2015年01月27日(火)
58番仙遊寺~59番国分寺~61番香園寺~62番宝寿寺
晴れ
朝6時からお勤めがあったので、これに参加する。昨夜は韓国から30名ほどの団体客があったようで、皆、朝のお勤めに参加されていた。ご住職が常であれば、法話をされるそうだが、韓国の方が主なため、今朝は取りやめたといわれていた。ただ、その後食堂でお会いしたときに、しばらくお話をさせていただくことが出来た。ご住職は昨年10月に、奥様を亡くされたそうで、現在その供養を兼ねて野宿で遍路を続けておられるということだった。ご自分が奥様を亡くされてみて、身近な方を亡くされた方の気持ちが初めてわかるようになったといわれていたことが印象的だった。
今朝は雨は止んでおり、お寺から今治の町並みを見渡すことができた。
7時24分に出発する。
昨日登ってきた坂道を下って行き、仁王門の先から、右へ分岐する遍路道を進んでいく。
坂を下っていくと「五郎兵衛坂」の説明板が立っている。それによると、昔々、仙遊寺には伊予守から奉納された大きな太鼓が置いてあった。この太鼓は音も大きくて、桜井の海岸までたたく音が聞こえたので、魚が逃げて漁ができないと五郎兵衛という漁師がたいそう怒り、仙遊寺に登って包丁でその大太鼓を破ったうえ、悪口雑言を浴びせたという。ところがその帰り道、この坂で転んで腰を打って、その時の怪我がもとで亡くなってしまったという。以来、この坂を五郎兵衛坂と呼び、この坂を歩くときは気を付けてゆっくり歩くようになったという。
山を下ると舗装された道に出て、淡々と歩く。今日は昨日と打って変わった好天で、歩いていても気持ちがいい。
「59番札所国分寺」には9時ちょうどに到着する。
ここは伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあり、東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724~49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。
桜井小、中学校があるところに「綱敷天満宮 五丁」と刻まれた道標が立っている。私の故郷にも綱敷天満宮があり、菅原道真が大宰府に流されるときに、ここで綱を敷いて休んだという伝説が残っているが、ここも同じようなものなのだろう。
歩いていると、「立ち小便するな」と書かれた張り紙がある。そういえば国分寺を出てから、この辺りまで、トイレが全くないことに気が付いた。私は幸いお寺で用を足していたので、問題なかったが、それをしなかった場合、このあたりでもよおすことになりそうなので、この張り紙を見てなんとなくおかしかった。
その先で遍路道と分岐するところに来る。遍路道はここから山を登っていくようだが、今日帰宅する私はここから遍路道を進まず、196号線を進む事にする。10時23分に分岐点を通る。
歩いていると車に乗っている方が、窓を開けて、「頑張って!」と声をかけてくれた。何よりもうれしい激励だ。196号線を歩いていくが、ここは遍路道ではないので、特に見ることもなく進んでいく。
途中でラーメン屋があったので、そこで昼食にし、13時56分に「61番札所香園寺」に着く。ここは、用明天皇(在位585~87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729~49)には行基菩薩(668~749)が訪ねている。
弘法大師が訪れたのは大同年間(806~10)であった。ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。このようにここは四国霊場屈指の古刹であるが、現在は本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。二階に上がると大日如来像の前に劇場を思わせるように椅子がぎっしりと並べられていた。
ここからすぐ近くに「62番札所宝寿寺」がある。14時36分に着く。
ここは、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられている。弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいたので、大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。
ここから伊予小松駅はすぐ近くなので、ここから帰途につく。
本日の歩行時間 7時間12分。
本日の歩数&距離 40308歩、26.5km。
今回の総合計
歩行時間 66時間10分。
歩数&距離 348665歩、250.2km。
朝6時からお勤めがあったので、これに参加する。昨夜は韓国から30名ほどの団体客があったようで、皆、朝のお勤めに参加されていた。ご住職が常であれば、法話をされるそうだが、韓国の方が主なため、今朝は取りやめたといわれていた。ただ、その後食堂でお会いしたときに、しばらくお話をさせていただくことが出来た。ご住職は昨年10月に、奥様を亡くされたそうで、現在その供養を兼ねて野宿で遍路を続けておられるということだった。ご自分が奥様を亡くされてみて、身近な方を亡くされた方の気持ちが初めてわかるようになったといわれていたことが印象的だった。
今朝は雨は止んでおり、お寺から今治の町並みを見渡すことができた。
7時24分に出発する。
昨日登ってきた坂道を下って行き、仁王門の先から、右へ分岐する遍路道を進んでいく。
坂を下っていくと「五郎兵衛坂」の説明板が立っている。それによると、昔々、仙遊寺には伊予守から奉納された大きな太鼓が置いてあった。この太鼓は音も大きくて、桜井の海岸までたたく音が聞こえたので、魚が逃げて漁ができないと五郎兵衛という漁師がたいそう怒り、仙遊寺に登って包丁でその大太鼓を破ったうえ、悪口雑言を浴びせたという。ところがその帰り道、この坂で転んで腰を打って、その時の怪我がもとで亡くなってしまったという。以来、この坂を五郎兵衛坂と呼び、この坂を歩くときは気を付けてゆっくり歩くようになったという。
山を下ると舗装された道に出て、淡々と歩く。今日は昨日と打って変わった好天で、歩いていても気持ちがいい。
「59番札所国分寺」には9時ちょうどに到着する。
ここは伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあり、東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724~49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。
桜井小、中学校があるところに「綱敷天満宮 五丁」と刻まれた道標が立っている。私の故郷にも綱敷天満宮があり、菅原道真が大宰府に流されるときに、ここで綱を敷いて休んだという伝説が残っているが、ここも同じようなものなのだろう。
歩いていると、「立ち小便するな」と書かれた張り紙がある。そういえば国分寺を出てから、この辺りまで、トイレが全くないことに気が付いた。私は幸いお寺で用を足していたので、問題なかったが、それをしなかった場合、このあたりでもよおすことになりそうなので、この張り紙を見てなんとなくおかしかった。
その先で遍路道と分岐するところに来る。遍路道はここから山を登っていくようだが、今日帰宅する私はここから遍路道を進まず、196号線を進む事にする。10時23分に分岐点を通る。
歩いていると車に乗っている方が、窓を開けて、「頑張って!」と声をかけてくれた。何よりもうれしい激励だ。196号線を歩いていくが、ここは遍路道ではないので、特に見ることもなく進んでいく。
途中でラーメン屋があったので、そこで昼食にし、13時56分に「61番札所香園寺」に着く。ここは、用明天皇(在位585~87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子が建立したと伝えられる。このときに、太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来して、本尊の大日如来像を安置したとも伝えられ、また、天皇からは「教王院」の勅号を賜った。のち、天平年間(729~49)には行基菩薩(668~749)が訪ねている。
弘法大師が訪れたのは大同年間(806~10)であった。ある日、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は、栴檀の香を焚いて加持、祈祷をした。すると婦人は元気な男子を無事に出産した。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納め、再び栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をされて寺に遺し、霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来する。このようにここは四国霊場屈指の古刹であるが、現在は本堂と大師堂を兼ねた超近代的な大聖堂を構えている。二階に上がると大日如来像の前に劇場を思わせるように椅子がぎっしりと並べられていた。
ここからすぐ近くに「62番札所宝寿寺」がある。14時36分に着く。
ここは、天平のころ聖武天皇(在位724~49)は諸国に一の宮を造営した。その折、この地に伊予の一の宮神社が建立され、大和の僧・道慈律師が勅命をうけて法楽所としての別当寺を創建したのがはじめとされる。このとき天皇は『金光明最勝王経』を奉納され、寺名は「金剛宝寺」と称して、現在地ではなく中山川下流の白坪という地にあったと伝えられている。弘法大師がこの地方を訪ねたのは大同年間(806~10)で、寺に久しく留まり聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫造した。これを本尊とし、寺名を「宝寿寺」と改めて霊場とされた。そのころ国司の越智公夫人が難産で苦しんでいたので、大師が本尊に祈願した霊水・玉の井で加持したところ、無事出産したことから安産の観音様としても信仰されたという。
ここから伊予小松駅はすぐ近くなので、ここから帰途につく。
本日の歩行時間 7時間12分。
本日の歩数&距離 40308歩、26.5km。
今回の総合計
歩行時間 66時間10分。
歩数&距離 348665歩、250.2km。
旅の地図
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2013年11月22日(金)
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2013年11月23日(土)
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2013年11月24日(日)
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2013年11月25日(月)
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2013年11月26日(火)
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2013年12月07日(土)
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2013年12月08日(日)
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2013年12月09日(月)
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プロフィール
歩人
かっちゃん