2015年04月18日(土)
九度山~慈尊院~高野山
晴れ
弘法大師が唐から帰国し、弘仁7年(816)に国家の鎮護を祈り、僧侶を育成するために、高野山に修繕の道場を開設して1200年を迎える今年、町石道を歩いてきました。高野山には七口と呼ばれる入口があり、高野山を囲む山の尾根を通る結界道(女人道)を境界にして、今回歩いた町石道は大門口と呼ばれて現在世界遺産になっており、それ以外に、黒河道とつながる黒河口、不動坂口、龍神口、相ノ浦口、大滝口、大峰口がある。七口から山内は女人禁制だったため、それぞれに女性がこもって読経する女人堂が置かれていた。
7時38分に九度山駅を出発する。今回は会社の仲間のK君とY君が一緒だ。K君は以前竹内街道を一緒に歩いており、今回は二回目の歩き。Y君は今回初めての歩きだが、K君もY君も2月に行われた北九州マラソンを完走した健脚の持ち主で、このK・Yコンビなかなか息があっていて一緒に歩いていると楽しい。
駅を出て約10分ほど歩いていくと右手に「善名称院」がある。ここは関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・信繁が隠棲していた屋敷跡と言われており、別名「真田庵」といわれている。当初昌幸・信繁父子は高野山(蓮華定院)に配流の身となったが、妻を連れていたために九度山に移され、蟄居生活を送ったという説があるが、理由には諸説あるという。九度山で暮らしたのは昌幸、幸村とそれぞれの夫人とその侍女、更に信州から従ってきた家臣16人だったという。講談にある真田十勇士の物語はこの16人から発想されたもののようだが、名前は異なっているという。その後寛保元年(1741)に大安上人がこの地に地蔵菩薩を安置して一堂を創建したのが始まりといわれており、現在の建物は安政4年(1857)に再建され、九度山町指定文化財になっている。境内には真田昌幸と刻まれた石碑や安永2年(1773)の宝篋印塔や天保8年(1837)の千度石等が立っている。
その先右手に「せんだん」がある。樹齢約130年と推測されるこの木は直径1.8mにもなる巨木で、これほどの巨木は珍しいという。
やがて「慈尊院」が左手にある。ここは平成16年7月世界遺産に登録されたところで、弘仁7年(816年)弘法大師が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所としたという。当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられている。天文9年(1540年)紀の川の大洪水で流失してしまったが、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれたという。
高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りを「九度山」と呼ぶようになったという。空海の母は承和2年(835)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀った。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅して本尊に化身したという信仰が盛んになって、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。
北門から入っていくが、この門は16世紀の建立とみられており、横に続く築地塀は三方延長約116m、棟高2.9mという大規模なもので、共に和歌山県指定文化財になっている。
境内に入ると、ちょうどご本尊木造弥勒仏坐像 の御開帳の時間になっていて、お坊さんがお経を唱えていた。参拝客が見守る中、扉が開かれてご本尊を拝むことが出来た。御開帳は21年に一回で、これは空海の命日が21日ということにちなんでいるという。今年は丁度1200年と21年目が重なったため、通常は21日間の御開帳なのだが、今回は特別50日間御開帳が行われるそうで、これは1200年の間で初めてのことという。ご本尊は寛平4年(892)の墨書があるため、この年の作と認められており、長年秘仏とされていたので、学術調査が行われたのは第二次世界大戦後のことであり、昭和37年に国宝に指定されている。
境内には多宝塔があるが、これは室町時代後期に三重塔として下層部を組み上げ、寛永元年(1624)に上層部を多宝塔として造り上げられた珍しいもので、和歌山県指定文化財になっている。
慈尊院を出ると、すぐに「丹生官省符神社」へ向かう階段を登っていく。この神社は弘仁7年(816)弘法大師によって創建されたお社で、真言密教修法の道場の根本地を求めて各地を行脚していた弘法大師が大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い、高野という山上に霊地があることを教えられた。猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ、、弘法大師は高野山へと導かれた。弘法大師は神様が姿を猟師に変えて一山を与え下さったものであると感得し、その事を嵯峨天皇に上奏すると、天皇は深く感銘され、高野山を弘法大師に下賜されたという。弘法大師はこの時の想いをもとに、慈尊院を開いた時に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建されたという。この石段は119段あるが、下の十二段は延享5年(1748)に寄進され、その上の石段は宝暦3年(1753)に寄進されたものという。石段の途中に宝永2年(1705)に建立された鳥居が立っており、その右手に180町石が立っている。ここが町石道の出発点だ。
ちなみに真言密教の神髄を描いた両界曼荼羅図(金剛界曼荼羅図と胎蔵界曼荼羅図)のうち、町石道は胎蔵界曼荼羅図を表現しており、壇上伽藍から奥の院までの道は金剛界曼荼羅を表現しているという。
丹生官省符神社は三殿あるが、第一殿、第二殿は永生14年(1517)に再建され、第三殿は天文10年(1541)に再建されている。
町石道は本殿に向かって右へ進むが、すぐ先に文永6年(1269)と刻まれた179町石が立っている。
8時29分にここを通るが、色々と見て回ったこともあって、駅に着いてから町石道を出発するまでにほぼ一時間を要したことになる。
この町石は六甲山麓などで切り出された花崗岩でできていて、高さ3m、幅30cm、750kgもある大きな石で、瀬戸内海から紀ノ川を経て慈尊院から運び上げられたという。町石は、弘法大師が開山した平安時代の頃は木製の卒塔婆だったと言われており、風雨にさらされるなどして老朽化したため、鎌倉時代の文永2年(1265)頃に遍照光院の覚斅(かくきょう)上人が石造の卒塔婆建立を発願し、20年の歳月をかけて弘安8年(1285)に完成した。現在でもその8割以上にあたる150本の石柱が建立当時のままの姿で残っている。実際、文永と刻まれた町石がかなり多く見られた。これらはすべて五輪塔の形式で、一本の石に下から地、水、火、風、空を表現して方、円、三角、半月、団の形の五輪を積み上げたような形になっている。石柱の表面には梵字が刻まれ、山頂まであと何町という道しるべになっているのだ。五輪塔は平安時代中期以降、各地で建立されるようになったが、高野山が発祥の地という。
司馬遼太郎の「街道をゆく 9 信州佐久平みち、潟のみちほか」の中に記載されている「高野山みち」によると、白河天皇は上皇、法皇になってから、四度も町石道を通って高野山へ登ったそうで、町石ごとに礼拝し、真言を唱えたという。この本は2004年に出版されているが、実際に訪問したのは1976年だったそうで、その当時は「ほとんど廃道になっているらしい」と書かれており、また「ほんの十年ばかり前までは道の廃れとともに多くの町石が谷底に転がっていたのを、文化庁の肝煎りで滑車で引き上げたりした」と記載されている。しかし2004年に世界遺産に登録された等で本格的な道の整備が加速し、現在ではとても歩きやすい道になっていた。
その少し先の木の枝に「遍路道」と書かれた札が下がっている。四国遍路の時によく見かけるお札だ。
その先左上に178町石が立っている。
更にその一町先左手に177町石が立っている。一町は約109mの長さにあたるので、かなりの頻度で町石が出てくることになり、道に迷うことはない。
176町石が左手にある。
このあたりで3人で急遽路上ミーティングを行い、全ての町石を確認して写真に撮ろう!ということで合意に達した。名づけて「町石 コンプリート」作戦!
