2016年09月22日(木)
星田駅~法善寺
曇り
10時2分に星田駅を出発する。
駅から右へ進むのだが、道は二股にわかれており、最初は左手のほうに進んだのだが、これは間違いで、右手の道を進むのが街道だ。
傍示川岸右手に「大井川万吉 すぐ京 八はた 道」と刻まれた安政3年(1855)の道標が立っている。
傍示川を渡った左手に「弘法大師像」がある。
大谷の集落の中を進んでいくが、昔の街道の雰囲気が残っている。集落の中ほど右手に「延宝の愛宕燈籠」が立っている。
一旦20号線に合流するが、その先で20号線から左へ分岐し、細道を進んでいくと、左手に弘法大師を安置する石祠がある。資料によるとここが古い山根街道との合流点とのことだ。
その先で20号線を横断するが、その手前左手に「打上の弘法井戸」がある。
打上の四ツ辻と言われる四つ角がある。ここは南北に走る東高野街道と東西に走る奈良伊勢道の交わるところで、「南 かうや のさ紀 大坂みち 東 なら いせ ミち 北 京 八はた 柳谷」と刻まれた安政4年(1857)の道標が立っている。
ここで道を間違ってしまった。街道はここから右折して進むのだが、直進してしまったのだ。地図を見るとその先で東寝屋川駅を左手に見るようになっているのに、右手に駅を見てしまい、間違いに気が付いた。間違ったところから駅を右手に見ながら街道をさかのぼってみて本来の道が分かった。
左手に東寝屋川駅があり、右手には「大峯山」碑が二つ並んで立っている。
右手に明和小学校がある左手に「打上古墳群」がある。このあたりは古くから多くの古墳があったといわれており、ここにある花崗岩の巨石は、この付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられているという。またこの中に「弘法大師像」があるが、これはいつ頃安置されたものであるかは不明だが、台石に四十番、四十一番の番号が刻まれている。この付近にある打上弘法井戸や正縁寺などの大師像にも前後の番号が見られることから、これは札所番号で、この地の大師像を巡る霊場巡礼が行われていたと説明されている。
その先に天保14年(1843)の「二月堂灯籠」が立っている。当地には「柳谷二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも二月のお水取り頃には東大寺二月堂に参詣するという。右側の石灯籠には明和3年(1766)八幡宮と刻まれており、これは国守神社が八幡宮と呼ばれていたころに氏子によって寄進されたものという。
ここで街道から外れて「国守神社」へ行ってみたが、工事中で境内には入ることができなかった。
更に「正縁寺」へも行ってみた。ここには街道沿いにあった数多くの石仏が安置されており、また十三板碑があると説明されているが、門が閉まっていて、境内に入ることはできなかった。
二月堂灯籠のところまで戻って左へ進むと、右手に地蔵堂がある。
更にその先で道は二股になっているので、左へ進むと、左手にやはり「地蔵堂」がある。
その先で川に突き当たり、橋が架かっているが、これは渡らず、右折して川沿いに進んでいき、次の橋で20号線に合流、橋を渡って進む。忍ケ丘の駅を右手に見ながら進み、その先で20号線から右へ分岐して進むが、ここも一度道を間違ってしまい、角を一つ早く曲がってしまった。本来の街道は二つ目の角を右折して進む。トンボ公園という小さな公園があり、これを右手に見ながら進んでいく。
JA大坂東部四条畷支店の先から右折するが、小さな川が流れており、ここに道標らしき石が立っている。資料に書かれている「三坪橋 大正12年の親柱」がこれなのだろうか?よくわからなかった。
163号線の高架下を通って進むが、この辺りも細い道が続いていて、わかりにくかった。四条畷歴史民俗資料館を過ぎて進み、170号線に合流したところに「和田賢秀」の墓がある。正平3年(1348)(これは南朝方の歴で北朝方では貞和4年)楠正行公が四条畷で高師直と戦い、討ち死をしたときにともに戦った和田賢秀公の墓ということだ。現在の墓石は天保2年(1831)のものという。
左手に四条畷神社の鳥居と明治25年の常夜燈が立っている。この神社は明治23年に楠正行等を祀っているという。
細道を進んで行くと左手に楠正行の菩提寺という十念寺があり、街道はその先で170号線から左へ分岐して進む。
左手辻之町公民館の前に地蔵堂がある。
