2015年02月15日(日)
ビジネス旅館小松~60番横峰寺~63番吉祥寺~64番前神寺~西条アーバンホテル
曇り
7時6分に小松旅館を出発する。昨夜の客は私を含めて7名と多かった。全員遍路をされている方々で、夫婦が二組、一人旅が3人だった。食事は一人旅の3人が同じテーブルだったので、話をする。一人の男性は福島から来られた方で、これまでに車で1回、歩きで3回回られており、今回が歩きの4回目とのこと。もう一人の方は北海道から来られている女性の方で、今回が2回目。歩きと交通機関を交互に使いながら進まれていて、基本的に前回歩かれたところは今回は交通機関、前回交通機関を使われた場所は、今回は歩いているということだった。それでも一日に20㎞は歩かれているそうだ。このお二人とはその後もお会いすることになる。
前回歩いた時から約一か月が経過しているため、日が長くなっていて、朝も7時前にはもう明るくなっている。
出発後、遍路道から少し外れて、コンビニに立ち寄って、昼食用にパンと牛乳を購入したが、この間に「従是東西條領」という境界標石と大きな常夜燈が立っていた。西條藩は領内の境界を示す標石を19本立てているが、これはそのうちの1本だ。
買い物を済まして遍路道へ戻って進むが、今日歩くこの道が横峰寺への一番の近道ということで、小松旅館に泊まってこの道を登る人が多いそうだ。旅館では手書きの地図を準備されていて、食事の際、説明をしていただいた。
途中に採石所があり、前回はトラックが頻繁に通っていたが、今回は日曜日でトラックは走っておらず、道は静かだった。
ダラダラとした坂道を上っていくが、道幅もあって歩きやすい。8時20分にごく小さな橋を渡り、すぐに左折して山道に入っていく。曲がるところ左手に本当に小さな小祠があるのが目印だ。
前回、私は道を間違えて、ここで山道に入らず、それまで歩いてきた広い道をそのまま登って行ったために、道がわからなくなったようだ。山道はクネクネと曲がりくねっていて、途中木材を切り出すのだろう、重機が通ったキャタピラーの跡があり、又、遍路道と交差する道が何本もあったが、随所に遍路道を示す道しるべがあり、これを目印にして登っていく。
途中に丁石があり、最初は42丁石から始まっている。41丁石、40丁石は見当たらなかったが、その後39丁石から以降は順番に立っていた。丁石は目的地までの距離を表すもので、1丁石が109mの長さである。
8時58分に香園寺から来た遍路道を合流する。ここに「香園寺へ一里二十丁」「香園寺道 一里十六丁」という古い道標と並んで「60番横峰寺 3.6㎞」「香園寺奥の院 3.3㎞」という四国のみち道標が立っている。
しばらく平坦な道が続く。このあたり鳥の鳴き声が聞こえ、枯葉のカサカサという音と相まって、なかなか気持ちのいい道だ。横峰寺まで2.3㎞という標識あたりから再び上り坂になる。しばらく進むと一旦車道に合流、その先で再び車道から分かれて進む。
「60番札所横峰寺」に10時15分に到着する。ここは白雉2年(651)、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れた。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782~806)には石仙仙人という行者が住んでいて、桓武天皇(在位781~806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられている。弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806~10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となったが、明治42年になり、檀信徒の協力によりようやく復興したという。
二日前に雪は大丈夫かどうか、お寺に確認を入れると、「大丈夫」という返事をもらっていた通り、山道には雪は残っていなかった。ただ、お寺の境内には参道の雪は片づけられていたものの、その周囲にはまだ雪が残っていた。
それにしてもこんな山の中にポツンとお寺が一つあるだけ。昔はここに住む住職はどのような生活をされていたのだろうかと思う。車道はお寺のHPでは2月一杯は通行止めとなっていたが、今は雪がないので、今日は日曜日ということもあって、車でかなりの人が参拝に来られていた。
10時35分に下り始め、山道の入り口だった小祠のところに11時58分に着く。
採石場を過ぎた先に休憩所があったので、ここで昼食のパンを食べることにする。ところがここに犬がいて、盛んに吠えてきたので、パンを投げてやると、瞬く間に食べてしまった。それでおとなしくしてくれるかな?と思ったが、今度はもっとくれという催促で、また激しく吠えかかってきた。仕方がないので、またパンをちぎっては与え、二人?で仲よくパンを食べ合った。この犬はなかなか賢い犬のようで、私が食べ終わるのを見ると、途端に吠えなくなった。もう終わったと思ったのだろう。私が歩き始めると、私の後ろ姿をいつまでもいつまでも見送ってくれていた。かわいい♪
13時33分に「63番札所吉祥寺」に着く。
弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。ちなみに四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけという。
そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していたが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。
入口には天保11年(1840)の常夜燈が立っており、更に境内には延享元年(1744)の宝篋印塔や高さ1mほどの石で、中央下に径30~40cmの穴があり、金剛杖を通せば願いが叶えられるという成就石がある。
その先右手に「阿弥陀寺」という小祠があり、ここに「阿弥陀寺ののだふじ」がある。これは昭和49年に西条市指定天然記念物となっている。
右手に「石鎚神社」がある。
神門まで行ってみたが、境内はとても広いようなので、ここから奥には行かず、その横にある前神寺に向かう。
14時35分に「64番札所前神寺」に着く。この石鎚神社と前神寺とは密接な関係にある。石鎚山(標高1982m)は西日本最高峰で、古くから日本七霊山の一つとして知られる山岳信仰の山だ。石鎚山の神は『古事記』に石土毘古神と記され、その信仰は石鎚山そのものを御神体とする神体山信仰である。
石鎚山の信仰は、日本古来の山の神が仏教と結合したもので、奈良・平安のころから修験道の道場として知られた。伝承によると石鎚山は、修験道の祖役小角が、石鎚山の神を石上蔵王権現と称えて開山したという。前神寺は石鎚山の別当寺として全国の石鎚行者をその傘下におさめ、石鎚信仰の中心であった。
