二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2013年12月07日(土)

民宿みちしお~ロッジ室戸岬

                                          晴れ

 前日に移動し、甲浦駅から約3km歩いて民宿みちしおに着く。みちしおはまだ若いご夫婦でやられているようで、感じのいいお二人だった。

 6時55分に宿を出たが、左手に大平洋が広がっていて、ちょうど太陽が上がるところだったので、しばらく立ち止まって日の出を拝んで出発する。今日はいい天気のようだ。
6時55分
 55号線を進んでいき、その先で55号線から分岐して、野根の集落の中を通るが、右手に番外札所の「明徳寺」がある。
明徳寺
 現在は室戸岬まで国道が通っているが、国道が開通するまでは海岸を通って室戸に向かうか、野根山を越えて向かわねばならなかったため、満潮時はこの寺院で一休みして山を越えていったといわれる。このため、この寺院で休憩することを「野根の昼寝」と呼んだそうだ。ここも弘法大師が錫杖を突き立てて祈祷を行うと、水が湧き出て滝となり、以来、涸れずに流れているという伝説がある。
 ここから左折、すぐ先で右折するが、ここに「六部堂」がある。これは武州深川(現在の東京深川付近)の本源大通という方のお墓で、この方は全国の霊場を回りながら修行をする六部だったという。宝暦10年(1760)に建立されている。目の病気やイボなどに御利益があるという。
六部堂
 集落を抜け、55号線に合流して進むと休憩所があるが、このあたりを「ゴロゴロ」と呼ぶそうだ。このあたりは四国遍路の難所で、ピンポン玉から漬物石位の大きさの丸い石がゴロゴロしているところということから「ゴロゴロ石」と呼ばれるようになり、現在のゴロゴロになったと説明されている。黒潮が岸辺まで迫ってくるので、今でも波の荒い季節にはゴロゴロと石の転がる音がするという。
 左手に大平洋が広がっており、右手は山が海際まで迫っていて、国道はその海際すれすれを通っている。はるかかなたに室戸岬と思われる岬が霞んで見える。ここは気持ちのいい場所で前回も写真を撮った記憶がある。
休憩所風景1

 国道は山側はコンクリートで固められているためか、遍路道で見かけるような古い石仏はなく、所々にコンクリートをくりぬいて石仏が安置されているが、いずれも新しいものだ。
をくりぬいて石仏
 このあたりになると、国道にしては車の数も少なくて歩きやすい。ザブンザブンと寄せては引き、引いては寄せる波の音が耳に心地よく、こうして元気に歩くことができる幸せをかみしめる。本当に有り難いことだ。
 室戸市に入ってしばらく行くと、道は二股に別れており、55号線から分岐して右手へ進むと、入木の集落で、ここに「佛海庵」がある。宝暦年間に四国遍路旅を行った佛海上人が、難儀する旅人のために地蔵道標や接待庵を作ったが、ここもその一つで宝暦10年(1760)に建立されたという。現在の建物は建て替えられてまだ新しい。裏に廻ってみると、上人のお墓である宝篋印塔が立っている。 
佛海庵1佛海庵2

