2016年05月21日(土)
桜井~天理 (南コース)
晴れ
「山の辺の道」は三輪から奈良へ通じる古道で、日本書紀にも記されている日本最古の古道と呼ばれている。そのうち海柘榴市(つばいち)から石上神宮までを南コースと呼び、石上神宮から奈良までを北コースと呼んでいる。今日はその中でも桜井駅から天理駅までの南コースを歩いた。この道の大部分は東海自然歩道に指定されていて、標識が整備されており、地図がなくても歩くことができるほどわかりやすい。また、ハイキングコースとして親しまれているそうで、数多くの歩く人がいた。土曜日ということもあるのだろうが、これほど歩いている人が多い街道も珍しい。資料は近鉄の「てくてくマップ 奈良9 山の辺の道コース」を参考にした。
桜井駅を10時2分に出発するが、駅前の道路に「山の辺の道へ」と刻まれた石がある。
これから先しばらくは道路に標識が埋め込んでいて、これを辿っていけばいいようになっている。
大和川に架かる鳥井手橋を渡ると、その先に「仏教伝来之地碑」が立っている。ここは前回上街道を歩いたときに通ったところだ。ウォーキングの団体と思える集団が碑の前にいて、説明を受けていた。
その先、右手にこれも前回歩いたときに見た「左 はせ いせ 道」「右 三は なら 道」と刻まれた天保12年(1841)の道標が立っている。
ここから前回歩いた上街道を戻るようにして進んで行くと、右手に「海柘榴市観音堂」の標識が立っており、そこに海石榴市を詠んだ有名な万葉歌「紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十(やそ)のちまたに 逢へる子や誰れ」の歌碑が立っている。このような歌碑はこれから先も各所に立っていた。
標識に従って街道から外れて右折して観音堂へ向かう。観音堂の建物はまだ新しいが、十一面観音立像と聖観音菩薩立像が安置されている。また境内には寛政3年(1791)の青面金剛像や弘化3年(1846)、天保10年(1839)といった古い石碑が立っている。
街道に戻って進むと、海石榴市の説明文が立っていて、「ここ金屋のあたりは古代の市場 海石榴市のあったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山ノ辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢・長谷詣でが盛んになるにつれて宿場町として栄えました。」と記されている。
その先右手に「これより近道」「三輪大明神」「ならこへ」と刻まれた石の道標が立っており、ここから上街道から右へ分岐して進む。
「金屋の石仏」に10時29分に着く。コンクリートの建屋だが、ここに釈迦如来(右手)、弥勒如来(左手)の像が安置されている。これは鎌倉時代の作といわれるが、天平末期という説もあるという。もとは大神神社近くの平等寺にあったが、廃仏毀釈で寺と一緒に破壊されるところを村人が現在地に移し、今も守り続けているという。ここにもウォーキングのグループがいた。
山の中の道を進むが、空気がひんやりしていて気持ちがいい。
「平等寺」に10時41分に着く。この寺は、581年に聖徳太子が賦徒を平定するため、三輪明神に祈願して賦徒平定後、十一面観音を彫んで寺を建立し、大三輪寺と称したのにはじまるという。鎌倉時代に僧慶円上人(三輪上人)を迎え、平等寺と改称された。明治の廃仏毀釈令により一時崩壊したが、昭和52年3月に復興したという。ご本尊は、聖徳太子の御自作と伝えられる十一面観世音菩薩で、現在の本尊は平安期に復元したものという。関ヶ原の戦いに破れた島津義弘が、一時この寺でかくまわれていたという。境内には吉野朝時代の僧善教が大和の国の熱病平癒のために彫られたという「熱取り地蔵」等がある。
10時50分に「大神神社(おおみわじんじゃ)」に着く。ここは山の辺の道で最も大きな神社で、三輪山の裾野を走る「山辺の道」を象徴する神社でもあり、日本で最も古い神社の一つと言われている。後方にそびえる三輪山を御神体とする神社で、三輪山の神「大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)」を拝むための拝殿のみで本殿はない。この拝殿は国重要文化財で、寛文4年(1664)徳川家綱公により再建されたという。山中には、縄文・弥生時代からの祭祀跡も発見されているという。
境内に「巳の神杉」が立っている。「ご祭神の大物主大神 が蛇神に姿をかえられた伝承が日本書紀等に記され、蛇神は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳さん(親しみを込めて蛇をそう呼ぶ)が出入りすることから「巳の神杉」の名がつけられました。近世の名所図絵には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれてあり、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます」と説明されている。