江戸時代中期の宝暦年間(1751~64)以降になると、広く一般庶民の石鎚登拝が盛んになったが、それは石鎚登拝をめざす講中組織の普及によるもので、その講中を「石鎚講」あるいは「お山講」という。前神寺は講中の組織化と普及を精力的に進めて、石鎚信仰を各地に広める役割を担ったのだ。また、前神寺が四国霊場第64番札所であり、ここに参拝した高野聖や四国遍路によっても、石鎚信仰が各地に伝えられたという。
どちらも門前に備前焼の狛犬が置かれている。
前神寺を出た後は11号線を進み、途中からこれを外れて西條駅のすぐ前にある西条アーバンホテルに15時45分に着く。
このホテルではお接待として今治のタオルを頂いた。
本日の歩行時間 8時間39分。
本日の歩数&距離 46130歩、30㎞。
7時6分に小松旅館を出発する。昨夜の客は私を含めて7名と多かった。全員遍路をされている方々で、夫婦が二組、一人旅が3人だった。食事は一人旅の3人が同じテーブルだったので、話をする。一人の男性は福島から来られた方で、これまでに車で1回、歩きで3回回られており、今回が歩きの4回目とのこと。もう一人の方は北海道から来られている女性の方で、今回が2回目。歩きと交通機関を交互に使いながら進まれていて、基本的に前回歩かれたところは今回は交通機関、前回交通機関を使われた場所は、今回は歩いているということだった。それでも一日に20㎞は歩かれているそうだ。このお二人とはその後もお会いすることになる。
前回歩いた時から約一か月が経過しているため、日が長くなっていて、朝も7時前にはもう明るくなっている。
出発後、遍路道から少し外れて、コンビニに立ち寄って、昼食用にパンと牛乳を購入したが、この間に「従是東西條領」という境界標石と大きな常夜燈が立っていた。西條藩は領内の境界を示す標石を19本立てているが、これはそのうちの1本だ。
買い物を済まして遍路道へ戻って進むが、今日歩くこの道が横峰寺への一番の近道ということで、小松旅館に泊まってこの道を登る人が多いそうだ。旅館では手書きの地図を準備されていて、食事の際、説明をしていただいた。
途中に採石所があり、前回はトラックが頻繁に通っていたが、今回は日曜日でトラックは走っておらず、道は静かだった。
ダラダラとした坂道を上っていくが、道幅もあって歩きやすい。8時20分にごく小さな橋を渡り、すぐに左折して山道に入っていく。曲がるところ左手に本当に小さな小祠があるのが目印だ。
前回、私は道を間違えて、ここで山道に入らず、それまで歩いてきた広い道をそのまま登って行ったために、道がわからなくなったようだ。山道はクネクネと曲がりくねっていて、途中木材を切り出すのだろう、重機が通ったキャタピラーの跡があり、又、遍路道と交差する道が何本もあったが、随所に遍路道を示す道しるべがあり、これを目印にして登っていく。
途中に丁石があり、最初は42丁石から始まっている。41丁石、40丁石は見当たらなかったが、その後39丁石から以降は順番に立っていた。丁石は目的地までの距離を表すもので、1丁石が109mの長さである。
8時58分に香園寺から来た遍路道を合流する。ここに「香園寺へ一里二十丁」「香園寺道 一里十六丁」という古い道標と並んで「60番横峰寺 3.6㎞」「香園寺奥の院 3.3㎞」という四国のみち道標が立っている。
しばらく平坦な道が続く。このあたり鳥の鳴き声が聞こえ、枯葉のカサカサという音と相まって、なかなか気持ちのいい道だ。横峰寺まで2.3㎞という標識あたりから再び上り坂になる。しばらく進むと一旦車道に合流、その先で再び車道から分かれて進む。
「60番札所横峰寺」に10時15分に到着する。ここは白雉2年(651)、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れた。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782~806)には石仙仙人という行者が住んでいて、桓武天皇(在位781~806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられている。弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806~10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となったが、明治42年になり、檀信徒の協力によりようやく復興したという。
二日前に雪は大丈夫かどうか、お寺に確認を入れると、「大丈夫」という返事をもらっていた通り、山道には雪は残っていなかった。ただ、お寺の境内には参道の雪は片づけられていたものの、その周囲にはまだ雪が残っていた。
それにしてもこんな山の中にポツンとお寺が一つあるだけ。昔はここに住む住職はどのような生活をされていたのだろうかと思う。車道はお寺のHPでは2月一杯は通行止めとなっていたが、今は雪がないので、今日は日曜日ということもあって、車でかなりの人が参拝に来られていた。
10時35分に下り始め、山道の入り口だった小祠のところに11時58分に着く。
採石場を過ぎた先に休憩所があったので、ここで昼食のパンを食べることにする。ところがここに犬がいて、盛んに吠えてきたので、パンを投げてやると、瞬く間に食べてしまった。それでおとなしくしてくれるかな?と思ったが、今度はもっとくれという催促で、また激しく吠えかかってきた。仕方がないので、またパンをちぎっては与え、二人?で仲よくパンを食べ合った。この犬はなかなか賢い犬のようで、私が食べ終わるのを見ると、途端に吠えなくなった。もう終わったと思ったのだろう。私が歩き始めると、私の後ろ姿をいつまでもいつまでも見送ってくれていた。かわいい♪
13時33分に「63番札所吉祥寺」に着く。
弘法大師がこの地方を巡教したのは弘仁年間とされ、その折に大師は1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得した。大師は、この霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し、貧苦からの救済を祈願して堂宇を建立したのが開創と伝えられている。ちなみに四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所は吉祥寺だけという。
そのころの寺は、現在地より南東にあたる坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほども有していたが、天正13年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失されている。その後、江戸時代の万治2年(1659)、末寺であった檜木寺と合併して、現在の地に移り再建されたと伝えられる。
入口には天保11年(1840)の常夜燈が立っており、更に境内には延享元年(1744)の宝篋印塔や高さ1mほどの石で、中央下に径30~40cmの穴があり、金剛杖を通せば願いが叶えられるという成就石がある。
その先右手に「阿弥陀寺」という小祠があり、ここに「阿弥陀寺ののだふじ」がある。これは昭和49年に西条市指定天然記念物となっている。
右手に「石鎚神社」がある。
神門まで行ってみたが、境内はとても広いようなので、ここから奥には行かず、その横にある前神寺に向かう。
14時35分に「64番札所前神寺」に着く。この石鎚神社と前神寺とは密接な関係にある。石鎚山(標高1982m)は西日本最高峰で、古くから日本七霊山の一つとして知られる山岳信仰の山だ。石鎚山の神は『古事記』に石土毘古神と記され、その信仰は石鎚山そのものを御神体とする神体山信仰である。
石鎚山の信仰は、日本古来の山の神が仏教と結合したもので、奈良・平安のころから修験道の道場として知られた。伝承によると石鎚山は、修験道の祖役小角が、石鎚山の神を石上蔵王権現と称えて開山したという。前神寺は石鎚山の別当寺として全国の石鎚行者をその傘下におさめ、石鎚信仰の中心であった。
江戸時代中期の宝暦年間(1751~64)以降になると、広く一般庶民の石鎚登拝が盛んになったが、それは石鎚登拝をめざす講中組織の普及によるもので、その講中を「石鎚講」あるいは「お山講」という。前神寺は講中の組織化と普及を精力的に進めて、石鎚信仰を各地に広める役割を担ったのだ。また、前神寺が四国霊場第64番札所であり、ここに参拝した高野聖や四国遍路によっても、石鎚信仰が各地に伝えられたという。
どちらも門前に備前焼の狛犬が置かれている。
前神寺を出た後は11号線を進み、途中からこれを外れて西條駅のすぐ前にある西条アーバンホテルに15時45分に着く。
このホテルではお接待として今治のタオルを頂いた。
本日の歩行時間 8時間39分。
本日の歩数&距離 46130歩、30㎞。
旅の地図
記録
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2013年11月19日(火)
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2013年11月20日(水)
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2013年11月21日(木)
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2013年11月22日(金)
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2013年11月23日(土)
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2013年11月24日(日)
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2013年11月25日(月)
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2013年11月26日(火)
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2013年12月07日(土)
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2013年12月08日(日)
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2013年12月09日(月)
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2013年12月10日(火)
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2013年12月11日(水)
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2013年12月12日(木)
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2013年12月13日(金)
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2013年12月14日(土)
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2013年12月15日(日)
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2013年12月16日(月)
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2013年12月17日(火)
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2013年12月18日(水)
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2013年12月19日(木)
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2013年12月20日(金)
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2013年12月21日(土)
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2015年01月20日(火)
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2015年02月16日(月)
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2015年02月17日(火)
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2015年02月18日(水)
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2015年02月19日(木)
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2015年02月20日(金)
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2015年02月21日(土)
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2015年02月22日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん