2016年04月19日(火)
猿沢池~帯解~天理~三輪~大和朝倉
晴れ
大坂から伊勢へ向かう街道のうち、前回暗峠を越えて奈良まで歩いたので、今回は奈良から大和朝倉までを歩く。この道は古代は上ツ道、近世に至って上街道と呼ばれた道だ。
参考資料は近鉄が発行している「てくてくマップ伊本ー4 ならまちから帯解コース」と「てくてくマップ伊本ー5 天理の街並みから古墳巡りコース」及び前回暗越奈良街道を歩いた際、立ち寄った玉造稲荷神社で購入した「伊勢参宮本街道皇帝図」を参考にした。
猿沢池を10時20分に出発するが、右手に「采女神社」がある。ここは奈良時代、天王の寵愛が薄れたことを嘆いた采女(女官)が猿沢の池に身を投げ、この霊を慰めるため祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと一夜のうちに御殿が池に背を向けたと説明されている。
すぐ先右手に水門があり、その上に二体の石仏がある。
猿沢の池を左に見ながら進むと、池の先の率川に架かる橋の横に大正9年の常夜燈が立っている。
左手、橋の下を見ると舟の形をした石の囲いの中に石仏が数多く置かれている。
道は「奈良町(ならまち)通り」といわれる通りに入っていく。今御門商店街の看板が立っているが、これらの地域一帯を「奈良町(ならまち)通り」と呼ぶようになったのは最近のことで、歴史的町並みが残る地域の通称だが、「奈良町」という行政地名はない。狭い街路に、江戸時代以降の町屋が数多く建ち並んでおり、ほぼ全域が奈良時代に栄えた元興寺の旧境内にあたるとのことだ。
左手に「猿田彦神社」がある。ここは入皇51代平城天皇の御代に元興寺境内に創建されたが、宝徳2年(1450)の元興寺と興福寺の争いによる大火やその後の火災で類焼したため、現在のような小祠になったと説明されている。
右手に「田村青芳園茶舗店舗兼主屋」がある。これは江戸後期に宿屋として建てられたもので有形文化財に指定されている。
更に左手に「住吉神社」がある。ここの創建は不詳だが、やはり宝徳2年(1450)の火災で焼失、その後現在地に建てられたという。
その先で道はT字路になっており、ここに石仏が三体安置されている小祠がある。
ここを左折、すぐ先を右折して進むが、この場所は元興寺の土台の石があったので、道が曲がっているという。
芝新屋町を通るが、ここに「元興寺が荒廃し、芝の原っぱとなったが、天正、文禄年間(1500年代後半)に民家が建ちだして、芝新屋町と呼ばれるようになった」と説明書きがあり、左手に、「元興寺塔跡」がある。ここには17個の礎石と左手に本堂がある。また本堂の手前左手に「啼燈籠」がある。これは正嘉元年(1257)の刻銘がある、市内で年号が刻まれたものとしては二番目に古い遺品で、戦前には重要美術品に認定されていた。ところが石面が焼けてもろくなっていたため、昭和19年の大地震で倒壊し、細かく割れたままになっていたため、平成22年に元の姿に修復されたという。
左手に「御霊神社」がある。ここは桓武天皇の御代に井上皇后をはじめ、8柱の神様を祀ったと伝えられている。聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后の井上内親王(いがみないしんのう)は、政権争いに巻き込まれ、無実の罪により、御子・他戸親王(おさべしんのう)とともに宇智郡(五條市)に配流されて亡くなった。その後、都や桓武天皇東宮に怪しき事が度々あり、悪疫が流行したことから、井上内親王母子をはじめ8柱の霊を鎮めるため神社が建立されたという。
その先右手に「藤岡家住宅」がある。ここは18世紀後半の町屋で昭和30年代まで商いが行われていたという。建築年代が古く、商家の表構えを良く伝え、内部意匠も洗練されていて、奈良の町屋の典型として、重要文化財に指定されている。
左手に江戸時代から明治時代にかけて、ならまちに点在した町屋をモデルに建てられた「格子の家」があり、観光案内所になっている。
右手に「高林寺」がある。ここは元興寺の一院で、藤原豊成の菩提所。境内には豊成の古墳があり、本堂には豊成と中将姫の木像が安置されているという。又安土・桃山時代には奈良茶人「高坊」(たかぼう)一族が住み、奈良まちの数寄者(すきしゃ)の一大群落、一大サロンを形成していた。茶室「高坊」はこの数寄者を顕彰するために建てられたというが、門が閉まっていて中を見ることが出来なかったので、門の間からカメラを差し込んで写真を撮った。
