2013年11月25日(月)
山茶花~23番薬王寺~民宿あづま
暴風雨後曇り
今日は発達した低気圧が来ており、荒れた天気になると予報が出ていたので、いやだなとは思ったが、しかしこれほどひどい暴風雨になるとは思ってもみなかった。
6時42分に出発する。それほど強くはないものの、すでに雨が降り始めている。
平等寺をでると道はほぼ一本道だ。やがて山の中へ入っていくが、ここに「月夜御水庵」がある。弘法大師がこの地で一宿したが、水がないため、衆生の不便を思って御杖で山岸を穿ち、加持すると清水があふれ、水底に光明を放つ石を見つけた。この石で本尊を作る祈願を籠めると、不思議にも闇夜に光明が現れ、月夜となった。その光で薬師如来と地蔵菩薩の石像を刻まれ、松杉で不動尊を刻んで安置されたという。
ここには大杉がある。これは高さ31m、幹のまわり6.25m、樹齢1000年と伝承されている巨木だ。全ての枝は一度下を向いてから上に伸びているので、別名逆杉(さかさすぎ)といわれている。弘法大師が当地で薬師如来・不動尊を刻み、その杉を後世に残すため、枝をさしたものだと説明されている。写真を撮ったが、周囲はまだ暗くてうまく写っていなかった。この杉の横に古い三界万霊や宝篋印塔が立っている。
道案内のシールに従って進むが、雨は次第に強さを増してきた。薬王寺への道は山を通る道と海側を通る道がある。Hさんは前回山側の道を歩かれたそうで、山側の道は55号線を通るので、車の通行量が多いという。車が通ると、特にトラックの巻き上げる水しぶきはやっかいだ。私は前回海側を歩いたのだが、それほど交通量が多くなかったように記憶しているので、今回は海側を歩こうということになった。
風雨は次第にひどくなり、まさに台風並みの荒れ模様になってきた。こうなると周囲を見渡す余裕はない。傘を飛ばされないように必死に歩くのみだ。お二人はちゃんとカッパやポンチョを準備されていて、それを着ているのでまだいいが、私は傘のみ。最初の頃は私もポンチョを常備して歩いていたのだが、あまり使うことがなく、荷物になるので、最近は持ち歩かないようにしていたのだ。今日はそれが裏目に出てしまった。
そんな中、ひょっと横を見ると、「小野の一里松跡」の説明板が立っていた。これまで歩いてきた街道では一里塚跡が多かったが、薩摩街道では一里木だった。四国阿波では塚を築かず松を植えさせたので一里松といわれているそうだ。この地は阿波5街道の一つ土佐街道になるという。松は直径70cm位の大木だったが、昭和初期に伐採されたという。とりあえず濡れながら写真を撮った。
由岐の町に入る手前でついに傘の骨が数本折れてしまった。こうなるともう傘の役目を果たさない。そんな私の様子を見かねて、Hさんが私の杖を持ってくれた。杖を持ちながら両手で傘を支えるのは大変だったので、これはとても助かった。びしょ濡れになりながら由岐の駅の近くまで何とか持ちこたえて歩いていくと、ちょうど車が止まっており、女性の方が乗っておられたので、この近くにコンビニかあるいはビニール傘でもいいので売っている店はないかお聞きすると、そのような店はないという。これは困ったぞ、と思っていると、車が引き返してきて、この傘を使ってくださいといって、その方の傘を差しだしてくれた。これはありがたかった。
この時ダメになった傘を今度はNさんが持ってくれた。これも助かった。お二人には本当に助けていただき、ありがたかった。
田井の浜にでる。これからは海沿いの道を進むのだが、ここに田井の浜というJRの駅がある。前回ここを歩いた時は天気がよく、駅のすぐ前は白い砂浜が広がっていて、ざぶんざぶんと波が押し寄せていた。あまりに気持ちがよかったので、駅の横にあった小屋で寝転んでいると、いつの間にか眠ってしまった。なんという「し・あ・わ・せ」だろうと思ったものだが、今日は暴風雨にさらされて、写真を撮る余裕もない。ちらっと駅の方を見てみると、あの時の小屋が現在もあった。前回との落差が大きいが、まぁ人生、いい時もあれば悪い時もあるということだ。
右手に「安政地震津波石灯籠」が立っている。嘉永7年(1854)に発生したマグニチュード8.5クラスの地震で、木岐浦では203戸の内、190戸が流失、11人が死亡したという。
その先でちょっと風雨が収まったので、ホッとして歩いていると、右手に木岐小学校があり、子供たちが窓から我々に向かって、「おへんろさぁ~ん、気を付けていってくださぁ~い」と大きな声で激励をしてくれた。これもうれしい一コマだった。薄日が差すほどに天気は回復してきた。このまま収まってくれるといいのだが、と思いながら歩いていると、へんろ小屋があったので、ここで一休みした。休んでいるとこの家の奥さんが出てこられて、温かいコーヒーとお菓子をお接待してくれた。冷え切った身体に温かいコーヒーはありがたかった。
感謝のお礼を述べて、歩き始めたが、風雨はまた激しくなってきた。ちょうど台風の目のような感じの一服状態だったので、吹き返しはこれまでよりも更に強烈だ。しかもこれまでは山の中の道だったのだが、ここから先は海沿いの道なので、風はより強烈だ。時々海沿いから離れて山の中の遍路道を歩くことがあるが、この時は木々にさえぎられて風雨は弱まって助かった。
山を抜けて海岸沿いに出ると再び強烈な暴風雨が襲ってくる。
傘にかかる風圧で一歩も前に進めないことが多々ある。菅笠もあごひもで固定しているのだが、風にあおられて三度ばかり吹き飛ばされた。必死になって菅笠を追いかけて拾うが、もう全身びしょ濡れだ。
これまで色々な街道を歩いてきたが、これほどひどい天候の中を歩いたことはかって経験したことがない。今日は比較的暖かった(雨が止んだ後、道路の温度表示が16℃を示していた)のでよかったが、全身が濡れて体温が下がっていることがわかった。低体温症とはこの状態がもっとひどくなって起きるのだろうとよく理解できた。
そのうちまた傘の骨が折れた。困ったなと思っていると、ちょうどホテルがあったので、そこに飛び込んで、傘かポンチョを売っていないかどうかお聞きすると、売っていないという。今度は傘がバラバラになっていて、もう使えない。なんとかしなければと思っていると、ホテルの出口の傘入れに何本か傘が立てかけているのが目に入った。そこで誠に申し訳ないのですが、この傘の一本をいただくことはできないでしょうか?とお願いすると、いいですよと言われて、一番頑丈そうな傘をくれたので助かった。前回もそうだが、今回も傘が壊れてどうしようもない状態に陥ると、こうして助けていただける。これは大師さまがお見守りしていただいているのだろうとつくづく思った。
悪戦苦闘の末、12時15分に「第23番札所薬王寺」になんとか到着する。本当にやっと着いたという感じだ。
ここの納経所でようやくポンチョを購入することができた。これで少し安心する。
また今日の宿である民宿あづまは、ここの納経所に荷物を預けておくと、ここまで取りに来てくれるそうで、これも助かった。これはHさんが前回経験をされておられたのだ。荷物がないと、特に今日のような荒れ模様の日は本当に助かる。
お寺の近くにあるうどん屋で昼食にする。温かいうどんはおいしかった。
13時28分に出発する。
しばらくはまだ風雨が強かったが、今度はポンチョを着ているので随分楽だ。そのうち次第に風雨は収まってきて、やがて止んだ。服がまだ濡れているので寒いが、ポンチョはビニールでできていて、風を通さないので、次第に乾いてきて、ようやく人心地がついてきた。
55号線を進んでいくと、「小松大師」がある。これはおよそ370年くらい前に、大阪難波の石工某が来客から依頼を受け、「三尺あまりの弘法大師坐像石仏」を彫刻し、引っ越しを待っていたところ、夢枕に立った弘法大師から再三にわたり、「石仏を阿州小松の里に送るように」という霊告を受け、船便に託してこの地へ送り届けた仏像という。
16時35分に今日の宿民宿あづまに到着する。
宿では今年78歳になるという女将さんが色々と世話を焼いてくれ、杖にかぶせる女将さんが編んだという毛糸の袋をくれたり、濡れた靴に新聞紙を詰めたり、親切にしてくれてありがたかったが、まだ着ている服が濡れていたので、早く着替えて温かい風呂に入りたかった。親切とこちらの希望が少しだけずれていた。
夕食は量も多くておいしかった。
夜、テレビのニュースで室戸岬では風速33メートルだったということを伝えていた。今日は室戸岬とあまり離れていない海沿いを歩いたので、おそらくこれに匹敵する風速の暴風雨だったのだろうと思った。
本日の歩行時間 9時間53分。
本日の歩数&歩行距離 56245歩、39.8km。
今日は発達した低気圧が来ており、荒れた天気になると予報が出ていたので、いやだなとは思ったが、しかしこれほどひどい暴風雨になるとは思ってもみなかった。
6時42分に出発する。それほど強くはないものの、すでに雨が降り始めている。
平等寺をでると道はほぼ一本道だ。やがて山の中へ入っていくが、ここに「月夜御水庵」がある。弘法大師がこの地で一宿したが、水がないため、衆生の不便を思って御杖で山岸を穿ち、加持すると清水があふれ、水底に光明を放つ石を見つけた。この石で本尊を作る祈願を籠めると、不思議にも闇夜に光明が現れ、月夜となった。その光で薬師如来と地蔵菩薩の石像を刻まれ、松杉で不動尊を刻んで安置されたという。
ここには大杉がある。これは高さ31m、幹のまわり6.25m、樹齢1000年と伝承されている巨木だ。全ての枝は一度下を向いてから上に伸びているので、別名逆杉(さかさすぎ)といわれている。弘法大師が当地で薬師如来・不動尊を刻み、その杉を後世に残すため、枝をさしたものだと説明されている。写真を撮ったが、周囲はまだ暗くてうまく写っていなかった。この杉の横に古い三界万霊や宝篋印塔が立っている。