杉の木の下ではちょうど結婚式の記念撮影が行われていた。
境内を通り抜けて進み、ちょっとした階段を下り、すぐ先で右折して階段を上っていくと、右手に「活日神社(いくひじんじゃ)」がある。実在する最古の天皇と言われる第十代崇神天皇の時代、国は疫病の流行で混乱を極めていた。そんな時、天皇に、夢で大物主大神様から「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」というお告げがあった。それを聞いた天皇は「高橋活日命(たかはしいくひのみこと)」を呼び、一夜で酒造りを行い神酒を奉納した。すると疫病は去り、国が富みはじめたという。そんな経緯から古図には、一夜酒之社と書かれており、土地の人もまた、一夜酒さんとよんでいる。このことによって高橋活日命は杜氏の神様として、大神神社の摂社「活日神社」に祀られたという。そのため酒づくりに取り組む杜氏さんたちの先祖とも仰がれ、現在でも丹波や丹後・但馬、北陸、中国筋の杜氏さん達が、蔵入りする前と、無事百日勤めを終えてそれぞれ郷里へ帰る時にこの社に参拝するという。
整備された砂利道を進んでいくが、この道の両側にはさまざまな薬草や薬木が植えてあり、この道を「くすり道」というそうで、薬に関係した磐座神社や狭井神社へ向かう道だ。
その先、右手に「磐座神社(いわくらじんじゃ)」がある。「御祭神の少彦名神(すくなひこなのかみ)は大物主大神と共に国土を開拓し、人間生活の基礎を築かれると共に、医薬治病の方法を定められた薬の神様として信仰されています。三輪山の麓には辺津磐座(へついわくら)と呼ばれる、神様が鎮まる岩が点在し、この神社もその一つです。社殿はなく、磐座を神座とする形が原始の神道の姿を伝えています」と説明されている。
さらに進んでいくと、右手に「狭井神社(さいじんじゃ)」の鳥居があり、ここから境内へ入っていく。11時2分に着く。ここは大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。社伝によれば、創祀は垂仁天皇の時代とされている。大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)、勢夜多多良姫命(せやだたらひめ)および事代主神(ことしろぬしのかみ)を配祀している。荒魂(あらみたま)とは、荒ぶるような猛々しい働きをもって現れる霊魂のことで、戦時や災時などにあたって現れ、祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わるという。ここも三輪山を御神体とする神社で拝殿があるのみだ。三輪山の標高は467.1mで、その山頂に高宮神社があり、信仰者の登頂を認めている。登拝口は拝殿の右側にあるので、社務所に願い出て、住所・氏名・入山時間・性別を記入し、登拝口で祓いをすませれば、木綿襷を肩にかけて誰でも登頂できるそうだ。ただし、往復とも指定された一本道だけを通ること、禁則地域には絶対立ち入らないことなど厳しい制約が課せられており、途中に急な坂道もあり、普通の人なら頂上まで1時間はかかるとのことである。なお、登頂は有料とのことだ。
参拝を終えて鳥居まで戻って、右折して進む。
右手に「貴船神社」がある。「御祭神は生命の根源である水の神淤加美神(おかみのかみ)で、また、縁結びの神としても信仰され、夫婦円満・恋愛成就の御利益があるとされます。神社の古い記録に、本社の大神祭(卯の日神事)の時には、必ずこの神社にもお供えを上げて、祝詞を奏上したとあり、丁重に祀られてきました」と説明されている。
「玄賓庵(げんぴあん)」に11時22分に着く。ここは桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲して、弘仁九年(818年)になくなったという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられている。ここは世阿弥の作と伝える謡曲で、玄賓と三輪明神の物語を題材にした「三輪」の舞台として知られている。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたという。本尊の三光不動尊は藤原時代の作で、奈良県下で最古の不動尊として、重要文化財に指定されている。
「檜原神社(ひばらじんじゃ)」に11時30分に着く。ここは大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、この地で祭祀されていた時代があったそうで、伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきたという。そのため、この神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。 この神社は寛政年間の台風によって、大きな被害をこうむって廃墟と化してしまったが、廃墟のまま祭礼は行われてきて、現在のように整備されたのは戦後になってからという。三輪山の中にある磐座をご神体にしているので、本殿も拝殿もない。また、鳥居は中央と左右に脇鳥居がある、三輪鳥居という珍しい形式で、ここでしか見られないものだという。
