山の辺の道を歩く

2016年05月21日(土) ~2016年05月22日(日)
総歩数:52178歩 総距離:38.8km

2016年05月22日(日)

天理~奈良 (北コース)         

                               晴れ
 9時3分に石上神宮を出発する。北コースは拝殿に向かって右手へ進むが、北コースも標識が随所にあって、わかりやすい道だった。ただ南コースと違って、草が生えている箇所があったり、けもの道のような道幅が狭いところもあった。歩く人も南コースと比べると極端に少なく、数組のそれらしき人たちと会っただけだった。

 布留川に架かる高橋を渡る。なんの変哲もない小さな橋だが、ここには「影媛悲話」がある。豪族物部氏の娘、美しい影媛を巡って、後の武烈天皇となる皇太子と権力者の息子平群鮪(へぐりのしび)が争ったが、媛の心は鮪に傾いていた。これに怒った皇太子は鮪を平城山(ならやま)に追い詰めて殺害してしまった。影媛がその悲しみを詠んだ歌にこの高橋が登場し、日本書紀にもその記述があるという。現在では布留川にある小さな滝の下流側に橋が架かっているが、古代はより深い渓谷に架かる橋だったと推測されている。
高橋
 この橋の下にある滝は布留川の本流と支流のそれぞれにあって、「ハタの滝」と呼ばれている。江戸時代に描かれた石上神宮の絵巻には、この場所に「祓殿(はらへど)」があったと書かれており、6月30日の夏越大祓式の際には、この場所に神剣が渡御しており、神社にとってはとても神聖な場所だったという。
ハタの滝
 この辺りも標識が随所に立っていて、それに従って進んでいくと、右手に「豊日神社」がある。案内板が立っていて「「豊日神社」と記された社号標の後方左右の石燈籠に「天満宮」と刻まれている。境内に並んでいる石燈籠にも「天満宮」が多く、「豊日神社」と刻まれているのは一基だけである。祭神が菅原道真公であること、道真公と所縁の深い牛の像が拝所の上の石段左右に据えられていること、鎮座地が天神口であることなどから、当社はかって天満宮であったことがわかる。古文書を根拠に明治になって豊日神社に改号された。創祀の時期は不明だが、道真公の時代以前だったことは間違いないだろう」などと説明されている。
 境内の石燈籠を見てみたが、確かに「豊日神社」と刻まれたものは一基だけで、他には「御神燈」と刻まれたものや「天満宮」と刻まれたものが立っている。
 今日は拝殿の修理が終わったことから奉祝祭が行われるそうで、地元の方がその準備のため境内に来られていた。
1豊日神社2豊日神社