ここまで来て、「十輪院」を見落としていたことに気が付き、後もどることにする。
「十輪院」は 元正天皇(715‐724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれ、また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基とも伝えられている。本堂は国宝、南門は重要文化財に指定されていて、ともに鎌倉時代に建立されたものという。
ここから街道に戻るのだが、ここで失敗をしてしまった。十輪院から戻って次の角を左折して進んだのだが、その先で道は突当りに出てしまった。これはおかしい、道は直進していなければいけないはずだと思って、ちょうど通りかかった方にお聞きすると、もう一つ横の通りが上街道だと教えていただいた。直進してきたのに、どこで間違ったのか、自分ではさっぱりわからず、とりあえず一つ横の通りに行って、そこから元へ戻ってみると、なんと先ほど見た高林寺があるではないか。ここでようやく道を間違えたことに納得した。十輪院へは街道から二つ辻を越えたのだが、戻る際、一つ目の角を曲がってしまったのだ。どこも同じような道幅で、直進しているので、道を間違ったということに全く気づかずに歩いてきたのだった。
ほぼ一直線の道を進んでいくと、右手に常夜燈が2基立っていて、文政13年(1830)と刻まれている。11時20分にここを通る。
この先、右手にJR桜井線が街道と並行して走るようになるが、このあたりの地名は京終と書き、「きょうばて」と読むそうで、これは「平城京の終わるところ」という意味があるという。同じ意味で京都では「京極」という地名があるが、こちらは「平安京の極(きわ)」という意味だという。この「京終」の地名としての歴史は鎌倉時代以降ということだ。
右手に地蔵堂がある。数えてみると18体の地蔵尊が祀られている。このあたりにあった地蔵尊を集めたのだろうか。
11時55分に「帯解寺」に着く。ここは元は霊松庵といい、空海の師である勤操によって開かれた巌渕千坊の一つであったという。長らく世継ぎに恵まれなかった文徳天皇の染殿皇后(藤原明子)が当寺で祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、天安2年(858年)、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により帯解寺と名乗るようになったという。また徳川二代将軍秀忠公の正室お江の方、更に三代将軍家光公もお世継ぎがなかったので、それぞれに御祈願をされて、御安産されたことから、安産祈願のお寺として知られている。
ここで奈良で買ってきたおにぎりを昼食として食べる。この辺りは食事ができる店がないので、おにぎりを買ってきて大正解だった。
街道に戻って進むと、左手に「帯解子安地蔵尊」があり、「皇族勅願所」「最高霊場 奥ノ院」と書かれた看板が立っている。ここは「龍象寺」というお寺で、そのHPによると、「高野山真言宗のお寺で、創建は聖武天皇の勅願により、開基は行基菩薩です。」とあり、安産信仰のお寺となっている。帯解寺とは関係がないそうで、帯解寺のHPに「当寺の約200メートル南に“おびとけ奥の院”と称する、正式には龍象寺という名の寺院がありますが、龍象寺は当寺の奥ノ院ではありません」また「“帯解奥の院”と詐称して、帯解寺の奥の院であるかのような表示をしたので、江戸時代、当時の南都寺社奉行より「帯解」の二字の使用を差し止めされたことが記されております。」という記述があった。
菩提仙川に架かる蔵之庄大橋という名前の小橋を渡って進むと、左手に「楢神社」がある。ここは神護景雲元年(767)に、1km東の宮山(上の宮)に創建と伝わっており、現在地への遷座時期は不明だが、「下の宮」と呼ばれ、明治になって「五十狭芹彦命神社」と称され、更に昭和31年に「楢神社」と改称されたという。 延喜式神明帳の添上郡「奈良豆比古神社」に比定する説もあるという。社殿は文久二年(1861)春日大社の第五十二次造営に際し、払い下げを受けて移築したものという。また境内には幕末にかけて活躍した歌舞伎役者8代目市川団十郎が奉納した実増井(三枡井・みますい)の井筒があり、井戸水は子供を授かる霊水といわれている。12時42分にここを通る。
左手に「左 不動山大師道」と刻まれた道標と指し指付の道標「和珥坂下傳稱地」が立っている。ここから左へ進むと「和爾下神社」への道となる。
その先左手に「愛宕山」と刻まれた常夜燈が立っている。
土橋という小さな橋の手前右手に享保12年(1727)の「右 なら 左 たつたみち」と刻まれた道標が立っている。その横には「左はせミち」と刻まれているが、右はなんと刻まれているかわからなかったが、後でネットで調べると「右 ほう里うじ」となっているようだ。奈良県内には千数百基の道標が残っているようで、このうち約800基を取材された方のHPを参考にさせていただいた。
右手に文政3年(1820)の常夜燈が石柱に囲まれて立っている。
左手に「大阪府奈良警察署檪本分署跡」と看板がかかっている建物がある。当時奈良は大坂府だったのだ。ネットで検索をしてみると、大和の国は明治の廃藩置県後奈良県となったが、明治9年に大阪の堺県に合併されて堺県となり、明治14年に堺県が大阪府に合併されたので、大阪府となった。その後明治20年に大阪府から分離して元の奈良県に戻ったという。廃藩置県後はこうした色々な動きがあったようだ。また天理教・中山みき教祖が明治19年、数え89歳のときに警察に逮捕された時に、この場所で10数日間拘留されていたという。12時54分にここを通る。
「馬出の町並み」という看板が立っている。「上街道(上ツ道)と高瀬街道の交わったところで、古くから市場が開かれ、商業の活発だったことから「市場」という小字名がついています。上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびた部分を「馬出」と呼び、主に大和高原(福住方面)から薪炭を乗せて下り、この地で荷をおろし、帰りに食料品や日用品を買って帰る人馬で賑わったところです。また荷を運ぶ馬をつないだ「馬つなぎ」の遺構も残されており、昔は流通の中継地として栄えたところです」と書かれている。「馬つなぎ」の遺構がどこにあるか探してみたが、わからなかった。
左手に地蔵堂があり、その横に安政七年(1860)の「従是東五町 施主 櫟本村 世話人」と刻まれた安政7年(1860)の道標が立っている。その横にも何やら文字が刻まれているが、良くわからなかったので、後でネットで検索をしてみると「平尾姫丸稲荷大明神」と刻まれているようだ。
右手に明治32年の「天照皇大神宮」の大きな常夜燈があり、その右手に小さな常夜燈、左手には小さな地蔵堂がある。
すぐ先左手に小祠が二つ並んでいる。
左手に「従是 東 笠山荒神 江 二」と読むことが出来るが、その下は埋まっていて読むことが出来ないが、「二里」のようだ。また側面には「右 はせ」と刻まれているようだが、これも「せ」という文字が半分埋まっている。13時13分にここを通る。
ここから右折して進むが、この辺りは天理教の建物が数多く建っていて、「詰所」といわれる各都市や地方の信者の宿泊所になっている建物も多数見かける。天理市は日本で唯一宗教団体の名称が市名となっている都市だ。
天理の商店街のアーケードを横切って進むが、その手前右手に地蔵堂がある。
右手に「大神宮」「町内安全」と刻まれた常夜燈がある。
左手に「市座神社」がある。ここは古く妙見社と呼ばれて妙見菩薩を祀っていたところで、その後丹波国から恵美須神社が遷され、明治七年以降市座神社と改称されたという。境内には天保元年(1830)の大きな常夜灯が左手に建っており、文化年間の常夜燈も数多く立っている。また「青石橋」があるが、これは明治時代まで橋として使われていた石で青色をしている。石には二つの穴があるが、地元では「馬が踏み抜いたあとだ」などという言い伝えも残っているそうだ。しかしこの穴は運搬用の綱を通すための穴と思われ、穴の大きさが異なっていることから、こうした穴のあけ方は、古墳時代の石や玉によく見られるもので、そのことからもともとは古墳に収められた石棺の蓋だったという。13時41分にここを通る。
またその前に丹波市村道路元標が立っている。
右手に「八坂権現」がある。
その先で169号線を横断して進むと、右手に「朝日観音堂」があり、ここを右折して進む。この地域はかつて広大な朝日寺(円通寺)・朝日神社があったが、廃仏毀釈のあおりを受けて明治8年に朝日神社は大和神社に遷され、朝日寺は廃寺となったため、のちにこの観音堂を建てたという。この地は上街道沿いにあるので昔は旅人でかなり賑わったという。
左手に「岡地蔵」がある。二体あるが、一体は上部が欠けている。由来はわからなかった。
右手入ったところに「大和神社」がある。ここは延喜式内社で旧官幣大社、第十代崇徳天皇六年(209)に皇女渟名城入姫によって当地に移されたのが創建で、戦艦大和は同名であることから当社の祭神の分霊が艦内に祀られていた。戦艦大和は沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されているという。14時31分にここを通る。
右手に「矢矧塚古墳」がある。この古墳は前方後円墳で全長102m、高さ4mあるが、後円部を上街道に削られているほか、後世の開墾でかなり形が変わっているという。明治時代に玉類が出土したそうだが、発掘調査は行われておらず、詳しいことはわかっていないという。
右手に「大市観音地蔵菩薩」と刻まれた石碑が建っており、その横に石仏が多数安置されている。
その先51号線を横断する左手角に「長岳寺五智堂」がある。これは長岳寺の飛地境内に建っており、中央に太い心柱を立てた珍しい構造で、この心柱を大日如来に見立てているという。心柱の上の部分に、大日如来の梵字を彫った額が四面にかけてあり、傘堂、眞面堂、豆堂とも呼ばれている。元々は通行安全の供養に造られた供養塔の一種で、建立年代は明確ではないものの、鎌倉時代末期と考えられており、国の重要文化財に指定されている。14時50分にここを通る。
150号線を横断する左角に「柳本村道路元標」がある。
左手に「伊射奈岐神社」の社柱が立っており、その横に「天満宮」と刻まれた常夜燈がある。この神社は延喜式神名帳にある城上郡の伊射奈岐神社に比定されるそうだが、今日は立ち寄らずにそのまま進む。
左手にJAならけん纏向支店があるが、ここに「柿本人磨呂屋敷跡」の石柱が立っている。
その先高架橋でJRの線路を越えて進む。このあたり道路に「歴史街道」「山の辺の道」「桜井市」という標識が埋め込まれている。
右手に「箸墓古墳」がある。ここは宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されている。3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳で、この古墳を卑弥呼の墓とする説もあるという。現在墳丘への立ち入りは禁止されているようだ。
左手に「大神宮」と刻まれた常夜燈が立っている。
右手に「大神神社」の大きな一の鳥居が見える。15時40分にここを通る。
その先左手に「大神教本堂」があるが、ここは大神神社とは関係はないそうだ。
左手に円融寺があるところに「左 はせ いせ たふのみね よしの 大ミ祢山」「右 なら 京 みち」と刻まれている道標が立っている。
ここを左折して進み、すぐ先、左手に恵比寿神社があるところから右折して進む。
左手に春日神社があり、その先で左折するが、そのまま進んでいくと、橋のたもとに天保10年(1839)の常夜燈が立っている。
左手に「式内大社 志貴」と刻まれた明治41年の道標が立っている。
16時3分にここを通る。
ここで道を間違えてしまった。道は二股に別れていて、左へ直進しなければいけないのだが、右へ進んでしまったのだ。その先でどうもおかしいことに気が付き、左手から合流している道があったので、ここを戻ってみると、先ほどの二股に別れているところに出て、間違っていることを確認できた。
改めて旧道を進んでいくと、左手に「 これより ちか道 三輪大明神 ならこへ」と刻まれた道標が立っている。
199号線を横断して進むと、大和川に突き当たるが、ここに「左 はせ いせ 道」「右 三は なら 道」と刻まれた天保12年(1841)の道標が立っている。
川沿いに行くと、すぐ先に「仏教伝来の地」という石碑が建っている。「金屋から城島小学校にかけての泊瀬河畔一帯は欽明天皇磯城嶋金刺宮が置かれたところで、西暦552年に百済から仏教が公式に伝えられた地であります」という説明がされている。
慈恩寺北信号で165号線を横断する。
ここで長尾神社から伸びている横大路と合流することになる。
上街道はここで終わることになり、大和朝倉駅へ向かう。
16時45分に到着する。
本日の歩行時間 6時間25分。
本日の歩数&距離 35080歩、25.5km。
本日の街道純距離 22.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
大坂から伊勢へ向かう街道のうち、前回暗峠を越えて奈良まで歩いたので、今回は奈良から大和朝倉までを歩く。この道は古代は上ツ道、近世に至って上街道と呼ばれた道だ。
参考資料は近鉄が発行している「てくてくマップ伊本ー4 ならまちから帯解コース」と「てくてくマップ伊本ー5 天理の街並みから古墳巡りコース」及び前回暗越奈良街道を歩いた際、立ち寄った玉造稲荷神社で購入した「伊勢参宮本街道皇帝図」を参考にした。
猿沢池を10時20分に出発するが、右手に「采女神社」がある。ここは奈良時代、天王の寵愛が薄れたことを嘆いた采女(女官)が猿沢の池に身を投げ、この霊を慰めるため祀られたのが采女神社の起こりとされる。入水した池を見るのは忍びないと一夜のうちに御殿が池に背を向けたと説明されている。
すぐ先右手に水門があり、その上に二体の石仏がある。
猿沢の池を左に見ながら進むと、池の先の率川に架かる橋の横に大正9年の常夜燈が立っている。
左手、橋の下を見ると舟の形をした石の囲いの中に石仏が数多く置かれている。
道は「奈良町(ならまち)通り」といわれる通りに入っていく。今御門商店街の看板が立っているが、これらの地域一帯を「奈良町(ならまち)通り」と呼ぶようになったのは最近のことで、歴史的町並みが残る地域の通称だが、「奈良町」という行政地名はない。狭い街路に、江戸時代以降の町屋が数多く建ち並んでおり、ほぼ全域が奈良時代に栄えた元興寺の旧境内にあたるとのことだ。
左手に「猿田彦神社」がある。ここは入皇51代平城天皇の御代に元興寺境内に創建されたが、宝徳2年(1450)の元興寺と興福寺の争いによる大火やその後の火災で類焼したため、現在のような小祠になったと説明されている。
右手に「田村青芳園茶舗店舗兼主屋」がある。これは江戸後期に宿屋として建てられたもので有形文化財に指定されている。
更に左手に「住吉神社」がある。ここの創建は不詳だが、やはり宝徳2年(1450)の火災で焼失、その後現在地に建てられたという。
その先で道はT字路になっており、ここに石仏が三体安置されている小祠がある。
ここを左折、すぐ先を右折して進むが、この場所は元興寺の土台の石があったので、道が曲がっているという。
芝新屋町を通るが、ここに「元興寺が荒廃し、芝の原っぱとなったが、天正、文禄年間(1500年代後半)に民家が建ちだして、芝新屋町と呼ばれるようになった」と説明書きがあり、左手に、「元興寺塔跡」がある。ここには17個の礎石と左手に本堂がある。また本堂の手前左手に「啼燈籠」がある。これは正嘉元年(1257)の刻銘がある、市内で年号が刻まれたものとしては二番目に古い遺品で、戦前には重要美術品に認定されていた。ところが石面が焼けてもろくなっていたため、昭和19年の大地震で倒壊し、細かく割れたままになっていたため、平成22年に元の姿に修復されたという。
左手に「御霊神社」がある。ここは桓武天皇の御代に井上皇后をはじめ、8柱の神様を祀ったと伝えられている。聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后の井上内親王(いがみないしんのう)は、政権争いに巻き込まれ、無実の罪により、御子・他戸親王(おさべしんのう)とともに宇智郡(五條市)に配流されて亡くなった。その後、都や桓武天皇東宮に怪しき事が度々あり、悪疫が流行したことから、井上内親王母子をはじめ8柱の霊を鎮めるため神社が建立されたという。
その先右手に「藤岡家住宅」がある。ここは18世紀後半の町屋で昭和30年代まで商いが行われていたという。建築年代が古く、商家の表構えを良く伝え、内部意匠も洗練されていて、奈良の町屋の典型として、重要文化財に指定されている。
左手に江戸時代から明治時代にかけて、ならまちに点在した町屋をモデルに建てられた「格子の家」があり、観光案内所になっている。
右手に「高林寺」がある。ここは元興寺の一院で、藤原豊成の菩提所。境内には豊成の古墳があり、本堂には豊成と中将姫の木像が安置されているという。又安土・桃山時代には奈良茶人「高坊」(たかぼう)一族が住み、奈良まちの数寄者(すきしゃ)の一大群落、一大サロンを形成していた。茶室「高坊」はこの数寄者を顕彰するために建てられたというが、門が閉まっていて中を見ることが出来なかったので、門の間からカメラを差し込んで写真を撮った。
