二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2013年11月19日(火)

1番霊山寺~2番極楽寺~3番金泉寺~4番大日寺~5番地蔵寺~民宿寿食堂

                                          晴れ

 二回目の四国遍路に挑戦する。旧街道を歩いて日本一周を達成した後、もう一度原点に戻って四国を歩こうと思っていた。なんといっても街道を歩くきっかけになった道だし、前回は一番から十九番までは妻と歩き、十九番以降を一人で歩いたので、今回は一番から最後まで一人で歩こうと思ったことと、前回は十三番以降から掛け軸を持って歩いたので、一番から十二番までは掛け軸が空白になっており、これを何とか完成させて表装し、床の間に飾りたいという思いもあったのだ。
 ただ今年の一月に沖縄を歩いた際に痛めた足の回復が遅れてまだ完全ではないため、焼山寺のあの難所を果たして登ることができるのかという不安があった。もし無理なようであれば、もう一度出直せばいい、とにかく掛け軸を完成させるぞ!と心に決めて歩き始めた。

 11時33分に板東駅に到着、「一番札所霊山寺」へ向かう。歩いて10分ほどの距離だ。ここは丁度20年前に妻と一緒に来たところだ。あれからもう20年が経過したのか、という思いがこみあげてくる。
 このお寺は弘法大師が四国の東北から右廻りに巡教された際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、また衆生と自らの厄難をはらって、心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をされた。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じとり、インドの霊山を和国(日本)に移す意味で「竺和山・霊山寺」と名づけられたという。(四国八十八か所公式HPを参照、以下各お寺の縁起は同様)
 到着後、まず本堂へ向かって参拝して般若心経を唱え、次に大師堂へ参拝、同様に般若心経を唱える。
霊山寺1霊山寺2

 その後菅笠と杖、更に納札を購入する。白衣は前回使用したものを今回も着用した。白衣を着て菅笠をかぶり、杖を持つと気持ちがしゃっきとなる。
 資料は前回使用した「へんろみち保存協力会」の「四国遍路ひとり歩き同行二人」を今回も活用した。この資料はよくできていて、札所間の距離やその間にある宿の情報、その距離まで入っていてとても使いやすい。
 前回歩いた時、遍路道はよく整備されていて、随所に道案内の標識があり、地図を持っていなくても、それを頼りに進んでいくだけで、十九番まで歩くことができたのだが、あれから20年が経過しており、現在はどのようになっているのかな?と思いながら12時15分に霊山寺を出発する。出発をしたすぐのところから道案内が次々にあり、前回同様それを頼りに歩く。写真は電柱に貼っている道案内のシールだ。このように数多くのシールが一か所に貼られている場所はそれほど多くはないものの、このように色々な種類のシールがあって、あちこちに貼られている。中には英語で表記されたものまである。このシールは統一されたものではないので、色々な団体(個人)がそれぞれに貼っているのだろうか?また旧建設省(現国土交通省)が設置した案内も随所に存在する。
シール1シール2

 板東谷川に架かる板東谷橋を渡る手前に阿波国一宮の大痲比古神社の大きな看板が立ってる。
 「二番札所極楽寺」に着く。
極楽寺
 ここの手水鉢のひしゃくには、名前が書かれている。これを寄贈した人の名前なのだろう。これはこれから先のお寺でも共通していて、夫々のひしゃくに名前が書かれていた。
ひしゃく
 このお寺の境内には樹齢1200余年の弘法大師が御手植えされたといわれる「長命杉」がある。大きな杉の木で、触れると長寿を授かるといわれているそうだが、あまり長寿は望まないので、まぁいいかと思って触らないで進む。
長命杉
 ここの納経所でも掛け軸に納経をしていただく。いつ拝見しても、どこのお寺の方も達筆だ。書いていただいた掛け軸はまだ墨が濡れているので、ドライヤーで乾かすのだが、これが意外と時間がかかる。この時間を利用して納経所の方とお話をしていると、このお寺のホームページはこの方が作成されているということだった。
納経所1納経所2

 当初、妻と歩きはじめた時はたぶんにハイキング気分でいたので、掛け軸は荷物になるのでまぁいいや、と思って購入をしなかったのだが、歩いていくうちに次第にこれはいいと思うようになって、十三番札所大日寺から掛け軸を持ち歩くようになったのだ。これを完成させるのが今回の旅の最低限の目標だ。

 12時45分に極楽寺を出発。門を出てすぐに右へ進むと、墓地があり、その中の静かな道を進んでいく。
 右手に諏訪神社があり、文化6年(1809)の鳥居が立っている。いつもの旅だとこういった神社には参拝をして歩くのだが、今回は八十八か所のみに集中することにしている。ただどうしても長年の習慣で鳥居や石灯籠等に目が行ってしまう。
 めったに人に会わないのだが、たまたまおられたお年寄りから、大きな声で「お大師さま、お元気で!」と声をかけていただいた。以前歩いた時も感じたことだが、まさに同行二人だ。
 「三番札所金泉寺」への入り口は草道だ。ここにも標識があるので、これに従って進んでいく。
金泉寺への入り口
 金泉寺は弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、それまでの寺名を改めて「金泉寺」としたという。
金泉寺
 13時50分に金泉寺を出発し、板野町の街中を進んでいくが、とにかく人がいない。静かだ。今日は晴天だが風が強く、菅笠が風にあおられるので注意しながら歩いていく。
右手に「岡上神社」があり、境内に樹齢700年という楠の巨木が立っている。木の北側には「船を造るので大楠を差し出せという命令があったが、御神鏡木なので、と願い出たところ許された」と刻まれた明和5年(1768)の石碑が立っている。
岡上神社
 右手に「振袖地蔵」がある。天正10年(1582)中富川の合戦でこの地の城主だった赤沢信濃守が討死、まだ幼かった姫カヨは母親や侍女と逃げたが、母親は自害し、カヨと侍女はこのあたりで土佐方の兵士に斬り殺されてしまったので、これを憐れに思った村人が振袖姿の地蔵尊を造り、祀ったという。
振袖地蔵
 その先右手上に天保11年(1840)の鳥居がある諏訪神社があり、その少し手前に寛文13年(1673)の「庚申塔」が立っている。地方では例のない石造文化財という。こういった古い地蔵尊や神社は長い間、この地にあって、遍路をして歩く人々を眺め続けてきたのだろうと思い、一礼をして進む。
庚申塔
 高松自動車道の高架下から標識に従って山の中へ入っていく。この辺りは昔の遍路道の姿が当時のまま残っているという説明がなされている。
山の中へ
 右手に「赤沢信濃守廟所」があり、大きなワラジが左右に下がっている。板野町板西城主だった信濃守は長宗我部元親との戦いで敗れたが、その合戦の最中に敵将を組み伏せ、鎧通しで相手の身体を刺そうとしたが、履いていたワラジのひもが切れてしまった。その拍子に敵将が起き上がって逆に信濃守を刺殺してしまったという。そのため大きなワラジが下がっているということだ。ここはお願いをすると腰より下の病は何でも治してくださるという。焼山寺を越えるまでは何とか足を持たせてくださいとお願いをする。
赤沢信濃守廟所
 その横に「愛染院」があるが、これは三番札所金泉寺の奥ノ院で、弘法大師が一宇を建立し、自ら不動明王の坐像を刻み、安置されたという。
愛染院
 古い石でできた道標と新しい道しるべが並んで立っている。このような風景は遍路道の随所で見ることができる。
新旧道標
 山の中の昔の姿を残しているとされる道を進んでいくと、ちょっとした峠を越える。ここは掘割になっている。
掘割
 「四番札所大日寺」に着く。弘法大師がこの地に長く留まって修行していたとき、大日如来を感得された。大師は、一刀三礼をして55センチほどの大日如来像を彫造され、これを本尊として創建し、寺号を本尊に因んで「大日寺」と命名したと伝えられるという。この寺の先々代の住職は不治の病とされたハンセン病の遍路さんを手厚く接待していたことで知られるという。
大日寺
 ここの納経所で掛け軸に納経していただいているときに、納経所の方とお話をしていると、来年から「四国八十八か所霊場 開創1200年」の行事がある関係からか、今年の参拝客は少ないといわれていた。確かに各所にこの看板が立っている。来年は参拝客が多く、特に春などはかなり混雑をするかもしれないと思う。
開創1200年
 15時43分に大日寺を出発する。
 この先も道案内に従って進むと、地蔵寺の奥ノ院である、コの字形をした五百羅漢堂があり、ここから階段を下っていくと「五番札所地蔵寺」がある。ここの寺領は40,000平方メートル(12,000坪)にもおよぶ古刹で、境内に戦国時代、江戸時代に蜂須賀家で阿波水軍を率いたという「森甚太夫家墓所」があり、寛文、元文、享保といった時代の古いお墓が並んでいる。
森甚太夫家墓所
 「五番札所地蔵寺」は弘法大師が自ら約5・5センチの勝軍地蔵菩薩を彫られ、本尊に安置したと伝えられている。境内には樹齢800年という大きな銀杏が立っている。
地蔵寺
 16時27分に地蔵寺を出発する。進んで行くと正面に宝暦6年(1756)の石仏とその横に古い道標が立っている。
宝暦6年の石仏
 更にその先には嘉永3年(1850)の三界万霊がある。遍路道の沿道にはこのような古い石碑が数多くある。ここも一礼をして進む。当初歩き始めたころはこのようなものは目に入らなかったのだが、街道歩きを重ねるにしたがって、このような石仏が沿道にあることに気が付いて、それから注意を払うようになったのだ。
三界万霊
 その先に八坂神社があり、文政13年(1830)の鳥居が立っている。次第に薄暗くなってきた。この時期は日没が早いので、暗くなる前に宿に着きたいと思って先を急ぎ、何とか残照が残っている17時10分に今日の宿である民宿寿食堂に着く。
宿では二人の方と一緒になる。一人の方は大坂から来られた方で通し打ちをされて、お礼参りに一番まで戻る途中ということだった。またもう一人の方は兵庫から来られた方で、この方とはこの後一緒になり、今回の旅の最後までご一緒させていただくことになる。夕食はぼたん鍋で肉も多く、おいしかった。

本日の歩行時間  4時間55分。
本日の歩数&距離 23950歩、16.3km。        

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歩人
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