左手階段を上ったところに「慈眼寺」がある。 天平勝宝年間(749~757)にインドから来朝した婆羅門僧正が、行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サルナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたという。中世以後は戦乱により衰微したが、元和2年(1616)に青厳によって再興され、天和2年(1682)には「野崎詣り」が始まった。境内には近松門左衛門の女殺油地獄で有名なお染久松の塚がある。
街道に戻って進むと左手に「龍間山不動尊之瀧 東是従十八丁」と刻まれた大正14年の道標が立っている。
左手に「七ツ橋地蔵尊」があるが、説明書きがなかったので、由来はわからなかった。
「ガスト」があったので、ここで昼食にする。正午を少し過ぎていたが、店内は多くのお客でにぎわっていた。飢餓状態に弱い私は何はともあれ食事ができたので安心だ。
昼食を済ませて進むと、右手に「龍間山不動尊 たつまの コレヨリ東十八丁 志津サ 中村春」と刻まれた碑が立っている。
左手には「「右 大峯山上道 すぐ京 のざき やわた 柳谷 道 すぐ大峯山上」と刻まれた嘉永2年(1849)の碑が立っている。
左手に「金毘羅大権現」と刻まれた文化7年(1810)の常夜燈が立っている。
左手に孔舎衛小学校があり、その敷地を囲う垣根の一番先、南西の隅に「左 のざ紀ミち 弘化乙巳 善根寺村 勘左エ門 平野惣本山 八尾 九宝寺」と刻まれた弘化2年(1845)の道標が立っている。
川の横に大正13年の「大峯山登山百二度供養塔」が立っており、その横に弘法大師堂と観音堂の祠が二つ建っている。
石切中学のあるところから170号線から分岐して進むが、車の数が急に少なくなって歩きやすくなる。
左手、石切劔箭神社の参道に天明2年(1782)の常夜燈が立っている。
近鉄線の高架下手前右手に「石切藤地蔵尊」がある。ここは南北朝時代(1340前後)建武の頃に、当時有志により施餓鬼供養のため建立されたという。その後、大阪夏の陣の戦いの際、地蔵尊の顔が行方不明になり「首無し地蔵尊」と通称される様になった。ところがそれからは頭痛・めまい・熱病・足腰の痛み・神経痛等の病気平穏祈願すると願いが叶えられ全快した人々が数多く出て、信仰者・参拝者が増えて繁昌したと伝えられている。安政(1854~)の頃自然に芽生えた「藤」の木が大きく繁茂して地蔵尊を雨露からお守りする様になり、春ともなれば大きな紫の見事な花が咲くため、明治の中頃から誰云うなく「藤地蔵尊(ふじじぞうそん)」と呼ばれるようになったという。
左手に「すぐ石切劔」まで読むことができ、その下は埋まっている道標がある。
箱殿東の信号で暗越奈良街道と交差する。
左手に「官幣大社 牧岡神社」の社柱が立っており、そこに享保年間に建立されたという一の鳥居とその前に享保2年(1685)の常夜燈が立っている。枚岡神社は暗越奈良街道を歩いたときに立ち寄った神社だ。
右手にまだ新しい「鳥居地蔵堂」の祠がある。
右手に「弘法大師堂」があり、左手に「京 平岡 のざき や者た すぐ高野 大ミ年 ふぢゐ寺」と刻まれた道標がある。
170号線に合流するところに瓢箪山安心安全ステーションがあり、そこに「左 高野 大ミ年 ふぢゐ寺 喜里川村世話人」と刻まれた安政6年(1859)の道標がある。
サンロード瓢箪山というアーケード街を進んでいく。かなり長いアーケードだ。
アーケードを抜けた左手に瓢箪山稲荷神社の鳥居がある。この神社は天正12年(1584)に豊臣秀吉が大坂城築城の際にこの地に建立したという。
左手に「小楠公銅像」「東千メートル瓢山書」と刻まれた昭和7年の碑が立っている。
左手に小祠があり、中世の宝篋印塔2基や阿弥陀座像等が安置されている。
左手に「すぐ 信貴山毘沙門天王」と刻まれた道標が立っており、右手には「和州信貴山道是四十 大坂講中」と刻まれた宝永5年(1708)の道標が立っている。
右手に「恒内村一里塚(西塚跡)」碑が立っており、左手少し入ったところに松が立っている塚の跡がある。東高野街道で残っている一里塚はここだけという説明がされている。
左手に「元善光寺」と刻まれた大正9年の碑が立っている。
その先で少しの間、170号線から右へ分岐する旧道が残っている。
恩智神社の看板が立っているところの下に「東 信貴山 西 大坂 発起人藤原吉兵衛」と刻まれた明治6年の道標と「右 左 東高野街道 右 道明寺柏原 東高野街道 左瓢箪山四条畷 右 恩智街道 八尾停車場」と刻まれた道標が立っている。
すぐ先右手に地蔵堂がある。
その先左手に「シュミイ地蔵」がある。名前の由来は不明だが、天文13年(1544)に建立されている。
その先170号線を進んでいき、16時41分に平野の信号で今日の歩きを終えて法善寺駅へ向かい、八尾駅近くのホテルに入る。
本日の歩行時間 6時間39分。
本日の歩数&距離 33814歩、24.2km。
本日の街道純距離 22km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
10時2分に星田駅を出発する。
駅から右へ進むのだが、道は二股にわかれており、最初は左手のほうに進んだのだが、これは間違いで、右手の道を進むのが街道だ。
傍示川岸右手に「大井川万吉 すぐ京 八はた 道」と刻まれた安政3年(1855)の道標が立っている。
傍示川を渡った左手に「弘法大師像」がある。
大谷の集落の中を進んでいくが、昔の街道の雰囲気が残っている。集落の中ほど右手に「延宝の愛宕燈籠」が立っている。
一旦20号線に合流するが、その先で20号線から左へ分岐し、細道を進んでいくと、左手に弘法大師を安置する石祠がある。資料によるとここが古い山根街道との合流点とのことだ。
その先で20号線を横断するが、その手前左手に「打上の弘法井戸」がある。
打上の四ツ辻と言われる四つ角がある。ここは南北に走る東高野街道と東西に走る奈良伊勢道の交わるところで、「南 かうや のさ紀 大坂みち 東 なら いせ ミち 北 京 八はた 柳谷」と刻まれた安政4年(1857)の道標が立っている。
ここで道を間違ってしまった。街道はここから右折して進むのだが、直進してしまったのだ。地図を見るとその先で東寝屋川駅を左手に見るようになっているのに、右手に駅を見てしまい、間違いに気が付いた。間違ったところから駅を右手に見ながら街道をさかのぼってみて本来の道が分かった。
左手に東寝屋川駅があり、右手には「大峯山」碑が二つ並んで立っている。
右手に明和小学校がある左手に「打上古墳群」がある。このあたりは古くから多くの古墳があったといわれており、ここにある花崗岩の巨石は、この付近に散在していた古墳に使われていた石材を集めたものと考えられているという。またこの中に「弘法大師像」があるが、これはいつ頃安置されたものであるかは不明だが、台石に四十番、四十一番の番号が刻まれている。この付近にある打上弘法井戸や正縁寺などの大師像にも前後の番号が見られることから、これは札所番号で、この地の大師像を巡る霊場巡礼が行われていたと説明されている。
その先に天保14年(1843)の「二月堂灯籠」が立っている。当地には「柳谷二月堂両観音講」が百数十年前からあって、現在でも二月のお水取り頃には東大寺二月堂に参詣するという。右側の石灯籠には明和3年(1766)八幡宮と刻まれており、これは国守神社が八幡宮と呼ばれていたころに氏子によって寄進されたものという。
ここで街道から外れて「国守神社」へ行ってみたが、工事中で境内には入ることができなかった。
更に「正縁寺」へも行ってみた。ここには街道沿いにあった数多くの石仏が安置されており、また十三板碑があると説明されているが、門が閉まっていて、境内に入ることはできなかった。
二月堂灯籠のところまで戻って左へ進むと、右手に地蔵堂がある。
更にその先で道は二股になっているので、左へ進むと、左手にやはり「地蔵堂」がある。
その先で川に突き当たり、橋が架かっているが、これは渡らず、右折して川沿いに進んでいき、次の橋で20号線に合流、橋を渡って進む。忍ケ丘の駅を右手に見ながら進み、その先で20号線から右へ分岐して進むが、ここも一度道を間違ってしまい、角を一つ早く曲がってしまった。本来の街道は二つ目の角を右折して進む。トンボ公園という小さな公園があり、これを右手に見ながら進んでいく。
JA大坂東部四条畷支店の先から右折するが、小さな川が流れており、ここに道標らしき石が立っている。資料に書かれている「三坪橋 大正12年の親柱」がこれなのだろうか?よくわからなかった。
163号線の高架下を通って進むが、この辺りも細い道が続いていて、わかりにくかった。四条畷歴史民俗資料館を過ぎて進み、170号線に合流したところに「和田賢秀」の墓がある。正平3年(1348)(これは南朝方の歴で北朝方では貞和4年)楠正行公が四条畷で高師直と戦い、討ち死をしたときにともに戦った和田賢秀公の墓ということだ。現在の墓石は天保2年(1831)のものという。
左手に四条畷神社の鳥居と明治25年の常夜燈が立っている。この神社は明治23年に楠正行等を祀っているという。
細道を進んで行くと左手に楠正行の菩提寺という十念寺があり、街道はその先で170号線から左へ分岐して進む。
左手辻之町公民館の前に地蔵堂がある。
左手階段を上ったところに「慈眼寺」がある。 天平勝宝年間(749~757)にインドから来朝した婆羅門僧正が、行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サルナート)に似ている」と語り、それを受けた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが始まりと伝えられる。本尊は長谷寺の本尊と同木から彫られたという。中世以後は戦乱により衰微したが、元和2年(1616)に青厳によって再興され、天和2年(1682)には「野崎詣り」が始まった。境内には近松門左衛門の女殺油地獄で有名なお染久松の塚がある。
街道に戻って進むと左手に「龍間山不動尊之瀧 東是従十八丁」と刻まれた大正14年の道標が立っている。
左手に「七ツ橋地蔵尊」があるが、説明書きがなかったので、由来はわからなかった。
「ガスト」があったので、ここで昼食にする。正午を少し過ぎていたが、店内は多くのお客でにぎわっていた。飢餓状態に弱い私は何はともあれ食事ができたので安心だ。
昼食を済ませて進むと、右手に「龍間山不動尊 たつまの コレヨリ東十八丁 志津サ 中村春」と刻まれた碑が立っている。
左手には「「右 大峯山上道 すぐ京 のざき やわた 柳谷 道 すぐ大峯山上」と刻まれた嘉永2年(1849)の碑が立っている。
左手に「金毘羅大権現」と刻まれた文化7年(1810)の常夜燈が立っている。
左手に孔舎衛小学校があり、その敷地を囲う垣根の一番先、南西の隅に「左 のざ紀ミち 弘化乙巳 善根寺村 勘左エ門 平野惣本山 八尾 九宝寺」と刻まれた弘化2年(1845)の道標が立っている。
川の横に大正13年の「大峯山登山百二度供養塔」が立っており、その横に弘法大師堂と観音堂の祠が二つ建っている。
石切中学のあるところから170号線から分岐して進むが、車の数が急に少なくなって歩きやすくなる。
左手、石切劔箭神社の参道に天明2年(1782)の常夜燈が立っている。
近鉄線の高架下手前右手に「石切藤地蔵尊」がある。ここは南北朝時代(1340前後)建武の頃に、当時有志により施餓鬼供養のため建立されたという。その後、大阪夏の陣の戦いの際、地蔵尊の顔が行方不明になり「首無し地蔵尊」と通称される様になった。ところがそれからは頭痛・めまい・熱病・足腰の痛み・神経痛等の病気平穏祈願すると願いが叶えられ全快した人々が数多く出て、信仰者・参拝者が増えて繁昌したと伝えられている。安政(1854~)の頃自然に芽生えた「藤」の木が大きく繁茂して地蔵尊を雨露からお守りする様になり、春ともなれば大きな紫の見事な花が咲くため、明治の中頃から誰云うなく「藤地蔵尊(ふじじぞうそん)」と呼ばれるようになったという。
左手に「すぐ石切劔」まで読むことができ、その下は埋まっている道標がある。
箱殿東の信号で暗越奈良街道と交差する。
左手に「官幣大社 牧岡神社」の社柱が立っており、そこに享保年間に建立されたという一の鳥居とその前に享保2年(1685)の常夜燈が立っている。枚岡神社は暗越奈良街道を歩いたときに立ち寄った神社だ。
右手にまだ新しい「鳥居地蔵堂」の祠がある。
右手に「弘法大師堂」があり、左手に「京 平岡 のざき や者た すぐ高野 大ミ年 ふぢゐ寺」と刻まれた道標がある。
サンロード瓢箪山というアーケード街を進んでいく。かなり長いアーケードだ。
アーケードを抜けた左手に瓢箪山稲荷神社の鳥居がある。この神社は天正12年(1584)に豊臣秀吉が大坂城築城の際にこの地に建立したという。
左手に「小楠公銅像」「東千メートル瓢山書」と刻まれた昭和7年の碑が立っている。
左手に小祠があり、中世の宝篋印塔2基や阿弥陀座像等が安置されている。
左手に「すぐ 信貴山毘沙門天王」と刻まれた道標が立っており、右手には「和州信貴山道是四十 大坂講中」と刻まれた宝永5年(1708)の道標が立っている。
右手に「恒内村一里塚(西塚跡)」碑が立っており、左手少し入ったところに松が立っている塚の跡がある。東高野街道で残っている一里塚はここだけという説明がされている。
左手に「元善光寺」と刻まれた大正9年の碑が立っている。
その先で少しの間、170号線から右へ分岐する旧道が残っている。
恩智神社の看板が立っているところの下に「東 信貴山 西 大坂 発起人藤原吉兵衛」と刻まれた明治6年の道標と「右 左 東高野街道 右 道明寺柏原 東高野街道 左瓢箪山四条畷 右 恩智街道 八尾停車場」と刻まれた道標が立っている。
すぐ先右手に地蔵堂がある。
その先左手に「シュミイ地蔵」がある。名前の由来は不明だが、天文13年(1544)に建立されている。
その先170号線を進んでいき、16時41分に平野の信号で今日の歩きを終えて法善寺駅へ向かい、八尾駅近くのホテルに入る。
本日の歩行時間 6時間39分。
本日の歩数&距離 33814歩、24.2km。
本日の街道純距離 22km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)