ここまで来て、「十輪院」を見落としていたことに気が付き、後もどることにする。
「十輪院」は 元正天皇(715‐724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれ、また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基とも伝えられている。本堂は国宝、南門は重要文化財に指定されていて、ともに鎌倉時代に建立されたものという。
ここから街道に戻るのだが、ここで失敗をしてしまった。十輪院から戻って次の角を左折して進んだのだが、その先で道は突当りに出てしまった。これはおかしい、道は直進していなければいけないはずだと思って、ちょうど通りかかった方にお聞きすると、もう一つ横の通りが上街道だと教えていただいた。直進してきたのに、どこで間違ったのか、自分ではさっぱりわからず、とりあえず一つ横の通りに行って、そこから元へ戻ってみると、なんと先ほど見た高林寺があるではないか。ここでようやく道を間違えたことに納得した。十輪院へは街道から二つ辻を越えたのだが、戻る際、一つ目の角を曲がってしまったのだ。どこも同じような道幅で、直進しているので、道を間違ったということに全く気づかずに歩いてきたのだった。
ほぼ一直線の道を進んでいくと、右手に常夜燈が2基立っていて、文政13年(1830)と刻まれている。11時20分にここを通る。
この先、右手にJR桜井線が街道と並行して走るようになるが、このあたりの地名は京終と書き、「きょうばて」と読むそうで、これは「平城京の終わるところ」という意味があるという。同じ意味で京都では「京極」という地名があるが、こちらは「平安京の極(きわ)」という意味だという。この「京終」の地名としての歴史は鎌倉時代以降ということだ。
右手に地蔵堂がある。数えてみると18体の地蔵尊が祀られている。このあたりにあった地蔵尊を集めたのだろうか。
11時55分に「帯解寺」に着く。ここは元は霊松庵といい、空海の師である勤操によって開かれた巌渕千坊の一つであったという。長らく世継ぎに恵まれなかった文徳天皇の染殿皇后(藤原明子)が当寺で祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、天安2年(858年)、文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により帯解寺と名乗るようになったという。また徳川二代将軍秀忠公の正室お江の方、更に三代将軍家光公もお世継ぎがなかったので、それぞれに御祈願をされて、御安産されたことから、安産祈願のお寺として知られている。
ここで奈良で買ってきたおにぎりを昼食として食べる。この辺りは食事ができる店がないので、おにぎりを買ってきて大正解だった。
街道に戻って進むと、左手に「帯解子安地蔵尊」があり、「皇族勅願所」「最高霊場 奥ノ院」と書かれた看板が立っている。ここは「龍象寺」というお寺で、そのHPによると、「高野山真言宗のお寺で、創建は聖武天皇の勅願により、開基は行基菩薩です。」とあり、安産信仰のお寺となっている。帯解寺とは関係がないそうで、帯解寺のHPに「当寺の約200メートル南に“おびとけ奥の院”と称する、正式には龍象寺という名の寺院がありますが、龍象寺は当寺の奥ノ院ではありません」また「“帯解奥の院”と詐称して、帯解寺の奥の院であるかのような表示をしたので、江戸時代、当時の南都寺社奉行より「帯解」の二字の使用を差し止めされたことが記されております。」という記述があった。
菩提仙川に架かる蔵之庄大橋という名前の小橋を渡って進むと、左手に「楢神社」がある。ここは神護景雲元年(767)に、1km東の宮山(上の宮)に創建と伝わっており、現在地への遷座時期は不明だが、「下の宮」と呼ばれ、明治になって「五十狭芹彦命神社」と称され、更に昭和31年に「楢神社」と改称されたという。 延喜式神明帳の添上郡「奈良豆比古神社」に比定する説もあるという。社殿は文久二年(1861)春日大社の第五十二次造営に際し、払い下げを受けて移築したものという。また境内には幕末にかけて活躍した歌舞伎役者8代目市川団十郎が奉納した実増井(三枡井・みますい)の井筒があり、井戸水は子供を授かる霊水といわれている。12時42分にここを通る。
左手に「左 不動山大師道」と刻まれた道標と指し指付の道標「和珥坂下傳稱地」が立っている。ここから左へ進むと「和爾下神社」への道となる。