 その先で「山の辺の道 う回路」と記された標識が立っていて、う回路は左折するようになっていたが、ここを直進する。道は山すそを通っており、かなり草が茂っているが、それでもしっかりとした道があるので、これを進んでいく。
草が茂っているが
 「豊田山城跡」の案内板が立っている。室町時代中期、豊田氏は興福寺の衆徒として布留郷に勢力を張っていた豪族で、豊田頼英の時代に越智党に属し、近郷に勢力を伸ばしていた。その居城が豊田山城で、標高180mの山地にあり、現在でも4ヶ所の郭(くるわ)と土塁、空堀(からぼり)の跡などが残っているそうだが、立ち寄らずに、ここから左折して山道を下っていくが、少しの間ではあるが石畳の道がある。鶯の声が聞こえて気持ちがいい。
 左手に「花しょうぶ園」がある。まだしょうぶの時期には少し早いので、花がわずかに咲いているのみだったが、一斉に花が開くときれいだろうなと思った。
花しょうぶ園
 その先に「石上大塚古墳」がある。6世紀前半に築造されたものと言われているが、竹藪の中にあって、わずかに土が盛り上がっているのを確認できただけだった。
石上大塚古墳
 白川ダムには10時3分に着く。水辺で釣りをしている人がかなりいた。ヘラブナやワカサギ釣りができるそうだが、有料とのことだ。
白川ダム
 白川ダムを後にして、坂道を下っていくと、左手に古墳公園があり、ここで舗装道路に突き当たる。資料ではここは左折するようだが、標識は右折するようになっている。資料を見ると、結局その先で合流するようなので、標識に従って右折して進む。右側には競技場があり、運動をしている人たちの声が聞こえてくる。
 右手に小さな池があり、その角に「右 いが いせ 左 こくうぞう寺 道」と刻まれた文政4年(1821)の道標が立っている。
文政4年
 ここから右折して進んで、山道を登っていくと10時43分に「弘仁寺」に着く。
弘仁寺のHPによると「弘仁寺の創建に関しては二つの物語が伝わっています。一説には、嵯峨天皇の夢に、老人があらわれて 「奈良の南に霊山がある。もろもろの仏があらわれて、お経の声がたえない。ここに寺をたてて、衆生を利益されたい。」と 申された。夢から目覚めた嵯峨天皇がその地を探されたところ、現在の虚空蔵山にあたる場所がわかり、お喜びになった嵯峨天皇が建立された(815年創建)という物語。 他説には虚空蔵山に流星が落ちるのを見た弘法大師が霊山として開基した(807年創建)という物語。もとより1200年を経た現在となっては、確かめるすべはありませんが、弘仁寺は平安初期に創建された寺院であります。」「室町時代(元亀3年(1572))に松永久秀の兵火により、大部分が焼失し、現在の本殿は寛永6年(1629)僧宗全により再建された」となっている。
弘仁寺
 本堂に向かって右手の門から出て階段を下っていくと、右手に「奥の院」があり、弘法大師が自ら彫られたという不動尊が祀られていた。
奥の院」
 山を下ると火の見櫓が立っていて、ここから高樋集落の中へ入っていく。
 「大峯 山上 八拾八度供養」の石碑が立っている。大峯とは大峯奥駈道のことを指しているのだろうか?
八拾八度供養
 その先右手に「御大典記念時計台」がある。高樋青年団によって建立され、昭和55年に復元されたものという。
時計台
 更にその先右手に先ほどと同じように「大峯 山上 五十五度供養」の碑が立っていて、その上に延命地蔵堂がある。
五十五度供養
 この先で失敗をしてしまった。私が見ている近鉄の「てくてくまっぷ」の北・山の辺の道コースは①と②の二ページにまたがっていて、②のページが天理駅から山村町バス停までになっており、①のページは山村町バス停から奈良までになっている。
これまで②のページを見ながら歩いてきたのだが、②のページは円照寺へは向かわず、山村町バス停に行くようになっている。しかし街道は円照寺へ行くはずだし、標識も円照寺へ向かうようになっている。おかしいなと一瞬思ったが、とりあえず標識に従って円照寺まで行き、そのあとで地図に従って、円照寺から戻って、山村町バス停まで歩いてしまったのだ。後から考えるとまったくバカみたいなのだが、次のページを見ていなかったので、地図通りに歩いてしまった。山村町のバス停まで来て、さて次の①ページを見てみると、なんとバス停から今来た道を戻るようになっているではないか。ここで初めて間違いに気が付いた。そのためバス停から円照寺への道を二回歩くことになってしまった。
 改めて本来の道を記述すると、弘仁寺から下ってきた道に標識があって、「円照寺」への道順を示す矢印が付いており、その横に万葉集の歌碑が立っている。
道順を示す矢印
 その先、途中にも随時標識が立っているので、それに従って進むと、右手に竜王池があるところ左手に鳥居が立っていて、ここから山の中へ入っていく。 
左手に鳥居
 途中に「大師堂」がある。
大師堂
 その先右手に「円照寺」があるが、ここは立ち入ることはできないので、入り口から写真のみ撮らせていただく。ここは山村御殿とも呼ばれ、中宮寺・法華寺と並ぶ大和三門跡寺院の一つと言われている。寛永18年(1641)に、後水尾天皇の第1皇女・文智女王(大通文智)が京都の修学院の地に草庵を結んだのが始めで、明暦2年(1656)に、大和国添上郡八嶋の地に移って「八嶋御所」と称し、寛文9年(1669)に、現在地に移転したという。二回目の円照寺を12時32分に通る。
円照寺1円照寺2

 円照寺を右に見て左折して進むと、すぐ先に標識が立っていて、ここから右折して山道を登っていく。うっかりすると見落としそうな標識だった。
すぐ先に標識
 その先に安永4年(1775)の石仏があり、その周りには多数のお墓があった。
安永4年
 その先で道は二股に分かれているが、ここには標識がなかったので、右へ進んでしまった。ところがこれは間違いだったので、元に戻って左へ進む。分岐する場所にはほとんど標識が立っているのだが、ここにはなかった。
道は二股
 池があるが、ここに「山の辺の道 イノシシ防護柵につき開けたら閉めて下さい」と書かれた柵があるので、ここを抜けて進む。この辺りもイノシシが多いのだろう。
イノシシ防護柵
 池の周りを進むと、左手に「崇道天皇(すどうてんのう)陵」があり、12時48分にここを通る。崇道天皇の本名は早良親王で、正式に天皇に即位をしたわけではない。 同母兄の桓武天皇が即位したことから、皇太子に選ばれたのだが、延暦4年(785)、桓武天皇の右腕として長岡京の造営に尽力していた藤原種継の暗殺事件が勃発。この事件に関与したとして、皇太子を廃され、淡路国へと流されてしまった。身の潔白を訴える親王は飲食を断ち、淡路国におもむく途中で絶命してしまった。その遺骸は淡路国に埋葬されたが、親王に代わって皇太子となった小殿親王(後の平城天皇)の発病や宮廷関係者の立て続く死など、親王の薨去後に災いが次々に発生した。そのため親王の怨霊を怖れた朝廷は、延暦19年(800)、親王に「崇道天皇」の尊号を追贈するとともに、陵墓も大和国に移したという。天皇に即位していないのに天皇の称号をいただいているのは、こうして悲劇的な最期を迎えた親王の怨念を怖れたためだったのだ。
崇道天皇
 その先左手に「嶋田神社」がある。ここは春日大社と深い関わりがある。春日大社の本殿は、幕末までほぼ20年周期で建て替えられており、新しい本殿が完成すると、以前の本殿は各地の神社へ払い下げられていた。嶋田神社の本殿も払い下げられた社殿の一つで、宝永6年(1709)、春日大社の本殿(第三殿)として建立されていることが、部材に残る銘文から判明しているという。本殿は、現在、奈良市指定文化財に登録されている。
この神社の本殿はかって、崇道天皇陵の上に鎮座しており、移築されたのは、享保12年(1727)頃で、崇道天皇の御魂をまつる神社として、当時は崇道天王社と呼ばれていたという。崇道天皇陵の整備がおこなわれた明治19年(1886)に嶋田神社に合祀され、現在の地にふたたび移築されたという。そのため社前に建つ石燈籠などには「崇道天王社」と刻まれている。
嶋田神社
 「白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」が右手にある。これは加賀一宮として鎮座する白山比咩神社の末社で、境内には元禄4年(1691)や寛政4年(1792)白山権現と記された石燈籠がある。 現社殿は昭和55年の造替されたという。
白山比咩神社
 その先にもイノシシ対策の柵があり、これを抜けて池の周りをまわって進む。ほぼ一周したところで下へ下る細道があったので、これを下って集落の中へ入っていったが、これは間違いで、池を完全に一周してしまったところに標識があって、ここから標識にしたがって進む。
 すぐ先に天保と読むことができる常夜燈が立っている。
天保と読むことができる
 「鹿野園八阪神社」がある。ここの創建は定かではなく、天正年間(1573~92)以前に「梵福寺」(旧岩淵寺の一院?)の鎮守として祀られた伝えられており、明治3年に八坂神社に改称してされたという。昭和55年に境内・社殿が整備されたという。
八阪神社
 その先でまた道を間違った。左手に重症心身障害児学園・病院バルツア・ゴーデルがあり、その先の道の左手に標識が立っており、右手の壁には矢印が記されている。
左標識右標識

 ここからすぐに右折しなければいけないのだが、すぐ前方に舗装された道が見えたので、そこを右折すればいいと勘違いしてしまったのだ。ところが歩いているとどうもおかしいので、もう一度戻ってみて、標識を再度確認すると、標識の立っているところからすぐに右折して進んでいかなければいけなかったことが分かった。この道は草道だった。
道は草道
 その先にも鹿の侵入防止柵が二つあるので、これを開閉して進む。

 左手に「右 かすが ちか道 大ば川」と読める道標がある。
右 かすが 
 街道から右へ少し入ったところに「白毫寺(びゃくごうじ)」があり、14時15分に着く。雲亀元年(715)天智天皇の第7皇子である志貴皇子の没後、皇子の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられ、鎌倉時代になって西大寺の叡尊によって再興され、叡尊の弟子である道照が宋から大宋一切経の摺本を持ち帰り、一切経転読を行ったことから、一切経寺とも呼ばれて繁栄した。室町時代に兵火で建物が焼失し衰退するが、江戸時代の寛永ごろに興福寺の空慶によって復興されたという。本尊の木造阿弥陀如来坐像は檜材の寄木造で、平安時代末期から鎌倉時代頃の作といわれ、重要文化時に指定されている。
白毫寺1白毫寺2

 境内には天然記念物の「五色椿」が植えられており、奈良三名椿の一つとされている。
五色椿
 左手に「宅春日神社」がある。祭神は天児屋根命・比売神(あめのこやねのみこと・ひめかみ)で護景雲2年(768)に春日神社が創祀された直後に最初に末社として創建されたと伝わっており、奈良時代に、枚岡神社から天児屋根命が春日大社へ勧進される途中に一時休憩された場所という伝承もあるという。現在の本殿は明和4年(1767)の造営という。
宅春日神社 
 左手に「鏡神社」がある。ここの本殿は代々春日大社の社殿を下賜されてきたもので、現在の本殿は延享3年(1746)第46次式年遷宮による御造営の際に、旧本殿のうち第3殿を譲渡したものという。昭和34年の修理時、屋根裏から「三の御殿」という墨書銘が二か所から発見されたという。移設当時に近い形状を現在でも残しているという。奈良市指定文化財になっている。
鏡神社
 その横に「新薬師寺」がある。ここは寺伝によれば天平19年(747)に光明皇后が、聖武天皇の眼病が治るように行基に建立させ、七仏薬師如来を安置したといわれている。かつては七堂伽藍が整った由緒ある寺院だったが、現在は本堂だけが残っていて、国宝に指定されている。現在の本堂は様式からみて奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したものという。東門・南門・鐘楼・地蔵堂はいずれも鎌倉時代の建造で重文に指定されている。
現本尊の薬師如来像は様式・技法上、平安時代初期の制作とするのが一般的だが、本堂建立と同時期までさかのぼる可能性も指摘されており、国宝に指定されている。また本尊を囲む等身大の塑造十二神将立像も同様に国宝に指定されている。内部は撮影禁止のため仏像の写真は撮ることができませんでした。
新薬師寺
 その先右手に「不空院」がある。ここには鎌倉時代初期の作品で重要文化財に指定されている木造不空羂索観音座像が安置されている。
不空院
 その先で先日歩いた「柳生街道」に合流するので、ここで山の辺の道を歩き終わったことにする。
 14時46分に着く。

 本日の歩行時間   5時間43分。
 本日の歩数&距離  26649歩、19.8km。
 本日の街道純距離 15.3km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)

山の辺の道総合計
 総歩行時間      10時間31分。
 総歩数         52178歩。
 総歩行距離      38.8km。
 山の辺の道純距離  33.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)


 ここから柳生街道をさかのぼって、前回見落とした「夕日観音」を見に行くことにした。
 詳細は「柳生街道 歩く」のページを参照いただきたいと思いますが、往復で1時間弱の距離でした。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん