二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2015年02月20日(金)

 アルファーワン丸亀~宇多津~78番郷照寺~79番高照院天皇寺~80番国分寺~81番白峯寺~82番根香寺~鬼無駅~アルファーワン丸亀

                                       曇後晴れ


 7時30分に岸落地蔵院を出発し、7時41分に「78番札所郷照寺」に到着する。
 ここは神亀2年(725)、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造して本尊として安置、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残という。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。「時宗」の開祖・一遍上人(1239~89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の法門が伝わることになる。これらのことから、ここは八十八ヶ所の中で唯一「時宗」の霊場となっている。なお、道場寺を「郷照寺」と改めたのは、寛文4年(1664)のことである。
郷照寺
 お寺を出て右へ進んでいくと、左手に天保9年(1838)の道標が立っている。
天保9年
 この辺りは旧道らしい雰囲気の街並みで、格子の家などが建っている。
旧道らしい雰囲気
 瀬戸中央自動車道の下、左手に「大日みかえり不動尊」という文久3年(1863)の三界万霊がある。
大日みかえり不動尊
 道を行き交う人々が「おはよー」「ごくろうさま」と声をかけてくれるので、とても気持ちがいい。
 JR予讃線の踏切を渡った先、右手に「八十場の水」がある。景行天皇の時代に南海で暴れていた悪魚を退治に向かった讃留霊皇子(さるれおうじ)と80人(88人とも)の勇者が悪魚の毒に苦しんだので、この泉の水を汲んだ童子が勇者達に水を飲ませると、たちまち蘇ったという。そのことからここを八十蘇場の清水と呼ばれるようになったという。弘法大師が八十蘇場の清水を訪れ、十一面観音・阿弥陀如来・愛染明王を刻んで仏堂を建てて安置したが、この仏堂が現在の四国八十八箇所79番札所天皇寺の前身であると言われる。平安時代末期、保元の乱に敗北し、讃岐に配流となっていた崇徳上皇は長寛2年(1164)に、この地で崩御した。京からの使者が到着するまでの20数日間、この泉に遺体を浸していたところ全く腐敗しなかったとの言い伝えがあるという。
八十場の水
 9時13分に「79番札所高照院天皇寺」に着く。ここは天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810~24)にこの地方を訪ね、弥そ場(八十蘇場)という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現で、天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場(八十蘇場)の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであったという。保元の乱で敗れた崇徳上皇はこの地に遷幸され、その後崩御されたが、二条天皇(在位1158~65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242~46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。
ここのお寺では写真を撮るのを忘れていたことに今気が付いた。
 次へ向かう遍路道は赤い鳥居を出て直進する。この先で遍路道は白峯寺から根香寺へ向かい、その後打ち戻しをして国分寺へ下る方法と、国分寺から白峯寺、根香寺を通って鬼無へ向かう二つがあるが、私は後者を歩くことにする。ただこの辺りにはあまりいい宿がないようなので(これはあくまでも伝聞です)、鬼無駅から昨日泊ったアルファーワン丸亀まで電車で帰ることにする。そうすれば連泊で、荷物も軽くて済むという利点もあるからだ。
 鴨川駅を右手に見ながら綾川を渡って、川沿いの道を進んでいくと、後ろから来た遍路姿のランナー(?)が私を追い抜いて行った。遍路道を走っているのだろうか?色々な行動をされる方がいるものだと驚く。
 綾川の土手に二匹のヤギがいて、草を食べていた。私の住んでいるところでは日頃見かけない光景だ。
ヤギ
 11号線に出て進むが、右手に一軒の店があったので、パンを買う。購入できるときに買っておくという鉄則に従ったのだが、これが大正解で、ここから先、道沿いには食事ができる店もコンビニも全くなかった。
 10時45分に「80番札所国分寺」に着く。ここは創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟となっている。本堂は、全面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたもので、周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせるという。また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれている。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊とした。その後、弘仁年間(810~823)に弘法大師が霊場に定めるが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至っている。
国分寺
 またこの寺の「梵鐘」は四国最古のものという。当時の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町と引き換えに入手。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより重く、ひと苦労。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行し、自身も病に倒れてしまった。更に一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りたい」と泣いたという。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことにすると、城に運んだ時と違い、今度はなぜか軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っている。
梵鐘
 国分寺の境内には歩き遍路のための地図が掲示されているので、これを見て先へ進む。スタートで道を間違うと面倒なことになるので、これは助かる。
 坂道を登っていると、上から歩きの方が下ってこられた。昨日は簡保の宿に泊まったそうだ。ゴールは近いので、お互い頑張りましょう!と言って分かれる。
 山を登っていくのだが、ここはかなりきつい登りだ。時々視界が開けるが、かなりの高さを登ってきていることがわかる。
 12時15分に一本松まで来て、ようやく舗装された車道に出る。車道は平坦で歩きやすい。その先で再び山道に入るが、ここは平坦なので楽だ。
 途中に「摩尼輪塔と下乗石」がある。摩尼輪塔(まにりんとう)は元応3年(1321)に密教の僧、金剛仏子宗明によって建てられたもので、これは全国でも珍しく、県指定有形文化財になっている。苦しい仏道修行の中でも特に最高の位を表す「摩尼輪」にちなんでこう呼ばれており、これより白峯の聖地に入る究極地の意味から建立されたものという。また「下乗」とはここからは聖地であることから、どんな高貴な者でも乗物から降りて自分で歩いて参拝しなさいという意味だという。 また左手にある下乗石の裏には、天保7年(1836)高松藩が古い摩尼輪塔を小屋で覆って保存し、新しくこの碑を建てたことが刻まれているといった説明板が立っている。
摩尼輪塔
 白峯寺が近くなると道は次第に下り坂になる。この道は根香寺へ向かう時に戻って歩く道なので、あまり下ると、今度は上り坂になるので、あまり下りたくないなぁなどど思いながら下っていく。
 12時56分に「81番札所白峯寺」に着く。ここは弘法大師と大師の甥である智証大師が創建したといわれている。弘仁6年(815)、白峯山の山頂に、如意宝珠を埋め井戸を掘り、衆生済度を祈願に堂宇を建立した。後に智証大師は、山頂できらめく光を見つけて登頂。山の神である白峯大権現の神託を受け、霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊にしたと伝えられている。
 ここは青峯、黄峯、赤峯、白峯、黒峯の五色山のうち、白峯にあることから白峯寺となっているが、この寺には、有名な物語が二つある。
「啼けばきく きけば都の恋しきに この里過ぎよ山ほととぎす」これは保元の乱で破れて讃岐へ流された崇徳上皇の句で、都へ帰りたいという思いが叶わぬまま寂しくこの地で亡くなられた。三年後、上皇と親しかった西行法師が詣でた話は上田秋成作「雨月物語」の伝説で有名だ。その後も都では異変が相次いだため、後小松帝は上皇の霊を祀る法華堂に「頓証寺殿」の勅額を奉納。また、悲話を伝える玉章木(たまずさのき)も佇んでいる。
また白峯山には心優しい相模坊という天狗が住んでいて、ある夕方、小僧さんが木綿豆腐を買いに出かけたところ、突然、何者かに背中を押され、空を飛ぶような感覚になった。そして次の瞬間、田舎では見ることない上等の絹豆腐を受け取り、元の場所に立っていた。これは、夕方買い物に走る小僧さんを気の毒に思い相模坊天狗が助けてあげたと語り継がれているという。
白峯寺
 ここで先ほど買ったパンで昼食にする。
 根香寺への道には丁石が立っている。ここの丁石には「目」がつけられていて、十九丁目などとなっている。
 14時18分にその十九丁石があるところまで来ると、国分寺へ下る分岐点があり、地蔵尊がある。この場所が国分寺、根香寺、そして白峯寺の三札所の分岐点になる場所だ。ここから国分寺へ下る道は四国遍路が始まったころはなかったようで、江戸時代後半になって国分寺から白峯寺へ進む道は急な登りがあるため、これを避け、白峯寺から根香寺へ参り、再びこの道を通って国分寺へ下るコースが作られたと考えられているという。
地蔵尊
 山の中の道を進んでいき、一旦車道に出ると、左手に「足尾大明神」がある。ここはアシバサンと呼ばれて、足の病気を治してくれることで有名ということだ。
足尾大明神
 その先で再び車道から分岐して山の中の遍路道を進む。一旦車道に合流するが、ここが鬼無へ分岐するところだ。ここから更に山の中の遍路道へ入っていく。
 14時58分に「82番札所根香寺」に着く。ここは五色台の主峰、青峯山にある。五つの山に金剛界曼荼羅の五智如来を感じた弘法大師は、密教修行の地とし青峯に「花蔵院」を建立。後に大師の甥の智証大師が訪れた際、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げを受けた。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置したところ、この霊木の切り株から芳香を放ち続けたことから「花蔵院」、「千手院」を総称して根香寺と名づけられたといわれている。
 昔、青峯山には人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいた。村人は、弓名人山田蔵人高清に頼み退治してもらうことにしたが、高清が山へ入っても、なかなか牛鬼が現れない。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけたところ、21日目の満願の暁に、牛鬼が現れたので口の中に矢を命中させた。逃げる牛鬼を追うと2kmほど西の定ヶ渕で死んでいるのを発見した。高清は牛鬼の角を切り寺に奉納。その角は今でも寺に保存されているという。 
根香寺1根香寺2

 本堂前の凹字型回廊に、全国の信者が奉納した約三万三千体の観音像が並んでおり、境内には樹齢1600年と推定される白猴欅がある。智証大師がここを開基されるときに、この樹下に山王権現が現れ、また白い猿が下りてきて、大師を守護し、創業を助けたといわれている。この木は昭和50年に枯れてしまったが、根を切り、屋根を付けて、生えていた通りの位置に据えられている。樹幹の周囲は7mもあるという。
白猴欅
 ここからこれまで歩いてきた遍路道を後戻り、先ほどあった鬼無への分岐点から車道を下っていく。
途中山の中の遍路道へ入ったり、車道を歩いたりしながら、山を下って行き、16時28分に鬼無駅に着く。
 ここから丸亀駅まで戻り、連泊しているアルファーワン丸亀まで戻る。

 本日の歩行時間    8時間52分。
 本日の歩数&距離  50980歩、33.3㎞。

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