この辺りは万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にあるため、見晴らしがいい。
天保と読める常夜燈と地蔵堂が二つ並んでいる。
街道から右へ分岐して進むと、右手に「纒向・日代宮跡」(まきむく・ひしろみやあと)がある。「紀元730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(おおたらしひこをしろわけ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。」と説明されている。
更に進んでいくと、右手に「相撲神社」がある。相撲はもとは神の信仰から出ていて、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であった。第11代垂仁天皇7年に、大兵主神社神域の小字カタヤケシにおいて、野見宿禰と当麻蹴速が、日本最初の勅命天覧相撲を行ったと言われ、これが相撲節(7月7日)となり、それがもとで後世、宮中の行事になったと説明されている。この神社には鳥居はあるが、社殿は無い。ただ左手に小さな祠があった。神社境内の中央に土俵があり、土俵の盛り土の四隅には四本柱の代わりに桧の木が4本植えられている。今日はちょうど「わんぱく相撲」が行われていて、子供たちが一所懸命相撲をとっていた。
更にその先に「穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)」がある。「当社は三社殿にして、古典の伝えるところでは、今から二千年前のご創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、祈念・月次・相嘗・新嘗のもろもろの祭りの官幣に預かり、元禄五年には、正一位の宣旨を賜った、最高の社格をもつ大和一の古社といわれています」と説明されている。元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に、倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいわれており、式内社である、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社を室町時代に合祀したものという。境内には慶応2年(1866)の常夜燈が立っている。
ここを参拝後、相撲神社でわんぱく相撲を見ながら、昼食のおにぎりを食べ、12時19分に出発する。
この辺りも食事をする店がなかった。
街道に戻って標識に従って進むと、前方に「渋谷向山古墳」が見えてくる。
全長約300メートルの巨大前方後円墳で、景行天皇山辺道上陵として、宮内庁により陵墓治定を受けている。これは4世紀後半に築造された古墳時代前期後半の古墳と思われ、この時代の古墳としては国内最大の古墳という。第12代と数えられる景行天皇に関しては日本武尊(ヤマトタケル)の父と言われているが、実在性には疑問が出されているということだ。古墳は街道から700mばかり離れたところに正面があったので行ってみた。
街道に戻って進むが、この辺りにも標識が随所に立っていて、道に迷うことはない。
その先に「行燈山古墳」がある。この古墳も前方後円墳で、三輪山の山麓に築かれた大和、柳本古墳群の中でも渋谷向山古墳に次ぐ大きさであり、崇神天皇陵に比定されている。崇神天皇は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくなく、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力ということだ。この古墳の正面は街道から500mほど離れた場所にあった。
「長岳寺」には13時30分に着く。ここは天長元年(824)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。まず庫裏(旧地蔵院本堂及び庫裏)があるが、これはかつて48もあった塔頭のなかで唯一残った旧地蔵院の遺構で、寛永7年(1630)~寛永8年(1631)の建築だが、室町時代の書院造の様式を伝えており、重要文化財に指定されている。
楼門をくぐって境内に入っていくが、これはかつては上層に鐘楼が吊られていたために「鐘楼門」と呼ばれる日本最古の鐘門で、下層は室町~安土桃山時代、上層は平安時代のものという。寺伝では空海による創建当初から現存する建物というが、上層部分も空海の時代まではさかのぼらず、平安時代末期頃の建築とされる。
本堂は天明3年(1783)に再建された建物で、阿弥陀三尊像と多聞天・増長天立像を安置している。
