二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2015年02月22日(日)

岡田旅館~86番志度寺~87番長尾寺~88番大窪寺~八十窪

                                       雨後曇り

 
 朝食は6時から食べたのだが、女将さんと色々話をして、7時15分に出発する。昨日参拝した八栗寺の本堂、大師堂の前を通って進み、その先から山を下る。ここもかなりの急坂なのだが、舗装されているので歩きやすい。下の方が雲海のように霞んでいる。
雲海
 鶯の鳴き声が盛んに聞こえて気持ちがいい。雨は昨夜のうちかなり降ったようだが、現在は降ったりやんだりしている。道しるべのシールに従って歩いていくが、私が持っている地図とは違う場所があるようだ。私は途中から145線から分岐して塩屋の駅の左手に出て、11号線の一つ左手の旧道を進んだのだが、地図では145号線を進んで讃岐牟礼駅のところに出て、11号線に合流するようになっている。
 高松藩松平家が領内の年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てたが、この地にあった志度町新町平賀家は御蔵番を命ぜられて世襲してきた。しかし平賀家4代平賀源内の時、源内は学問をめざして退役したため、御蔵番は終わりを告げたという。右手に嘉永4年(1851)の石灯籠が立っているが、これは大庄屋上野、岡田両氏が御蔵の用心のため建てたものと説明されている。
嘉永4年
 左手に「石鎚山奉献灯籠」がある。これは自然石を使った灯籠で石鎚神社の奉献と志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべのために弘化3年(1846)に建立されたもので、市指定文化財になっている。
弘化3年
 左手に「地蔵寺」がある。ここは志度寺を建立した凡園子(おおしそのこ)尼によって飛鳥時代に創建されたとされている。景行天皇の時代、大和武尊の子(または弟)讃留霊皇子(さるれおうじ)が土佐の海で船を襲い、人を食して暴れる大魚の退治を天皇から命じられた。これを知った大魚は瀬戸内海に逃げ込み志度浦に隠れた。これを見つけた霊子の軍は攻撃を行ったが、一同は大魚に飲み込まれてしまった。霊子は一計を案じ、もろともに飲み込まれた軍船に火を着け大魚を退治した。後に、里人は大魚の祟りを恐れ、魚霊堂(うおみどう)と呼ばれる小堂を建立し地蔵菩薩を祀ったという。地蔵寺の名はこれに由来している。またここは志度寺の奥ノ院になっている。
地蔵寺
 志度寺の山門の手前、右手の常楽寺に「平賀源内の墓」がある。有名人(?)にしては意外と小さいお墓だ。源内の墓は東京都台東区橋場にもあり、ここは国史跡に指定されている。
平賀源内の墓
 8時49分に「86番札所志度寺」に着く。ここの開創は古く推古天皇33年(625)で、四国霊場屈指の古刹という。海洋技能集団海人族の凡園子が霊木を刻み、十一面観音像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「志度道場」と名づけた。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えたという。
 仁王門には運慶の作といわれる木造金剛力士立像が立っており、巨大わらじがぶら下がっている。これは讃岐藩主、松平頼重により寄進されたもので、全国的にも珍しい三棟造りとなっていて、重要文化財に指定されている。
志度寺
 同様に讃岐藩主、松平頼重により寄進された本堂には本尊・十一面観世菩薩立像、さらに両脇侍の不動明王立像、毘沙門天立像があり、これは平安時代の檜一木造りで、これも重要文化財に指定されている。
志度寺本堂
 仁王門を出た先を左折して進む。この道には道しるべのシールはなく、所々に四国のみちの標識が立っている。
 3号線を進んでいくと、右手に「当願寺」がある。
当願寺
ここには下記のような伝説があるという。(少し長くなるが、「ウェブサイト空海」より借用した)
「昔むかし、志度の長行の庄に当願(とうがん)と暮当(ぼとう)という猟師の兄弟が住んでおったそうな。兄の当願は、豊かな家の娘をめとり暮らしには困らなんだが、弟の暮当は毎日の飯にも困る貧しい暮らしをしておった。志度寺の堂塔建立の法会があった日のこと、兄の当願は朝からお参りに行ったのじゃが、弟の暮当は妻子の食料を得るため山へ猟に行かねばならなんだ。弟の暮当は「今頃、志度のお寺ではありがたい説教がはじまっているだろうなあ」と思いながら山の中に在り、兄の当願は「弟め、あの穴場で、獲物を独り占めにして!」といまいましく思っておったそうな。
 日も暮れ始め、なんとか今日一日の獲物にありつけた暮当は、ありがたい説教の話を兄の当願にあれこれ聞こうと急いで家に帰ったそうな。ところが、当願がまだ家に帰ってなかったもんじゃから、当願を迎えに志度寺へ出かけて行ったそうな。志度寺でぼんやりと座っている兄の当願のそばへやってきて暮当はびっくり。兄の当願からはなんともいえない悪臭がただよい、腰から下が蛇のしっぽになっておったそうな。「暮当よ、今日おれはこのありがたい法会の席にありながら、山へ行ったおまえが獲物を独り占めにしておるようで、ねたましく思って、念仏ひとつ唱えなかった。その報いをうけたのじゃ。こんな体では、もう家に帰ることもできぬ。幸田の池へ連れて行ってはくれまいか。」暮当は、泣き泣き当願を背負って幸田の池まで連れて行ったそうじゃ。池の中へ入った当願はみるみる全身が蛇の姿となり、池の中へと消えていったそうじゃ。
 それから毎日、暮当は幸田の池に兄の当願に会いにいっておったが、どんどん大きくなった当願は大蛇となり、幸田の池では手狭になって満濃池に引っ越すことにしたそうじゃ。その時に、大蛇となった当願は、弟の暮当に苦労をかけたと、「この玉をかめに入れて酒を造り、売りに行くがよい。少しはおまえの生活も楽になるだろう。」自らの目をくりぬいて弟に渡したそうじゃ。
 当願の教えどおり、酒を造ってみたところ、よい香りの酒ができた。売り歩くと評判もよく、少しずつ暮当の暮らしも楽になった。不思議なことに、この酒は酌んでも酌んでもつきることがなかったそうじゃ。
 ところが、酒蔵のことを不審に思った暮当の妻が、かめの底の玉を探し出し、村の者に話してしもうた。その噂が領主様の耳に入り、ぜひともその玉を差し出すようにとの命令が下り、逆らうこともできず、泣く泣く差し出したそうじゃ。
 玉は、領主から国司へ献上され、「もともとこの玉は双玉といって、もうひとつあるはず。もうひとつの玉も献上するように」とお達しがあったそうじゃ。この厳命に背けば、生活が成り立たない上に命まで危なくなった暮当は満濃池の大蛇である兄の当願に、事の成り行きを話に行った。
 「暮当よ。もうひとつの玉も持っていくがよい。水の底には住みなれて、目の玉がなくても不自由しない。早くもって行くがよい。」暮当は「兄さん、本当にすまない」というと、その玉を涙で磨いて献上したそうじゃ。
 国司からほうびがでたそうじゃが、それを断り、暮当はそれ以来行方知らずとなったそうな。兄の当願はこのことを知り、大変悲しみ怒り、満濃池の堤を突き破り瀬戸内海の大槌と小槌の島の間(槌の門)まで飛んでいき、それ以来姿を見せなくなったそうな。 しかし、不思議なことにそれ以来、長行の村人が旱魃で困っている時酒を入れた大樽を槌の門に投げ込んで願うと、必ず雨が降ってくるそうな。」