以後、「あった!」という声が山中に響き渡ることになる。
175町石が左手にあるが、その先で視界が開けて、前方に雨引山が見えてくる。
174町石が左手にあり、 173町石は石垣の上にある。
172町石は左手竹藪の中にある。 171町石は左手にある。
170町石も左手にある。 169町石も左手にある。
168町石が左手にあり、 新池橋が下に見える。
167町石が左手にある。 166町石が左手にある。
165町石は右手にある。 164町石は左手にある。
163町石は右手にある。 このあたり眺望が開ける。
162町石は左手にある。 161町石は左手にある。
この先で道は二股に分かれており、 左へ坂を登るが、ここに四国遍路で見かけるシールが貼られている。
160町石は左手にある。 159町石は左手にある。
158町石は左少し上にある。 紀ノ川と三谷橋が見える。
157町石は左手にある。 桜が満開できれいだ。
左手に「銭壺石」がある。「文永2年(1265)覚斅(かくきょう)上人の発願によって20年の歳月をかけて町石道が整備されたが、整備作業の際、北条時宗の外戚である安達泰盛が、この石の上においた壺に給金を入れ、作業員につかみ取りをさせて与えたという伝承があります。銭壺の上部がくびれているため、欲を出してたくさんの銭をつかんでも、手が引っかかって取り出すことが出来ません。そのため大きな手の者でも、小さな手の者でもつかめる銭の量は大差なかったといわれています。」という説明板が立っている。石の上には現在も小銭が置かれていた。
156町石が左手にある。 155町石が左手上にある。
154町石は新旧二つ並んでいる。 雨引山への分岐点がある。
153町石は左手かなり高所にある。 152町石も左手高所にある。
151町石は左手にある。 150町石は新旧二つある。
149町石も左手に新旧並んである。 148町石が左手にある。
左手に弘法大師像がある。平坦な道だ。147町石が右手にある。
146町石が右手にある。 145町石が右手にある。
144町石と一里石が並んでいる。 143町石が左手にある。
9時46分にここを通る。
142町石が新旧並んで左手にある。 141町石が左手にある。
140町石が左手にある。 139町石が左手にある。
138町石が新旧並んで左手にある。 137町石が左手にある。
136町石がある場所が六本杉峠だ。ここは開けた空き地になっている。
10時3分に六本杉峠に到着、ここから町石道から外れて1.3㎞ほどのところにある「丹生都比売神社」へ向かうことにする。最初は立ち寄ろうか、寄らずにそのまま前進しようか迷っていたが、k君の強い意志があったため、皆で行くことにする。k君は気合が入っている。
「丹生都比売神社」は空海が金剛峰寺を建立する際、この神社が神領を寄進したという言い伝えがある。ここは高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず当社に参拝する習わしがあったという。ここは式内社で紀伊国の一宮、旧社格は官幣大社だった。本殿および楼門などは重要文化財に指定されており、世界遺産に登録されている。10時24分に到着する。
ここで一息入れて、持参したお菓子を食べ、その後六本杉峠に戻る。このまま前進して、二ツ鳥居のところに出る道もあるのだが、町石を順番に追いかけていくということに挑戦しているため、敢えてもとに戻ることにする。11時4分に六本杉峠に着き、先へ進む。
135町石が左手にある。 134町石が左手にある。
133町石が左手にある。 132町石が左手にある。
131町石が左手にある。 130町石が左手にある。
129町石が左手にある。 128町石が左手にある。
127町石が左手にある。 126町石が左手にある。
先ほどから腹が減ったと盛んに言っていたK君がいきなり、「夕食をどこでたべましょうか?」と言い出した。 11時20分を少し過ぎたところなのだが、朝が早かったせいか、確かにお腹が減ってきている。私も飢餓状態に極端に弱い方だが、K君も私と似たところがあるようだ。「まだ昼食も済ましていないのに、もう晩御飯の話ですか?」とY君が言うと、昼食は矢立茶屋で食べることに決まっているので、その先を考えているとのこと。なんとも気の早い話だ。当初の予定では昼ごろには矢立茶屋に着くつもりにしていたのだが、町石を一つ一つチェックしながら歩くということは、意外に時間がかかった。ただ山の中の道で、店などないので、腹が減ったといっても、途中で何か買って食べるというわけにはいかない。とにかく先に進むしかない。
このあたりになると、1町の感覚が大体わかってきているので、一つ抜かすと、おかしい?と気が付くようになっている。そこで後もどってみると、やはり抜けていた町石があったということが何度かあった。三人でそれぞれに注意をしながら歩いていても、やはり見落とすことがあるのだ。今日は土曜日で好天ということもあって、この道を歩いている人がかなりおられるが、我々のように町石をチェックし、町石を見つけては写真を撮ったり、後戻りしたりしている人はおらず、我々をどんどん追い抜いて行く。おそらく皆さんこの道を何度も歩いているので、いまさら町石をチェックする必要もないのだろうとY君は言っていたが。。。。
この辺りは平坦な道が続いており、歩いていて気持ちがいい。町石道は全般に思っていたよりアップダウンが少なくて歩きやすかった。
125町石が左手にある。 124町石が右手にある。
ここは古峠で、ここから左へ道が分岐しており、これを行くと上古沢駅へ向かう道になる。ただ資料によるとこの道は相当に急な下り坂になっていて、お勧めできないとなっていた。11時27分にここを通る。
123町石が左手にある。
この先で道は泥道になる。最近は強い雨は降っていないはずなので、いつもこのような状態なのかもしれないし、あるいはたまたまだったのかもしれないが、とにかく道はドロドロ状態。100m~150mほどの距離だっただろうか、道幅が狭いので、足を思いっきり広げて何とか歩いたが、靴は泥にまみれてしまった。
この間は足元ばかり気にして歩いたので、町石を見落としてしまっていることにその先で気が付いた。仕方がないので再び泥道を戻ってみると、左手上に122町石があった。
121町石が左手にある。
その先に「二ツ鳥居」がある。この鳥居は弘仁10年(819)5月3日に弘法大師によって建立されたもので、当時は木製だったが、慶安2年(1649)に補陀洛院叟遍が私財を投げ打って今の鳥居にしたと説明されている。ここも桜が満開だ。11時39分にここを通る。
このすぐ横で先ほどの丹生都比売神社から登ってきた道と合流する。またそのすぐ横右手に120町石がある。
119町石が右手にある。 118町石が右手にある。
117町石が右手にある。 116町石が右手にある。
このあたり左手は切り立った崖になっている。
右手に「白蛇の岩」がある。「小岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を杖でつついて驚かせた僧が、丹生都比売神社からの帰途、この岩の前を通ると、白い大蛇が岩の上の木に巻きついて待ち構えていたという伝説がある。僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社で御祈祷をして戻ってみると、大蛇はすでに消えていた。その話からこの岩には大蛇が棲みついており、この岩にお参りをして白蛇の姿を見ると幸せになると言い伝えられています」と説明されている。残念ながら我々は白蛇を見ることはできなかったが、でもまぁ、白蛇というか、蛇には出来れば出会いたくない。
115町石が右手にある。 114町石が左手にある。
113町石が左手にある。右手はゴルフ場だ。112町石が左手にある。
その先左手に「神田地蔵堂」があり、先ほど我々を追い越して行ったウォーキングのグループが休憩をしていた。12時ちょうどにここを通る。
111町石が左手にある。 110町石が左手にある。
109町石が左手にある。 108町石が右手にある。
107町石が右手にある。 106町石が右手にある。
105町石が右手にある。 104町石が左手にある。
103町石が右手にある。 102町石が左手にある。
101町石が左手にある。 100町石が左手にある。
99町石が左手にある。 98町石が左手にある。
97町石が左手にある。 96町石が右手にある。
95町石が右手にある。 94町石が右手にある。
93町石が右手にある。 92町石が右手にある。
91町石が右手にある。 90町石が左手にある。
89町石が左手にある。 88町石が左手にある。
87町石が左手にある。 86町石が左手にある。
85町石が左手上にあるが、ここは極端にわかりにくかった。左手上に鉄塔が立っているのが、笹薮を通してわずかに見えているが、その鉄塔と道との間の笹薮の中に86町石があった。3人がかりで手分けして探してようやく見つけた。
84町石が左手にある。 83町石が右手にある。
82町石が右手にある。 81町石が右手にある。
80町石が右手にある。 79町石が右手にある。
78町石が右手にある。 77町石が左手にある。
76町石が右手にある。 75町石が右手にある。
74町石が右手にある。 73町石が右手にある。
72町石と三里石が右側にある。 71町石が右手にある。
13時31分にここを通る。
70町石が右手にある。 69町石が右手にある。
68町石が左手にある。 67町石が右手にある。
66町石が右手にある。 65町石が右手にある。
64町石が右手にある。 63町石が右手にある。
62町石が右手にある。 まだ新しい赤い帽子の地蔵尊が右手にある。
61町石が右手にある。
その先で山を抜けて、車道にでるが、道路沿い右手に60町石がある。
道路を挟んだ前に「矢立茶屋」があり、13時52分に到着する。予定より随分時間がかかってしまった。ここで待ち望んだ昼食にする。昼食は名物「やきもち」だ。白餅とよもぎ餅があって、 店内で自分で火にあぶって食べることもできると聞いていたが、今日は焼くことはできないといわれたので、そのまま食べることにしたが、あっさりした甘さの小豆あんが入っていておいしかった。一人五個づつ食べてようやく人心地ついた。
もちを食べ終わって、茶屋の前、道路を渡ったところの階段を少し上ったところにある「「矢立砂捏地蔵(やたてすなこねじぞう)」に参拝する。この地蔵は空海がこの地の平和と村人の健康を祈願して彫ったと言われている。扉が閉まっていたので、隙間にカメラを差し込んで地蔵尊を撮らせていただいた。
町石道は矢立茶屋の横から入っていくが、すぐ先左手に、59町石と六地蔵が並んでいる。14時27分にここを通る。
58町石が左手にある。 57町石が右手にある。
56町石が左上にある。 55町石が右手にある。
左手に「袈裟掛石」がある。この石は「弘法大師が袈裟を掛けられたといわれており、この石からは高野山の清浄結界となる。鞍のような形をしていることから、「鞍掛石」、また、こに石の下をくぐれば長生きをするとも言い伝えられていることから「くぐり石」とも呼ばれている」と説明されている。石の隙間はかなり狭く、とてもくぐり抜けできそうになかったので、挑戦しなかった。まぁ、そんなに長生きをする必要もないし。。。。
54町石が右手にある。
その先右手に「押上げ石」がある。「弘法大師の母、阿刀氏はある日、女人禁制を破って五十四町石あたりまで登山してきたので、ここより先は入れませんよと大師がいくら説明しても母は聞き入れません。そこで大師は石に袈裟をかけ「ここを越えられますか」と告げます。言葉どおり母が飛び越えようとすると突如雷鳴がとどろき、火の雨が降ってきました。驚いた大師はとっさに岩を手で押上げ、その影に母をかくまいました。五十四町石の先にあるその岩には今も大師の手形が残っているといわれており、ここからが高野山の清浄結界とされるゆえんです。」(和歌山県観光連盟のHPより引用)
53町石が右手に新旧二つ並んでいる。 52町石が右手にある。
51町石が右手にある。 50町石が右手にある。
49町石が右手にある。 48町石が右手にある。
47町石が右手にある。 46町石が右手にある。
45町石が右手にある。 44町石が右手に少し離れて二つある。
43町石が右手にある。 42町石が右手にある。
41町石が右手にある。
ここで舗装された道路を横断して進むと、すぐ先左手に40町石がある。
ここから町石道は山の中へ進んでいるので、それに沿って歩いていくが、町石がない。おかしいと思って皆でもう一度40町石まで戻って探してみたが、やはり見当たらない。おかしいな、と思って持ってきたメモを見ると、39町石、38町石は道路沿いにあるとなっていることに気が付いた。そこで舗装道路まで出て、これを進んでいくと左手に39町石があった。さらにその先に38町石が道路沿いにある。従って町石道のこの区間には町石は立っていないことになる。
39町石が左手にある。 38町石が右手にある。
その先道路の左手に37町石が立っている。
37町石の横に道が伸びているので、これが町石道かと思ったが、これは違っていて、道路の右手に先ほど途中まで歩いた町石道が道路に接するところまで来ており、この道は道路を横断せずに、道路沿いを道路の右側に沿って下っているので、これを進むと、左手に36町石が立っている。そのすぐ横に四里石が立っている。ここを15時33分に通る。
35町石が左手にある。 34町石が右手にある。
33町石が左手にある。 32町石が左手にある。
31町石が左手にある。 30町石が左手にある。
29町石が左手にある。 28町石が左手にある。
左手に「鏡石」がある。表面が鏡のように平らなことから鏡石と呼ばれ、この石に向かって真言を唱えると、心願成就するといわれていると説明されている。確かに平らな岩だ。15時52分にここを通る。
27町石が左手にある。 26町石が左手にある。
25町石が左手にある。 24町石が左手にある。
23町石が左手にある。 22町石が左手にある。
21町石が左手にかなり埋まってある。 20町石が左手にある。
19町石が左手にある。 18町石が左手にある。
17町石が左手にある。 16町石が左手にある。
15町石が左手にある。 14町石が左手にある。
13町石が左手にある。 12町石が左手にある。
11町石が左手にある。 10町石が左手にある。
急坂を登っていくと、9町石が右手にある。
その先で車道に出ると正面に「大門」がある。16時39分に着く。ここは高野山内への西の入り口で、現在のような門となる以前は、数百メートル下方の旧道、「九折谷」という場所に鳥居があって、これが門になる前身だといわれている。現在の位置に移されたのは、永治元年(1141)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更された。さらに寛喜2年(1230)には五間二階の楼門に改められたと記録されている。その後焼失、再建を繰り返し、宝永2年(1705)に現在の形になったという。昭和61年には、全面解体修理が施され、この時、白木の状態であった表面を丹塗りとして、昔の状態に戻されたという。
重要文化財に指定されている大門の仁王像(金剛力士立像)は、その大きさからすると、奈良の東大寺南大門の仁王像に次ぐ、我が国二番目の大きさで、向かって右の阿形像は、京都の仏師であり高野山大仏師をも名乗った康意が造立し、像高は 546.0センチメートル、左の吽形像は558.0センチメートルで、同じく京都五条の仏師、運長が造立したことが胎内の背位置に留められていた銘札から判明している。
8町石は大門を正面に見て、右側の高野山道路沿いにある。
7町石は大門を正面に見て、左側の弁天岳・弁財天への鳥居の先左手にある。正面は高野山道路を向いて立っている。
6町石は大門を抜けた先、左手にある。5町石はその先左手、
バス停の横にある。
ここまで来ると街中になる。右手に饅頭屋があったので、早速酒まんじゅう他を各々購入する。昼食として5個のやきもちを食べて腹持ちがよかったのか、それ以降ここまで誰も腹が減った、ということは言わなかった。ここから先、高野山の街中には饅頭屋さんが多くあり、我々はそれぞれの店の饅頭を少しずつ食べたが、どれもおいしかった。
4町石は左手にある。 3町石も左手にあるが、
かなり修復がされている。
2町石は左手柵の中にある。 1町石も左手柵の中にある。
17時ちょうどに「壇上伽藍」に到着する。ここは弘法大師が高野山を開創した際、真っ先に整備に着手した場所で、檀上とは曼荼羅の道場という意味があるという。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥の院と並んで信仰の中心として大切にされてきたという。
見物は明日、ゆっくりしようということで、とりあえず金剛峰寺へ向かい、8分ほどで到着する。
「金剛峯寺」の表玄関にあたるところは大玄関といい、天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされるところという。大玄関の横にもう一つ玄関があるが、これは小玄関と呼ばれ、高野山では上綱(じょうこう)職の方々がもっぱら使用するという。一般の僧侶は昔は裏口より出入りしていたが、現在は一般参詣入口を利用しているとのことだ。我々も一般参詣入口から入って見学をしたが、今回は16年ぶりにご本尊が御開帳されており、拝むことが出来たのは幸いだった。それ以外でもどの場所も絢爛豪華で、見るものを圧倒する雰囲気を醸し出していた。ただ内部は撮影禁止のため、写真を撮ることが出来なかった。、
ここで今日の歩きを終えることにし、千手院からバスでケーブル駅まで出たが、乗客が多く、ラッシュアワー並の混雑だった。昨夜泊った橋本駅の近くの宿まで帰る。本当は宿坊に泊りたかったのだが、開創1200年ということで、宿坊の予約は取れなかったのだ。
夜三人で「町石 コンプリート!」作戦の成功を祝して宿の近くの店で乾杯をした。無事歩き終えたという満足感で、とてもおいしいお酒だった。ただ翌日大変なチョンボを私がしていたことを知り、愕然となったのだが、この時はそんな事とはつゆ知らず、唯々おいしいお酒を楽しんだのだった。
本日の歩行時間 9時間22分。
本日の歩数&距離 29300歩、26.2km。(距離の割に歩数が少ないのですが、万歩計の数字なので、そのまま使用させていただきます。)
弘法大師が唐から帰国し、弘仁7年(816)に国家の鎮護を祈り、僧侶を育成するために、高野山に修繕の道場を開設して1200年を迎える今年、町石道を歩いてきました。高野山には七口と呼ばれる入口があり、高野山を囲む山の尾根を通る結界道(女人道)を境界にして、今回歩いた町石道は大門口と呼ばれて現在世界遺産になっており、それ以外に、黒河道とつながる黒河口、不動坂口、龍神口、相ノ浦口、大滝口、大峰口がある。七口から山内は女人禁制だったため、それぞれに女性がこもって読経する女人堂が置かれていた。
7時38分に九度山駅を出発する。今回は会社の仲間のK君とY君が一緒だ。K君は以前竹内街道を一緒に歩いており、今回は二回目の歩き。Y君は今回初めての歩きだが、K君もY君も2月に行われた北九州マラソンを完走した健脚の持ち主で、このK・Yコンビなかなか息があっていて一緒に歩いていると楽しい。
駅を出て約10分ほど歩いていくと右手に「善名称院」がある。ここは関ヶ原の戦いで敗れた真田昌幸・信繁が隠棲していた屋敷跡と言われており、別名「真田庵」といわれている。当初昌幸・信繁父子は高野山(蓮華定院)に配流の身となったが、妻を連れていたために九度山に移され、蟄居生活を送ったという説があるが、理由には諸説あるという。九度山で暮らしたのは昌幸、幸村とそれぞれの夫人とその侍女、更に信州から従ってきた家臣16人だったという。講談にある真田十勇士の物語はこの16人から発想されたもののようだが、名前は異なっているという。その後寛保元年(1741)に大安上人がこの地に地蔵菩薩を安置して一堂を創建したのが始まりといわれており、現在の建物は安政4年(1857)に再建され、九度山町指定文化財になっている。境内には真田昌幸と刻まれた石碑や安永2年(1773)の宝篋印塔や天保8年(1837)の千度石等が立っている。
その先右手に「せんだん」がある。樹齢約130年と推測されるこの木は直径1.8mにもなる巨木で、これほどの巨木は珍しいという。
やがて「慈尊院」が左手にある。ここは平成16年7月世界遺産に登録されたところで、弘仁7年(816年)弘法大師が、高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所としたという。当時の慈尊院は、今の場所より北側にあり、方6丁の広さがあったと伝えられている。天文9年(1540年)紀の川の大洪水で流失してしまったが、弥勒堂だけは天文6年(1474年)に今の場所に移してあったので、流失をまぬがれたという。
高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りを「九度山」と呼ぶようになったという。空海の母は承和2年(835)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀った。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅して本尊に化身したという信仰が盛んになって、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。
北門から入っていくが、この門は16世紀の建立とみられており、横に続く築地塀は三方延長約116m、棟高2.9mという大規模なもので、共に和歌山県指定文化財になっている。
境内に入ると、ちょうどご本尊木造弥勒仏坐像 の御開帳の時間になっていて、お坊さんがお経を唱えていた。参拝客が見守る中、扉が開かれてご本尊を拝むことが出来た。御開帳は21年に一回で、これは空海の命日が21日ということにちなんでいるという。今年は丁度1200年と21年目が重なったため、通常は21日間の御開帳なのだが、今回は特別50日間御開帳が行われるそうで、これは1200年の間で初めてのことという。ご本尊は寛平4年(892)の墨書があるため、この年の作と認められており、長年秘仏とされていたので、学術調査が行われたのは第二次世界大戦後のことであり、昭和37年に国宝に指定されている。
境内には多宝塔があるが、これは室町時代後期に三重塔として下層部を組み上げ、寛永元年(1624)に上層部を多宝塔として造り上げられた珍しいもので、和歌山県指定文化財になっている。
慈尊院を出ると、すぐに「丹生官省符神社」へ向かう階段を登っていく。この神社は弘仁7年(816)弘法大師によって創建されたお社で、真言密教修法の道場の根本地を求めて各地を行脚していた弘法大師が大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い、高野という山上に霊地があることを教えられた。猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ、、弘法大師は高野山へと導かれた。弘法大師は神様が姿を猟師に変えて一山を与え下さったものであると感得し、その事を嵯峨天皇に上奏すると、天皇は深く感銘され、高野山を弘法大師に下賜されたという。弘法大師はこの時の想いをもとに、慈尊院を開いた時に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建されたという。この石段は119段あるが、下の十二段は延享5年(1748)に寄進され、その上の石段は宝暦3年(1753)に寄進されたものという。石段の途中に宝永2年(1705)に建立された鳥居が立っており、その右手に180町石が立っている。ここが町石道の出発点だ。
ちなみに真言密教の神髄を描いた両界曼荼羅図(金剛界曼荼羅図と胎蔵界曼荼羅図)のうち、町石道は胎蔵界曼荼羅図を表現しており、壇上伽藍から奥の院までの道は金剛界曼荼羅を表現しているという。
丹生官省符神社は三殿あるが、第一殿、第二殿は永生14年(1517)に再建され、第三殿は天文10年(1541)に再建されている。
町石道は本殿に向かって右へ進むが、すぐ先に文永6年(1269)と刻まれた179町石が立っている。
8時29分にここを通るが、色々と見て回ったこともあって、駅に着いてから町石道を出発するまでにほぼ一時間を要したことになる。
この町石は六甲山麓などで切り出された花崗岩でできていて、高さ3m、幅30cm、750kgもある大きな石で、瀬戸内海から紀ノ川を経て慈尊院から運び上げられたという。町石は、弘法大師が開山した平安時代の頃は木製の卒塔婆だったと言われており、風雨にさらされるなどして老朽化したため、鎌倉時代の文永2年(1265)頃に遍照光院の覚斅(かくきょう)上人が石造の卒塔婆建立を発願し、20年の歳月をかけて弘安8年(1285)に完成した。現在でもその8割以上にあたる150本の石柱が建立当時のままの姿で残っている。実際、文永と刻まれた町石がかなり多く見られた。これらはすべて五輪塔の形式で、一本の石に下から地、水、火、風、空を表現して方、円、三角、半月、団の形の五輪を積み上げたような形になっている。石柱の表面には梵字が刻まれ、山頂まであと何町という道しるべになっているのだ。五輪塔は平安時代中期以降、各地で建立されるようになったが、高野山が発祥の地という。
司馬遼太郎の「街道をゆく 9 信州佐久平みち、潟のみちほか」の中に記載されている「高野山みち」によると、白河天皇は上皇、法皇になってから、四度も町石道を通って高野山へ登ったそうで、町石ごとに礼拝し、真言を唱えたという。この本は2004年に出版されているが、実際に訪問したのは1976年だったそうで、その当時は「ほとんど廃道になっているらしい」と書かれており、また「ほんの十年ばかり前までは道の廃れとともに多くの町石が谷底に転がっていたのを、文化庁の肝煎りで滑車で引き上げたりした」と記載されている。しかし2004年に世界遺産に登録された等で本格的な道の整備が加速し、現在ではとても歩きやすい道になっていた。
その少し先の木の枝に「遍路道」と書かれた札が下がっている。四国遍路の時によく見かけるお札だ。
その先左上に178町石が立っている。
更にその一町先左手に177町石が立っている。一町は約109mの長さにあたるので、かなりの頻度で町石が出てくることになり、道に迷うことはない。
176町石が左手にある。
このあたりで3人で急遽路上ミーティングを行い、全ての町石を確認して写真に撮ろう!ということで合意に達した。名づけて「町石 コンプリート」作戦!
以後、「あった!」という声が山中に響き渡ることになる。
175町石が左手にあるが、その先で視界が開けて、前方に雨引山が見えてくる。
174町石が左手にあり、 173町石は石垣の上にある。
172町石は左手竹藪の中にある。 171町石は左手にある。
170町石も左手にある。 169町石も左手にある。
168町石が左手にあり、 新池橋が下に見える。
167町石が左手にある。 166町石が左手にある。
165町石は右手にある。 164町石は左手にある。
163町石は右手にある。 このあたり眺望が開ける。
162町石は左手にある。 161町石は左手にある。
この先で道は二股に分かれており、 左へ坂を登るが、ここに四国遍路で見かけるシールが貼られている。
160町石は左手にある。 159町石は左手にある。
158町石は左少し上にある。 紀ノ川と三谷橋が見える。
157町石は左手にある。 桜が満開できれいだ。
左手に「銭壺石」がある。「文永2年(1265)覚斅(かくきょう)上人の発願によって20年の歳月をかけて町石道が整備されたが、整備作業の際、北条時宗の外戚である安達泰盛が、この石の上においた壺に給金を入れ、作業員につかみ取りをさせて与えたという伝承があります。銭壺の上部がくびれているため、欲を出してたくさんの銭をつかんでも、手が引っかかって取り出すことが出来ません。そのため大きな手の者でも、小さな手の者でもつかめる銭の量は大差なかったといわれています。」という説明板が立っている。石の上には現在も小銭が置かれていた。
156町石が左手にある。 155町石が左手上にある。
154町石は新旧二つ並んでいる。 雨引山への分岐点がある。
153町石は左手かなり高所にある。 152町石も左手高所にある。
151町石は左手にある。 150町石は新旧二つある。
149町石も左手に新旧並んである。 148町石が左手にある。
左手に弘法大師像がある。平坦な道だ。147町石が右手にある。
146町石が右手にある。 145町石が右手にある。
144町石と一里石が並んでいる。 143町石が左手にある。
9時46分にここを通る。
142町石が新旧並んで左手にある。 141町石が左手にある。
140町石が左手にある。 139町石が左手にある。
138町石が新旧並んで左手にある。 137町石が左手にある。
136町石がある場所が六本杉峠だ。ここは開けた空き地になっている。
10時3分に六本杉峠に到着、ここから町石道から外れて1.3㎞ほどのところにある「丹生都比売神社」へ向かうことにする。最初は立ち寄ろうか、寄らずにそのまま前進しようか迷っていたが、k君の強い意志があったため、皆で行くことにする。k君は気合が入っている。
「丹生都比売神社」は空海が金剛峰寺を建立する際、この神社が神領を寄進したという言い伝えがある。ここは高野山への入り口にあたることから、高野山参拝前にはまず当社に参拝する習わしがあったという。ここは式内社で紀伊国の一宮、旧社格は官幣大社だった。本殿および楼門などは重要文化財に指定されており、世界遺産に登録されている。10時24分に到着する。
ここで一息入れて、持参したお菓子を食べ、その後六本杉峠に戻る。このまま前進して、二ツ鳥居のところに出る道もあるのだが、町石を順番に追いかけていくということに挑戦しているため、敢えてもとに戻ることにする。11時4分に六本杉峠に着き、先へ進む。
135町石が左手にある。 134町石が左手にある。
133町石が左手にある。 132町石が左手にある。
131町石が左手にある。 130町石が左手にある。
129町石が左手にある。 128町石が左手にある。
127町石が左手にある。 126町石が左手にある。
先ほどから腹が減ったと盛んに言っていたK君がいきなり、「夕食をどこでたべましょうか?」と言い出した。 11時20分を少し過ぎたところなのだが、朝が早かったせいか、確かにお腹が減ってきている。私も飢餓状態に極端に弱い方だが、K君も私と似たところがあるようだ。「まだ昼食も済ましていないのに、もう晩御飯の話ですか?」とY君が言うと、昼食は矢立茶屋で食べることに決まっているので、その先を考えているとのこと。なんとも気の早い話だ。当初の予定では昼ごろには矢立茶屋に着くつもりにしていたのだが、町石を一つ一つチェックしながら歩くということは、意外に時間がかかった。ただ山の中の道で、店などないので、腹が減ったといっても、途中で何か買って食べるというわけにはいかない。とにかく先に進むしかない。
このあたりになると、1町の感覚が大体わかってきているので、一つ抜かすと、おかしい?と気が付くようになっている。そこで後もどってみると、やはり抜けていた町石があったということが何度かあった。三人でそれぞれに注意をしながら歩いていても、やはり見落とすことがあるのだ。今日は土曜日で好天ということもあって、この道を歩いている人がかなりおられるが、我々のように町石をチェックし、町石を見つけては写真を撮ったり、後戻りしたりしている人はおらず、我々をどんどん追い抜いて行く。おそらく皆さんこの道を何度も歩いているので、いまさら町石をチェックする必要もないのだろうとY君は言っていたが。。。。
この辺りは平坦な道が続いており、歩いていて気持ちがいい。町石道は全般に思っていたよりアップダウンが少なくて歩きやすかった。
125町石が左手にある。 124町石が右手にある。
ここは古峠で、ここから左へ道が分岐しており、これを行くと上古沢駅へ向かう道になる。ただ資料によるとこの道は相当に急な下り坂になっていて、お勧めできないとなっていた。11時27分にここを通る。
123町石が左手にある。
この先で道は泥道になる。最近は強い雨は降っていないはずなので、いつもこのような状態なのかもしれないし、あるいはたまたまだったのかもしれないが、とにかく道はドロドロ状態。100m~150mほどの距離だっただろうか、道幅が狭いので、足を思いっきり広げて何とか歩いたが、靴は泥にまみれてしまった。
この間は足元ばかり気にして歩いたので、町石を見落としてしまっていることにその先で気が付いた。仕方がないので再び泥道を戻ってみると、左手上に122町石があった。
121町石が左手にある。
その先に「二ツ鳥居」がある。この鳥居は弘仁10年(819)5月3日に弘法大師によって建立されたもので、当時は木製だったが、慶安2年(1649)に補陀洛院叟遍が私財を投げ打って今の鳥居にしたと説明されている。ここも桜が満開だ。11時39分にここを通る。
このすぐ横で先ほどの丹生都比売神社から登ってきた道と合流する。またそのすぐ横右手に120町石がある。
119町石が右手にある。 118町石が右手にある。
117町石が右手にある。 116町石が右手にある。
このあたり左手は切り立った崖になっている。
右手に「白蛇の岩」がある。「小岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を杖でつついて驚かせた僧が、丹生都比売神社からの帰途、この岩の前を通ると、白い大蛇が岩の上の木に巻きついて待ち構えていたという伝説がある。僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社で御祈祷をして戻ってみると、大蛇はすでに消えていた。その話からこの岩には大蛇が棲みついており、この岩にお参りをして白蛇の姿を見ると幸せになると言い伝えられています」と説明されている。残念ながら我々は白蛇を見ることはできなかったが、でもまぁ、白蛇というか、蛇には出来れば出会いたくない。
115町石が右手にある。 114町石が左手にある。
113町石が左手にある。右手はゴルフ場だ。112町石が左手にある。
その先左手に「神田地蔵堂」があり、先ほど我々を追い越して行ったウォーキングのグループが休憩をしていた。12時ちょうどにここを通る。
111町石が左手にある。 110町石が左手にある。
109町石が左手にある。 108町石が右手にある。
107町石が右手にある。 106町石が右手にある。
105町石が右手にある。 104町石が左手にある。
103町石が右手にある。 102町石が左手にある。
101町石が左手にある。 100町石が左手にある。
99町石が左手にある。 98町石が左手にある。
97町石が左手にある。 96町石が右手にある。
95町石が右手にある。 94町石が右手にある。
93町石が右手にある。 92町石が右手にある。
91町石が右手にある。 90町石が左手にある。
89町石が左手にある。 88町石が左手にある。
87町石が左手にある。 86町石が左手にある。
85町石が左手上にあるが、ここは極端にわかりにくかった。左手上に鉄塔が立っているのが、笹薮を通してわずかに見えているが、その鉄塔と道との間の笹薮の中に86町石があった。3人がかりで手分けして探してようやく見つけた。
84町石が左手にある。 83町石が右手にある。
82町石が右手にある。 81町石が右手にある。
80町石が右手にある。 79町石が右手にある。
78町石が右手にある。 77町石が左手にある。
76町石が右手にある。 75町石が右手にある。
74町石が右手にある。 73町石が右手にある。
72町石と三里石が右側にある。 71町石が右手にある。
13時31分にここを通る。
70町石が右手にある。 69町石が右手にある。
68町石が左手にある。 67町石が右手にある。
66町石が右手にある。 65町石が右手にある。
64町石が右手にある。 63町石が右手にある。
62町石が右手にある。 まだ新しい赤い帽子の地蔵尊が右手にある。
61町石が右手にある。
その先で山を抜けて、車道にでるが、道路沿い右手に60町石がある。
道路を挟んだ前に「矢立茶屋」があり、13時52分に到着する。予定より随分時間がかかってしまった。ここで待ち望んだ昼食にする。昼食は名物「やきもち」だ。白餅とよもぎ餅があって、 店内で自分で火にあぶって食べることもできると聞いていたが、今日は焼くことはできないといわれたので、そのまま食べることにしたが、あっさりした甘さの小豆あんが入っていておいしかった。一人五個づつ食べてようやく人心地ついた。
もちを食べ終わって、茶屋の前、道路を渡ったところの階段を少し上ったところにある「「矢立砂捏地蔵(やたてすなこねじぞう)」に参拝する。この地蔵は空海がこの地の平和と村人の健康を祈願して彫ったと言われている。扉が閉まっていたので、隙間にカメラを差し込んで地蔵尊を撮らせていただいた。
町石道は矢立茶屋の横から入っていくが、すぐ先左手に、59町石と六地蔵が並んでいる。14時27分にここを通る。
58町石が左手にある。 57町石が右手にある。
56町石が左上にある。 55町石が右手にある。
左手に「袈裟掛石」がある。この石は「弘法大師が袈裟を掛けられたといわれており、この石からは高野山の清浄結界となる。鞍のような形をしていることから、「鞍掛石」、また、こに石の下をくぐれば長生きをするとも言い伝えられていることから「くぐり石」とも呼ばれている」と説明されている。石の隙間はかなり狭く、とてもくぐり抜けできそうになかったので、挑戦しなかった。まぁ、そんなに長生きをする必要もないし。。。。
54町石が右手にある。
その先右手に「押上げ石」がある。「弘法大師の母、阿刀氏はある日、女人禁制を破って五十四町石あたりまで登山してきたので、ここより先は入れませんよと大師がいくら説明しても母は聞き入れません。そこで大師は石に袈裟をかけ「ここを越えられますか」と告げます。言葉どおり母が飛び越えようとすると突如雷鳴がとどろき、火の雨が降ってきました。驚いた大師はとっさに岩を手で押上げ、その影に母をかくまいました。五十四町石の先にあるその岩には今も大師の手形が残っているといわれており、ここからが高野山の清浄結界とされるゆえんです。」(和歌山県観光連盟のHPより引用)
53町石が右手に新旧二つ並んでいる。 52町石が右手にある。
51町石が右手にある。 50町石が右手にある。
49町石が右手にある。 48町石が右手にある。
47町石が右手にある。 46町石が右手にある。
45町石が右手にある。 44町石が右手に少し離れて二つある。
43町石が右手にある。 42町石が右手にある。
41町石が右手にある。
ここで舗装された道路を横断して進むと、すぐ先左手に40町石がある。
ここから町石道は山の中へ進んでいるので、それに沿って歩いていくが、町石がない。おかしいと思って皆でもう一度40町石まで戻って探してみたが、やはり見当たらない。おかしいな、と思って持ってきたメモを見ると、39町石、38町石は道路沿いにあるとなっていることに気が付いた。そこで舗装道路まで出て、これを進んでいくと左手に39町石があった。さらにその先に38町石が道路沿いにある。従って町石道のこの区間には町石は立っていないことになる。
39町石が左手にある。 38町石が右手にある。
その先道路の左手に37町石が立っている。
37町石の横に道が伸びているので、これが町石道かと思ったが、これは違っていて、道路の右手に先ほど途中まで歩いた町石道が道路に接するところまで来ており、この道は道路を横断せずに、道路沿いを道路の右側に沿って下っているので、これを進むと、左手に36町石が立っている。そのすぐ横に四里石が立っている。ここを15時33分に通る。
35町石が左手にある。 34町石が右手にある。
33町石が左手にある。 32町石が左手にある。
31町石が左手にある。 30町石が左手にある。
29町石が左手にある。 28町石が左手にある。
左手に「鏡石」がある。表面が鏡のように平らなことから鏡石と呼ばれ、この石に向かって真言を唱えると、心願成就するといわれていると説明されている。確かに平らな岩だ。15時52分にここを通る。
27町石が左手にある。 26町石が左手にある。
25町石が左手にある。 24町石が左手にある。
23町石が左手にある。 22町石が左手にある。
21町石が左手にかなり埋まってある。 20町石が左手にある。
19町石が左手にある。 18町石が左手にある。
17町石が左手にある。 16町石が左手にある。
15町石が左手にある。 14町石が左手にある。
13町石が左手にある。 12町石が左手にある。
11町石が左手にある。 10町石が左手にある。
急坂を登っていくと、9町石が右手にある。
その先で車道に出ると正面に「大門」がある。16時39分に着く。ここは高野山内への西の入り口で、現在のような門となる以前は、数百メートル下方の旧道、「九折谷」という場所に鳥居があって、これが門になる前身だといわれている。現在の位置に移されたのは、永治元年(1141)ともいわれ、その際、鳥居から門の形式に変更された。さらに寛喜2年(1230)には五間二階の楼門に改められたと記録されている。その後焼失、再建を繰り返し、宝永2年(1705)に現在の形になったという。昭和61年には、全面解体修理が施され、この時、白木の状態であった表面を丹塗りとして、昔の状態に戻されたという。
重要文化財に指定されている大門の仁王像(金剛力士立像)は、その大きさからすると、奈良の東大寺南大門の仁王像に次ぐ、我が国二番目の大きさで、向かって右の阿形像は、京都の仏師であり高野山大仏師をも名乗った康意が造立し、像高は 546.0センチメートル、左の吽形像は558.0センチメートルで、同じく京都五条の仏師、運長が造立したことが胎内の背位置に留められていた銘札から判明している。
8町石は大門を正面に見て、右側の高野山道路沿いにある。
7町石は大門を正面に見て、左側の弁天岳・弁財天への鳥居の先左手にある。正面は高野山道路を向いて立っている。
6町石は大門を抜けた先、左手にある。5町石はその先左手、
バス停の横にある。
ここまで来ると街中になる。右手に饅頭屋があったので、早速酒まんじゅう他を各々購入する。昼食として5個のやきもちを食べて腹持ちがよかったのか、それ以降ここまで誰も腹が減った、ということは言わなかった。ここから先、高野山の街中には饅頭屋さんが多くあり、我々はそれぞれの店の饅頭を少しずつ食べたが、どれもおいしかった。
4町石は左手にある。 3町石も左手にあるが、
かなり修復がされている。
2町石は左手柵の中にある。 1町石も左手柵の中にある。
17時ちょうどに「壇上伽藍」に到着する。ここは弘法大師が高野山を開創した際、真っ先に整備に着手した場所で、檀上とは曼荼羅の道場という意味があるという。高野山全体を金剛峯寺という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で、古来より大師入定の地である奥の院と並んで信仰の中心として大切にされてきたという。
見物は明日、ゆっくりしようということで、とりあえず金剛峰寺へ向かい、8分ほどで到着する。
「金剛峯寺」の表玄関にあたるところは大玄関といい、天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされるところという。大玄関の横にもう一つ玄関があるが、これは小玄関と呼ばれ、高野山では上綱(じょうこう)職の方々がもっぱら使用するという。一般の僧侶は昔は裏口より出入りしていたが、現在は一般参詣入口を利用しているとのことだ。我々も一般参詣入口から入って見学をしたが、今回は16年ぶりにご本尊が御開帳されており、拝むことが出来たのは幸いだった。それ以外でもどの場所も絢爛豪華で、見るものを圧倒する雰囲気を醸し出していた。ただ内部は撮影禁止のため、写真を撮ることが出来なかった。、
ここで今日の歩きを終えることにし、千手院からバスでケーブル駅まで出たが、乗客が多く、ラッシュアワー並の混雑だった。昨夜泊った橋本駅の近くの宿まで帰る。本当は宿坊に泊りたかったのだが、開創1200年ということで、宿坊の予約は取れなかったのだ。
夜三人で「町石 コンプリート!」作戦の成功を祝して宿の近くの店で乾杯をした。無事歩き終えたという満足感で、とてもおいしいお酒だった。ただ翌日大変なチョンボを私がしていたことを知り、愕然となったのだが、この時はそんな事とはつゆ知らず、唯々おいしいお酒を楽しんだのだった。
本日の歩行時間 9時間22分。
本日の歩数&距離 29300歩、26.2km。(距離の割に歩数が少ないのですが、万歩計の数字なので、そのまま使用させていただきます。)
旅の地図
記録
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2015年04月18日(土)
-
2015年04月19日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん