2015年01月26日(月)
菊間駅~54番延命寺~55番南光坊~56番泰山寺~57番栄福寺~58番仙遊寺
雨
7時30分に菊間駅を出発する。小雨が降っており、今日は終日雨だった。
菊間の集落を抜けて196号線に合流する。左手に太陽石油菊間製油所がある。前回歩いた時、丁度大規模な点検期間に引っかかって、大勢の作業員の方で宿はどこも満員、宿の確保に苦労したことを思い出す。
太陽石油のすぐ先で遍路道に入ると、「青木地蔵」がある。
ここは昔、弘法大師が四国巡行の途中、この地に立ち寄られ、村人に有難い仏の道についてご説教されるとともに御手ずから地蔵菩薩像を納められたが、その際、記念に青木を植えられたことから「青木地蔵」(青木のお地蔵さん)と呼ばれるようになったという。
ここでは遍路をされている方が泊ることが出来るようになっているようで、一人の方が中におられた。8時14分にここを通る。
右手に伊予亀岡駅がある。ここを8時29分に通る。菊間駅からちょうど1時間のところだ。
このあたり、集落があると、196号線から分岐して集落の中の道を進む。この道は車も人もあまり通っておらず、静かで歩きやすい。
集落から196号線に合流したところ、右手「五郎兵衛大師」があり、悪病、悪霊の侵入を防ぐお大師さんとして信仰されているという看板が立っていた。9時15分にここを通る。
大西町 脇の集落の中、左手に安永10年(1781)の浄土三部妙典一字一石塔が立っている。9時30分にここを通る。
15号線を進んでいくが、この道は車が少なくて歩きやすい。随所に遍路道を示す矢印もあって、地図を見ることなく歩くことが出来る。
大西駅へ向かう道との交差点手前左手に「旧大庄屋井手家」がある。江戸時代初期、徳川方に味方した井手家はその功績により、「なんでも望みをかなえてやる」との御達しで、わらぶきの屋根を瓦に換え、防火用として屋根に「天水瓶」を置くことが許された。天水瓶は現在でも残っている。その後松山藩主の参勤交代の時には本陣になっていたという。その横には樹齢350年以上という大きな楠が立っている。ここを9時15分に通る。
延命寺の山門がある。この門は元今治城城門の一つで、天明年間の建造とも言い伝えられている。明治3、4年に今治城を取り壊した際、この地へ譲り受けたものという。
「54番札所延命寺」には10時55分に到着する。ここは養老四年に聖武天皇(在位724~49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810~24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809~23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めているという。
その先、特に見るところもなく、雨の中を歩いて「55番札所南光坊」に11時45分に到着する。四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけで、正式には光明寺金剛院南光坊という。ここは大宝3年(703)、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697~707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれている。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められたという。
今治駅の近くで昼食にする。今治駅というとかなり大きな駅を想像していたが、意外に小さな駅だった。
ここから泰山寺まで一直線の道だ。
12時51分に「56番札所泰山寺」に着く。
弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年(815)のころで、蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。
泰山寺のすぐ裏に奥ノ院龍泉寺があり、十二面観世音菩薩がご本尊として祀られている。
栄福寺へ向かうため、龍泉寺から下ってくると、右手に天保15年(1844)の道標が立っている。
更にその先右手に弘化4年(1847)の道標が立っている。どちらもかなり大きいもので、昔はかなり目立ったものだっただろうと思う。
「栄福寺」には13時50分に着く。
ここは、嵯峨天皇(在位809~23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間だった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法されると、その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。
仙遊寺へ向かう道は山道だ。今日は一日中雨が降り続いていたので、地面はかなり緩い。滑らないように注意をしながら進んでいく。
やがて舗装された道で出て、ここからだらだらとした坂道を上っていくと仁王門がある。
もう少しだと思ったが、ここからの坂はきつかった。周囲は霧に包まれており、幻想的な雰囲気なのだが、とにかくまだ坂を登るのか!という感じだった。標高は300mほど、15分ほど登ったところに本堂があった。
14時51分に「58番札所仙遊寺」に到着する。ここも深い霧に包まれている。
ここの創建は天智天皇(在位668~71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。
ここは宿坊になっていて、築16年になるということだったが、風呂は温泉だったし、中はきれいだった。ただテレビがないので、夕食を食べるとすることがないので、7時過ぎには寝てしまった。
本日の歩行時間 7時間21分。
本日の歩数&距離 41333歩、27.6km。
7時30分に菊間駅を出発する。小雨が降っており、今日は終日雨だった。
菊間の集落を抜けて196号線に合流する。左手に太陽石油菊間製油所がある。前回歩いた時、丁度大規模な点検期間に引っかかって、大勢の作業員の方で宿はどこも満員、宿の確保に苦労したことを思い出す。
太陽石油のすぐ先で遍路道に入ると、「青木地蔵」がある。
ここは昔、弘法大師が四国巡行の途中、この地に立ち寄られ、村人に有難い仏の道についてご説教されるとともに御手ずから地蔵菩薩像を納められたが、その際、記念に青木を植えられたことから「青木地蔵」(青木のお地蔵さん)と呼ばれるようになったという。
ここでは遍路をされている方が泊ることが出来るようになっているようで、一人の方が中におられた。8時14分にここを通る。
右手に伊予亀岡駅がある。ここを8時29分に通る。菊間駅からちょうど1時間のところだ。
このあたり、集落があると、196号線から分岐して集落の中の道を進む。この道は車も人もあまり通っておらず、静かで歩きやすい。
集落から196号線に合流したところ、右手「五郎兵衛大師」があり、悪病、悪霊の侵入を防ぐお大師さんとして信仰されているという看板が立っていた。9時15分にここを通る。
大西町 脇の集落の中、左手に安永10年(1781)の浄土三部妙典一字一石塔が立っている。9時30分にここを通る。
15号線を進んでいくが、この道は車が少なくて歩きやすい。随所に遍路道を示す矢印もあって、地図を見ることなく歩くことが出来る。
大西駅へ向かう道との交差点手前左手に「旧大庄屋井手家」がある。江戸時代初期、徳川方に味方した井手家はその功績により、「なんでも望みをかなえてやる」との御達しで、わらぶきの屋根を瓦に換え、防火用として屋根に「天水瓶」を置くことが許された。天水瓶は現在でも残っている。その後松山藩主の参勤交代の時には本陣になっていたという。その横には樹齢350年以上という大きな楠が立っている。ここを9時15分に通る。
延命寺の山門がある。この門は元今治城城門の一つで、天明年間の建造とも言い伝えられている。明治3、4年に今治城を取り壊した際、この地へ譲り受けたものという。
「54番札所延命寺」には10時55分に到着する。ここは養老四年に聖武天皇(在位724~49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810~24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809~23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めているという。
その先、特に見るところもなく、雨の中を歩いて「55番札所南光坊」に11時45分に到着する。四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけで、正式には光明寺金剛院南光坊という。ここは大宝3年(703)、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697~707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれている。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められたという。
今治駅の近くで昼食にする。今治駅というとかなり大きな駅を想像していたが、意外に小さな駅だった。
ここから泰山寺まで一直線の道だ。
12時51分に「56番札所泰山寺」に着く。
弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年(815)のころで、蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。
泰山寺のすぐ裏に奥ノ院龍泉寺があり、十二面観世音菩薩がご本尊として祀られている。
栄福寺へ向かうため、龍泉寺から下ってくると、右手に天保15年(1844)の道標が立っている。
更にその先右手に弘化4年(1847)の道標が立っている。どちらもかなり大きいもので、昔はかなり目立ったものだっただろうと思う。
「栄福寺」には13時50分に着く。
ここは、嵯峨天皇(在位809~23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間だった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法されると、その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。
仙遊寺へ向かう道は山道だ。今日は一日中雨が降り続いていたので、地面はかなり緩い。滑らないように注意をしながら進んでいく。
やがて舗装された道で出て、ここからだらだらとした坂道を上っていくと仁王門がある。
もう少しだと思ったが、ここからの坂はきつかった。周囲は霧に包まれており、幻想的な雰囲気なのだが、とにかくまだ坂を登るのか!という感じだった。標高は300mほど、15分ほど登ったところに本堂があった。
14時51分に「58番札所仙遊寺」に到着する。ここも深い霧に包まれている。
ここの創建は天智天皇(在位668~71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。
ここは宿坊になっていて、築16年になるということだったが、風呂は温泉だったし、中はきれいだった。ただテレビがないので、夕食を食べるとすることがないので、7時過ぎには寝てしまった。
本日の歩行時間 7時間21分。
本日の歩数&距離 41333歩、27.6km。
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プロフィール
歩人
かっちゃん