道案内のシールに従って進むが、雨は次第に強さを増してきた。薬王寺への道は山を通る道と海側を通る道がある。Hさんは前回山側の道を歩かれたそうで、山側の道は55号線を通るので、車の通行量が多いという。車が通ると、特にトラックの巻き上げる水しぶきはやっかいだ。私は前回海側を歩いたのだが、それほど交通量が多くなかったように記憶しているので、今回は海側を歩こうということになった。
風雨は次第にひどくなり、まさに台風並みの荒れ模様になってきた。こうなると周囲を見渡す余裕はない。傘を飛ばされないように必死に歩くのみだ。お二人はちゃんとカッパやポンチョを準備されていて、それを着ているのでまだいいが、私は傘のみ。最初の頃は私もポンチョを常備して歩いていたのだが、あまり使うことがなく、荷物になるので、最近は持ち歩かないようにしていたのだ。今日はそれが裏目に出てしまった。
そんな中、ひょっと横を見ると、「小野の一里松跡」の説明板が立っていた。これまで歩いてきた街道では一里塚跡が多かったが、薩摩街道では一里木だった。四国阿波では塚を築かず松を植えさせたので一里松といわれているそうだ。この地は阿波5街道の一つ土佐街道になるという。松は直径70cm位の大木だったが、昭和初期に伐採されたという。とりあえず濡れながら写真を撮った。
由岐の町に入る手前でついに傘の骨が数本折れてしまった。こうなるともう傘の役目を果たさない。そんな私の様子を見かねて、Hさんが私の杖を持ってくれた。杖を持ちながら両手で傘を支えるのは大変だったので、これはとても助かった。びしょ濡れになりながら由岐の駅の近くまで何とか持ちこたえて歩いていくと、ちょうど車が止まっており、女性の方が乗っておられたので、この近くにコンビニかあるいはビニール傘でもいいので売っている店はないかお聞きすると、そのような店はないという。これは困ったぞ、と思っていると、車が引き返してきて、この傘を使ってくださいといって、その方の傘を差しだしてくれた。これはありがたかった。
この時ダメになった傘を今度はNさんが持ってくれた。これも助かった。お二人には本当に助けていただき、ありがたかった。
田井の浜にでる。これからは海沿いの道を進むのだが、ここに田井の浜というJRの駅がある。前回ここを歩いた時は天気がよく、駅のすぐ前は白い砂浜が広がっていて、ざぶんざぶんと波が押し寄せていた。あまりに気持ちがよかったので、駅の横にあった小屋で寝転んでいると、いつの間にか眠ってしまった。なんという「し・あ・わ・せ」だろうと思ったものだが、今日は暴風雨にさらされて、写真を撮る余裕もない。ちらっと駅の方を見てみると、あの時の小屋が現在もあった。前回との落差が大きいが、まぁ人生、いい時もあれば悪い時もあるということだ。
右手に「安政地震津波石灯籠」が立っている。嘉永7年(1854)に発生したマグニチュード8.5クラスの地震で、木岐浦では203戸の内、190戸が流失、11人が死亡したという。
その先でちょっと風雨が収まったので、ホッとして歩いていると、右手に木岐小学校があり、子供たちが窓から我々に向かって、「おへんろさぁ~ん、気を付けていってくださぁ~い」と大きな声で激励をしてくれた。これもうれしい一コマだった。薄日が差すほどに天気は回復してきた。このまま収まってくれるといいのだが、と思いながら歩いていると、へんろ小屋があったので、ここで一休みした。休んでいるとこの家の奥さんが出てこられて、温かいコーヒーとお菓子をお接待してくれた。冷え切った身体に温かいコーヒーはありがたかった。
感謝のお礼を述べて、歩き始めたが、風雨はまた激しくなってきた。ちょうど台風の目のような感じの一服状態だったので、吹き返しはこれまでよりも更に強烈だ。しかもこれまでは山の中の道だったのだが、ここから先は海沿いの道なので、風はより強烈だ。時々海沿いから離れて山の中の遍路道を歩くことがあるが、この時は木々にさえぎられて風雨は弱まって助かった。
山を抜けて海岸沿いに出ると再び強烈な暴風雨が襲ってくる。
傘にかかる風圧で一歩も前に進めないことが多々ある。菅笠もあごひもで固定しているのだが、風にあおられて三度ばかり吹き飛ばされた。必死になって菅笠を追いかけて拾うが、もう全身びしょ濡れだ。
これまで色々な街道を歩いてきたが、これほどひどい天候の中を歩いたことはかって経験したことがない。今日は比較的暖かった(雨が止んだ後、道路の温度表示が16℃を示していた)のでよかったが、全身が濡れて体温が下がっていることがわかった。低体温症とはこの状態がもっとひどくなって起きるのだろうとよく理解できた。
