2015年01月22日(木)
ふじや旅館~44番大宝寺~民宿八丁坂
雨後曇り
7時13分に出発する。
小雨が降っているので、ポンチョを着用する。宿からすぐ先で52号線に合流、更にその先で380号線を進む。道は少しずつ緩やかな上り坂になっている。車は少なく、小雨の中を黙々と歩いていく。大平川に沿って進むが、せせらぎの音が聞こえる。気持ちのいい道だ。
左手に「三島神社」がある。8時25分にここを通る。
その先で遍路道に入るが、山道なので雨に濡れていて滑る。しばらく山道を登っていくと舗装道路にでるが、ここに畑峠へ行く道と農祖峠へ向かう道に分岐する標識が立っている。畑峠へ向かう道は私が持っている地図には書かれていないので、農祖峠へ向かって舗装された道を進む。8時46分にここを通る。
真弓トンネルを通って進むが、このあたりは標高が570mほどで、霧が深くて幻想的な雰囲気だ。
やがて道は父野川沿いを父二峰まで下っていき、二名川に架かる父二峰橋を渡って42号線を進む。10時10分、農祖峠への登り口があったが、前日、すれ違った歩き遍路の方から農祖峠は現在通行止めになっているという情報を耳にしたことと、今日は天気が悪いということもあって通らず、鴇田峠へ向かうことにした。鴇田峠は前回通ったところだ。 やがて鴇田峠へ進む道に合流する。ここには「鴇田峠 2.7㎞」「大宝寺 6.4㎞」と記された、「四国のみち」の標柱が立っている。その分岐点の少し先、葛城神社の石垣と民家との間に「へんろ道」と刻まれた道標と遍路道の矢印が下がっている細い道があったので、10時37分にここを通る。
すぐ先左手の民家の庭に仔馬がいた。優しそうな目でこちらを見ている姿はとてもかわいい。
舗装された道を進んでいき、「鴇田峠 1.0㎞」「大宝寺 4.7㎞」と書かれた「四国のみち」が立っているところから山道に入っていく。
左手に小さな大師堂があり、その横に「だんじり岩」がある。十畳ほどあるこの岩は弘法大師が四国八十八か所巡錫の時、あまりの空腹と疲労のため、自分の修行の足りなさに腹を立てて、この岩の上で「だんじり(じだんだ)を踏んで我慢をされたという。その時踏んだ「だんじり」の足跡が岩に残っており、この岩を「だんじり岩」と呼ぶようになったという。
深い霧に包まれている道を進んでいくが、このあたりは雨が降ると道が水路になるようで、水が流れている。ただ、幸い今日の雨は大したことがないので、あまり影響を受けなかったが、本格的な雨の場合、この道を歩くのは大変だろう。
11時46分に鴇田峠を越える。
ここから山を下って行き、久万高原町に入っていく。久万の名称については、「おくま」という女が弘法大師の請うまま、織りかけの木綿を手巾(しゅきん)(手ぬぐい)用として裁ち与えたので、大師が感じて命名したという地名由来の伝説が残っている。
大きな「へんろ道」と刻まれた道標が立っており、ここから左折、その先にも同様の道標が立っているので、ここを右折して進む。
大宝寺総門が立っている。
この辺りまできて、この先には食事をする場所がなさそうなことに気が付いたので、一旦街中へ戻って、食堂を探し当て、昼食にする。12時30分を過ぎていたが、無事食事をすることが出来てホッとする。
再び街中から総門を通って大宝寺へ向かい、13時34分に「44番札所大宝寺」に到着する。ここは四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高490mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂っている。
ここは大和朝廷の時代、百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697ー707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、弘仁13年(822)で、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。その後は焼失、再建を繰り返し,現本堂は大正14年に、また大師堂は昭和59年に再建されたという。
参拝後遍路道を進むが、深い山の中の道で、アップダウンがあって、かなり厳しい道だ。やがて山を抜けて12号線に出ると、左手にトンネルがある。ここから右へ山を下っていくのだが、その先で道を間違えてしまった。左手に遍路道の札が下がっているところがあり、道路と直角にその道は伸びている。地図を見るとわずかの距離、遍路道があるようなので、あまり深く考えずにこの道に入ってしまった。道は山道なのだが、しっかりとした道であり、また随所に矢印が付いているので、何も疑わずに進んでいった。途中で、地図に載っている遍路道にしてはいやに距離があるなと思いだしたが、遍路道を示す標識が随所にあるので、遍路道を歩いているのは間違いない、と思って先へ進む。ところが道は次第に荒れてきて、何か所も倒木が道をふさいでいたりして、歩きにくい。一部には通行止めの箇所があり、迂回するようになっているが、迂回路にもしっかりと遍路道を示す標識が付いているので、それにしたがって進む。しかしいくら進んでも山の中だ。これはいくらなんでもおかしい、と思い始めたが、かといって遍路道を歩いているのは間違いない。ただ地図の上で自分がどの道を歩いているのかがさっぱりわからない。時々標識に「高野」という言葉が出てき始めたが、高野がどこかわからない。自分では岩屋寺の方へ向かっていると思い込んでいるので、そちらの方の地図ばかりを見ていたのだ。とにかくこの山の中の道を抜け出したい、と思って先を急いでいると、ようやく山が切れ、民家が二軒見えてきた。ヤレヤレと思って民家の方へ行ってみると、一軒目は誰もいない。空き家のようだ。もう一軒少し上に家があったので、そちらの方へ行ってみると、なにやら音がする。人がいる!よかった!
この方にお会いして、ようやく自分がいる場所が把握できた。何と、46番浄瑠璃寺へ向かう遍路道に迷い込んでいたのだ。地図を見ると、確かにそこには高野という場所が書かれている。岩屋寺へ向かっていると思い込んでいたので、反対側へ向かうこの道のことは全く考えてもおらず、従ってこの部分の地図を見ていなかったのだ。場所はわかったので、さて、どうして帰るか、お聞きすると今来た道を戻るしかないという。時間を見るとすでに15時30分をかなり回っている。ここに来るまでに2時間近くかかっていたように、その時は思っていたので、(後で調べてみると、実際は1時間ほどでした)これから山の中を戻ると途中で暗くなってしまう。それは嫌だ。
それでその方にタクシーを呼んで、ここまで来ていただくことはできないでしょうか?と聞くと、無理だねと一言。参ったなぁ。。。そうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。どうしようか、と、途方に暮れていると、その方が、よし!わしが送って行ってやろう!と言ってくれた。これには助かった!正直に言えば、厚かましい限りなのだが、、私の心の中にその言葉を期待するものが全くなかったと言えばうそになります。とにかく助かった。
そこからその方の車で山を下り、今日の宿である八丁坂まで送っていただくことが出来た。
その方はその家が生家で、いつもは松山市内に住まわれているそうで、今日はたまたまこの場所に来られていたということだった。昨日は来ていなかったよ、といわれて今日でよかった!と心から思った。
今日の宿である民宿八丁坂まで送っていただいて、16時4分に到着する。本当にありがとうございました。
今日は最後の山の中の迷走で、距離的にはそれほど歩いていないにもかかわらず、クタクタに疲れ果てた一日だった。宿の方にあそこに紛れ込む人は少ないよ。といわれてしまった。
最近はあの道を通る人は少ないとも言われていた。
八丁坂の宿はきれいで、また女将さんもとてもいい方で、良くしていただいた。
本日の歩行時間 6時間51分。
本日の歩数&距離 37177歩、27.6km。
7時13分に出発する。
小雨が降っているので、ポンチョを着用する。宿からすぐ先で52号線に合流、更にその先で380号線を進む。道は少しずつ緩やかな上り坂になっている。車は少なく、小雨の中を黙々と歩いていく。大平川に沿って進むが、せせらぎの音が聞こえる。気持ちのいい道だ。
左手に「三島神社」がある。8時25分にここを通る。
その先で遍路道に入るが、山道なので雨に濡れていて滑る。しばらく山道を登っていくと舗装道路にでるが、ここに畑峠へ行く道と農祖峠へ向かう道に分岐する標識が立っている。畑峠へ向かう道は私が持っている地図には書かれていないので、農祖峠へ向かって舗装された道を進む。8時46分にここを通る。
真弓トンネルを通って進むが、このあたりは標高が570mほどで、霧が深くて幻想的な雰囲気だ。
やがて道は父野川沿いを父二峰まで下っていき、二名川に架かる父二峰橋を渡って42号線を進む。10時10分、農祖峠への登り口があったが、前日、すれ違った歩き遍路の方から農祖峠は現在通行止めになっているという情報を耳にしたことと、今日は天気が悪いということもあって通らず、鴇田峠へ向かうことにした。鴇田峠は前回通ったところだ。 やがて鴇田峠へ進む道に合流する。ここには「鴇田峠 2.7㎞」「大宝寺 6.4㎞」と記された、「四国のみち」の標柱が立っている。その分岐点の少し先、葛城神社の石垣と民家との間に「へんろ道」と刻まれた道標と遍路道の矢印が下がっている細い道があったので、10時37分にここを通る。
すぐ先左手の民家の庭に仔馬がいた。優しそうな目でこちらを見ている姿はとてもかわいい。
舗装された道を進んでいき、「鴇田峠 1.0㎞」「大宝寺 4.7㎞」と書かれた「四国のみち」が立っているところから山道に入っていく。
左手に小さな大師堂があり、その横に「だんじり岩」がある。十畳ほどあるこの岩は弘法大師が四国八十八か所巡錫の時、あまりの空腹と疲労のため、自分の修行の足りなさに腹を立てて、この岩の上で「だんじり(じだんだ)を踏んで我慢をされたという。その時踏んだ「だんじり」の足跡が岩に残っており、この岩を「だんじり岩」と呼ぶようになったという。
深い霧に包まれている道を進んでいくが、このあたりは雨が降ると道が水路になるようで、水が流れている。ただ、幸い今日の雨は大したことがないので、あまり影響を受けなかったが、本格的な雨の場合、この道を歩くのは大変だろう。
11時46分に鴇田峠を越える。
ここから山を下って行き、久万高原町に入っていく。久万の名称については、「おくま」という女が弘法大師の請うまま、織りかけの木綿を手巾(しゅきん)(手ぬぐい)用として裁ち与えたので、大師が感じて命名したという地名由来の伝説が残っている。
大きな「へんろ道」と刻まれた道標が立っており、ここから左折、その先にも同様の道標が立っているので、ここを右折して進む。
大宝寺総門が立っている。
この辺りまできて、この先には食事をする場所がなさそうなことに気が付いたので、一旦街中へ戻って、食堂を探し当て、昼食にする。12時30分を過ぎていたが、無事食事をすることが出来てホッとする。
再び街中から総門を通って大宝寺へ向かい、13時34分に「44番札所大宝寺」に到着する。ここは四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高490mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂っている。
ここは大和朝廷の時代、百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697ー707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、弘仁13年(822)で、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。その後は焼失、再建を繰り返し,現本堂は大正14年に、また大師堂は昭和59年に再建されたという。
参拝後遍路道を進むが、深い山の中の道で、アップダウンがあって、かなり厳しい道だ。やがて山を抜けて12号線に出ると、左手にトンネルがある。ここから右へ山を下っていくのだが、その先で道を間違えてしまった。左手に遍路道の札が下がっているところがあり、道路と直角にその道は伸びている。地図を見るとわずかの距離、遍路道があるようなので、あまり深く考えずにこの道に入ってしまった。道は山道なのだが、しっかりとした道であり、また随所に矢印が付いているので、何も疑わずに進んでいった。途中で、地図に載っている遍路道にしてはいやに距離があるなと思いだしたが、遍路道を示す標識が随所にあるので、遍路道を歩いているのは間違いない、と思って先へ進む。ところが道は次第に荒れてきて、何か所も倒木が道をふさいでいたりして、歩きにくい。一部には通行止めの箇所があり、迂回するようになっているが、迂回路にもしっかりと遍路道を示す標識が付いているので、それにしたがって進む。しかしいくら進んでも山の中だ。これはいくらなんでもおかしい、と思い始めたが、かといって遍路道を歩いているのは間違いない。ただ地図の上で自分がどの道を歩いているのかがさっぱりわからない。時々標識に「高野」という言葉が出てき始めたが、高野がどこかわからない。自分では岩屋寺の方へ向かっていると思い込んでいるので、そちらの方の地図ばかりを見ていたのだ。とにかくこの山の中の道を抜け出したい、と思って先を急いでいると、ようやく山が切れ、民家が二軒見えてきた。ヤレヤレと思って民家の方へ行ってみると、一軒目は誰もいない。空き家のようだ。もう一軒少し上に家があったので、そちらの方へ行ってみると、なにやら音がする。人がいる!よかった!
この方にお会いして、ようやく自分がいる場所が把握できた。何と、46番浄瑠璃寺へ向かう遍路道に迷い込んでいたのだ。地図を見ると、確かにそこには高野という場所が書かれている。岩屋寺へ向かっていると思い込んでいたので、反対側へ向かうこの道のことは全く考えてもおらず、従ってこの部分の地図を見ていなかったのだ。場所はわかったので、さて、どうして帰るか、お聞きすると今来た道を戻るしかないという。時間を見るとすでに15時30分をかなり回っている。ここに来るまでに2時間近くかかっていたように、その時は思っていたので、(後で調べてみると、実際は1時間ほどでした)これから山の中を戻ると途中で暗くなってしまう。それは嫌だ。
それでその方にタクシーを呼んで、ここまで来ていただくことはできないでしょうか?と聞くと、無理だねと一言。参ったなぁ。。。そうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。どうしようか、と、途方に暮れていると、その方が、よし!わしが送って行ってやろう!と言ってくれた。これには助かった!正直に言えば、厚かましい限りなのだが、、私の心の中にその言葉を期待するものが全くなかったと言えばうそになります。とにかく助かった。
そこからその方の車で山を下り、今日の宿である八丁坂まで送っていただくことが出来た。
その方はその家が生家で、いつもは松山市内に住まわれているそうで、今日はたまたまこの場所に来られていたということだった。昨日は来ていなかったよ、といわれて今日でよかった!と心から思った。
今日の宿である民宿八丁坂まで送っていただいて、16時4分に到着する。本当にありがとうございました。
今日は最後の山の中の迷走で、距離的にはそれほど歩いていないにもかかわらず、クタクタに疲れ果てた一日だった。宿の方にあそこに紛れ込む人は少ないよ。といわれてしまった。
最近はあの道を通る人は少ないとも言われていた。
八丁坂の宿はきれいで、また女将さんもとてもいい方で、良くしていただいた。
本日の歩行時間 6時間51分。
本日の歩数&距離 37177歩、27.6km。
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2015年02月22日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん