2015年02月19日(木)
一富士旅館~71番弥谷寺~73番出釈迦寺~72番曼荼羅寺~74番甲山寺~75番善通寺~76番金倉寺~77番道隆寺~アルファーワン丸亀
曇後晴
6時40分に出発するが、玄関を出て左へ行きかけて、女将さんから道が違うと指摘される。前日この旅館に入る直前に道路標識があり、それに弥谷寺へ行く方向が書かれていたので、そちらの方へ行きかけたのだ。弥谷寺へ行くには、右手へ進んで、11号線に合流しなければいけないのだ。このように宿とかお寺で、次へ進む最初の一歩を間違えると結構面倒なことになるので注意が必要だ。
振り返ると女将さんはいつまでも見送ってくれていた。11号線に出て、これを進むのだが、変化に乏しい。一直線の道なので道しるべもない。しばらく歩いていき、そろそろ左折して旧道に入る場所が近づいてきたので、注意をして左手を見ていると、一枚だけシールがあったので、ここから左折し、その先の旧道に合流する。旧道には道しるべのシールはかなりの数あった。この道はあまり車も通らず、静かな道だ。その先で四つ角があり、あまり深く考えずに直進して歩いていくと、前方から来られた男性の方が、「道を間違っているよ」と声をかけてきた。自分では全く気は付かなかったので、これは助かった。もう少し先まで行くと左手に大見小学校がある地点だ。ここから旧道に合流するところまで、その方がわざわざ案内をしてくれた。どこから来たのかと聞かれたので、北九州ですと答えると、その方は若いころ、飯塚におられたそうで、60歳で四国へ帰ってこられ、奥さんと二人で遍路旅も経験されたといわれていた。またこの場所は道を間違える人が多いと言われていた。幸い旧道からそれほど離れておらず、すぐに合流することができたので助かった。
弥谷寺本堂まで1㎞と表示があるところ左手に「八丁目大師堂」があり、その横には足湯があった。
時間はまだ9時ちょうど。足湯でのんびりする気持ちにはとてもなれなくて先を急ぐ。
その先左手に弘化4年(1847)の法界万霊がある。
弥谷寺は540段の階段があるので、一歩一歩登って行っていると、途中で最初の日の宿、小松旅館で一緒だった北海道の女性の方が階段を下ってくるところにパッタリ出会った。
階段を登っていくと享保20年(1735)の大きな宝篋印塔が立っている。
その先に「水場」がある。「ここは天霧城の水の手で、いくら日照りが続いても、水は止まることはないという。弥谷山の霊山信仰では、『山域全体が仏の住む世界であり、水場横の洞窟が極楽浄土の入口だといわれ、特別強く信仰された。』とされ、霊山信仰を持った修験者により刻まれた摩崖仏が今も点在している」と説明されている。
その先にその磨崖仏があるが、これは平安~鎌倉時代のものと言われているという。
9時27分に「71番札所弥谷寺」本堂に着く。ここは今からおよそ1300年前、人皇第45代聖武天皇の勅願により、行基菩薩が堂宇を建立し、光明皇后の父母の菩提を弔う為、『大方広仏華厳経』をお祀りし、寺院を創建したといわれている。また、華厳経以外にも、寺宝の経典の中には天平年間724年頃につくられた経典が残っており、少なくとも724年以前には寺院が建立されていた事が伺へ、大師生誕(774年)の50~100年程前に弥谷寺が創建された事が分かっているという。弥谷寺のある弥谷山は、古来より霊山(仏山)として信仰されたといわれ、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられたとされる。
ここからの眺望は好天ということもあって、とても気持ちがいい。ここはかつて、中国・四国地方の八国を一望できたという。
弥谷寺の大師堂奥殿にある奥の院は、弘法大師が幼少の頃に学問をし、後に密教の修行を行った場所で、獅子が口を開いた形の岩窟になっている。獅子の遠吠えは仏の説法と同じものと考えられていることからこの名が付けられた。内部には大師像と阿弥陀如来像、弥勒菩薩像が安置されている。ここで信心を起こした者は、その身にいかなる罪があろうとも、獅子がその罪を食べ尽くし、現世の安穏と後生の極楽が得られると言い伝えられている。
山から下ってきたところに俳句茶屋があり、ここでお茶を一杯いただく。
ここから竹林の中の遍路道を歩いて進む。ここは前回来たときに、真夏だったということもあって、マムシがいるので通らない方がいいと地元の方にいわれたことを思い出したので、茶屋の方にお聞きすると、確かにマムシはいるが、この道でマムシにかまれたという話しは聞いたことがないといわれていた。今は冬なので、勿論マムシはおらず、問題はない。
11号線に合流して進むと、ゴルフの打ちっ放しがあり、前は池。池に向かって打つというちょっと珍しい所だ。
そのすぐ先に「七佛寺大師堂」がある。ここは弘法大師が薬師如来の石仏を刻んだ事に始まると言われ、中世に兵火により焼亡したと伝えられている。承応年間(1652~1654)に池の改修に石仏を使おうとしたところ現場監督が重病となり、治癒した後、出家したという伝承がある。現在の仏堂は文化3年(1806)の建立という。ここで祈ると母乳の出が良くなると言われ「乳薬師」と呼ばれている。
この先、順番では曼荼羅寺から出釈迦寺となるのだが、先に出釈迦寺へ参拝することにする。
10時55分に「73番札所出釈迦寺」に着く。ここは弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じた。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたという。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所だったが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にある。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がついた。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれているそうだが、いまさら学業成就もあるまいという気がして、というか、かなりくたびれているという現実もあって、捨身ケ嶽禅定には行かなかった。
「72番札所曼荼羅寺」はすぐ下にあり、11時22分に到着する。ここの創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していた。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のことで、亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれている。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めたという。
ここで先ほどお会いした北海道の方と再会する。この方は先に曼荼羅寺に参拝をされたそうで、ベンチに座ってみかんを食べていた。みかんは袋に入っていて、おいしそうなので、私も食べようかと思っていたのだが、数が多くて荷物になりそうなので、食べるのはやめていたのだ。この方も一人では多いので、どうぞ召しあがってくださいと言われて2個みかんをいただき、ほかに境内におられた参拝客にも配られていた。
ここの門を出て、彼女は右手、出釈迦寺の方へ向かわれ、私は左手へ進む。
48号線に合流するところに、「月照・信海両上人誕生の地」がある。月照は西郷隆盛などと親交を得、活躍をするが、安政の大獄による幕吏追及のため薩摩に逃れ、西郷と共に錦江湾に入水死去した。西郷は蘇生し、その後維新の功労者になったのは有名である。信海は月照の弟で捕縛され、江戸で獄中死を遂げたという。
12時ちょうどに「74番札所甲山寺」に着く。甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していた。ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言ったので、弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養した。その後、嵯峨天皇の勅命を受けて、この地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築を行うという難工事を監督する別当に任命された弘法大師は、甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法した。すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させたという。朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊として安置。山の形が毘沙門天の鎧、兜の形に似ていることから「甲山寺」と名づけたという。
大師堂の左手には奥行12mほどの「毘沙門天の岩窟」があり、大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られている。
善通寺へ向かう途中にパン屋があったので、ここで昼食にする。
12時58分に「75番札所善通寺」に着く。ここは弘法大師生誕の地で、京都の東寺、和歌山の高野山と並ぶ弘法大師三大霊跡の一つだ。唐から帰朝した弘法大師が、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したという。鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺だったが、明治時代になって善通寺として一つのお寺となった。現在は真言宗善通寺派の総本山である。
ここの「五重塔」は総高45メートルに及ぶ総欅造の大塔で、創建以来、大風や火災により、いくたびかの倒壊・焼失をしたが、そのたびに再建された。現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御綸旨により再建が始められ、明治35年(1902)に完成したものという。
赤門から直進して進み、14時1分に「76番札所金倉寺」に着く。ここは弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地で、縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年(774)に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となった。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊にし、延長6年(928)、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんで金倉寺になったという。
遍路道は大師堂の裏の駐車場のところから出るのだが、私は仁王門から出てしまったため、遠回りをしてしまった。
クネクネとした道を道しるべのシールに従って進んでいくと、「願掛地蔵尊」がある。いつものことだが、今の私には願うことがないので、一礼だけして先へ進む。
道隆寺の近くまで来ると、二人の方が近づいてこられ、小さなお地蔵さんをお接待でいただいた。お母さんと息子さんらしく、息子さんが作られたお地蔵さんを歩き遍路をしている人のみにお接待されているという。
「77番札所道隆寺 参拝記念にどうぞ」と書かれた紙が胎内に入っている。これまで4年間で外国人500人を含む、14000人にお接待されたといわれていた。
15時8分に77番札所道隆寺」に着く。ここが創建されたころ、この付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったそうで、縁起によると、和銅5年(712)、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見たので、この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90ンチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号したという。
16時10分に今日の宿である、アルファ ワン丸亀に着く。一旦荷物を置いて、すぐにもう少し先の宇多津まで歩く。
16時59分、「岸落地蔵院」がある。
ここから宇多津駅まででて、電車で丸亀まで戻る。
アルファーワン丸亀はランドリーも洗濯機もなく、少し離れた場所まで歩いて行かなければならなかったので、面倒なので風呂で下着を洗うことにした。
また朝食は近くの喫茶店で7時から食べるようになっていた。
本日の歩行時間 10時間19分。
本日の歩数&距離 54951歩、37.9㎞。
6時40分に出発するが、玄関を出て左へ行きかけて、女将さんから道が違うと指摘される。前日この旅館に入る直前に道路標識があり、それに弥谷寺へ行く方向が書かれていたので、そちらの方へ行きかけたのだ。弥谷寺へ行くには、右手へ進んで、11号線に合流しなければいけないのだ。このように宿とかお寺で、次へ進む最初の一歩を間違えると結構面倒なことになるので注意が必要だ。
振り返ると女将さんはいつまでも見送ってくれていた。11号線に出て、これを進むのだが、変化に乏しい。一直線の道なので道しるべもない。しばらく歩いていき、そろそろ左折して旧道に入る場所が近づいてきたので、注意をして左手を見ていると、一枚だけシールがあったので、ここから左折し、その先の旧道に合流する。旧道には道しるべのシールはかなりの数あった。この道はあまり車も通らず、静かな道だ。その先で四つ角があり、あまり深く考えずに直進して歩いていくと、前方から来られた男性の方が、「道を間違っているよ」と声をかけてきた。自分では全く気は付かなかったので、これは助かった。もう少し先まで行くと左手に大見小学校がある地点だ。ここから旧道に合流するところまで、その方がわざわざ案内をしてくれた。どこから来たのかと聞かれたので、北九州ですと答えると、その方は若いころ、飯塚におられたそうで、60歳で四国へ帰ってこられ、奥さんと二人で遍路旅も経験されたといわれていた。またこの場所は道を間違える人が多いと言われていた。幸い旧道からそれほど離れておらず、すぐに合流することができたので助かった。
弥谷寺本堂まで1㎞と表示があるところ左手に「八丁目大師堂」があり、その横には足湯があった。
時間はまだ9時ちょうど。足湯でのんびりする気持ちにはとてもなれなくて先を急ぐ。
その先左手に弘化4年(1847)の法界万霊がある。
弥谷寺は540段の階段があるので、一歩一歩登って行っていると、途中で最初の日の宿、小松旅館で一緒だった北海道の女性の方が階段を下ってくるところにパッタリ出会った。
階段を登っていくと享保20年(1735)の大きな宝篋印塔が立っている。
その先に「水場」がある。「ここは天霧城の水の手で、いくら日照りが続いても、水は止まることはないという。弥谷山の霊山信仰では、『山域全体が仏の住む世界であり、水場横の洞窟が極楽浄土の入口だといわれ、特別強く信仰された。』とされ、霊山信仰を持った修験者により刻まれた摩崖仏が今も点在している」と説明されている。
その先にその磨崖仏があるが、これは平安~鎌倉時代のものと言われているという。
9時27分に「71番札所弥谷寺」本堂に着く。ここは今からおよそ1300年前、人皇第45代聖武天皇の勅願により、行基菩薩が堂宇を建立し、光明皇后の父母の菩提を弔う為、『大方広仏華厳経』をお祀りし、寺院を創建したといわれている。また、華厳経以外にも、寺宝の経典の中には天平年間724年頃につくられた経典が残っており、少なくとも724年以前には寺院が建立されていた事が伺へ、大師生誕(774年)の50~100年程前に弥谷寺が創建された事が分かっているという。弥谷寺のある弥谷山は、古来より霊山(仏山)として信仰されたといわれ、日本三大霊場(恐山・臼杵磨崖仏・弥谷山)の一つに数えられたとされる。
ここからの眺望は好天ということもあって、とても気持ちがいい。ここはかつて、中国・四国地方の八国を一望できたという。
弥谷寺の大師堂奥殿にある奥の院は、弘法大師が幼少の頃に学問をし、後に密教の修行を行った場所で、獅子が口を開いた形の岩窟になっている。獅子の遠吠えは仏の説法と同じものと考えられていることからこの名が付けられた。内部には大師像と阿弥陀如来像、弥勒菩薩像が安置されている。ここで信心を起こした者は、その身にいかなる罪があろうとも、獅子がその罪を食べ尽くし、現世の安穏と後生の極楽が得られると言い伝えられている。
山から下ってきたところに俳句茶屋があり、ここでお茶を一杯いただく。
ここから竹林の中の遍路道を歩いて進む。ここは前回来たときに、真夏だったということもあって、マムシがいるので通らない方がいいと地元の方にいわれたことを思い出したので、茶屋の方にお聞きすると、確かにマムシはいるが、この道でマムシにかまれたという話しは聞いたことがないといわれていた。今は冬なので、勿論マムシはおらず、問題はない。
11号線に合流して進むと、ゴルフの打ちっ放しがあり、前は池。池に向かって打つというちょっと珍しい所だ。
そのすぐ先に「七佛寺大師堂」がある。ここは弘法大師が薬師如来の石仏を刻んだ事に始まると言われ、中世に兵火により焼亡したと伝えられている。承応年間(1652~1654)に池の改修に石仏を使おうとしたところ現場監督が重病となり、治癒した後、出家したという伝承がある。現在の仏堂は文化3年(1806)の建立という。ここで祈ると母乳の出が良くなると言われ「乳薬師」と呼ばれている。
この先、順番では曼荼羅寺から出釈迦寺となるのだが、先に出釈迦寺へ参拝することにする。
10時55分に「73番札所出釈迦寺」に着く。ここは弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じた。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたという。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所だったが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にある。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がついた。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれているそうだが、いまさら学業成就もあるまいという気がして、というか、かなりくたびれているという現実もあって、捨身ケ嶽禅定には行かなかった。
「72番札所曼荼羅寺」はすぐ下にあり、11時22分に到着する。ここの創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していた。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のことで、亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれている。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めたという。
ここで先ほどお会いした北海道の方と再会する。この方は先に曼荼羅寺に参拝をされたそうで、ベンチに座ってみかんを食べていた。みかんは袋に入っていて、おいしそうなので、私も食べようかと思っていたのだが、数が多くて荷物になりそうなので、食べるのはやめていたのだ。この方も一人では多いので、どうぞ召しあがってくださいと言われて2個みかんをいただき、ほかに境内におられた参拝客にも配られていた。
ここの門を出て、彼女は右手、出釈迦寺の方へ向かわれ、私は左手へ進む。
48号線に合流するところに、「月照・信海両上人誕生の地」がある。月照は西郷隆盛などと親交を得、活躍をするが、安政の大獄による幕吏追及のため薩摩に逃れ、西郷と共に錦江湾に入水死去した。西郷は蘇生し、その後維新の功労者になったのは有名である。信海は月照の弟で捕縛され、江戸で獄中死を遂げたという。
12時ちょうどに「74番札所甲山寺」に着く。甲山寺周辺は弘法大師の故郷で、幼少時代によく遊んだといわれる場所。平安初期、壮年期になった弘法大師は善通寺と曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していた。ある時甲山を歩いていると、麓の岩窟から老人が現れ「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう。」と言ったので、弘法大師は大変喜び、毘沙門天像を刻んで岩窟に安置し、供養した。その後、嵯峨天皇の勅命を受けて、この地にある日本最大の溜池「満濃池」の修築を行うという難工事を監督する別当に任命された弘法大師は、甲山の岩窟で修復工事の完成を祈願し、薬師如来像を刻んで修法した。すると大師を慕って数万人の人々が集まり、力を合わせてわずか三ヶ月で完成させたという。朝廷からこの功績を称えられ、金二万銭を与えられた弘法大師は、その一部を寺の建立にあて、先に祈願をこめて刻んだ薬師如来を本尊として安置。山の形が毘沙門天の鎧、兜の形に似ていることから「甲山寺」と名づけたという。
大師堂の左手には奥行12mほどの「毘沙門天の岩窟」があり、大師が彫ったといわれる毘沙門天像が祀られている。
善通寺へ向かう途中にパン屋があったので、ここで昼食にする。
12時58分に「75番札所善通寺」に着く。ここは弘法大師生誕の地で、京都の東寺、和歌山の高野山と並ぶ弘法大師三大霊跡の一つだ。唐から帰朝した弘法大師が、御父の寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立したお寺で、大同2年(807)臘月(陰暦12月)朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父の諱「善通(よしみち)」をとって「善通寺」と号したという。鎌倉時代に佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは、善通寺と誕生院のそれぞれに住職をおく別々のお寺だったが、明治時代になって善通寺として一つのお寺となった。現在は真言宗善通寺派の総本山である。
ここの「五重塔」は総高45メートルに及ぶ総欅造の大塔で、創建以来、大風や火災により、いくたびかの倒壊・焼失をしたが、そのたびに再建された。現在の塔は、弘化2年(1845)、仁孝天皇の御綸旨により再建が始められ、明治35年(1902)に完成したものという。
赤門から直進して進み、14時1分に「76番札所金倉寺」に着く。ここは弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地で、縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年(774)に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となった。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊にし、延長6年(928)、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんで金倉寺になったという。
遍路道は大師堂の裏の駐車場のところから出るのだが、私は仁王門から出てしまったため、遠回りをしてしまった。
クネクネとした道を道しるべのシールに従って進んでいくと、「願掛地蔵尊」がある。いつものことだが、今の私には願うことがないので、一礼だけして先へ進む。
道隆寺の近くまで来ると、二人の方が近づいてこられ、小さなお地蔵さんをお接待でいただいた。お母さんと息子さんらしく、息子さんが作られたお地蔵さんを歩き遍路をしている人のみにお接待されているという。
「77番札所道隆寺 参拝記念にどうぞ」と書かれた紙が胎内に入っている。これまで4年間で外国人500人を含む、14000人にお接待されたといわれていた。
15時8分に77番札所道隆寺」に着く。ここが創建されたころ、この付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったそうで、縁起によると、和銅5年(712)、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見たので、この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90ンチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号したという。
16時10分に今日の宿である、アルファ ワン丸亀に着く。一旦荷物を置いて、すぐにもう少し先の宇多津まで歩く。
16時59分、「岸落地蔵院」がある。
ここから宇多津駅まででて、電車で丸亀まで戻る。
アルファーワン丸亀はランドリーも洗濯機もなく、少し離れた場所まで歩いて行かなければならなかったので、面倒なので風呂で下着を洗うことにした。
また朝食は近くの喫茶店で7時から食べるようになっていた。
本日の歩行時間 10時間19分。
本日の歩数&距離 54951歩、37.9㎞。
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プロフィール
歩人
かっちゃん