そのうちまた傘の骨が折れた。困ったなと思っていると、ちょうどホテルがあったので、そこに飛び込んで、傘かポンチョを売っていないかどうかお聞きすると、売っていないという。今度は傘がバラバラになっていて、もう使えない。なんとかしなければと思っていると、ホテルの出口の傘入れに何本か傘が立てかけているのが目に入った。そこで誠に申し訳ないのですが、この傘の一本をいただくことはできないでしょうか?とお願いすると、いいですよと言われて、一番頑丈そうな傘をくれたので助かった。前回もそうだが、今回も傘が壊れてどうしようもない状態に陥ると、こうして助けていただける。これは大師さまがお見守りしていただいているのだろうとつくづく思った。
悪戦苦闘の末、12時15分に「第23番札所薬王寺」になんとか到着する。本当にやっと着いたという感じだ。
ここの納経所でようやくポンチョを購入することができた。これで少し安心する。
また今日の宿である民宿あづまは、ここの納経所に荷物を預けておくと、ここまで取りに来てくれるそうで、これも助かった。これはHさんが前回経験をされておられたのだ。荷物がないと、特に今日のような荒れ模様の日は本当に助かる。
お寺の近くにあるうどん屋で昼食にする。温かいうどんはおいしかった。
13時28分に出発する。
しばらくはまだ風雨が強かったが、今度はポンチョを着ているので随分楽だ。そのうち次第に風雨は収まってきて、やがて止んだ。服がまだ濡れているので寒いが、ポンチョはビニールでできていて、風を通さないので、次第に乾いてきて、ようやく人心地がついてきた。
55号線を進んでいくと、「小松大師」がある。これはおよそ370年くらい前に、大阪難波の石工某が来客から依頼を受け、「三尺あまりの弘法大師坐像石仏」を彫刻し、引っ越しを待っていたところ、夢枕に立った弘法大師から再三にわたり、「石仏を阿州小松の里に送るように」という霊告を受け、船便に託してこの地へ送り届けた仏像という。
16時35分に今日の宿民宿あづまに到着する。
宿では今年78歳になるという女将さんが色々と世話を焼いてくれ、杖にかぶせる女将さんが編んだという毛糸の袋をくれたり、濡れた靴に新聞紙を詰めたり、親切にしてくれてありがたかったが、まだ着ている服が濡れていたので、早く着替えて温かい風呂に入りたかった。親切とこちらの希望が少しだけずれていた。
夕食は量も多くておいしかった。
夜、テレビのニュースで室戸岬では風速33メートルだったということを伝えていた。今日は室戸岬とあまり離れていない海沿いを歩いたので、おそらくこれに匹敵する風速の暴風雨だったのだろうと思った。
本日の歩行時間 9時間53分。
本日の歩数&歩行距離 56245歩、39.8km。
旅の地図
記録
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2013年11月20日(水)
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2013年11月21日(木)
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2013年11月22日(金)
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2013年11月23日(土)
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2013年11月24日(日)
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2013年11月25日(月)
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2013年11月26日(火)
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2013年12月07日(土)
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2013年12月08日(日)
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2013年12月13日(金)
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2013年12月16日(月)
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2013年12月19日(木)
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2015年02月22日(日)
プロフィール
歩人
かっちゃん