2015年06月06日(土)
壇上伽藍~奥ノ院
晴れ
慈尊院から壇上伽藍・根本大塔までの180町石は胎蔵界曼荼羅の百八十尊の諸仏を表しているが、壇上伽藍から奥の院弘法大師御廟までの参道には金剛界曼荼羅の三十六尊の諸仏を表す36基の町石が建てられている。
この道を歩くのは、熊野古道小辺路を歩いた時、前回の町石道を歩いた時と今回と、合わせて3回目なので、今回はひたすら町石を見落とすことなく歩くことに集中して歩いた。
1町石は根本大塔のすぐ横にある「愛染堂」の前にある。
愛染堂は建武元年(1334)に後醍醐天皇の命令によって、四海静平、玉体安穏を祈るために建立され、本尊は愛染明王を安置したといわれているが、愛染明王は恋愛を司る仏として知られており、後醍醐天皇の御等身ともいわれている。ここは何度か火災にあったため、現在の建物は嘉永元年(1848)に再建されたという。11時25分に出発する。
ここから「蛇腹道」を進むが、この道はかって空海が東西に細長い高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容し、「龍」の頭は壇場伽藍、尾は現在の金剛峯寺の東の蓮花院の辺りとされていて、この小道が腹の部分にあたることから、「龍の腹の小道」が転じて「蛇腹道」と名づけられたという。
2町石はこの道の入り口の左手に立っていて、「太上天皇」と刻まれている。太上天皇とは譲位により皇位を後継者に譲った、いわば譲位元の天皇に贈られる尊号、またはその尊号を受けた天皇のことで、上皇と略することが多い。
3町石は左側にあり、ここにも太上天皇と刻まれている。
4町石は「六時の鐘」の下にある。この六時の鐘は、元和四年(1618)に福島正則が奉納したが、寛永七年(1630)に焼失したため、寛永十二年(1635)に再び奉納、また、鐘楼堂は天保6年(1835)に再建されたという。午前六時から午後十時まで、二時間置きに刻を告げており、一度につき十二回撞くという。
5町石は金剛峰寺の前の駐車場のはずれ、奥ノ院に向かって右側の赤い橋のたもとに立っている。
6町石は左手蓮華院の前に立っている。
7町石は千手院交差点の左側前方に立っている。ここで少し早いが昼食にする。
8町石は左手高室院の前に立っている。
9町石は右手に西門院の前に立っている。
10町石は左手大円院の前に立っている。
11町石は左手三宝院の前に立っている。
12町石は右手北室院の前に立っている。
13町石は右手清高稲荷大明神の鳥居の前に立っている。
14町石は右手に苅萱堂のあるところの道を挟んだ前、奥ノ院に向かって左手にある。
15町石は左手の奥ノ院へ向かう道と右手の371号線とが分離する三叉路の中に立っている。
16町石は場所が資料に載っておらず、参考にさせていただいたHPにも記載がなかったので気にかかっていた。近くにあった案内所の方にお聞きしてもわからないという。案内所におられた男性の方が、町石は全部そろっているわけではなく、なくなっているのもあるといわれたが、なんとなく納得できなかったので、近くにあったお寺を訪問してお聞きし、ようやく奥ノ院に向かって右手にある一の橋観光センターの横に見つけることができた。
17町石は一の橋の手前左側にある。
一の橋を越えると墓石群の中へ入っていく。すぐに参道は二股に分かれるが、左へ進む。
18町石は左手にある。右手には司馬遼太郎文学碑がある。
19町石は右手にある。
20町石は右手にある。
21町石も右手にある。
22町石も右手にあるが、その奥に武田信玄、勝頼のお墓がある。
23町石は左手にあるが、似た形の墓石の中にあるのでわかりにくい。
24町石は左手にある。
25町石は右手にあるが、杉の大木の陰になっている。
26町石は中の橋の手前左手にあり、橋を渡ったところ左手に「汗かき地蔵」がある。この汗かき地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになって、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられている。また、汗かき地蔵をお祀りしているお堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているのだとか。。。。
27町石は右手にある。
28町石は左手にある。
29町石は左手にある。右手前には安芸浅野家のお墓がある。
30町石は右手にある。
31町石は左手にある。
32町石は左手にあり、後ろには徳川家康の次男結城秀康の石廟がある。
33町石は左手にある。
34町石は御廟橋手前の左手にある。
御廟橋を渡ると撮影禁止となるため、この先の写真はありません。
35町石は御廟へ登る階段の下、左手にあり、36町石は大師御廟の柵の中に立っていました。
12時52分に到着する。
