2013年12月14日(土)
福屋旅館~37番岩本寺~佐賀温泉
曇り後晴れ
6時55分に出発する。今朝5時の高知の気温は0.5℃、寒い日が続いている。
土佐久礼の町を抜けると、七子峠へ至る道は土佐往還そえみみず遍路道と大坂遍路道という二本の道があるが、今回も前回同様に大坂遍路道を通ることにした。
久礼の町中を抜けると、山の中の舗装された道を進む。しばらく進むと、その先にポツンと集落がある。
この集落を過ぎると、いよいよ七子峠だ。はるか上の方にガードレールが見える。あそこまで一気に登るのだ。
山道に入ってしばらく進むと、へんろ小屋があり、その横にトイレがあるので、ここで一応用を足しておく。8時18分に七子峠の登山口に着く。
ここから1kmほどの登りが続く。四国はどうしてこんなに山が多いのだろうと思いながら、一歩づつ登っていき、8時48分に頂上に着く。ちょうど30分の登りだった。ここから山間の道を進んでいく。民家が散在しているのだが、人影はほとんどない。その先で56号線に合流する。
雪椿のへんろ小屋があったので、ここで休憩をしようと思って座ったが、吹きさらしなので寒い。仕方がないので、すぐに歩き始めた。この小屋の横に樹齢350年といわれる「お雪椿」がある。ここは寛永の頃、この地(影野新田)の開拓者で地頭頭だった池内喜左衛門の屋敷跡で、喜左衛門にはお雪という娘がいた。このお雪が影野西木寺の若僧順安と恋仲になったので、お雪の父は順安を還俗させてお雪と夫婦にし、地頭職を譲って貴左衛門の名を継がせた。二人は仲睦まじく里人たちも愛したが、二人には子供がいなかったため、彼らの死後、里人たちはお雪が好んだ椿を植えて二人の供養を行ってきたという。その椿が350年を経過した今もこうして毎年美しい花を咲かせていると説明されている。
歩いていると、前方から一人のお年寄りの女性が来られ、100円玉と今買ってきたばかりという饅頭を六個お接待していただいた。「寒いので気を付けてね」という言葉が、冷え切った身体に暖かく染み込んできた。ありがとうございます。
56号線を歩いていくと、道の駅あぐり窪川があったので、まだ11時を少し回ったばかりだったが、いつもの鉄則に従って昼食にする。ここに到着したとき、上下とも薄い遍路衣装に身を包み、裸足にぞうりを履いただけという歩き遍路の方がおられた。大きな荷物を背負っていたので、恐らく野宿をされているのだろう。
この寒空に大変だろう、私にはできない芸当だと思った。
昼食後、56号線を更に進んで、「37番札所岩本寺」に入る。ここは聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていたが、明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまったという。再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っているという。
12時37分に出発する。
右手に大きな水車が回っている店があり、その水車の横に明治45年の道標が5つ並んで置かれていた。
その先で56号線に合流して進むが、午後になってようやく太陽が顔を出し、日が差し出した。そうすると気温が上がってくるのがわかる。太陽の力はすごいなと改めて思う。当たり前のことなのだが、黙々と歩いていると、こうした当たり前のことが、当たり前ではないように思えてくるから不思議だ。
56号線を進んでいくと、右手に「是ヨリ足ずり二廿里」「享和」と読むことができる道標が立っている。この道標を見て、今はきれいに舗装された国道になっているが、この道は享和の頃から存在していて、数多くのお遍路さんがこの道を歩いていたのだと思うと、味気なく思えた国道が趣のある道に思えてくるから不思議だ。
しばらく56号線を進み、その先でシールに従って56号線から分岐して進むと、ごみ焼却場があり、その横から山道に入っていく。ここは登りはほとんどなく、下りが長い。誰もいない山の中の道を下っていく。細道のすぐ横が急斜面になっていたりして、かなり厳しい下り坂だが、随所に下がっている「遍路道」と書かれた札が道を間違っていないことを証明してくれていて心強い。同行二人という言葉が頭に浮かぶ。
やがて山を下ったところで56号線と合流するが、ここにも道案内の標識が立っており、へんろ小屋まであった。7年前にはこういったものは何もなくて、ここで道を間違えたことを思い出す。
ここから約3.5kmほど56号線を歩いたところに、今日の宿である佐賀温泉がある。
15時16分に到着する。
ここはきれいな宿で、冷え切った身体を温泉に入って温めた。いい気持ちだ。今日も無事予定通りに歩き終えたと満足感に浸る。
ここでは一昨日同宿で、昨日は大谷旅館に泊まられた方とまた一緒になった。
本日の歩行時間 8時間21分。
本日の歩数&距離 46670歩、31.6km。
6時55分に出発する。今朝5時の高知の気温は0.5℃、寒い日が続いている。
土佐久礼の町を抜けると、七子峠へ至る道は土佐往還そえみみず遍路道と大坂遍路道という二本の道があるが、今回も前回同様に大坂遍路道を通ることにした。
久礼の町中を抜けると、山の中の舗装された道を進む。しばらく進むと、その先にポツンと集落がある。
この集落を過ぎると、いよいよ七子峠だ。はるか上の方にガードレールが見える。あそこまで一気に登るのだ。
山道に入ってしばらく進むと、へんろ小屋があり、その横にトイレがあるので、ここで一応用を足しておく。8時18分に七子峠の登山口に着く。
