2013年01月26日(土)
名護~羽地~大宜味~奥間
晴れ
ホテルを出発する際、ホテル前で昨日ご一緒させていただいた岩山さんと写真を撮りあう。国道を歩く岩山さんとはこれから歩く道が異なるのでここでお別れする。
7時42分に昨日歩いた大北二区のバス停から出発する。すぐ先にある高速道路の高架下で道は二股に分かれているので、右へ進む。このあたり旧道の雰囲気を残していて気持ちがいい。やがて道は山際へと進んでいくが、ここにも「ハブに注意」の看板が立っている。
静かな道を進んでいくと、やがて58号線に合流するので、これを横断して進む。ここに大城モータースという工場があるので、これが目印だ。 その先渡名喜川に架かる渡名喜橋の手前で右折、川に沿って進むと、右手にAコープがあり、その駐車場の端に「一里の碑」が立っている。碑には「名護からや羽地、伊差川(イヂャシチャ)や一里、真喜屋(マジヤ)兼久(カニク)までや二里のちむい)と記されている。
羽地小学校を右に見ながら進んでいくが、このあたりから先は旧道は失われているようだ。資料によるとこの先に資材置き場があり、そこが羽地の番所跡ということだったが、資材置き場がどこにあるのかわからなかった。人に尋ねたいのだが、人がだ~れもいないのだ。
田井等の信号から左折、3本目の角を左折、その先の五叉路の左から2番目の道を進むなど、複雑に込み入った道を少しでも旧道に近いと思われる道を進んでいく。
左手に「羽地小学校創立の地」碑が立っている。明治15年から明治35年までこの地に建っていたそうだ。
右手に「飛躍」と刻まれた碑と「黄金之森跡」と刻まれた碑が並んで立っており、農業基盤整備のため黄金森を使用したという意味のことが記されている。
仲尾次(北)の信号で58号線を横断、羽地大川に架かる仲尾次橋を渡る。そのまま進んで行くと、58号線に合流するが、その手前左手に「名護からや羽地 伊差川や一里 真喜屋兼久までや二里のつもり」と記された「ふる里之碑」がある。
ここから先、58号線は海沿いを通っている。右手は山が迫り、左手は海で、人家はめっきり少なくなってくる。
58号線から分岐して渡河の集落の中を進むと「渡河小学校閉校記念式典 平成25年3月24日」と書かれた横断幕が下がっている。68年間続いた小学校が閉校になるという。地元の方にお聞きすると現在の児童数は30人ほどで、閉校後は真喜屋小学校までバスで通うことになるということだった。
渡河川に架かる走川橋を渡って58号線に合流する。海沿いの道を歩いていると男性が5人でテントを広げている。私を見かけると「ちょうどいい、ちょっと手伝ってくれませんか」と声をかけてきた。テントの足が6本あるので、テントを抱えるのに一人足りなかったようだ。明日葬儀があるので、その準備をされているということで、テントはお墓の前に設営されていた。
右手少し入ったところに「津波の神アサギ」があり、その横に「津波殿阿舎慶新築」「総工費四百参拾六円」「寄付者芳名一五三名」と寄付をされた方々の名前が記された石碑が立っている。
右手に「森川之遺跡」と記された石碑が立っている。森川子(ムリカーヌシ)とは、高宮城親上作の組踊り「花売の縁」の登場人物で、この組踊りは津波村より始まるらしく、それで津波の集落に建てられたということだ。
その先で塩屋橋を渡るが、昔はその先から舟で渡っていたそうだ。橋を渡って右手へ向かうが、ここも細道が複雑に入り組んでいてわかりにくので、とにかく塩屋小学校を目指す。塩谷小学校がかっての大宜味番所跡で、古い大きなガジュマルの木が立っており、当時を偲ばせる唯一のよすがとなっている。
この先も細道が入り組んでわかりにくかったが、地元の方がおられたので、その方にお聞きして、地元の方が「兼久中道」(ハニクナカミチ)と呼ぶ細道に合流してこれを進む。この道はかって馬場へ通じていたという。
大宜味集落に入るが、資料ではここに大宜味御嶽の拝所があるとなっており、探してみたがわからない。役場に行ってみたが、今日は土曜日でお休みだった。地元の方がおられたのでお聞きしてみたが知らないということで、結局見つけることができなかった。
右手に「北霊之塔」がある。説明がなかったのでわからなかったが、沖縄戦で亡くなった北海道出身の方の慰霊碑なのだろうか?
喜如嘉集落の入り口に喜如嘉貝塚(キジョカカイヅカ)がある。ここは約1500年前という沖縄貝塚時代後期のものと考えられているという。当時の人はまだ農業を行っておらず、海の貝や魚、山の動物や植物をとって食料にしていたという。
奥間集落に入るが、奥間小学校がかっての国頭番所跡だ。ここに番所があったのは1914年(大正3年)までで、それ以降は辺土名に移されたという。15時18分に到着する。
本日の歩行時間 7時間36分。
本日の歩数&距離 42289歩、28.4km。
本日の純距離 28km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
中頭・国頭方西海道総合計
総歩行時間 31時間12分。
総歩数 167354歩。
総歩行距離 110.7km。
中頭・国頭方西海道純距離 98.1km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
ホテルを出発する際、ホテル前で昨日ご一緒させていただいた岩山さんと写真を撮りあう。国道を歩く岩山さんとはこれから歩く道が異なるのでここでお別れする。
7時42分に昨日歩いた大北二区のバス停から出発する。すぐ先にある高速道路の高架下で道は二股に分かれているので、右へ進む。このあたり旧道の雰囲気を残していて気持ちがいい。やがて道は山際へと進んでいくが、ここにも「ハブに注意」の看板が立っている。
静かな道を進んでいくと、やがて58号線に合流するので、これを横断して進む。ここに大城モータースという工場があるので、これが目印だ。 その先渡名喜川に架かる渡名喜橋の手前で右折、川に沿って進むと、右手にAコープがあり、その駐車場の端に「一里の碑」が立っている。碑には「名護からや羽地、伊差川(イヂャシチャ)や一里、真喜屋(マジヤ)兼久(カニク)までや二里のちむい)と記されている。
羽地小学校を右に見ながら進んでいくが、このあたりから先は旧道は失われているようだ。資料によるとこの先に資材置き場があり、そこが羽地の番所跡ということだったが、資材置き場がどこにあるのかわからなかった。人に尋ねたいのだが、人がだ~れもいないのだ。
田井等の信号から左折、3本目の角を左折、その先の五叉路の左から2番目の道を進むなど、複雑に込み入った道を少しでも旧道に近いと思われる道を進んでいく。
左手に「羽地小学校創立の地」碑が立っている。明治15年から明治35年までこの地に建っていたそうだ。
右手に「飛躍」と刻まれた碑と「黄金之森跡」と刻まれた碑が並んで立っており、農業基盤整備のため黄金森を使用したという意味のことが記されている。
仲尾次(北)の信号で58号線を横断、羽地大川に架かる仲尾次橋を渡る。そのまま進んで行くと、58号線に合流するが、その手前左手に「名護からや羽地 伊差川や一里 真喜屋兼久までや二里のつもり」と記された「ふる里之碑」がある。
ここから先、58号線は海沿いを通っている。右手は山が迫り、左手は海で、人家はめっきり少なくなってくる。
58号線から分岐して渡河の集落の中を進むと「渡河小学校閉校記念式典 平成25年3月24日」と書かれた横断幕が下がっている。68年間続いた小学校が閉校になるという。地元の方にお聞きすると現在の児童数は30人ほどで、閉校後は真喜屋小学校までバスで通うことになるということだった。
渡河川に架かる走川橋を渡って58号線に合流する。海沿いの道を歩いていると男性が5人でテントを広げている。私を見かけると「ちょうどいい、ちょっと手伝ってくれませんか」と声をかけてきた。テントの足が6本あるので、テントを抱えるのに一人足りなかったようだ。明日葬儀があるので、その準備をされているということで、テントはお墓の前に設営されていた。
右手少し入ったところに「津波の神アサギ」があり、その横に「津波殿阿舎慶新築」「総工費四百参拾六円」「寄付者芳名一五三名」と寄付をされた方々の名前が記された石碑が立っている。
右手に「森川之遺跡」と記された石碑が立っている。森川子(ムリカーヌシ)とは、高宮城親上作の組踊り「花売の縁」の登場人物で、この組踊りは津波村より始まるらしく、それで津波の集落に建てられたということだ。
その先で塩屋橋を渡るが、昔はその先から舟で渡っていたそうだ。橋を渡って右手へ向かうが、ここも細道が複雑に入り組んでいてわかりにくので、とにかく塩屋小学校を目指す。塩谷小学校がかっての大宜味番所跡で、古い大きなガジュマルの木が立っており、当時を偲ばせる唯一のよすがとなっている。
この先も細道が入り組んでわかりにくかったが、地元の方がおられたので、その方にお聞きして、地元の方が「兼久中道」(ハニクナカミチ)と呼ぶ細道に合流してこれを進む。この道はかって馬場へ通じていたという。
大宜味集落に入るが、資料ではここに大宜味御嶽の拝所があるとなっており、探してみたがわからない。役場に行ってみたが、今日は土曜日でお休みだった。地元の方がおられたのでお聞きしてみたが知らないということで、結局見つけることができなかった。
右手に「北霊之塔」がある。説明がなかったのでわからなかったが、沖縄戦で亡くなった北海道出身の方の慰霊碑なのだろうか?
喜如嘉集落の入り口に喜如嘉貝塚(キジョカカイヅカ)がある。ここは約1500年前という沖縄貝塚時代後期のものと考えられているという。当時の人はまだ農業を行っておらず、海の貝や魚、山の動物や植物をとって食料にしていたという。
奥間集落に入るが、奥間小学校がかっての国頭番所跡だ。ここに番所があったのは1914年(大正3年)までで、それ以降は辺土名に移されたという。15時18分に到着する。
本日の歩行時間 7時間36分。
本日の歩数&距離 42289歩、28.4km。
本日の純距離 28km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
中頭・国頭方西海道総合計
総歩行時間 31時間12分。
総歩数 167354歩。
総歩行距離 110.7km。
中頭・国頭方西海道純距離 98.1km。(途中、寄り道をせず、道を間違えず、街道だけを歩いた場合の距離)
旅の地図
記録
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2013年01月23日(水)
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2013年01月24日(木)
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2013年01月25日(金)
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2013年01月26日(土)
プロフィール
歩人
かっちゃん