「中山大塚古墳」がある。 これはこのあたり一帯に展開する大和古墳群の南側に位置する前方後円墳で、前方後円墳が築かれ始めた頃、古墳時代初頭の古墳と判断されているという。ここに「大和神社お旅所」がある。「4月1日は大和神社よりここお旅所(大和稚宮神社)まで神輿渡御が行われます。祭り始めは、ちゃんちゃん祭り、祭り納めはおん祭り、大和の俚謡に歌われる大和の代表的な祭りです。‘ちゃんちゃんと鉦鼓の音が大和に春を告げます」と説明されている。
「燈籠山古墳」がある。ここも前方後円墳だが、発掘調査が行われていないため、埋葬施設は不明とのこと。築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前半)と考えられていると説明されている。
「西山塚古墳」がある。これは古墳時代後期前葉の前方後円墳で、前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけという。ここも発掘調査は行われていないが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されているという。
「波多子塚古墳」がある。これも前方後円墳だが、墳丘が畑や果樹園等に開墾されていて、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されていると考えられているという。築造時期は出土した埴輪の年代から、古墳時代前期、おおむね4世紀前葉と考えられているという。
このようにこの辺りには数多くの古墳が存在していて、大和古墳群と呼ばれている。
「夜都伎神社(やつぎじんじゃ)」に14時17分に着く。この地には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられている。この神社は昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する新饌を献供し、春日から60年毎に若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていたと伝えられている。現在の本殿は明治39(1906)年改築したもので、拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築で、もとは神宮寺で十来子(十羅刹)を祀っていたという。
「内山永久寺跡」がある。ここは平安時代後期の永久2年(1114)に鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれているが、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまは境内の本堂池などにわずかに面影を残しているのみだ。
「石上神宮(いそのかみじんぐう)」に14時50分に着くが、境内に入ると鶏がいる。鶏は『古事記』『日本書紀』にも登場しており、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされているそうだが、ここでは今から40年程前に奉納されたそうで、現在役30羽がいるという。鶏たちは夕方暗くなる前に低い木々から順々に高い枝に飛び上がり、そこで一夜を過ごしているそうで、烏骨鶏やレグホンは高く飛び上がることが出来ないため、専用の鶏舎にて夜を過ごしているという。
石上神宮は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られた、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきたという。平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、国宝に指定されている拝殿は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えており、建立年代は鎌倉時代初期とみられている。 ここも大神神社と同様に拝殿のみで本殿はなかったが、大正2年に本殿が造営されたという。
また「摂社 出雲建雄神社拝殿」があるが、これは元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿だったが、大正3年に現在地に移築されたという。内山永久寺は神仏分離令により明治9年に廃絶。その後も鎮守社の住吉社は残されたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残されていたので、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築したという。従ってこの建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されている。建立年代については、はじめは保延3(1137)年に建立され、その後13・14世紀に2回の改築によって現在の構造・形式になったと考えられている。
これで南コースを歩き終える。
本日の歩行時間 4時間48分。
本日の歩数&距離 25529歩、19km。
本日の街道純距離 17.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
ここから天理駅まで歩く。天理市の中心部を歩いていくが、天理市は日本で唯一宗教団体の名称が市名となっている市で、市内各所に天理教の関連施設が建っているが、その中でも「天理教教会本部」の建物はとても大きいものだ。
天理駅には15時30分に着く。
石上神宮から天理駅までの距離は2.6kmだったので、
本日歩いた総歩数は29418歩、 総距離は21.6kmだった。
「山の辺の道」は三輪から奈良へ通じる古道で、日本書紀にも記されている日本最古の古道と呼ばれている。そのうち海柘榴市(つばいち)から石上神宮までを南コースと呼び、石上神宮から奈良までを北コースと呼んでいる。今日はその中でも桜井駅から天理駅までの南コースを歩いた。この道の大部分は東海自然歩道に指定されていて、標識が整備されており、地図がなくても歩くことができるほどわかりやすい。また、ハイキングコースとして親しまれているそうで、数多くの歩く人がいた。土曜日ということもあるのだろうが、これほど歩いている人が多い街道も珍しい。資料は近鉄の「てくてくマップ 奈良9 山の辺の道コース」を参考にした。
桜井駅を10時2分に出発するが、駅前の道路に「山の辺の道へ」と刻まれた石がある。
これから先しばらくは道路に標識が埋め込んでいて、これを辿っていけばいいようになっている。
大和川に架かる鳥井手橋を渡ると、その先に「仏教伝来之地碑」が立っている。ここは前回上街道を歩いたときに通ったところだ。ウォーキングの団体と思える集団が碑の前にいて、説明を受けていた。
その先、右手にこれも前回歩いたときに見た「左 はせ いせ 道」「右 三は なら 道」と刻まれた天保12年(1841)の道標が立っている。
ここから前回歩いた上街道を戻るようにして進んで行くと、右手に「海柘榴市観音堂」の標識が立っており、そこに海石榴市を詠んだ有名な万葉歌「紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十(やそ)のちまたに 逢へる子や誰れ」の歌碑が立っている。このような歌碑はこれから先も各所に立っていた。
標識に従って街道から外れて右折して観音堂へ向かう。観音堂の建物はまだ新しいが、十一面観音立像と聖観音菩薩立像が安置されている。また境内には寛政3年(1791)の青面金剛像や弘化3年(1846)、天保10年(1839)といった古い石碑が立っている。
街道に戻って進むと、海石榴市の説明文が立っていて、「ここ金屋のあたりは古代の市場 海石榴市のあったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山ノ辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢・長谷詣でが盛んになるにつれて宿場町として栄えました。」と記されている。
その先右手に「これより近道」「三輪大明神」「ならこへ」と刻まれた石の道標が立っており、ここから上街道から右へ分岐して進む。
「金屋の石仏」に10時29分に着く。コンクリートの建屋だが、ここに釈迦如来(右手)、弥勒如来(左手)の像が安置されている。これは鎌倉時代の作といわれるが、天平末期という説もあるという。もとは大神神社近くの平等寺にあったが、廃仏毀釈で寺と一緒に破壊されるところを村人が現在地に移し、今も守り続けているという。ここにもウォーキングのグループがいた。
山の中の道を進むが、空気がひんやりしていて気持ちがいい。
「平等寺」に10時41分に着く。この寺は、581年に聖徳太子が賦徒を平定するため、三輪明神に祈願して賦徒平定後、十一面観音を彫んで寺を建立し、大三輪寺と称したのにはじまるという。鎌倉時代に僧慶円上人(三輪上人)を迎え、平等寺と改称された。明治の廃仏毀釈令により一時崩壊したが、昭和52年3月に復興したという。ご本尊は、聖徳太子の御自作と伝えられる十一面観世音菩薩で、現在の本尊は平安期に復元したものという。関ヶ原の戦いに破れた島津義弘が、一時この寺でかくまわれていたという。境内には吉野朝時代の僧善教が大和の国の熱病平癒のために彫られたという「熱取り地蔵」等がある。
10時50分に「大神神社(おおみわじんじゃ)」に着く。ここは山の辺の道で最も大きな神社で、三輪山の裾野を走る「山辺の道」を象徴する神社でもあり、日本で最も古い神社の一つと言われている。後方にそびえる三輪山を御神体とする神社で、三輪山の神「大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)」を拝むための拝殿のみで本殿はない。この拝殿は国重要文化財で、寛文4年(1664)徳川家綱公により再建されたという。山中には、縄文・弥生時代からの祭祀跡も発見されているという。