ここから1kmほどの登りが続く。四国はどうしてこんなに山が多いのだろうと思いながら、一歩づつ登っていき、8時48分に頂上に着く。ちょうど30分の登りだった。ここから山間の道を進んでいく。民家が散在しているのだが、人影はほとんどない。その先で56号線に合流する。
雪椿のへんろ小屋があったので、ここで休憩をしようと思って座ったが、吹きさらしなので寒い。仕方がないので、すぐに歩き始めた。この小屋の横に樹齢350年といわれる「お雪椿」がある。ここは寛永の頃、この地(影野新田)の開拓者で地頭頭だった池内喜左衛門の屋敷跡で、喜左衛門にはお雪という娘がいた。このお雪が影野西木寺の若僧順安と恋仲になったので、お雪の父は順安を還俗させてお雪と夫婦にし、地頭職を譲って貴左衛門の名を継がせた。二人は仲睦まじく里人たちも愛したが、二人には子供がいなかったため、彼らの死後、里人たちはお雪が好んだ椿を植えて二人の供養を行ってきたという。その椿が350年を経過した今もこうして毎年美しい花を咲かせていると説明されている。
歩いていると、前方から一人のお年寄りの女性が来られ、100円玉と今買ってきたばかりという饅頭を六個お接待していただいた。「寒いので気を付けてね」という言葉が、冷え切った身体に暖かく染み込んできた。ありがとうございます。
56号線を歩いていくと、道の駅あぐり窪川があったので、まだ11時を少し回ったばかりだったが、いつもの鉄則に従って昼食にする。ここに到着したとき、上下とも薄い遍路衣装に身を包み、裸足にぞうりを履いただけという歩き遍路の方がおられた。大きな荷物を背負っていたので、恐らく野宿をされているのだろう。
この寒空に大変だろう、私にはできない芸当だと思った。
昼食後、56号線を更に進んで、「37番札所岩本寺」に入る。ここは聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。再建の際に、この地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承される。戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていたが、明治になると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、それに伴う廃仏毀釈の法難に遭い、寺領地の大半を失ってしまったという。再建には苦難の道が続いたのであるが、少しずつ伽藍を整備し現在に至っているという。
12時37分に出発する。
右手に大きな水車が回っている店があり、その水車の横に明治45年の道標が5つ並んで置かれていた。
その先で56号線に合流して進むが、午後になってようやく太陽が顔を出し、日が差し出した。そうすると気温が上がってくるのがわかる。太陽の力はすごいなと改めて思う。当たり前のことなのだが、黙々と歩いていると、こうした当たり前のことが、当たり前ではないように思えてくるから不思議だ。
56号線を進んでいくと、右手に「是ヨリ足ずり二廿里」「享和」と読むことができる道標が立っている。この道標を見て、今はきれいに舗装された国道になっているが、この道は享和の頃から存在していて、数多くのお遍路さんがこの道を歩いていたのだと思うと、味気なく思えた国道が趣のある道に思えてくるから不思議だ。
しばらく56号線を進み、その先でシールに従って56号線から分岐して進むと、ごみ焼却場があり、その横から山道に入っていく。ここは登りはほとんどなく、下りが長い。誰もいない山の中の道を下っていく。細道のすぐ横が急斜面になっていたりして、かなり厳しい下り坂だが、随所に下がっている「遍路道」と書かれた札が道を間違っていないことを証明してくれていて心強い。同行二人という言葉が頭に浮かぶ。
やがて山を下ったところで56号線と合流するが、ここにも道案内の標識が立っており、へんろ小屋まであった。7年前にはこういったものは何もなくて、ここで道を間違えたことを思い出す。
ここから約3.5kmほど56号線を歩いたところに、今日の宿である佐賀温泉がある。
15時16分に到着する。
ここはきれいな宿で、冷え切った身体を温泉に入って温めた。いい気持ちだ。今日も無事予定通りに歩き終えたと満足感に浸る。
ここでは一昨日同宿で、昨日は大谷旅館に泊まられた方とまた一緒になった。
本日の歩行時間 8時間21分。
本日の歩数&距離 46670歩、31.6km。
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2013年11月22日(金)
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2013年11月23日(土)
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2013年11月24日(日)
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2013年11月25日(月)
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2013年11月26日(火)
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2013年12月07日(土)
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プロフィール
歩人
かっちゃん