 遍路道は手持ちの地図では3号線を進むようになっているが、ここには道しるべのシールがあって、それに従って、当願寺から3号線から右へ分岐して進む。その先で再び3号線に出て、これを横断して進むと、左手に「玉泉寺」がある。ここは弘仁5年(814)に弘法大師がこの地で紫雲の光明を放つ霊石を感じ、地蔵菩薩を安置したのが始まりと伝えられており、長尾寺の奥ノ院となっている。10時6分にここを通る。
玉泉寺
 このあたりも道しるべのシールが極端に少ない。また貼ってあったシールをはがした跡もあった。一方で、このあたり特有の道しるべが立っているので、それに従って進んでいく。
特有の道しるべ
 明和3年(1766)に秋田の清水九兵衛が建てたという「南無大師遍照金剛 これより六丁」と刻まれた道標が説明板とともに立っている。
清水九兵衛
 10時45分に「87番札所長尾寺」に着く。ここの開創は聖徳太子という説もあるが、天平11年(739)に行基菩薩によって開創されたという説が一般的という。行基がこの地を歩いていると道端に楊柳の霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を彫造し本尊として安置して法相宗を開基。その後、弘法大師がこの寺を訪れ、入唐が成功するように年頭七夜に渡って護摩祈祷を修法して、国家安泰と五穀豊穣を祈願した。その祈願は現在にも受け継がれ、毎年正月の七日には「大会陽」が盛大に開催されているという。唐から戻った大師は、再びこの地を訪れ「大日経」を一石に一字ずつ書写し供養塔を設立し、その時に真言宗に改宗。長きに渡り多くの天皇から帰依された寺だったが、天正の兵火により、本堂以外は灰燼に帰した。江戸時代に藩主松平頼重が、堂塔を整備。その時に天台宗に改めたという。
長尾寺
 その先、遍路道から少し外れたところにあったコンビニでパンを買う。これで今日は安心だ。
 右手に川原の庵(宝政寺)がある。ここは川原の大師堂と呼ばれて、石の弘法大師坐像を本尊としている。ここで一休みして先ほど買ったパンを食べる。地元の方が話しかけてこられて、お礼参りのことをいうと、この方も宿の女将さんと同じ言葉、「最近のはやりやね」といわれていた。
宝政寺
 塚原の信号から旧道に入っていくと、嘉永元年(1848)の常夜燈が立っている。
嘉永元年
 その先右手に石像のお釈迦様を安置する「釈迦堂」があり、その横に明和2年(1765)の宝篋印塔や大窪寺への道標、名号碑などが立っている。
釈迦堂
 右手に「高地蔵」がある。ここには「高地蔵は、台座の上に座り、4mに余る高さなのでこの名がある。元の三ヶ村の庄屋が発起人となり、文久元年(1861年)に建立したものである。地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上と輪廻する衆生を救済してくれる所から、当地では、毎年3月に、この地蔵を「流れ灌頂の本尊」として法要を行い「三界万霊」「永代有縁無縁」の供養をしている。大師堂は、自然の巨岩の大師象を彫ったものをお堂で覆い、阿弥陀仏三尊をもお祀りしてある。少し奥まったところに、「忠左衛門」墓碑がある。四国霊場を136回巡拝したという、芸州(広島県)山形郡中原村の忠左衛門を供養するために、地元の「弁蔵・伊三良」が発起人となって建立したものである。道路の改修で、昔の面影は変わったが、人々は聖地を信じて、近在の癒しの空間となっている。」と書かれた説明板が立っている。
高地蔵
 左手に「武田徳右衛門の道標」が立っている。大師像の下に「是より大窪寺まで二里半」と刻まれた寛政6年(1794)の道標で、徳右衛門は約百基の道標を立てたと説明されている。
武田徳右衛門
 その先に「前山おへんろ交流サロン」があるので立ち寄ったところ、「四国八十八か所遍路大使任命書」なるものをいただいた。これは歩き遍路で完歩した人に贈られるそうで、それ以外にも徽章と札所のDVDをいただいた。
遍路大使任命書
 ここでもお礼参りの話になった。納経帖の一番最後のページ、八十八番大窪寺の次に「満願御礼参拝 最初に参った寺」というページがあるが、これは一番霊山寺で売っている納経帖にのみ、この記載があり、それ以外のところで買ったものにはこの記載はないそうだ。恐らく私も含めてほとんどの方が一番からスタートされるので、その方々は皆、この納経帖を使っているはずだ。いつからこの記載があるのかは知らないが、これが原因で最近になってお礼参りが盛んになったのだろうと推測した。一度通り過ぎた参拝客を再度お寺に呼び戻すこの仕掛けは、なかなかのビジネスモデルなのだが、なんかあまりにも魂胆が見え見えという気がする。 ここで地図をもらって花折峠を歩くことにし、13時33分に出発する。花折峠は最初の2㎞は山道を歩く道と舗装された道を歩く道に分かれるので、折角だからと思って、山道を歩くことにした。たかだか2㎞と思っていたのだが、これがかなりの急坂できつかった。
花折峠
 ただ、後で八十窪の大女将さんから、本来の遍路道は舗装された道だということを知らされ、がっくりきてしまった。その後、交流サロンでいただいた資料を読み直してみると、舗装道が旧遍路道コースとはっきり書かれていた。自分が勝手に山道なので、旧遍路道だと思い込んだところが失敗の原因だ。
 相草東峠に七十丁の地蔵がある。この峠を東花折峠とも呼ぶそうで、昔、神仏に加護を願って供える柴を手折ったところだという。
相草東峠
 この先にも丁石が随所にあった。その先で舗装道に合流、更にその先で3号線に14時53分に合流した。
 しばらく3号線を歩いた後、シールに従って3号線から左へ分岐して旧道へ進むと、「細川家住宅」がある。ここは18世紀初めごろの建物と推定されており、国の重要文化財に指定されている。
細川家住宅1細川家住宅2

 前方に多和小学校があるところから左折したところに、自然石を削って青面金剛を浮き彫りにしている天保4年(1833)の「東谷庚申塔」がある。
東谷庚申塔
 この先にも丁石があり、それを見ながら進んでいくと、16丁石から舗装道を離れて林の中へ入っていくように案内板が立っているので、それに従って進むと、15丁石、14丁石、13丁石はあったが、その先で道はなくなってしまっていた。仕方がないので、舗装道に出て進む。

 この道を通っていくと、大窪寺には大師堂の方から入っていくことになる。ここには「四国霊場結願所」「醫王山大窪寺」という標柱が立っている。
四国霊場結願所
 「88番札所大窪寺」は養老元年(717)に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を感得し草庵を建て修行をしたと言われている。弘仁7年(816)に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊とした。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納めて大窪寺と名づけ、結願の地と定めたという。ここは女性の入山が、早くから認められ女人高野としても栄え、一時は百以上の堂宇を誇っていたという。
 前回ここに到達したときは初めてということもあって、胸が高まる思いだったが、今回は平静にこの時を迎えることが出来た。
大窪寺
 このお寺のHPに、「同行二人を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂(ほうじょうどう)へ奉納されます。これらは毎年春夏の「柴灯護摩供(さいとうごまく)」で供養されます」と書かれているように、一番札所へお礼参りをしないと決めた私は、ここで菅笠と杖を奉納しようと思って納経所へ行くと、一つ1000円なので、二つで2000円といわれてしまった。9年前の時は「お気持ちで結構です」と言われたので、菅笠と杖で1000円をお出しすると、「結構です」と言われた記憶がある。いつの間に一つ1000円になったのだろうか?もっと以前には無料だったということも聴いたことがあるのだが。。。
納経の代金も値上がりしているし。。。。
 お金のことであまり細かいことをいいたくないが、デフレからの脱却を必死に模索している世間とは違い、四国のお寺は別世界にいるようだ。
16時45分にすべての行事を終わる。
 ここから今日の宿である、八十窪へ向かう。今日の同宿者はこれまでに何回かお会いした北海道の女性の方と奈良から来られ、今回二回目という66歳の男性の二人だった。この宿の大女将さんは83歳ということだが、矍鑠とされていて、まだまだお元気だ。長く遍路宿を営まれてこられた経験からお話はとても面白い。ここでも女体山の道が最近作られた道という話が出たが、北海道の女性は今日女体山を越えてこられたそうで、「え~、あの道は昔の遍路道ではなかったのですかぁ」と言われていた。またお礼参りのことで、私は最初は行くつもりにしていたのだが、もうやめました、というと、「行く必要はない」とぴしゃりと一言。 もっとも最近は一時期と比べるとお礼参りをする人は少なくなってきているともいわれていた。
 
 いずれにしても二回目の遍路旅を無事結願することが出来たことに対する感謝の念は強いものがある。
 四国遍路は結願という明白な目標があって、それに向かって一歩一歩、一寺一寺を長い時間をかけて歩いていく旅だ。具体的な目標があって、それに向かって努力を続け、その成果が目に見える形でわかるというところがとてもいいと思う。
 また今回も何度も感じたことなのだが、お接待という、他では経験することが出来ない、素晴らしい風習が四国には残っている。遍路者に対する四国の皆さんの眼差しはとても暖かいものがある。これまで全国の街道を歩いてきたが、このような経験をしたのは四国だけだ。この風習はいつまでも受け継がれていっていただきたいと心から思う。
 何はともあれ、無事結願できたことに対してただただ感謝あるのみだ。

 本日の歩行時間   9時間30分。
 本日の歩数&距離 48934歩、32.4㎞。

 四回目の遍路旅の総合計

 総歩行時間   69時間16分。
 総歩数      381835歩。
 総歩行距離   220.3km。


 二回目の四国遍路旅総合計
 総歩行時間   314時間16分。
 総歩数      1678682歩。
 総歩行距離   1146.8㎞。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん