2013年12月09日(月)
ホテルなはり~27番神峯寺~ビジネスホテル弁長
曇り
朝、出発しようとして部屋を出ると、ちょうど前の部屋から若者が顔を出したところで、私を見て「歩き遍路をされているのですか?」と聞いてきた。彼は自転車で遍路をしているということだったので、お互い頑張ろう!と言って分かれる。
7時31分に出発するが、今日は曇り空。夕方から雨という予報が出ていたので、歩き終えるまでに降らなければいいがと思いながら歩き始める。
右手に古い道標があるが、年不詳で、色々と文字が刻まれているがよくわからなかった。
田野町を通るが、このあたりも古い街並みが続いている。吉良川町にもあったが、ここにも「水切瓦」の家がある。これはこの地方特有のもので、高知県室戸市といえば、「台風銀座」の異名を持つほどの豪雨暴風地域のため、壁面に直接雨が掛かるのを避けて、漆喰の白壁を保護するためのものという。
右手に「八幡宮」があり、入り口に「明徳斯馨」と刻まれた明治12年の石灯籠が立っている。ただこの文字はどういう意味なのかは分からなかった。
その先右手に、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生の苦悩を救済するという安永4年(1775)の六地蔵が立っている。
55号線は車が多い。そういえば今日は月曜日だと気が付いた。歩いていると日にちや曜日といった感覚がなくなってしまうのだ。皆さん、仕事で頑張っておられるのだろう。ご苦労様です。
その先で55号線から分岐して安田町の中を通って進むが、安田川に架かる安田橋は架け替え工事中のため一旦55号線に出て、その先で遍路道に合流する。
神峯寺へ向かう曲がり角に古い道標が立っていたが、文字は判読できなかった。
神峯寺へ向けてしばらくは舗装された坂を登っていく。神峯寺は神峯山中腹の標高450メートルにあって、平地の多い高知県では最も高い所にあるお寺だ。ここにも丁石地蔵があり、22丁石地蔵からスタートしていた。
山道に入っていくが、ここには「マムシに注意」という札が数多くある。
しかしもう12月も半ばなので、マムシは大丈夫だろうと思いながら坂道を上っていくと、目の前に、いた!!
ただマムシではなくて青大将だ。普通なら青大将の方が逃げていくのだが、気温が低いからかじっとしていて動かない。マムシではないので危険はないが、それでも蛇は苦手なので、早く冬眠しなきゃ凍え死んでしまうぞ、と言いながら、できるだけ離れたところを進んだ。このように季節感のない青大将がいるということは、同様なマムシがいても不思議ではないので、注意をしながら山道を登っていく。
山道を登っていくと、何やら意味不明の石碑(?)が立っている。その先でも同様のものがあり、そこに高知大学の教授が平成11年に作成したという石碑が立っていた。ただ、何を表しているものなのかわからなかった。
その後も丁石地蔵が続いて置かれており、仁王門のすぐ手前に4丁石地蔵があったのが最後のようだった。
「27番札所神峯寺」は本堂、大師堂ともに、ここから更に高い階段を登ったところにある。ここは縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201~69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされている。更に聖武天皇(在位724~49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年(730)に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行い、その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から急な坂道を21日間(三七日)日参し、息子の出世を祈願したという。子を思う親の気持ちは当時も、現在も変わりはないのだろうが、これも一種の教育ママなのだろうか?
また、昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例があるという。
本堂へ参拝後、大師堂へ回ると、今朝ホテルで会った若者が来ていた。この坂道を自転車を押してここまで登ってきたので、大変だったと言っていた。彼は広島県福山市の方で、20日間を目途に自転車で廻っていて、今日で6日目とのこと。最初の頃は一日に40㎞ぐらいしか走れなかったのが、今では80㎞ほどは走ることができるようになったと言っていた。彼のお母さんが遍路を何度かされていて、その白衣を借りてきているそうで、白衣に納経をいただいていた。彼の自転車は地元尾道のメーカーが製造しているものを使っているそうで、地元の製品ということをアピールしていた。これからもがんばってほしいものだ。
坂を下っていると、一人の男性に会った。この方は最初の日に喫茶店の下を歩いておられた方で、次の日もお会いした方だ。今日は登ってくるこの方と下る私が正面で出会ったので、しばらく立ち話をする。この方は広島県呉市の方で、47日間の予定で通し打ちをされるそうだ。今回が二回目の遍路旅で前回は夏に歩いたので、今回は冬に歩いているといわれていた。話を聞くと昨日は同じ宿に泊まっていたそうで、今日は一休みという意味を含めて、この近くの浜吉屋に泊まられる予定とのこと。距離が短いため、ホテルを9時ごろ出たが、それでも昼ごろには宿に入りそうだといわれていた。
安田明神のバス停で55号線に合流して進むと、すぐ先にバイキング780円という看板が立っている。ちょうど昼になったし、バイキング大好き人間の私にとっては最高の食堂だ。日頃は昼食はおにぎりだけで済ますことも多いが、今日はバイキングでお腹一杯食べることができ、栄養補給もできて満足だった。
しばらく55号線を進み、道の駅大山の先からは防波堤の歩道を歩いていく。55号線に比べると車が通らないので静かでいいが、防波堤の上を歩くので、何も見るべきものがない。ただ黙々と歩くのみだ。昔の人はこの辺りも波打ち際を歩いていたのだろう。はるか海の彼方に岬が見える。足摺岬だろう。
右手に恵比寿神社の小さな祠があり、そのすぐ先に標識が立っているので、それにしたがって右折して堤防の歩道から分岐、55号線に合流する。
7年前に歩いた時は高知県は道案内が少ないように思ったのだが、今回来てみると、かなり道案内が増えているように感じた。
今日の宿はビジネスホテル弁長。安芸の街中にある。ここの女将さんも色々とよくしてくれた。
14時29分に到着する。ここから先は14㎞ほど宿がないのだ。
本日の歩行時間 6時間58分。
本日の歩数&距離 32333歩、24.1km。
朝、出発しようとして部屋を出ると、ちょうど前の部屋から若者が顔を出したところで、私を見て「歩き遍路をされているのですか?」と聞いてきた。彼は自転車で遍路をしているということだったので、お互い頑張ろう!と言って分かれる。
7時31分に出発するが、今日は曇り空。夕方から雨という予報が出ていたので、歩き終えるまでに降らなければいいがと思いながら歩き始める。
右手に古い道標があるが、年不詳で、色々と文字が刻まれているがよくわからなかった。
田野町を通るが、このあたりも古い街並みが続いている。吉良川町にもあったが、ここにも「水切瓦」の家がある。これはこの地方特有のもので、高知県室戸市といえば、「台風銀座」の異名を持つほどの豪雨暴風地域のため、壁面に直接雨が掛かるのを避けて、漆喰の白壁を保護するためのものという。
右手に「八幡宮」があり、入り口に「明徳斯馨」と刻まれた明治12年の石灯籠が立っている。ただこの文字はどういう意味なのかは分からなかった。
その先右手に、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)のそれぞれにあって、衆生の苦悩を救済するという安永4年(1775)の六地蔵が立っている。
55号線は車が多い。そういえば今日は月曜日だと気が付いた。歩いていると日にちや曜日といった感覚がなくなってしまうのだ。皆さん、仕事で頑張っておられるのだろう。ご苦労様です。
その先で55号線から分岐して安田町の中を通って進むが、安田川に架かる安田橋は架け替え工事中のため一旦55号線に出て、その先で遍路道に合流する。
神峯寺へ向かう曲がり角に古い道標が立っていたが、文字は判読できなかった。
神峯寺へ向けてしばらくは舗装された坂を登っていく。神峯寺は神峯山中腹の標高450メートルにあって、平地の多い高知県では最も高い所にあるお寺だ。ここにも丁石地蔵があり、22丁石地蔵からスタートしていた。
山道に入っていくが、ここには「マムシに注意」という札が数多くある。
しかしもう12月も半ばなので、マムシは大丈夫だろうと思いながら坂道を上っていくと、目の前に、いた!!
ただマムシではなくて青大将だ。普通なら青大将の方が逃げていくのだが、気温が低いからかじっとしていて動かない。マムシではないので危険はないが、それでも蛇は苦手なので、早く冬眠しなきゃ凍え死んでしまうぞ、と言いながら、できるだけ離れたところを進んだ。このように季節感のない青大将がいるということは、同様なマムシがいても不思議ではないので、注意をしながら山道を登っていく。
山道を登っていくと、何やら意味不明の石碑(?)が立っている。その先でも同様のものがあり、そこに高知大学の教授が平成11年に作成したという石碑が立っていた。ただ、何を表しているものなのかわからなかった。
その後も丁石地蔵が続いて置かれており、仁王門のすぐ手前に4丁石地蔵があったのが最後のようだった。
「27番札所神峯寺」は本堂、大師堂ともに、ここから更に高い階段を登ったところにある。ここは縁起による歴史の古さは屈指で、神功皇后(在位201~69)の世に勅命で天照大神などを祀る神社が起源とされている。更に聖武天皇(在位724~49)の勅をうけた行基菩薩が天平2年(730)に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行い、その後、弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたのが大同4年(809)のころとされている。幕末のころ、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎の母が、20km離れた家から急な坂道を21日間(三七日)日参し、息子の出世を祈願したという。子を思う親の気持ちは当時も、現在も変わりはないのだろうが、これも一種の教育ママなのだろうか?
また、昭和30年代、愛知県の水谷繁治さんの妻しづさんが「脊髄カリエス」で大学病院にも見放されたが、夫婦はこの峰で霊験を得て奇跡的に全治したという実例があるという。
本堂へ参拝後、大師堂へ回ると、今朝ホテルで会った若者が来ていた。この坂道を自転車を押してここまで登ってきたので、大変だったと言っていた。彼は広島県福山市の方で、20日間を目途に自転車で廻っていて、今日で6日目とのこと。最初の頃は一日に40㎞ぐらいしか走れなかったのが、今では80㎞ほどは走ることができるようになったと言っていた。彼のお母さんが遍路を何度かされていて、その白衣を借りてきているそうで、白衣に納経をいただいていた。彼の自転車は地元尾道のメーカーが製造しているものを使っているそうで、地元の製品ということをアピールしていた。これからもがんばってほしいものだ。
坂を下っていると、一人の男性に会った。この方は最初の日に喫茶店の下を歩いておられた方で、次の日もお会いした方だ。今日は登ってくるこの方と下る私が正面で出会ったので、しばらく立ち話をする。この方は広島県呉市の方で、47日間の予定で通し打ちをされるそうだ。今回が二回目の遍路旅で前回は夏に歩いたので、今回は冬に歩いているといわれていた。話を聞くと昨日は同じ宿に泊まっていたそうで、今日は一休みという意味を含めて、この近くの浜吉屋に泊まられる予定とのこと。距離が短いため、ホテルを9時ごろ出たが、それでも昼ごろには宿に入りそうだといわれていた。
安田明神のバス停で55号線に合流して進むと、すぐ先にバイキング780円という看板が立っている。ちょうど昼になったし、バイキング大好き人間の私にとっては最高の食堂だ。日頃は昼食はおにぎりだけで済ますことも多いが、今日はバイキングでお腹一杯食べることができ、栄養補給もできて満足だった。
しばらく55号線を進み、道の駅大山の先からは防波堤の歩道を歩いていく。55号線に比べると車が通らないので静かでいいが、防波堤の上を歩くので、何も見るべきものがない。ただ黙々と歩くのみだ。昔の人はこの辺りも波打ち際を歩いていたのだろう。はるか海の彼方に岬が見える。足摺岬だろう。
右手に恵比寿神社の小さな祠があり、そのすぐ先に標識が立っているので、それにしたがって右折して堤防の歩道から分岐、55号線に合流する。
7年前に歩いた時は高知県は道案内が少ないように思ったのだが、今回来てみると、かなり道案内が増えているように感じた。
今日の宿はビジネスホテル弁長。安芸の街中にある。ここの女将さんも色々とよくしてくれた。
14時29分に到着する。ここから先は14㎞ほど宿がないのだ。
本日の歩行時間 6時間58分。
本日の歩数&距離 32333歩、24.1km。
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プロフィール
歩人
かっちゃん