 すぐ先で55号線に合流して進むが、このあたりの国道の距離表示には都市間の距離と同時に、お寺までの距離も記されている。
国道の距離表示
 右手に「佐喜浜八幡宮」がある。ここは天福元年(1232)の創建といわれ、嘉永5年(1852)、享和4年(1804)の鳥居や文化6年(1809)の石灯籠がある。このあたりの氏神様として古くから信仰されていたのだろう。
佐喜浜八幡宮
 佐喜浜の町に入る。ここでは「みかど食堂」に寄るつもりにしていた。前回来た時もここに立ち寄って女将さんと一時間ほど話をしたことがあり、女将さんが私と同じ年齢ということもあって、とても記憶に残っているのだ。まだやっているのかな?と思いながら見覚えのある道を進んでいくと、あった!
 早速店に入ると、7年前と雰囲気はあまり変わっていない女将さんがおられた。
 まだ昼食には早かったのでコーヒーを飲みながら話をする。
 女将さんは明るく、よくしゃべる方だ。何回も遍路旅を繰り返すリピーターの中にはフアンがかなりおられるようで、遍路道のマドンナだ。
 この店に立ち寄ったお客が忘れ物をすることがあり、後で自転車で追いかけるという話から、以前やはり忘れ物をしたお客がいたので、後を追いかけて忘れ物を渡し、数分間立ち話をして別れたが、その先でこのお客さんのすぐ前方で落雷があり、もしあの立ち話がなければ、カミナリの直撃を受けていた、あなたは命の恩人ですという御礼状が届いたこともあったそうだ。海際を歩いていくので、カミナリに打たれるということは十分ありうることだろう。
 この女将さんは川柳や俳句をやられていて、高知県芸術祭文芸賞に応募し、
一昨年は
「こだわりがポロッと落ちて石になる」という川柳が優秀賞に輝き、
今年は
「片耳にピアスの跡や炭焼き夫」という俳句と
「せめないで、忘れ上手になっただけ」という川柳がともに入賞したという。
その賞状を見せてくれたので、写真を撮らせていただく。
みかど食堂
 この店は女将さんの母親がはじめられたそうで、もう50年以上やっているということだ。その間にはいろいろな出会いがあったのだろう。話しは尽きない。結局今回も45分ほどいて出発するが、黙々と歩いている身にとって、とても楽しいひと時だった。元気をいただいた。
 その先に「源内槍掛けの松」の看板が立っている。佐喜浜城主大野家の家臣源内左衛門が長宗我部元親との戦いで大いに奮戦、この地にあった松の木に槍を打ち掛けて一息入れた後、寄せ手に打ち取られたという。松は昭和6年に倒れたそうで、今はもうなくなっていて、石柱だけが立っている。
源内槍掛けの松
 民宿徳増の前を通る。ここは前回泊ったところだが、いい宿だった。
 「夫婦岩」がある。手前に大きな岩があり、その先の海中にしめ縄で結ばれた二つの岩がある。このような岩は全国各地で見ることができる。
夫婦岩
 ここにドライブイン夫婦岩という店があり、昼食をとる予定にしていたのだが、店が閉まっている。今日は土曜日で、この時間に閉まっているということはもうやっていないのだろう。しまったと思ったが、仕方がない。手持ちの地図にその先に喫茶甘露という名前があるので、それを目指して進んでいったが、ここもやっていない。更にその先に「椎名 民宿、軽食、喫茶 500m先」という看板が立っていたので、進んでいったが、ここも閉まっている。困った。こんなことならみかど食堂で食べてくるのだったと思ったが、もう遅い。街道歩きは食べることができるときに食べておく、が鉄則なのに、ついうっかりしていた。 
 「椎名の捕鯨山見跡」の説明板がある。この山見の鼻は椎名川と飛鳥港の中間に位置し、椎名集落と飛鳥集落の分岐点にあって、ここに位置する椎名山見は寛永元年(1624)土佐古式捕鯨の発祥とともに築かれたという。
 55号線を歩いていると、動物がいた。最初は狸と思ったが、よく見ると面長(?)だ。狸の顔はもっと丸いので、狸とは違うようだ。ごそごそとこちらの方へ進んでくるが、私を恐れる様子は全くなく、私の立っているすぐ横を通り過ぎて、コンクリート壁の隙間から山へ帰っていった。何という動物だったのだろう。
動物
 「滋賀丸遭難者慰霊碑案内板」が立っている。昭和19年、この沖合を航行中の貨客船滋賀丸がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、37名の遭難者が出たという。
 依然食事を摂る店がない。次第に脱力感が出てきた。とにかく空腹には弱いのだ。しかし店がないのだから仕方がない。最悪、宿まで食べずに行くしかないかと思い始めたとき、ようやく「宇宙くん」という喫茶店があったので、ここに飛び込んだ。店は階段を上った二階にあるので、窓際の椅子に座りながら下を見ると、歩き遍路の方が一人歩いていた。あの方は昼食はどうされたのだろうと他人事ながら気になる。ようやく食事を済まして外に出ると、もう14時になっていた。
 三津の集落の中に「松尾神社」がある。ここの境内には文化3年(1806)の石灯籠、文政9年(1812)の鳥居、嘉永2年(1849)の狛犬などがある。ここもかなり古い神社で、その前にあった「佐喜浜八幡宮」の鳥居等と同様の時代なので、その頃この辺りはかなり賑わっていたのだろう。
松尾神社
 15時30分に今日の宿であるロッジ室戸に着く。ここは部屋もきれいだし、食事も良かった。洗濯もお接待でしていただいた。今日の宿泊は私一人。宿帳を差し出されたので記入し、これまでの宿泊者の名簿を見ていると最高齢は71歳、あと70歳という方が二人ほど、たまに20代の若者や40代の女性などの名前が散見されたが、60代が圧倒的に多い。長年の仕事を一区切りして、次の一歩として四国遍路に挑戦されたのだろう。仕事を辞めた後の人生をどう過ごすか、人それぞれだろうが、四国遍路を歩くということも一つの大きな選択肢の一つになっているのだろう。

 本日の歩行時間   8時間35分。
 本日の歩数&距離 46787歩、33.8km.

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