その先左手に「愛宕山」と刻まれた常夜燈が立っている。
土橋という小さな橋の手前右手に享保12年(1727)の「右 なら 左 たつたみち」と刻まれた道標が立っている。その横には「左はせミち」と刻まれているが、右はなんと刻まれているかわからなかったが、後でネットで調べると「右 ほう里うじ」となっているようだ。奈良県内には千数百基の道標が残っているようで、このうち約800基を取材された方のHPを参考にさせていただいた。
右手に文政3年(1820)の常夜燈が石柱に囲まれて立っている。
左手に「大阪府奈良警察署檪本分署跡」と看板がかかっている建物がある。当時奈良は大坂府だったのだ。ネットで検索をしてみると、大和の国は明治の廃藩置県後奈良県となったが、明治9年に大阪の堺県に合併されて堺県となり、明治14年に堺県が大阪府に合併されたので、大阪府となった。その後明治20年に大阪府から分離して元の奈良県に戻ったという。廃藩置県後はこうした色々な動きがあったようだ。また天理教・中山みき教祖が明治19年、数え89歳のときに警察に逮捕された時に、この場所で10数日間拘留されていたという。12時54分にここを通る。
「馬出の町並み」という看板が立っている。「上街道(上ツ道)と高瀬街道の交わったところで、古くから市場が開かれ、商業の活発だったことから「市場」という小字名がついています。上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびた部分を「馬出」と呼び、主に大和高原(福住方面)から薪炭を乗せて下り、この地で荷をおろし、帰りに食料品や日用品を買って帰る人馬で賑わったところです。また荷を運ぶ馬をつないだ「馬つなぎ」の遺構も残されており、昔は流通の中継地として栄えたところです」と書かれている。「馬つなぎ」の遺構がどこにあるか探してみたが、わからなかった。
左手に地蔵堂があり、その横に安政七年(1860)の「従是東五町 施主 櫟本村 世話人」と刻まれた安政7年(1860)の道標が立っている。その横にも何やら文字が刻まれているが、良くわからなかったので、後でネットで検索をしてみると「平尾姫丸稲荷大明神」と刻まれているようだ。
右手に明治32年の「天照皇大神宮」の大きな常夜燈があり、その右手に小さな常夜燈、左手には小さな地蔵堂がある。
すぐ先左手に小祠が二つ並んでいる。
左手に「従是 東 笠山荒神 江 二」と読むことが出来るが、その下は埋まっていて読むことが出来ないが、「二里」のようだ。また側面には「右 はせ」と刻まれているようだが、これも「せ」という文字が半分埋まっている。13時13分にここを通る。
ここから右折して進むが、この辺りは天理教の建物が数多く建っていて、「詰所」といわれる各都市や地方の信者の宿泊所になっている建物も多数見かける。天理市は日本で唯一宗教団体の名称が市名となっている都市だ。
天理の商店街のアーケードを横切って進むが、その手前右手に地蔵堂がある。
右手に「大神宮」「町内安全」と刻まれた常夜燈がある。
左手に「市座神社」がある。ここは古く妙見社と呼ばれて妙見菩薩を祀っていたところで、その後丹波国から恵美須神社が遷され、明治七年以降市座神社と改称されたという。境内には天保元年(1830)の大きな常夜灯が左手に建っており、文化年間の常夜燈も数多く立っている。また「青石橋」があるが、これは明治時代まで橋として使われていた石で青色をしている。石には二つの穴があるが、地元では「馬が踏み抜いたあとだ」などという言い伝えも残っているそうだ。しかしこの穴は運搬用の綱を通すための穴と思われ、穴の大きさが異なっていることから、こうした穴のあけ方は、古墳時代の石や玉によく見られるもので、そのことからもともとは古墳に収められた石棺の蓋だったという。13時41分にここを通る。
またその前に丹波市村道路元標が立っている。
右手に「八坂権現」がある。
その先で169号線を横断して進むと、右手に「朝日観音堂」があり、ここを右折して進む。この地域はかつて広大な朝日寺(円通寺)・朝日神社があったが、廃仏毀釈のあおりを受けて明治8年に朝日神社は大和神社に遷され、朝日寺は廃寺となったため、のちにこの観音堂を建てたという。この地は上街道沿いにあるので昔は旅人でかなり賑わったという。
左手に「岡地蔵」がある。二体あるが、一体は上部が欠けている。由来はわからなかった。
右手入ったところに「大和神社」がある。ここは延喜式内社で旧官幣大社、第十代崇徳天皇六年(209)に皇女渟名城入姫によって当地に移されたのが創建で、戦艦大和は同名であることから当社の祭神の分霊が艦内に祀られていた。戦艦大和は沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されているという。14時31分にここを通る。
右手に「矢矧塚古墳」がある。この古墳は前方後円墳で全長102m、高さ4mあるが、後円部を上街道に削られているほか、後世の開墾でかなり形が変わっているという。明治時代に玉類が出土したそうだが、発掘調査は行われておらず、詳しいことはわかっていないという。
右手に「大市観音地蔵菩薩」と刻まれた石碑が建っており、その横に石仏が多数安置されている。
その先51号線を横断する左手角に「長岳寺五智堂」がある。これは長岳寺の飛地境内に建っており、中央に太い心柱を立てた珍しい構造で、この心柱を大日如来に見立てているという。心柱の上の部分に、大日如来の梵字を彫った額が四面にかけてあり、傘堂、眞面堂、豆堂とも呼ばれている。元々は通行安全の供養に造られた供養塔の一種で、建立年代は明確ではないものの、鎌倉時代末期と考えられており、国の重要文化財に指定されている。14時50分にここを通る。
150号線を横断する左角に「柳本村道路元標」がある。
左手に「伊射奈岐神社」の社柱が立っており、その横に「天満宮」と刻まれた常夜燈がある。この神社は延喜式神名帳にある城上郡の伊射奈岐神社に比定されるそうだが、今日は立ち寄らずにそのまま進む。
左手にJAならけん纏向支店があるが、ここに「柿本人磨呂屋敷跡」の石柱が立っている。
その先高架橋でJRの線路を越えて進む。このあたり道路に「歴史街道」「山の辺の道」「桜井市」という標識が埋め込まれている。
右手に「箸墓古墳」がある。ここは宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定されている。3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳で、この古墳を卑弥呼の墓とする説もあるという。現在墳丘への立ち入りは禁止されているようだ。
左手に「大神宮」と刻まれた常夜燈が立っている。
右手に「大神神社」の大きな一の鳥居が見える。15時40分にここを通る。
その先左手に「大神教本堂」があるが、ここは大神神社とは関係はないそうだ。
左手に円融寺があるところに「左 はせ いせ たふのみね よしの 大ミ祢山」「右 なら 京 みち」と刻まれている道標が立っている。
ここを左折して進み、すぐ先、左手に恵比寿神社があるところから右折して進む。
左手に春日神社があり、その先で左折するが、そのまま進んでいくと、橋のたもとに天保10年(1839)の常夜燈が立っている。
左手に「式内大社 志貴」と刻まれた明治41年の道標が立っている。
16時3分にここを通る。
ここで道を間違えてしまった。道は二股に別れていて、左へ直進しなければいけないのだが、右へ進んでしまったのだ。その先でどうもおかしいことに気が付き、左手から合流している道があったので、ここを戻ってみると、先ほどの二股に別れているところに出て、間違っていることを確認できた。
改めて旧道を進んでいくと、左手に「 これより ちか道 三輪大明神 ならこへ」と刻まれた道標が立っている。
199号線を横断して進むと、大和川に突き当たるが、ここに「左 はせ いせ 道」「右 三は なら 道」と刻まれた天保12年(1841)の道標が立っている。
川沿いに行くと、すぐ先に「仏教伝来の地」という石碑が建っている。「金屋から城島小学校にかけての泊瀬河畔一帯は欽明天皇磯城嶋金刺宮が置かれたところで、西暦552年に百済から仏教が公式に伝えられた地であります」という説明がされている。
慈恩寺北信号で165号線を横断する。
ここで長尾神社から伸びている横大路と合流することになる。
上街道はここで終わることになり、大和朝倉駅へ向かう。
16時45分に到着する。
本日の歩行時間 6時間25分。
本日の歩数&距離 35080歩、25.5km。
本日の街道純距離 22.2km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)