境内に「巳の神杉」が立っている。「ご祭神の大物主大神 が蛇神に姿をかえられた伝承が日本書紀等に記され、蛇神は大神の化身として信仰されています。この神杉の洞から白い巳さん(親しみを込めて蛇をそう呼ぶ)が出入りすることから「巳の神杉」の名がつけられました。近世の名所図絵には拝殿前に巳の神杉と思われる杉の大木が描かれてあり、現在の神杉は樹齢400年余のものと思われます」と説明されている。
杉の木の下ではちょうど結婚式の記念撮影が行われていた。
境内を通り抜けて進み、ちょっとした階段を下り、すぐ先で右折して階段を上っていくと、右手に「活日神社(いくひじんじゃ)」がある。実在する最古の天皇と言われる第十代崇神天皇の時代、国は疫病の流行で混乱を極めていた。そんな時、天皇に、夢で大物主大神様から「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」というお告げがあった。それを聞いた天皇は「高橋活日命(たかはしいくひのみこと)」を呼び、一夜で酒造りを行い神酒を奉納した。すると疫病は去り、国が富みはじめたという。そんな経緯から古図には、一夜酒之社と書かれており、土地の人もまた、一夜酒さんとよんでいる。このことによって高橋活日命は杜氏の神様として、大神神社の摂社「活日神社」に祀られたという。そのため酒づくりに取り組む杜氏さんたちの先祖とも仰がれ、現在でも丹波や丹後・但馬、北陸、中国筋の杜氏さん達が、蔵入りする前と、無事百日勤めを終えてそれぞれ郷里へ帰る時にこの社に参拝するという。
整備された砂利道を進んでいくが、この道の両側にはさまざまな薬草や薬木が植えてあり、この道を「くすり道」というそうで、薬に関係した磐座神社や狭井神社へ向かう道だ。
その先、右手に「磐座神社(いわくらじんじゃ)」がある。「御祭神の少彦名神(すくなひこなのかみ)は大物主大神と共に国土を開拓し、人間生活の基礎を築かれると共に、医薬治病の方法を定められた薬の神様として信仰されています。三輪山の麓には辺津磐座(へついわくら)と呼ばれる、神様が鎮まる岩が点在し、この神社もその一つです。社殿はなく、磐座を神座とする形が原始の神道の姿を伝えています」と説明されている。
さらに進んでいくと、右手に「狭井神社(さいじんじゃ)」の鳥居があり、ここから境内へ入っていく。11時2分に着く。ここは大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。社伝によれば、創祀は垂仁天皇の時代とされている。大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめ)、勢夜多多良姫命(せやだたらひめ)および事代主神(ことしろぬしのかみ)を配祀している。荒魂(あらみたま)とは、荒ぶるような猛々しい働きをもって現れる霊魂のことで、戦時や災時などにあたって現れ、祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わるという。ここも三輪山を御神体とする神社で拝殿があるのみだ。三輪山の標高は467.1mで、その山頂に高宮神社があり、信仰者の登頂を認めている。登拝口は拝殿の右側にあるので、社務所に願い出て、住所・氏名・入山時間・性別を記入し、登拝口で祓いをすませれば、木綿襷を肩にかけて誰でも登頂できるそうだ。ただし、往復とも指定された一本道だけを通ること、禁則地域には絶対立ち入らないことなど厳しい制約が課せられており、途中に急な坂道もあり、普通の人なら頂上まで1時間はかかるとのことである。なお、登頂は有料とのことだ。
参拝を終えて鳥居まで戻って、右折して進む。
右手に「貴船神社」がある。「御祭神は生命の根源である水の神淤加美神(おかみのかみ)で、また、縁結びの神としても信仰され、夫婦円満・恋愛成就の御利益があるとされます。神社の古い記録に、本社の大神祭(卯の日神事)の時には、必ずこの神社にもお供えを上げて、祝詞を奏上したとあり、丁重に祀られてきました」と説明されている。
「玄賓庵(げんぴあん)」に11時22分に着く。ここは桓武・嵯峨天皇に厚い信任を得ながら、俗事を嫌い三輪山の麓に隠棲して、弘仁九年(818年)になくなったという玄賓(げんぴん)僧都の庵と伝えられている。ここは世阿弥の作と伝える謡曲で、玄賓と三輪明神の物語を題材にした「三輪」の舞台として知られている。かつては山岳仏教の寺として三輪山の檜原谷にあったが、明治初年の神仏分離により現在地に移されたという。本尊の三光不動尊は藤原時代の作で、奈良県下で最古の不動尊として、重要文化財に指定されている。
「檜原神社(ひばらじんじゃ)」に11時30分に着く。ここは大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、この地で祭祀されていた時代があったそうで、伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきたという。そのため、この神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。 この神社は寛政年間の台風によって、大きな被害をこうむって廃墟と化してしまったが、廃墟のまま祭礼は行われてきて、現在のように整備されたのは戦後になってからという。三輪山の中にある磐座をご神体にしているので、本殿も拝殿もない。また、鳥居は中央と左右に脇鳥居がある、三輪鳥居という珍しい形式で、ここでしか見られないものだという。
この辺りは万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にあるため、見晴らしがいい。
天保と読める常夜燈と地蔵堂が二つ並んでいる。
街道から右へ分岐して進むと、右手に「纒向・日代宮跡」(まきむく・ひしろみやあと)がある。「紀元730年、第12代景行天皇・大足彦忍代別命(おおたらしひこをしろわけ)が、即位後この地に宮を設け、大和朝廷による全国統一を進められた。」と説明されている。
更に進んでいくと、右手に「相撲神社」がある。相撲はもとは神の信仰から出ていて、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であった。第11代垂仁天皇7年に、大兵主神社神域の小字カタヤケシにおいて、野見宿禰と当麻蹴速が、日本最初の勅命天覧相撲を行ったと言われ、これが相撲節(7月7日)となり、それがもとで後世、宮中の行事になったと説明されている。この神社には鳥居はあるが、社殿は無い。ただ左手に小さな祠があった。神社境内の中央に土俵があり、土俵の盛り土の四隅には四本柱の代わりに桧の木が4本植えられている。今日はちょうど「わんぱく相撲」が行われていて、子供たちが一所懸命相撲をとっていた。
更にその先に「穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)」がある。「当社は三社殿にして、古典の伝えるところでは、今から二千年前のご創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、祈念・月次・相嘗・新嘗のもろもろの祭りの官幣に預かり、元禄五年には、正一位の宣旨を賜った、最高の社格をもつ大和一の古社といわれています」と説明されている。元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に、倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいわれており、式内社である、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社を室町時代に合祀したものという。境内には慶応2年(1866)の常夜燈が立っている。
ここを参拝後、相撲神社でわんぱく相撲を見ながら、昼食のおにぎりを食べ、12時19分に出発する。
この辺りも食事をする店がなかった。
街道に戻って標識に従って進むと、前方に「渋谷向山古墳」が見えてくる。
全長約300メートルの巨大前方後円墳で、景行天皇山辺道上陵として、宮内庁により陵墓治定を受けている。これは4世紀後半に築造された古墳時代前期後半の古墳と思われ、この時代の古墳としては国内最大の古墳という。第12代と数えられる景行天皇に関しては日本武尊(ヤマトタケル)の父と言われているが、実在性には疑問が出されているということだ。古墳は街道から700mばかり離れたところに正面があったので行ってみた。
街道に戻って進むが、この辺りにも標識が随所に立っていて、道に迷うことはない。
その先に「行燈山古墳」がある。この古墳も前方後円墳で、三輪山の山麓に築かれた大和、柳本古墳群の中でも渋谷向山古墳に次ぐ大きさであり、崇神天皇陵に比定されている。崇神天皇は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくなく、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力ということだ。この古墳の正面は街道から500mほど離れた場所にあった。
「長岳寺」には13時30分に着く。ここは天長元年(824)に淳和天皇の勅願により空海(弘法大師)が大和神社(おおやまとじんじゃ)の神宮寺として創建したという。まず庫裏(旧地蔵院本堂及び庫裏)があるが、これはかつて48もあった塔頭のなかで唯一残った旧地蔵院の遺構で、寛永7年(1630)~寛永8年(1631)の建築だが、室町時代の書院造の様式を伝えており、重要文化財に指定されている。
楼門をくぐって境内に入っていくが、これはかつては上層に鐘楼が吊られていたために「鐘楼門」と呼ばれる日本最古の鐘門で、下層は室町~安土桃山時代、上層は平安時代のものという。寺伝では空海による創建当初から現存する建物というが、上層部分も空海の時代まではさかのぼらず、平安時代末期頃の建築とされる。
本堂は天明3年(1783)に再建された建物で、阿弥陀三尊像と多聞天・増長天立像を安置している。
「中山大塚古墳」がある。 これはこのあたり一帯に展開する大和古墳群の南側に位置する前方後円墳で、前方後円墳が築かれ始めた頃、古墳時代初頭の古墳と判断されているという。ここに「大和神社お旅所」がある。「4月1日は大和神社よりここお旅所(大和稚宮神社)まで神輿渡御が行われます。祭り始めは、ちゃんちゃん祭り、祭り納めはおん祭り、大和の俚謡に歌われる大和の代表的な祭りです。‘ちゃんちゃんと鉦鼓の音が大和に春を告げます」と説明されている。
「燈籠山古墳」がある。ここも前方後円墳だが、発掘調査が行われていないため、埋葬施設は不明とのこと。築造時期は古墳時代前期前半(4世紀前半)と考えられていると説明されている。
「西山塚古墳」がある。これは古墳時代後期前葉の前方後円墳で、前期古墳が大半を占める大和古墳群の中で、後期の大型前方後円墳はこの古墳だけという。ここも発掘調査は行われていないが、墳丘の地面から古墳時代後期前葉の埴輪が採集されているという。
「波多子塚古墳」がある。これも前方後円墳だが、墳丘が畑や果樹園等に開墾されていて、築造当時の本来の墳丘形状からは大幅に改変されていると考えられているという。築造時期は出土した埴輪の年代から、古墳時代前期、おおむね4世紀前葉と考えられているという。
このようにこの辺りには数多くの古墳が存在していて、大和古墳群と呼ばれている。
「夜都伎神社(やつぎじんじゃ)」に14時17分に着く。この地には元は夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を約400m東南の竹之内の三間塚池(現在の十二神社の社地)と交換し、乙木は春日神社1社のみとして社名を夜都伎神社に改めたものと伝えられている。この神社は昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは当社から蓮の御供えと称する新饌を献供し、春日から60年毎に若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていたと伝えられている。現在の本殿は明治39(1906)年改築したもので、拝殿は萱葺でこの地方では珍しい神社建築で、もとは神宮寺で十来子(十羅刹)を祀っていたという。
「内山永久寺跡」がある。ここは平安時代後期の永久2年(1114)に鳥羽天皇の勅願により興福寺僧頼実が創建したと伝えられ、往時は壮麗な大伽藍を誇ったといわれているが、明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまは境内の本堂池などにわずかに面影を残しているのみだ。
「石上神宮(いそのかみじんぐう)」に14時50分に着くが、境内に入ると鶏がいる。鶏は『古事記』『日本書紀』にも登場しており、暁に時を告げる鳥として、神聖視され、神様のお使いともされているそうだが、ここでは今から40年程前に奉納されたそうで、現在役30羽がいるという。鶏たちは夕方暗くなる前に低い木々から順々に高い枝に飛び上がり、そこで一夜を過ごしているそうで、烏骨鶏やレグホンは高く飛び上がることが出来ないため、専用の鶏舎にて夜を過ごしているという。
石上神宮は、第10代崇神天皇7年に現地、石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)に祀られた、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきたという。平安時代後期、白河天皇は当神宮を殊に崇敬され、国宝に指定されている拝殿は天皇が宮中の神嘉殿(しんかでん)を寄進されたものと伝えており、建立年代は鎌倉時代初期とみられている。 ここも大神神社と同様に拝殿のみで本殿はなかったが、大正2年に本殿が造営されたという。
また「摂社 出雲建雄神社拝殿」があるが、これは元来は内山永久寺の鎮守の住吉社の拝殿だったが、大正3年に現在地に移築されたという。内山永久寺は神仏分離令により明治9年に廃絶。その後も鎮守社の住吉社は残されたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、拝殿だけが荒廃したまま残されていたので、当神宮摂社の出雲建雄神社の拝殿として移築したという。従ってこの建物は内山永久寺の建物の遺構として貴重なもので、国宝に指定されている。建立年代については、はじめは保延3(1137)年に建立され、その後13・14世紀に2回の改築によって現在の構造・形式になったと考えられている。
これで南コースを歩き終える。
本日の歩行時間 4時間48分。
本日の歩数&距離 25529歩、19km。
本日の街道純距離 17.9km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
ここから天理駅まで歩く。天理市の中心部を歩いていくが、天理市は日本で唯一宗教団体の名称が市名となっている市で、市内各所に天理教の関連施設が建っているが、その中でも「天理教教会本部」の建物はとても大きいものだ。
天理駅には15時30分に着く。
石上神宮から天理駅までの距離は2.6kmだったので、
本日歩いた総歩数は29418歩、 総距離は21.6kmだった。