本日の歩行時間 1時間27分。
本日の歩数&距離 4997歩、3.1㎞。
慈尊院から壇上伽藍・根本大塔までの180町石は胎蔵界曼荼羅の百八十尊の諸仏を表しているが、壇上伽藍から奥の院弘法大師御廟までの参道には金剛界曼荼羅の三十六尊の諸仏を表す36基の町石が建てられている。
この道を歩くのは、熊野古道小辺路を歩いた時、前回の町石道を歩いた時と今回と、合わせて3回目なので、今回はひたすら町石を見落とすことなく歩くことに集中して歩いた。
1町石は根本大塔のすぐ横にある「愛染堂」の前にある。
愛染堂は建武元年(1334)に後醍醐天皇の命令によって、四海静平、玉体安穏を祈るために建立され、本尊は愛染明王を安置したといわれているが、愛染明王は恋愛を司る仏として知られており、後醍醐天皇の御等身ともいわれている。ここは何度か火災にあったため、現在の建物は嘉永元年(1848)に再建されたという。11時25分に出発する。
ここから「蛇腹道」を進むが、この道はかって空海が東西に細長い高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容し、「龍」の頭は壇場伽藍、尾は現在の金剛峯寺の東の蓮花院の辺りとされていて、この小道が腹の部分にあたることから、「龍の腹の小道」が転じて「蛇腹道」と名づけられたという。
2町石はこの道の入り口の左手に立っていて、「太上天皇」と刻まれている。太上天皇とは譲位により皇位を後継者に譲った、いわば譲位元の天皇に贈られる尊号、またはその尊号を受けた天皇のことで、上皇と略することが多い。
3町石は左側にあり、ここにも太上天皇と刻まれている。
4町石は「六時の鐘」の下にある。この六時の鐘は、元和四年(1618)に福島正則が奉納したが、寛永七年(1630)に焼失したため、寛永十二年(1635)に再び奉納、また、鐘楼堂は天保6年(1835)に再建されたという。午前六時から午後十時まで、二時間置きに刻を告げており、一度につき十二回撞くという。
5町石は金剛峰寺の前の駐車場のはずれ、奥ノ院に向かって右側の赤い橋のたもとに立っている。
6町石は左手蓮華院の前に立っている。
7町石は千手院交差点の左側前方に立っている。ここで少し早いが昼食にする。
8町石は左手高室院の前に立っている。
9町石は右手に西門院の前に立っている。
10町石は左手大円院の前に立っている。
11町石は左手三宝院の前に立っている。
12町石は右手北室院の前に立っている。
13町石は右手清高稲荷大明神の鳥居の前に立っている。
14町石は右手に苅萱堂のあるところの道を挟んだ前、奥ノ院に向かって左手にある。
15町石は左手の奥ノ院へ向かう道と右手の371号線とが分離する三叉路の中に立っている。
16町石は場所が資料に載っておらず、参考にさせていただいたHPにも記載がなかったので気にかかっていた。近くにあった案内所の方にお聞きしてもわからないという。案内所におられた男性の方が、町石は全部そろっているわけではなく、なくなっているのもあるといわれたが、なんとなく納得できなかったので、近くにあったお寺を訪問してお聞きし、ようやく奥ノ院に向かって右手にある一の橋観光センターの横に見つけることができた。
17町石は一の橋の手前左側にある。
一の橋を越えると墓石群の中へ入っていく。すぐに参道は二股に分かれるが、左へ進む。
18町石は左手にある。右手には司馬遼太郎文学碑がある。
19町石は右手にある。
20町石は右手にある。
21町石も右手にある。
22町石も右手にあるが、その奥に武田信玄、勝頼のお墓がある。
23町石は左手にあるが、似た形の墓石の中にあるのでわかりにくい。
24町石は左手にある。
25町石は右手にあるが、杉の大木の陰になっている。
26町石は中の橋の手前左手にあり、橋を渡ったところ左手に「汗かき地蔵」がある。この汗かき地蔵は世の中の人々の苦しみを身代わりになって、一身に受けているので、いつも汗をかいていると伝えられている。また、汗かき地蔵をお祀りしているお堂の右側にある小さな井戸は「姿見の井戸」と呼ばれ、この井戸を覗きこんで自分の顔が映らなければ三年以内に死んでしまうと言われているのだとか。。。。
27町石は右手にある。
28町石は左手にある。
29町石は左手にある。右手前には安芸浅野家のお墓がある。
30町石は右手にある。
31町石は左手にある。
32町石は左手にあり、後ろには徳川家康の次男結城秀康の石廟がある。
33町石は左手にある。
34町石は御廟橋手前の左手にある。
御廟橋を渡ると撮影禁止となるため、この先の写真はありません。
35町石は御廟へ登る階段の下、左手にあり、36町石は大師御廟の柵の中に立っていました。
12時52分に到着する。
本日の歩行時間 1時間27分。
本日の歩数&距離 4997歩、3.1㎞。