
高野豆腐製造跡
 その横に永正3年(1506)と刻まれた五輪塔の残片が並んでいる。
五輪塔
 息を弾ませながら坂道を登っていくと、高野山でよく見かける標識が立っている。
高野山標識
 木々の間から下を見渡せるところがあるが、ずいぶん登ってきたことがわかる。子継峠は標高871mということだ。
13時46分にここに着く。
高野山標識眺望
 ここから左へ進むと、すぐ先に更に左へ登る道があり、雪池山という標識が立っている。黒河道は雪池山へは向かわずにそのまま直進する。
 ようやく平坦になった道を進んでいくと、右手に地蔵堂がある。これが「子継地蔵」で、「右 十三年 検校重任」「香春峠 永正九 八月廿二日」と刻まれていると資料に記載されている。香春は「こつぎ」と読むそうで、永正9年は1512年だ。安産祈願、子授け祈願でお参りに来る人が多いという。
子継地蔵
 ここが子継峠で、ここで左手の楊柳山から降りてくる女人道と合流している。
 ここを14時12分に通る。
 高野山女人道38番ポイントの標識が立っており、ここを14時25分に通る。
女人道38
 4分ほど進むと道は二股に分かれていて右へ進むが、ここには標識もなくてわかりにくく、直進してしまいそうだ。
 分岐標識なし
 「一本杉」がある。周囲7.5m、推定樹齢400年ともいわれている大杉だ。
一本杉
 この木の下に「右 てんじょく山」「左 おくのゐん」と刻まれた明治20年の道標がある。
 14時33分にここを通る。
右 てんじょく山
 その先で舗装道に出る。ここを左へ進むと奥の院へ行くが、黒河道は右へ進む。
 その先に森林センターという建物があり、ここを開けていていただいて休憩する予定だったそうだが、予定よりだいぶ早く14時40分に到着したので、まだ閉まっており、中に入らずしばらく休憩して進む。
 その先、まず左手に「黒河口」の標識があり、すぐ先今度は右手に「黒河口女人堂跡」の標識がある。
 今は真ん中を道路が通っているが、昔はこの一帯が山で、女人堂が建っていたのだろう。
 15時21分にここを通る。
黒河口看板黒河口女人道跡

 右手に高野町役場があり、庁舎に 「祝 世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」 追加登録 決定」の大きな垂れ幕がかかっている。
高野町役場
 ここで隊列を整えて、世界遺産追加登録と書かれた旗2本を先頭にして、「はたごんぼ」を担いだ二人が続き、そのあとに参加者が続いて進んでいく。
隊列
 金剛峯寺には15時39分に到着する。
金剛峯寺
 この後、前述した橋本新聞に掲載されたような行事があったようだが、私はここで失礼して帰途につく。
 黒河道はぶっつけ本番の旅だったので、全容がつかめていないまま歩き始めたが、この道に詳しい方がおられ、色々と丁寧に説明をしていただいたので、要所を見落とすことなく歩くことができてよかったと思う。
 三つの峠を越えたが、相当に厳しい登りだった。山登りはどちらかというと苦手な私だが、それでもなんとか無事歩き終えることができてよかった。

 本日の歩行時間   6時間12分。
 本日の歩数&距離 20142歩、19.8km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん